流動の風水 前編

「あたしが王なの。あたしは王なの。だから大丈夫だわ」
 珠晶しゅしょうはその小さな唇を噛み締めた。
 恭国が首都連檣れんしょう霜楓宮そうふうきゅうの王の臥室しんしつにて供王は何も無い空間を睨みつけた。
 まるでそこに敵がいるかのように。
 厳しく。
 容赦のないその視線にはしかし。
 見るものが見れば、その瞳の中に怯えに似た光を見つけられたかもしれない。



「主上。朝議の刻ですが」
「わかっているわ。―――あぁ、もう! かんざしなんかどうでもいいわよ! 早くあたしを解放して頂戴!」
 扉の向こうから恭国麒麟――供麒の穏やかな声が珠晶の耳に届いた。彼女はそれに応えると、髪を結っていた女官に苛苛と口を開いた。申し訳御座いません、とその女官が頭を垂れる。
 とにかく苛つきが収まらない。
 この霜楓宮に身を移して早や半年が過ぎた。下界にはもうすぐ冬が訪れるだろう。この大きく荘厳たる王宮にいては季節の移り変わりも何も感じられない。雲海の上では時間が流れない仕組みになっているに違いない。そう考えて珠晶は益々苛苛を募らせた。
 あたしは王だわ。王なんだから人間じゃあないのよ。
「主上? 御支度は終わりましたが………その、台輔がお待ちでいらっしゃいますが………」
 控え目に女官が珠晶の背中に声を掛けた。
「わかっているわ。すぐ行くわよ」
 吐き捨てるように言って、珠晶は彼女の身長にはやや高すぎる床几こしかけから降りた。
 それから思い付いたように、くるりと後方に控える女官へと視線を走らせた。
「ねぇ、あたしは、神に見える?」
「はい?」
 その言葉の真意を量り損ねたのか、女官が間の抜けた返答を返した。それからすぐに己の無礼に気が付いたのか女官は叩頭こうとうした。王からの質問に彼女は疑問で返したのだ。これは王に対する態度では決してない。あってはいけない態度だ。
「申し訳御座いません! ご容赦下さいませ!」
「もういいわ。なんでもないの。忘れて頂戴。あたしも忘れるから」
 それだけ言うと珠晶は茫洋たる視線を前方へ移して、軽く頷くと同時にその瞳にはいつもと同じ、勝気な輝きをその眼に宿らせた。
 小さな肢体が、はためく大袖や煌びやかな装飾品に覆われて頼りなく歩む。過剰なまでに纏われたころもは、珠晶には重いのかもしれない。身体的にも精神的にも。それに未だ誰も気付いていないことが何よりも悲劇であろうことは天におわす天帝のみが知っていることなのだろうか。

太宰たいさい三孤さんこに対する認識が御甘いのでは御座らぬかな?」
「ほう。貴公は私の管轄にまで顔を出されるのですかな? 特に冢宰ちょうさいからのお言葉は頂いておりませぬゆえ、貴公の言葉に頷く理由は無いと判断致しますが如何?」
「確かに大宗伯しゅんかんちょうの言われようは越権行為に通ずる物と言えますな」
 それに続くのは幾人かの野次の声だ。
 珠晶は微動だにせずに事の成り行きを見守っている。否。傍観している。
 珠晶には傍観する以外は出来ないからだ。
 王としてこの王宮に迎えられて早半年が過ぎるが、まだ半年でもある。いや、どちらかといえばまだたったの半年と表現した方がより的確なのだ。
 彼女には発言権が無い。
 正確に言えば有るがそれは行使される事は無い。
 朝議に出廷している者の中で一体幾人がこの場に王がいることを確りと認識していることか。
 彼等は約二十七年もの間、王不在の朝廷を動かしてきたのだ。仮朝の組み立てに揺るぎが見えない。
 間違いなく彼等は「政治をする王」を必要としていない。それは珠晶にも理解できる。
 彼等が必要としていたのは、捜し求めていた王とは。
 天災を抑える為の、文鎮のような王なのだから。
「あたしは、王、だわ」
 確かめるように珠晶は口中でのみ呟く。
 南の大国そうの宗王より親書を賜り、名実共に奏の後ろ盾を得た珠晶であるが、実際には奏の力がこの霜楓宮内にて威力を持つものでもない。蔑ろにされないだけましか、と珠晶は思っている。
 今の珠晶の言などに耳を貸す官など、この朝廷に何処を探してもいない。貸す耳が無いならば、その耳を作れば良いだけのことだ。
 とにかく政治や国についての勉強をするしかないのだ。
「あたしは、王なんだから」
 先刻よりもやや大きく放たれたその呟きは、隣で佇む供麒だけに聴こえていた。供麒は僅かに眉を寄せ少しだけ瞳を細めてから、自分のこの世でたった一人の大切な王を見た。
 この方はこんなに小さかったか、とどこか胸の奥底で何かが傷んだ。
 細く白い首筋は、容易く折れてしまいそうだった。
 半年の間、一日たりとも珠晶は朝議を欠かした事はない。毎日出て、毎日話を聞いている。その殆どの内容が政治に関係無い話題だったが、それでも珠晶は大きな眼を開いて、一言一句聞き逃すまいと官達の野次り合い貶し合いを聞いていた。

「この王宮はまるで穏やかな水面を保つ池のようだわ」
 露台にて雲海を眼下に眺めながら珠晶は座り込んでいた。
「池、じゃないわね。池ならば幾つかの川から水が運ばれてくるもの」
 ここには水は流れてこない。かといえ出て行く事も無い。雨も降らないから水かさが増えることもない。池じゃない。ならば何だろうか。
「巨大な底の浅い水溜り、といった処かしら。しかも濁りきっている、ね」
 ぶつぶつと珠晶は言葉を繋いでいった。ここは王の政務室なので他者が入る事は王自身が呼ばない限りない。臥室でさえも――牀榻しょうとうにまで入室される事はないのだが――珠晶は一人になることができない。常に王の周囲は警護されているのだ。
「警護、か。警戒して護る、よね。これってひょっとしたら王が政治に口を出さないように警戒して、絶対である王から住み心地の良い仮朝を護るって意味だったのかしら」
 独り言の多さは最近特に痛感している。だが考えを口に出すことで幾らか落ち着くのも事実なので、珠晶の独り言は日増しに多くなっていく。
 露台の直ぐ下を雲海の波が寄せては返し退いていくのを凝っと珠晶は見ていた。
 珠晶のいる此処から下の里は見えない。雲海がそれを遮る。勿論雲海が有ろうと無かろうと、天をも劈くこの陵雲山りょううんざんの頂上からでは見える道理もないのだが。
「勉強しなくちゃ………」
 目の前に積まれた課題は多い。
 その最たる物は、やはりこの国の歴史や政治だった。
 珠晶は事情を知らない人間に横から口を出されるは嫌いだ。だから自分も事情を知るまでは口を出さないと心に決めている。子供だと侮られるのは覚悟していた事。
 だから、今の珠晶に出来る事を最大限に頑張る事だけが珠晶の王としての責務だと、今は思っている。 
 珠晶は小さな身体を立ち上がらせると、踵を返して己の書卓へと向かった。

「主上」
「なぁに? 供麒」
 控え目に供麒が珠晶へと声を掛けたのは、霜楓宮の内殿から外殿へと続く回廊の途中だった。珠晶は後ろに控える供麒を振り返る事無く返答した。供麒は少し躊躇したが、漸く決心をしたのか視線に力を込めた。
「ひょっとしてお疲れではございませんか?」
 ぴたりと珠晶の歩みが止まった。
 珠晶が王宮に入ってからもうすぐ一年になる。育ち盛りのこの年齢ならば、出会った時よりも幾らかは身体は成長しているだろう。
 だが、珠晶は止まった時間の中にいる。
 だから身長も伸びないし、声も変わらない。
 出会った時のままの身体が、固く立ち尽くした。
 珠晶の口が数回、開きかけてはすぐ閉じられる。やがて深い吐息と共に珠晶は言葉を吐き出した。
「………供麒。ちょっとこっちへ回って頂戴」
「………は」
 その逞しい体を珠晶の前方へと移動させると、供麒はその膝を折り目線を珠晶に合わせた。
 珠晶はその華奢な腕をするりと伸ばすと、供麒の両耳を思いっきり下へと引っ張った。
「………っっ!? しゅっ…主上!?」
「御莫迦な供麒、よーく聴きなさい。あたしは王なの、それは判ってる?」
「はっはひっ!」
 未だ耳を引っ張られた供麒は顔を歪めている。
「そうよね、貴方が選んだんですものね」
 ぽつりと珠晶は独白をしてから、気の強いと評される瞳で供麒を見据えた。
「それを踏まえて、よ。王ってのは大変なお仕事なの。解るわよね? あらゆる書類に目を通して捺印して、官の話を聞いて、下界の様子を見て! これで疲れないわけがないでしょーが! 疲労はするけどそれも王の仕事の一環なのよ! 判ったらそんな莫迦な事をもう二度と口にしないで!」
 一気に捲くし立てると、珠晶は漸く供麒の耳を解放して回廊を急ぎ歩み出した。
 まるで断ち切るようにして急ぐその小さな後ろ姿に、供麒は益々心配気な瞳を送った。
「主上! お待ち下さい!」
「五月蠅い! 莫迦麒麟!」
「主上!」
 細く白い手首が力強く掴まれた。歩幅が圧倒的に違いすぎる。珠晶は改めて自分の身体の小ささを呪い、供麒が時折見せる強気に舌打ちした。
「手を離しなさい!」
「無礼は承知です! お話を聞いて下さるならばお離し致しますゆえ!」
「五月蠅い! 五月蠅い五月蠅い !!」
「主上! 落ち着き下さい!」
「あたしは落ち着いているわ! だって………っ!」
 感情の昂ぶりがどうしても抑えきれない。珠晶は心臓の鼓動が速くなり、息が詰まりそうなのを理解した。
「主上!」

「だって! あたしは王なんだもの !!」

 取り残されているのを自覚していた。
 政治からも朝廷からも時間からも。
 隔離されている自分が腹立だしい。
「だって! あたしはもう………! まだっ!」
 何を言いたいのか判らない。自分の事が判らないなんてこと有り得るのだろうか。
 子供のこの姿が恨めしい。高い声で何を言っても官は聴いてくれない。幼い容姿は人の心にいつでも両極端の感想をもたらす。
 なんと小さく愛らしいのか。
 小さきは大を兼ねる事は無い。
 この王宮では大半が後者の意見を持っている。
「主上! お聞き下さい!」
「聞いているわ! こんなに近くにいて聞こえない筈が無いでしょう!」
 そうだ。いつだって珠晶は聞いていた。
 でも誰も珠晶の声を聞いてくれない。そんな選択肢は誰の中にも無い。
 供麒は困った顔をして珠晶を見ている。いつも冷静でどちらかと言えば高飛車な印象を人に与える彼の大切な主は、この王宮で初めて感情を一切隠さずに叫んでいた。
 供麒はやや躊躇った後で、膝を折り、その額を珠晶の足の甲に静かに押し当てた。
「………!? 供麒………?」
詔命しょうめいに背かず、御前を離れず、忠誠を誓うと誓約申し上げました」
「……………………供麒」
「許す、と仰られました。私には主上のあのお言葉だけが全てです」
 言いたい事がやっと理解できたのか、珠晶は少し顔を綻ばせた。
「………先刻、背いたじゃないの。あたしが手を離してって言っても直ぐに離してくれなかったわ」
「………申し訳ありませんでした」
 供麒は眼を細めて微笑してから、珠晶に心から謝罪した。

 珠晶にとって供麒だけが、この王宮でたった一人だけの忠実なる下僕なのだから。
 彼だけが、珠晶の話をまともに聞いてくれるのだから。

「ねぇ。供麒?」
「はい」
 二人は内殿にある庭院なかにわへと足を運んだ。
 冷たく硬い大理石で覆われた殿中に居たくなかったのが珠晶の本音だ。ここなら土もあるし、草花もある。だから季節の移り変わりを実感できてお気に入りになっていた。
「あたしは、もう、人間じゃないのよね?」
「主上は主上です」
「そーゆーお間抜けな事を訊いているんじゃないの!」
 ぷん、と珠晶は口を尖らせた。
「王は人間じゃなく、神なのよね?」
「? ええ。神仙ですから、そうなりますね。それが?」
「こーんな高い山の頂上にいるから、下界が見えないの。雲海が邪魔するの」
「主上?」
「あたしが生まれた時には王様なんかいなかったわ。街では貧しい者から息絶えていくの。里に行くと人も人手も少ないから大変だったみたい。小学の子供達も沢山死んだわ」
 供麒はもう口を開かなかった。多分、彼の大切な主君は彼の言葉を今は望んでいない。望むのは彼女の言葉をちゃんと聞いてくれる事なのだろう。
「あたしもそう思ってたんだけど、王様さえいればなんとかなるって。そう思ってたの。王宮や朝廷にいる人達は皆あたし達の知らない処で高次元の会話をして、そして国を護っているんだわって」
 そこで俯き加減だった顔を珠晶はがばりと上げた。
「そうよ! だって神仙なんだもの! 人間じゃないんだもの! 人間と同じ会話してるなんて思ってなかったの!」
 また先ほどとよく似た興奮が珠晶の中で頭をもたげたのがわかった。よく似た感情だったが、先刻とは確実に違っているのも事実だった。さっきよりは随分と落ち着いているのも珠晶自身はよく判っている。
「なのに! 下らない権力争いばっかり!! 大人って本当に莫迦だわって思うの!」
 視線の先には優しい眼差しの彼女の唯一の味方の微笑みがある。
 彼女を、彼女だけを見ている視線だった。
 安堵が身体に隅々まで波紋のように拡がるようで、ひどく居心地がいい。
「でも、それを言えないあたしは、もっと莫迦なんだわ」
 言いながら珠晶は四阿あずまやの軒下に身体を滑り込ませた。供麒がそれに続く。前を歩く珠晶の表情は供麒からは見えない。すとんと備え付けられている床几こしかけに腰を落とすと、珠晶は宙に浮いた足をぶらぶらとさせた。その動作は本当に幼くて、その身体は小さくて、供麒はいたたまれない気持ちになった。
 本来ならば外で笑い転げながら遊ぶような年齢だ。
 彼女の小さな細い肩に一国の命運がかかっているのが、供麒には切ない。
「主上………」
「なに?」
「お辛いですか?」
 その言葉に珠晶は眉をぴくりと動かしただけだ。
「私は主上に、酷い運命を負わせてしまいましたか?」
 珠晶の眼が完全に据わった。立ち尽くす供麒に手で隣の床几を指し示した。座れ、と言っているのだ。供麒は素直にそれに従った。
「供麒」
「はい」
 呼ばれて供麒は主の方へと顔を向けた、その時だった。
 ばっちん、と乾いた音が彼の両頬で鳴った。
「主っ………?」
 初めて出会った時に叩かれて、それ以来事ある毎に叩かれていたが、ここまで面食らった思いなのは初めてだった。確かに音が鳴るほどにその頬打ちは強烈だったのだが、目の前の少女の柔らかな笑顔はその痛さを忘れさせる程に優しいものだったからだ。 
 小さな両の掌で供麒の顔を挟み込むようにしたその姿勢で、珠晶はさらにゆったりと破顔した。
「あたしは今とても貴重で大切な経験をしているわ。これからもっと大変で困難で辛いと思う。でもね、己に課せられた使命とか運命とかそんな言葉で世の中は成り立っていないの。勿論どちらかと言えば玉座って押し付けられた物だと思うんだけど、でも今自分が為すべき事があるのに、辛いからとか疲れるからとかでそれを恨むなんて愚か者の考えよ。そんなのは言い訳にもならないの。あたしは供麒に感謝しているの。こんなに一生懸命に勉強した事なんかなかったし、こんなに求めた事なんかなかったから」
 何を求めているのかを珠晶は口に出さなかった。
 出さずとも通じると、珠晶は直感している。なぜならば、彼は自分の半身なのだから。
 麒麟は仁の生き物。民の為に生まれ、王と共に生き、国の為に死ぬ彼ならば、きっと珠晶の求めるものが判るはずだ。 「主上………」
 囁くようなその声に、珠晶は鮮やかに笑った。
「朝議に行きましょう。そこにあたし達の求めるものがあるわ。いいえ、なければならないわ」
 歩みかけた足をふと珠晶は止めた。くるりと振り返ると供麒の眼を凝っと見詰めた。
「ねぇ、供麒。あたしは、もう人間じゃないの?」
 先ほどと同じ質問をする珠晶に供麒は微笑した。
「主上は主上でいらっしゃいます」
 これもまた先ほどと同じ答えだったのだが、珠晶は満足そうに頷いた。