流動の風水 後編

 恭国冢宰ちょうさい朱弦しゅげんは今朝も憂鬱な溜息を漏らした。彼が六官の長冢宰に任じられて既に三十年が経過しようとしていた。前冢宰が傾き始めたこの国に、この朝廷に憂い退任した後太宰たいさいであった彼が引き継ぐような形で任命を前王より賜った。
 人間として真っ当に生きていたなら彼は天寿を全うしている年齢だ。もう八十余年も生きている。
 そして彼はまた息を吐いた。
 新王が登極して一年が過ぎた。
 王が見つかったと聴いた時は飛び上がる程に彼は歓喜し、新王の御姿を拝見した途端に喩えようもない落胆を覚えた。新王は御歳未だ十二――いや、一年が過ぎた今、十三歳となられたか――の幼子と形容してもいい年齢だったのだ。
 当然だが、諸官諸候は新王を王として見られず、子供の認識しか持てなかった。
 子供の意見に耳を貸す大人などこの世に一体幾人いることか。
 朝廷は。
 荒れた。
 時折盗み見るようにして視線を王に遣ると、王は口を真一文字に結び、黙ってただ官達を見ているだけだった。
 未だ幼くていらっしゃる。何も言えないのも無理はない、と。彼は一種の同情を珠晶に寄せていた。朱弦は堅物と揶揄されるほどに権力争いに興味が無い男だった。彼は今やこの国に、この朝廷に疲れ果てていた。
「主上の御なりで御座います。諸官諸候方は伏礼を以て主上をお迎え下さいます様」
 毎日同じ言葉を繰り返す内宰の声が朝堂に響いた。どこかでいずれかの官の漏らす嘲笑を聞いた気が、朱弦にはした。

「皆に聴いて欲しい事があるわ」
 朝堂に入るなり口を開いた王にどの官もが意表を突かれたような顔をした。勿論伏礼したままのその表情が珠晶に見えるわけもないのだが。
 普段ならば珠晶が入堂した後に朝議の開催の宣言が冢宰から下されると、そのまま官達はそれぞれにあてがわれている書卓に就き議論が交わされるという形になっていた。
「全員、顔をお上げなさい」
 この言葉がこの朝議において初めての発言であることに幾人が気付いたことだろうか。
 戸惑いが漣のように官達の上を通り過ぎていく。それが通り過ぎた後に官達はようよう顔を上げた。
「主上。御発言が御座いましたら私めにお伝えくだされば、私から皆に伝えますが」
 朱弦が珠晶にそう言葉を掛けたが、珠晶はにっこりと微笑んだだけだった。
「主上………?」
 困惑する朱弦をおいて、珠晶は更に言を繋いだ。
「今朝の朝議は無礼講とするわ。これからあたしが言う事に意見のある者は遠慮せずに口を開いて頂戴。あたしに反論したからと言ってこの後に、処遇が変わるわけでもないからどんどん発言して欲しいの」
 明らかに官の顔色が変わった。彼等の王の考えが全くわからないのだ。それもそのはずだ。彼等は誰一人とて珠晶に考えがあるという認識を持った事すらないのだから。
「今すぐという話ではないのだけれど、諸官諸候全てに街へ降りてもらいます」
 その言葉にすぐさま反応は返ってこなかった。誰しもが珠晶の言っている意味が理解できなかったのだ。それに構う事無く珠晶は更に続ける。
「そうね、まずは六次官に降りて貰いましょうか。小宰しょうさい小司徒しょうしと史官しかん小司寇しょうしこう玄師げんし、禁軍右将軍のそれぞれに、そうね、一ヶ月里で生活をして貰いましょう」
 淀みないその口調に官は呆気に取られ、次いでやっと我に返った。しかし官が口を開く前に再び珠晶が口を開けた。
「本当は六官長に降りてもらいたいのだけれど、それはもっと後にするわ。債務引継ぎというか、燕朝えんちょうに支障が出ても本末転倒になり兼ねないもの」
 そこで珠晶は前で膝を折ったなりの官達を見渡した。
「異論、反論は無いのかしら。じゃあ決定と言う事で………」
 そこまでで珠晶の言葉は途切れた。大宰が声を挙げたのだった。
「主上! そのような不条理なご命令に従う事は出来かねます!」
 珠晶は目を細めた。無言で先を促す。
「我らは政治をする為にこの燕朝におりまする! 街に降りる理由がございませぬ!」
「その通りです!」
「なんという破天荒な事を仰られるのか!」
 それに触発されたのか、次々と官が声を上げたのを、珠晶は満足そうに見た。
「貴方方は政治をする為と今言ったわ。権力争いや派閥争いとは厳密に言えば政治とは言えないわ。そのような下らない争いをする暇があるのなら里で畑や田圃を耕せ、と言っているのよ」
「下らないように思えるのかも知れませぬが、これは朝廷を動かす上で重要な事なのです! 主上はまだ御小さくていらっしゃるから御理解できぬのです!」
「そうです! そもそも何故我らが街の人間と過ごさなければならないのか」
 その言葉に珠晶は眉を勢いよく吊り上げた。
「大司徒! その言葉は聞き捨てならないわ! どういう意味か今説明なさい!」
 未だ幼いその姿と声だったのだが、珠晶の一喝に大司徒はびくりと身体を震わせた。
「………我らは国を動かす為に神仙になった者です。なのに今更下界で人間と同じ生活をするという理由がわかりません」
「人間と同じ生活は出来ない、とそう言うのね?」
「そこだけ端折られても困りますが、まぁ、そう取って頂いても結構です」
 珠晶ががたんっ、と音を鳴らしながら床几から立ち上がった。その顔は怒りのためか僅かに上気して赤く染まっていた。
「先ほどの言葉にも幾つか納得のいかない言葉があったわ。人間とともに生活するのが不条理ですって!? 破天荒ですって!? ―――冢宰!」
「はっ!」
 いくらか慌てて朱弦は返答した。 
 大きく吐息をして、珠晶は気を落ち着けた。
「貴方に訊きましょう。政治とは何の為にあるのです?」
 冷めた珠晶の声が朱弦だけでなく全員の頭上に降りかかる。
「御国の為でございます」
 慇懃に朱弦がこれに答えた。
「よろしい、冢宰。では国とは誰の為にあるの?」
「民の為でございます」
「ますますよろしい」
 頷いて珠晶は朱弦に微笑んだ。朱弦は一瞬眩暈を覚えた。それがなにゆえの眩暈なのかは解らなかったのだが。
「さて、では大司徒。貴方に訊きましょう。貴方は人間?」
「―――元人間でしょう。今は仙でございます」
「なるほど。内宰、貴方に訊きましょう。猫に鼠の群れを統率できて?」
「………無理で御座いましょう」
 質問の意図は理解できなかったが、内宰は率直に返答した。珠晶はますます笑顔を深くした。
 珠晶はきりと唇を引き締め、全員の顔の上に視線を走らせた。

「貴方達は人間の為に生きているの。人間の世界を治めるのは人間だけだわ。それを覚えていて欲しいの。この王宮は濁りきった底の浅い水溜りとなっているわ。動かない水は腐るだけ。どんな美しい房室へやであれ、風が入らなければその内部は汚れ臭ってくるものなの。あたしが言っているのはそれなのよ。濁った水ならば新しい水を入れてやればいい。臭い立つ房室ならば窓を開けて風を呼んでやればいい。あたしはね、貴方方に街へ降りてもらい、人々の願いや生活をその目で実際に見てきて欲しいと言っているだけだわ。猫には鼠の気持ちはわからないものなの」

   言い聞かせるような珠晶の言葉に供麒は僅かに微笑んだ。

「確かにあたしも貴方方も神仙と呼ばれる者だわ。でも、あたしは自分が人間であることを忘れない。王であるとか神であるとか、そういうのはこの大袖や簪のようなもの。あたしはそれを纏い身に着けることはできてもそれになることは絶対にないの」

 その官も固唾をのんで珠晶の言葉を聞いている。

「貴方達にも忘れて貰いたくない。貴方達は人間という生き物で神仙の衣を纏っているだけと言う事を。そして民の為だけに政治を執って欲しい。権力争い派閥争いも大いに結構。ただしそれを目的にすることだけはしないで頂戴」

 しゃら、と布を引きずらせ珠晶は一歩前に進み出た。

「何年後になるかはわからないけど、この恭国が落ち着いて、朝廷が落ち着いたらどの官にも一度街へ降りて貰います。そして風を呼び込んで水を入れてきて。腐った水には魚を棲めないわ。民の願いや思いは年月と共に変わり行くものだわ。いつまでも百年前の願いを民が祈り続ける筈もない」

 朱弦は心が痙攣するような思いだった。

「別派閥の相手の足元を掘る位なら田を耕しなさい。己の欲を積み上げる位なら堤防に土を積み上げなさい。貴方達は神仙であり人間であるわ。この朝廷で生きる意義を民の為だけに見つけ、使って頂戴」

 そこで珠晶が言葉を切った時、朱弦は深く頭を垂れ、彼の、いやこの国の王に叩頭した。それを見た官の幾人かが倣うように、導かれるように同じく叩頭した。
「主上のお考えに、この朱弦、深く感銘致しました」
 自然に口から滑り出た己の言葉に、朱弦は先ほど感じた眩暈の正体を理解した。
 覇気をして王気という。もしくはその逆か。
 朱弦は感じたのだ。珠晶の中にある眩いばかりのその王気を。その耀きに眩暈を覚えたのだ。
 そしてその言葉を契機に、全ての官が叩頭した。
 供麒はこぼれんばかりの笑顔を珠晶に向け、珠晶は目線で笑ってみせた。
 勿論、全ての官がこの考えに同意したわけはないだろう。それ位の事は珠晶にもわかっている。だが少なくともこれは大きな意味のある一歩になった。その事に珠晶は満足したのだ。やっと一歩を踏み出せた。困難な道のりとなるが、千里の道に嘆く暇があれば一歩でも歩き出せばいい。
 最初の一歩がなければそれ以降の歩みさえ無いのだ。
「ではこの議題について少しでも前へ進めるとしましょうか」
 その言葉を受けて、朱弦は本日の朝議の開始を告げるべく立ち上がり、未だ平伏する諸官諸候に目を転じた。
「朝議をこれより開催する。諸官諸候は速やかに己の書卓へ着きなさい」
 言いながらちらりと見た珠晶の顔は、とても自分の同情が必要な子供には見えなかった。

「供麒」
「はい」
 小声で呼ぶ珠晶に供麒は直ぐに答えた。どれだけ小さな声であれ、彼が彼女の声を聞き逃す事は有り得ない。
「あたし達の求めるものはまだ姿を完璧に現していないわ」
「はい」
「でも、もうすぐあたしが………」
「私も参加させてください」
 珠晶は小さく笑んだ。
「あたし達が見つけ形にして、必ず得るわよ」
 律儀に訂正してくれた己の唯一人の存在に、供麒は優しく笑った。

 恭国の澱んだ空気を一掃するには時間がかかるだろう。
 だがこの日、珠晶はその窓を開けることに成功した。
 この朝廷の濁り腐った水に変化を促す川をやっと引けたばかりだ。

 恭国において供王蔡晶が朝廷にて初めて発言したこの日から、やっと留まっていた歴史が動き出した。


  ――了――
 あごんさんから十二国記の小説をいただきましたvvv(嬉)
 タイトルも素敵な恭国のお話です。私はこの主従コンビが大好きなんです。十二国記の王と麒麟の主従コンビは皆大好きなんですが、特にこの二人が好きです(><)
 珠晶が主人公の『図南の翼』はシリーズのなかでも大好きな話のひとつです。
 12歳で王。さぞかし登極直後はこのお話の通り苦労が多かっただろうと思います。あごんさんの珠晶がもう可愛くて……さらりと書かれている王宮中の役職名。私は全然わかりませんでした、すごいです(汗)
 ちなみに珠晶は柚葉シリーズにおけるイルニーフェの原型だったりします(笑)。ただあちらのほうは、王の器じゃないですね。どちらかというと宰相の器です。リーデが利広に見えてしかたがないというお言葉をいただいたことがありますが、彼の方はモデルにした記憶はありません(笑)
 このお話に合わせて、珠晶のイラストを描かせていただきましたv →
 十二国記コンテンツがあまりにも少ない店内ですが、版権物の書架のほうには店主の書き散らしたお話があります。