禅譲――十二国記――
「―――星彩が帰ってきたよ」
開け放された窓の外から声がして、供麒は静かに身を起こした。無言で現れた女怪がその動きを助け、彼は夜の闇へと視線を向ける。
「利広殿―――」
「起きても大丈夫かい?」
その問いに供麒は淋しく微笑んだ。
「主上のおかげで」
「星彩が帰ってきたよ。鳳が鳴いた二日後だったかな。雲海の上をひとりで渡って、うちに来たよ―――蓬山から」
窓の外の人物は房室に入ろうともせず、声だけを届けてくる。乗騎の白銀の影が答えるように小さく喉を鳴らした。
鳳が鳴いたとき、彼は偶然にも正殿にいた。年の半分は王宮にはおらず、音沙汰もなく各国を放浪しては長く帰らない廬家の次男坊は、本当にまったくの偶然、どういう風の吹き回しかと家族からからかわれるほど珍しく、最初から夕餉を共にしていた。
そこに梧桐宮が開扉し、常日頃、彼が出入り口代わりにしている窓から飛びこんできた鳳が、鳴いた。
白雉鳴号。
恭国に二声。供王、崩御。
皆が一様に押し黙るなか、彼はただ瞑目した。
―――巡り合わせか、と思う。
結局、最初から最後まで天の配剤。最初から関わったのだから、最後まで面倒を見ろということなのだろう。
「よく止めなかったね」
「昔から、主上がこうとお決めになられたことをお止めできたためしがございません」
「己を止められるのは己自身のみ。それを彼女はよく知っていた」
「はい………」
あまりにも鮮やかに。自ら王に臨み、自ら時機を知ってそれを退いた。最初から最後まで、一条の鋭い光輝のように。諸官は民は、苦境に立たされてもなお彼女を慕う。恭国にもたらされた長い祭の残光を追い求め、喪に服す。
霜楓宮の仁重殿は閑散として人気もない。どこか疲れたような乾いた空気が漂っている。
「禅譲ならば、遺言があっただろう」
「はい。………お知りになりたいですか」
「まあ。だいたい予想はつくんだけどね」
そこで奏国の太子はかすかに笑った。
「きっと、彼女にとっての真の初勅が遺言だろう」
「はい―――」
もう遠い昔、本当に出したい初勅はこれなのだと苦い顔をして語っていた。
「麒麟旗が揚がり次第、恭国国民は順次蓬山に昇山して天意を諮ること。此、遺勅なり―――」
「遺勅」
意表を突かれ、利広は黙りこんだ。
王の位を退くにあたって勅令を遺していくなど前代未聞だ。初勅と対になる、新しい慣例が生まれるだろうか―――。
供麒は溜息をついた。
「仮朝までしっかり遺していかれました」
「私にまで星彩を返してくれたしね」
窓からの声は静かだ。ただ柔らかく淡々と。
「利広殿………」
名を呼ばれ、彼は無言で次の言葉を待った。牀榻の暗がりで病んだ金の髪が微かな光を発している。
「王を、ありがとうございました」
穏やかに。ただそれだけを供麒は告げる。
この麒麟の寿命はもうすぐ尽きる。おそらく、この数年のうちに次の王を見出すことはない。
「私は巻きこまれただけだよ。最後までね」
窓の外の影は身を翻し、軽やかに遠ざかっていった。
帳を揺らす夜の風に、残された麒麟は目を閉じる。何かを追いかけるように微かに淡く、唇が笑んだ。
丘更五十二年、春、上、蓬山に赴き許されて位を退く。上、蓬山に崩じ、乾陵に葬る。供王たること三百七十八年、諡して晃王と曰う。上、退くにあたって勅を遺す。此、遺言也。
五十四年、三月、台輔卒す。寿命也。同じく三月、蓬山に供果有り。
同じく冬、蓬山に供果孵り供麟を号す。
六十年、祠祠に黄旗、勅に従い、民多く黄海に入る。六十一年、夏、瑛藍、勅に従い令坤門より黄海に入る。蓬山に昇りて供麟と約し、神籍に入りて供王を践祚す。
供王瑛藍、字は小珠、連檣の生まれ也。齢十四にして天命を受けて玉座に進み、元を肖蔡と改め、瑛王朝を開けり。