昌浩は夜警に出かけている。
そろそろ帰ってくる頃だと思い、彰子は火桶の炭を火箸で掻きおこした。
闇のなかで、灯台の明かりと炭火の
燠だけがじんわりと赤い。
夜警から帰ってくる昌浩のためとはいえ、夜分に炭を熾すのはちょっとした贅沢なのだが、その分彰子が自室で炭を使うことはほとんどないので、帳尻はあっているともいえた。
師走に入り、寒さは一層厳しくなった。雪がちらつく日も多い。
外はとても寒いから、せめて昌浩が帰ってくるこの部屋は暖かくしておきたかった。彰子は火桶の傍らに広げてある寝具代わりの大袿の位置をずらし、まんべんなくあたたまるようにする。
不意に、ぱちり、と赤く熾った炭がはぜる。
その音が存外大きく響いたことで、彰子は外の静けさに気がついた。
「―――姫?」
火箸をおいて立ちあがった彼女に、顕現した天一がいぶかしげな声をかけてくる。彰子はだいじょうぶと微笑してみせ、換気のために細く開けていた妻戸をそっと押し開いた。
そして軽く息を飲む。
「まあ………」
彼女の背後に立ち、同様に妻戸の向こうを覗き見た天一も、その光景に軽く目をみはる。
「雪が降っていたようですね」
外は白一色だった。
どうやら昌浩が夜警に出かけた後から、つい先ほどまで降っていたものらしく、すでに止んでいたが一寸ほども積もっている。
見慣れた安倍邸の庭のはずだったが、その風景は一変していた。
あたりは静かで音もない。
夜空は澄みわたり、空気は身を切るように冷たい。
ただ月光だけが天地のあいだを満たし、雪はその光を吸いこんで自らも蒼く光を放っているようだった。
木々の枝は、
被綿をかぶせたようにふっくらと重たげにしなっている。
どこもかしこも皆、やわらかに白い。
「綺麗ね………」
彰子は庭を見つめ、思わずといった様子で呟いたが、すぐに軽く眉根を寄せた。
「昌浩、だいじょうぶかしら。雪に遇って難儀をしてなければいいけど………」
「昌浩様も、もうそろそろお帰りになりましょう。姫も、あまり外に出てはお風邪を召されます。どうぞ、なかへ」
天一がうながし、彰子はうなずきはしたものの、名残惜しげに雪を見つめた。
たいして積もっていない。うっすらと化粧をほどこした程度の雪だ。朝の光とともに溶けてしまうだろう。
以前、まだ日の高いうちに積もった雪で昌浩と物の怪が雪合戦をしていた。二人とも、ものすごく楽しそうで、それを見ているだけ彰子も楽しかった。そのうち幾人かの神将たちも加わりだして、ふくれっ面になった昌浩が物の怪を追いかけ回し、最後には彰子も巻きこまれて雪のなかに三人して倒れこんでしまった。
なんて楽しかったのだろう。
雪はただ眺めるよりも、実際に手や足を使って遊んだほうが断然楽しいと、そのとき実感した。
しかし、それは陽の光の下での話だ。
いまこうして月明かりのもとで眺める雪の庭は、なにひとつ不足などなく、浄らかで静謐だった。触れるのがためらわれるようなうつくしさがある。
なんて綺麗なのだろう。
昌浩にもこれを見せたい。
彼には昼の雪の楽しさを教えてもらったから。
今度は自分が見つけた夜の雪のうつくしさを。
ああ、でも―――。
彰子は自らの思いつきの矛盾点に気づき、軽く苦笑した。
「………姫?」
いぶかしげな天一に首をふり、彰子は今度は少し困ったように笑った。
「昌浩が帰ってくるとき、どうしましょう。踏むのが惜しいお庭の雪ね」
彰子の言葉に、天一もわずかに苦笑する。
どさり。
不意にどこかから何かが落ちるような音がして、彰子は庭を眺め渡した。
「何の音かしら?」
枝に積もった雪が重さで落下するときの音にも似ていたが、目に見える範囲の庭木はどれも雪をかぶったままだ。そもそも、重さで落下するほど積もってはいない。
「気にするな、どこかで雪が落ちた音だろう」
天一の傍らに顕現した朱雀がこともなげに言い、首を傾げる彰子をうながした。
「天貴の言うとおり、ここにいては風邪をひく。それにせっかく暖めた部屋が冷えてしまうぞ」
うながされるまま、彰子は部屋のなかに戻った。
その後に続きながら、朱雀は築地塀の向こうに軽く一瞥を投げ、少々気の毒そうに肩をすくめた。
築地塀の向こう側で、ひっくり返った亀の子よろしく雪のなかに仰向けになった昌浩は、雪雲の去ったまぶしい夜空を眺めながらうめいていた。
「………今日は門から帰ることにする」
なんとまあ健気な。というより、半分ほどは不憫な。
傍らに座し、寝転がった昌浩を見下ろした物の怪は思わず落涙しそうになる。
あともう少しで塀の上というときに偶然聞こえてきた彰子の言葉は、かじかんでよく動かない昌浩の指にとって、まさに脱力の一撃だった。
隠行している六合からも、少しばかり同情の気配が漂ってくるのは気のせいではあるまい。
「昌浩や、ここで寝転がっていると凍死するぞ。門から帰るなら、さっさと起きて廻りこめ」
物の怪が尾で顔をはたくと、昌浩はそれをむんずとつかまえ、起きあがりながら首へと巻く。
「帰ろっか。いいかげん寒いよ」
「こら待て、邸を目の前にして俺を首に巻くな」
「だって寒いんだもん」
ぼそぼそと小声で言い争いながら、昌浩は門から入ると
籬を廻りこんで、自室のある殿舎の簀子へと上がりこんだ。昌浩よりも一足先に物の怪がその肩から飛び降りる。
妻戸のところまで来て、昌浩は立ち止まった。
目の前には白一色の庭景色が広がっている。
まるで天から降る月の光がそのまま雪に染みこまれていくようだった。音ひとつせず、無垢に白い。
たしかに無造作に踏んで足跡をつけるのがためらわれてしまうような、あえかな雪化粧だ。―――もっとも、人跡未踏の地にざくざく踏み込んでゆく楽しさもまた別にあるのは確かなのだが、あれはもっと豪快に積もった雪に対して挑戦するものだ。
「昌浩よ、どうした」
「あ、うん」
傍らの物の怪に視線を落とし、変わらぬその白さに昌浩はふと目元をなごませた。
「雪も、もっくんの色だよねぇ」
思わずといった昌浩の言葉に、虚をつかれた物の怪の瞳が大きく見張られる。
―――そのとき、話し声を聞きつけたのか、彰子が妻戸を開けて顔を出した。
「お帰りなさい、昌浩」
「ただいま、彰子」
「どうしたの、二人とも。そんなところで」
妻戸から簀子に出てきた彰子は何気なく庭に眼をやり、ちょっと目を丸くし、次いで困惑顔になって昌浩を見た。
「あの、昌浩………? 今日はどこから帰ってきたの?」
「あ、うん。今日はちょっと、門から。庭、真っ白で綺麗だねえ」
昌浩はぼろが出る前にと、慌てて彰子から庭に視線を移した。
しかし彰子は鋭かった。というよりも、昌浩の言い抜けかたが不器用すぎる。
「もしかして………聞いてたの?」
あえなく惨敗し、しかたなく苦笑しながらうなずくと、彰子はちょっと顔を赤くして、申し訳なさそうな顔になった。
「ごめんなさい………。こんなに寒いのに、わざわざ遠回りさせてしまったわ」
「ううん、でも彰子の言うとおり、足跡つけなくてよかったよ。昼の雪は楽しいけど、夜の雪は綺麗だねえ」
ほのかな雪明かりのなかで、彰子が本当に嬉しそうな顔に笑った。
昌浩が自分と同じことを考えていてくれたのが無条件に嬉しかったのだが、当の本人にそこまでわかるはずもない。
ただ彰子が心の底から喜んでいるのがわかるので、こちらも心の底から庭を通らずに帰ってきてよかったなあと安堵している。
「もう少し、雪見でもしようか?」
昌浩の提案に彰子はうなずきかけたが、「ちょっと待ってて」と妻戸の奥に消えると大袿を抱えて戻ってきた。
ふわりと頭からかぶせられ、昌浩は思わず声をあげる。
「うわぁ、あったかいこれ」
まるで暖めた部屋の空気ごと持ってきてくれたかのようだ。やわらかな熱に、頬や指のこわばりがゆるんでいくのがわかる。
「あたためておいてくれたんだ?」
「ええ。昌浩、寒いだろうと思って」
「ありがとう」
礼を言い、昌浩はふと思いついて、頭からかずいていた大袿を広げ、彰子を招き入れた。
そうなると、二人で衣をかずく形になる。大袿はすっぽりと互いの肩を覆い、衣のぬくもりと体温とがとけあって、ふんわりと暖かかった。
見あげてくる彰子に、昌浩は屈託なく笑う。
「こうすると、彰子もあったかいだろ」
「………うん」
彰子はくすぐったそうに笑って、頬の熱さをごまかした。
雪は果てなく白くて、傍らにいてくれる存在はとても、あたたかい。
「この寒いなか、よくもまあ」
さりげなく先に部屋のなかへと退散した物の怪は、火桶の前にもう一枚、彰子のものとおぼしき大袿が広げられているのを発見し、暖のためにそれも持って行ってやろうかと考えたが、すぐに思いなおした。
あまりに長居するようだったら、声をかけて注意をうながせばいいことだ。
火桶の番をしている天一が妻戸のほうを見て、苦笑している。六合と朱雀は晴明のところへ行ったようだった。
妻戸の近くに座りながら、物の怪は隙間から見える庭の白さに目を細めた。
―――雪も、もっくんの色だねぇ。
何のてらいもなくそう言ってくる相手のほうが、よほど白く、輝いている。
その無限の可能性を秘めたの白い輝きに寄り添いたくて、この体躯は白いのだ。
「だから、逆なんだがな………」
ひとつ袿で雪見を楽しむ二人の背中を見守りながら、物の怪は厳粛な苦笑をもらした。
〈了〉
待つ人のいまも来たらばいかにせむ 踏ままく惜しき庭の雪かな /和泉式部
やはり寒いときの話は寒いうちに出しておかないと(笑)
というわけで、昌浩と彰子の雪見のお話。めずらしく、というより、ほぼ初めて、再録ではなく書き下ろしの話です(苦笑)
ニュータイプロマンスに再録された結城さんの短編と対になる形になっています。意図したわけじゃないんですが、何か自然と。やはり雪遊びに雪見と、雪は堪能し尽くすべきじゃないですか!(笑)
でも私は雪の降らない地域にすんでいるので、一刻(2時間)で実際どれほどの積雪となるのかがわからないんですよね。どれくらい積もるんだろう。雪を知らないからこそ、雪が恋しいです。
話の元ネタは上の通り和泉式部の歌より。恋多き女かと思いきや、こういう無邪気な歌を詠んだりするから、男はめろめろになるんでしょうねえ(笑)
さて。この歌を、彰子が訳すとこうなります。
昌浩が帰ってくる時どうしましょう 踏むのが惜しいお庭の雪ね /藤原彰子
というわけで、作中のセリフはちゃんと五七五七七になっているのでした(笑)