なゆたのうた 物語【掌篇】

知らぬうちに花は

 寛弘二年(1005)三月八日―――。


「こたびの大原野神社への参詣………、晴明さまにはまことにお世話になりました」
「この年寄りにはもったいないお言葉にございます」
 御簾越しに直接言葉をかけられ、老陰陽師は床に手をつき、深々と頭を下げた。
「すっかり春めいてまいりましたが、まだ風はいささか冷たいもの。晴明さまにはどうぞお体をおいといくださるよう、左大臣からも言付かっております。まだまだ元気でいてくださらなければ」
「重ねてのお言葉、ありがたく存じます。………しかしそろそろ体も思うようには動かなくなってきておりますゆえ、次に中宮様のお役に立つは、息子か孫となりましょう」
「そのようなこと、どうか口になさらずに………」
 御簾の向こうで微かに身じろいだ気配がした。
 やがて溜息のような声がささやく。
「―――そういえば、晴明さまの邸の藤は、どのように」
「………おかげさまで、いまではしっかりと地に根付こうとしております。賜りました左大臣様には重ねて御礼の程を申し上げたいほどで」
「それはよかったこと………」
 中宮が御簾のなかから庭の藤棚を扇で示した。
「こちらの藤は、過ぎた年の日照りで枯れてしまうかと思いましたが………いまではもう、すっかり元気になっています。この藤はこの藤壷で咲くことを誇りに思っているのでしょう」
 御簾をへだてて、たしかに中宮と老陰陽師の視線がからむ。ひどく穏やかに。
「花の季節には、この藤にもきっとすばらしい花が咲くことでしょう」
「ええ………きっと、藤壷の藤はとても美しい花を咲かせるかと存じます」
 安倍晴明は深々と一礼すると、中宮の御前を退出した。


「………どうしたの、藤式部」
「おそれながら、先ほどの中宮様と安倍の陰陽師との対面が気になりまして………」
「何が気になったのかしら」
「………もうしわけございません」
「いいのよ。言ってちょうだい」
「その………季節でもないのに藤のお話しなどされて………いかがなされたのかと」
「式部は物静かだけれど、そのぶん細かいところまで気がつくのね」
 穏やかに中宮は微笑した。
「晴明さまのところには、父上が賜った藤の木があるのよ」
「藤………ですか」
「ええ。その木が邸に生えていると、わたくしの入内にたいそう良くない卦が出ると晴明さまの占いに出たのですって」
 懐かしげに中宮は目を細め、御簾越しに壺庭の藤を見つめた。
「ただ、その藤の木はあまりに枝振りのよい木で、ことのほかその木をお気に召していた父上は、どうしてもそれをお切りになることができなかったのね」
「それで、安倍の陰陽師のところに?」
「ええ、いくら悪い卦のでる藤の木でも藤の木自体に罪はないと、切らずに掘りだして晴明様に託されたの」
 その木はしっかりと根付こうとしているんですって、やっぱり陰陽師の庭だと花の咲き具合も違うのかしらね―――。
 そう言って、首を傾げて中宮は笑った。
「でも、ここの藤も綺麗な花を咲かせるわ」
「はい」
 よくわからないながらも中宮の笑顔につられるようにして、女房は頷いた。
「さあ、式部。白氏文集を教えてくれるかしら? 源氏の君の物語の続きは、また今度聞かせてね」
 真っ赤になって俯いてしまった女房を見て、中宮は屈託無く笑った。


 寛弘五年(1008)九月十一日―――中宮彰子は土御門殿にて父・道長念願の男皇子、敦成親王を出産する。
 聡明で思慮深く、道長の対立者であった藤原実資からも「賢后」の誉れを得るほどの女性であったという。


 ちょっと思いついた少年陰陽師。
 晴明死ぬ数ヶ月前、章子入内数年後。いいかげん腰を据えて中宮やってる章子と晴明の、この二人の含みのありすぎる藤の話が書いてみたかったんです(笑)

 実際のこの時期、まだ紫式部は出仕してないんですけど見逃してください(笑)




三十一文字

 事の発端は先日、昌浩の部屋に埋もれていた万葉集を彰子が発掘して並べなおしたことだった。
 何がどう転がったのか、そこから歌と言霊の話になり、言霊から呪文の話になり、歌も言霊の一種だという話になったところで、彰子が無邪気に言ったのだ。
「あら、じゃあ何か一首詠んでみて」
 その一言に、びしりと昌浩は固まった。
「む、無理だよ俺、歌の才なんて笛やら書以上にてんで皆無で底をついてて………っ!」
 同様のあまりか言葉遣いが怪しくなる昌浩に、彰子はさらににこにこと笑って続けた。
「三十一文字ならなんでもお歌だって習ったわ。ね?」
 室内では物の怪と六合が、どうなることかと事の推移を見守っている。
 だらだらと汗を流しながら、昌浩は口を何度か開閉させた。
「と……」
 おや、と物の怪は軽く目を瞠る。詠もうというのか、なんとまあ健気な。
「と、解くる不動の縛り縄、ゆるまり来るアビラウンケン―――」
 物の怪は盛大にひっくりこけた。
 彰子はきょとんとした顔で、ぱちぱちと目をしばたたいている。
 部屋の隅に隠形していた六合がぼそりと呟いた。
『………初句が足りんな』
 突っ伏してひくついていた物の怪ががばりと起きあがった。
「くぉら昌浩っ! それは不動縛の解呪の文句だろうが! 歌を詠むんだろうっ、呪を唱えてどーすんだっ!」
「呪歌だって立派な歌っ」
 負けじと昌浩は物の怪に言い返す。
「それにちゃんと三十一文字っ! 三十一文字なら何でも歌だってさっき彰子も言ったし!」
『………初句が足りんが………』
「だからって、アビラウンケンだぞ、アビラウンケンっ。んな歌があるか!」
「……やっぱり?」
 物の怪のもっともな言に、昌浩は引きつった笑みを顔に浮かべてみせた。がっくりと物の怪は脱力する。
「おいおい、しっかりしてくれよ晴明の孫。歌ぐらい、出来はともかくぱぱっと詠んでくれよなあ」
「孫言うな! そう言うんならもっくんが詠んでみろよっ。俺よりも長生きで記紀神話をぱぱっと暗唱できるなら、一首詠むくらい簡単だろ!」
「むう」
 物の怪がうなると、途端に昌浩は勝ち誇った顔になった。
「ほうら、もっくんだって詠めないじゃな―――」
「孫や孫、ああ孫や孫、孫や孫。がんばれ負けるな晴明の孫」
「………………」
 昌浩が口をぱくぱく開閉させていると、物の怪は難しげな顔で首を傾げた。
「むむっ、字余りか?」
「ま」
「ま?」
 彰子と物の怪が揃って首を傾げる。六合は無言のまま手を耳元にやった。
「孫言うな――――――ッッ !! 」

 昌浩の怒号が夜の安倍邸を揺るがした。





欠けゆく望月

 雨脚がひどく、蒸し暑い夏の日だった。
 不意に妻戸を開けて姿を現した彼に、彼女は首を傾げた。
「どうしたの………?」
 もうそろそろ日が落ちる。光を背にした立つ彼の表情はわからない。
「―――伯父上から使者が来たよ」
「吉平様から………?」
 静かな声で彼は告げた。
尚侍(ないしのかみ) が薨じられた」
 彼女は目を大きく瞠った。唇が震えた。
「そんな………だって、二日前に男皇子がお生まれになったばかりなのに………」 
「ついさっきのことらしいんだ。御堂様が魂喚(たまよび) をなさるよう、伯父上と中原殿に命じられたから、その手伝いをするようにとの使者だった」
「たま、よび………?」
「逝ってしまった人の衣を振って、呼ぶんだ。帰っておいでって………」
 彼女は小さく息を呑んだ。老いた父の悲哀が目に見えるようだった。顔も知らない末の妹。まだ二十にもなっていない―――。
「魂喚なんて、もうとっくに廃れてたのに………いったいどこから聞きつけたんだろうね」
 彼の顔がくしゃりと泣き笑いのような顔になる。
「行って、伯父上を手伝ってくるよ。御堂様に、何かお伝えすることがあるなら………」
 彼女の目に涙が溢れた。そんな叶うはずのない儀式なんか、やらなくていいと言いそうになった。そんな痛みをこらえた顔をしないで。
 死んだ人は生き返らない。神の奇跡でも起きない限りは。
 やっている。そんなことで死んだ者が帰ってくるなら、とうに彼はやっている。何度でも。
 自分たちを慈しんでくれた彼の祖父も父も、もうこの世にはいないのだから。
 彼女は首を横にふった。
「いいの………。お伝えすることは何も、ないわ」
 星宿を違えてしまったこの身の嘆きは、彼等の与り知らぬもの。
 彼の支度を手伝おうと、彼女は立ちあがった。鈍色の袿が衣擦れの音をたてる。自室においてのみまとっているこの袿は、誰にも知られてはならない秘やかな喪の証だった。ひと月ほど前に逝った、異母妹のための………。
 そして今日また、末妹の死により、衣の色が夕闇のなかその濃さを増す。
 このまま喪が明けないような予感を、彼女はただ目を閉じることでやりすごすしかなかった。


 万寿二年 七月  道長三女 藤原寛子没
        八月  道長六女 藤原嬉子没
 万寿三年 一月  道長長女 藤原彰子出家
       十二月  従四位上 安倍吉平没
 万寿四年 五月  道長三男 藤原顕信没
        九月  道長二女 藤原妍子没


 そして、
 万寿四年、十二月四日―――。

「月が欠けたよ。行成様もご一緒に………。敏次殿が、泣いて………」
 そう告げる彼を抱きしめながら、彼女は静かに涙をこぼし続けた。
 髪を撫でてくれる手の優しいぬくもりが、ひどく哀しかった。


「人は、儚いな。呆気なく、逝ってしまう………」
 黒髪の凶将はそう呟くと、そっと息を吐いた。
 傍らでは、真紅の凶将が無言のまま、彼方へと目を向けている。
 頭上には満天の星。
 星は動き、さだめを紡ぎ、人の世は変わっていく。
「本当に儚い―――」


 道長四女嬉子の死の際に、道長が魂喚を行わせたのは史実のようです。藤原実資の日記、小右記に「近代不聞事」とあります。これをからめての少年陰陽師。

 行成さんと道長の没日が同日なのも史実。
 万寿二年の時点で、じーさまも吉昌パパもいません。

 いまに知られている様々な当時の史実に直面したとき、彼等はどう思ったんだろうっていうのが、私にとってのこの小説の二次創作の原動力なのかも。




あられ降るなりさらさらに

 それは冬の夜。
 昌浩は文台で巻物を広げて読んでいた。
 赤々と熾った火桶の横では、物の怪が丸くなっている。ときおり尻尾がぱたんと床をたたくが、起きているのか寝ているのかは判然としない。
 彰子はといえば、少し離れたところで、脇息を机代わりに昌浩から借りた陰陽道の書物を広げていた。
 漢字を拾いあげてぽつぽつと読み進めていくのだが、専門的な用語が多くてどうにも先に進まない。
 昌浩に尋ねようかとも思ったが、熱心に勉強しているのでそれも気が引けた。
 外では、夜警を取りやめた原因である氷雨がしとしとと降り続いている。
 ときおり、屋根からぱらぱらと固い音がするのは、あられも降り混じっているからだろう。
 檜皮葺の東三条殿では聞こえなかった音に、彰子は思わず耳を傾ける。あられでこんな楽しい音がするなんて思わなかった。
「あられ降るなりさらさらに………」
 ふと言いさして、彰子ははっと我に返った。
 見れば案の定、昌浩と物の怪がこちらを見ている。
「彰子?」
「ご、ごめんなさい」
 勉強の邪魔をしてしまったと小さくなる彰子に、昌浩は不思議そうな顔で尋ねた。
「いま、歌詠もうとしてた?」
「ううん、違うの。あられの音がおもしろくて、それで、あられの歌を思いだして………」
「ああ、東三条は檜皮葺だもんなあ。安倍邸は板葺きだからかんかんうるさいんだ」
 物の怪は納得したのかうんうんと頷いていたが、昌浩は別のところに感心していた。
 あられの音を聞いてあられの和歌をぱっと思いだすなんて、さすが大貴族、藤原氏の姫。歌の才など皆無の己をかえりみて少しばかりもの悲しくなったりもするのだが、それはともかく。
「そのあられの歌って、彰子が詠んだの?」
 慌てて彰子は首を横にふる。
「ううん、違うわ。こういう歌もありますよって、私に歌を教えてくれた女房から教えてもらったの。知り合いの人が詠んだ歌なんですって。えっとね、竹の葉にあられ降るなりさらさらに………あ、」
 言いかけた彰子だったが、ぱっと顔を赤くすると急に黙った。
「彰子?」
「え? あ、うん、続き、忘れちゃった………」
 赤い顔のまま彰子はそう誤魔化した。
 屈託なく昌浩は笑う。
「彰子でも歌をど忘れしたりとかするんだ?」
「たくさんあるもの。憶えきれないわ」
「じゃあ、思いだしたらまた教えてね」
「う、うん………」
 頷きながら、彰子はずっと忘れたことにしていようと思った。


 ―――竹の葉にあられ降るなりさらさらに 独りは寝べき心地こそせね


 竹の葉にあられ降る音さらさらに 独り寝する気もさらさらないわ。
 こんな寒い夜に、独りで寝る気はさらさらないわ。


 そういうお歌だなんて。
 ちょっと、恥ずかしくて言えない。

「にしても、寒いねえ」
 また折良く昌浩が呟いたりするものだから、彰子はひとり真っ赤になった。



 アニメ版やあさぎさんのイラストで確認する限り、阿部邸は檜皮葺っぽいんですよね。そうなるとこの話はなりたたないので、個人的には板葺き希望なんですが(笑)

 ちなみに、このあられの歌は和泉式部の歌です。
 彰子に歌を教えていた女房というのは赤染衛門という勝手なマイ設定。