舞姫の翼(スカイ・エンブレム) 前編

 夜空を美しいと思うのはいつ以来だろうか。
 自分らしくない感傷だし、似つかわしくない感慨だと云う事は充分に理解している。それでも今宵の空は美しいと、そう思った。恥ずかしげもなくそう思える現在の己に照れもするが、感じたことをそのまま事実として受け入れられる事をどこか誇らしくさえ思える。
 日中は青空に無作為に散りばめられたような白い雲がそこかしこに浮いては、下界に住むあらゆる生き物から、少しでも澄み切った青を隠すようにしていたが、夜になって一変した。黒に近い藍の空にまるで乙女の涙のように清らかな星々が浮いてきて、黄金の輝きを放つ満月が惜しげもなくその狂おしげな光を地上に落とした。それらを遮る雲が一つもない。
 これほど美しい夜空も滅多にないのではないだろうか。
 いや、それともいつでもあったものが、これまでの彼には見えなかっただけなのかもしれない。
 その可能性の高きことを彼は口の端の笑みで示唆した。
 セイルーン王国が王都セイルーン。
 国名と同じ名前を冠したこの都市は、大陸の端々にまで名を轟かす名実ともに兼ね備えた魔法都市だ。セイルーン王国の礎となる都市。あらゆる国の人間がこの街に集い、あらゆる人間が一度は見ておきたいと願う憧憬の都市。貴色の白を基調としてこの都市の外観は統率され、それらはそのまま清廉を表し純潔を意味し、潔白を人心の目に映す。近隣諸国の中でも随一の力を持った大国セイルーン。その王都に住む者は皆、それを誇りに思いながら生きている。
 彼はその都市の中心。そうあらゆる意味での中心に今、居るべき場所を見つけている。
 セイルーン宮殿の一室が、彼の現在の家となっていた。
 あと半年ほどの間を置けば、一つの屋敷が彼の住処となるだろう。
 セイルーン王家の賓客、いや、セイルーン王国の第二王女の婚約者。
 それが彼の現在の肩書きであった。
 ゼルガディス=グレイワーズ。彼の持つ夜より黒い髪が、さらりと夜風に撫でられた。

 ほんの少し前までは『狂戦士』と呼ばれて、裏の世界で一目を置かれていた自分が、今では大国の王女の婚約者である。愛した女性が王族だっただけだった。
 ゼルガディスは少しだけ笑んだ。
 男は女を心から求め、愛したし。
 女もまた男を愛し、選んだ。
 そしてセルガディスはこの王国の婿養子として迎えられる事が決定したのだった。半年前に己の過去に決着を着け、そしてゼルガディスは五年という長い月日を、自分を信じて待っていてくれた愛しい彼女の元へと帰ってきた。その翌々日には正式に婚約が発表され、そして慌しい現在へと至っている。
 大国であるだけ、結婚式までの道のりは遠い。あらゆる準備が施され、そして。
 ゼルガセィスは少しだけ疲れていた。
 式の段取りは全て教会で整えてくれる。宮廷が管理してくれる。だからそこに彼の出番はない。
 今ゼルガディスに求められていることは一つだった。
 政務についての勉強。それだけを周囲は求めている。 
 勿論、それ自体を苦に思ったことなどただの一度とてない。
 ゼルガディスは寝食を忘れるほどに没頭もしたし、政治のあり方について非常に興味も覚えた。いっそ貪欲なほどに彼は次から次へとひたすら勉強した。それを見た周囲は勤勉とは表現せずに、狂勉だ、と笑っていることも知っている。
 それでも矢張り疲労は否定できなかった。
 しかし、生来の意地っ張りでもある彼は、決して泣き言も弱音も吐かない。より正確に言うならば、泣き言も弱音も吐き方を知らないだけなのだが。それでも愛する女性には疲れた背中でも見せたくはない。女はいつでも愛する男の疲れを癒したいと思っている事などは、世の男性は知りもしないのだろうが。
 そんな時に彼はよくこの場所へ来る。
 大理石で覆われた宮殿で少しだけその硬さに足が痛くなった時や、柔らか過ぎる絨毯に少し違和感を覚えた時にゼルガディスはこの場所へ足を運ぶ。
 宮殿の片隅、忘れ去られたような空間。
 整備もされず、ただ任せるままに草花を生やしたこの場所。
 なぜこんな場所が宮殿にあるのかも彼には不思議なことだった。ひょっとしたらここは宮殿の死角かもしれない。
 剥き出しの地面。湿った土の感触。
 人の手にかかっていない、寧ろ人の目にさえも触れていないようだった。
 ここは無性に落ち着く場所でもあった。



 その時だった。
 人の気配が、した。
 思わず隠れようとしたが、残念なことにここは驚く程に何もない場所だった。方々に伸びた草や花ではこの身体は隠しきれもしない。何も立ち入り禁止の場所に入ったわけでもないし、自分は王家の客なのだ。なぜここにいるのかを尋ねられても迷ったと一言あれば済むだろう。
 そう思いゼルガディスは首だけを後方に捻り、そして僅かに目を瞠った。
 そこにあった人影はよく知っている顔だったのだ。相手もゼルガディスに気付いたのか、口を少し開けて大きな瞳を更に大きくした。あら、とでも言ったのかもしれない。
「奇遇ですわね、ゼルガディス卿」
「奇妙で慣れない敬称を使うな、イルニーフェ」
 言われて少女は微笑んだ。
 くせの強い黒髪が揺れる。
 イルニーフェは真っ直ぐな瞳でゼルガディスを見据えていた。
 するりと滑るような足取りでイルニーフェがゼルガディスの方へと近づく。
「お隣をアメリア王女から一時的に拝借しても良いかしら?」
「勝手にどうぞ、だ」
「それはどうも、ね」
 細いその身体がゼルガディスの横に並ぶ。ゼルガディスは少々居心地の悪い気分を味わった。それはお気に入りの場所を人に知られた事に対する子供ような悔しさと苛立ちでもあったし、この少女に対する自分の気持ちでもあった。
 どうやらこの少女は自分の愛する女性――アメリア――のお気に入りらしいのだが、ゼルガディスはまだ数度の対面しか果たしていないし、それも殆どが挨拶程度であった。はっきり言って何を話せばいいのかわからない。
 それはイルニーフェにしても同じ事だった。
 自分に居場所を与えてくれたアメリアが、頑ななまでに待ち続けた男。それしか知識が無いのだ。
 とは言え、双方ともにこの場所から動くのは嫌だった。
 二人ともがお互いに自分の視界に相手を入れまいと、ただ空を見上げているだけの状態が続いた。先に動いたのはイルニーフェだった。動いたといっても口が数度開閉しただけだが。
「………言っておきますけど、この場所は私が先に見つけたのよ」
「………いきなり何だ」
「私が先に見つけたの。貴方が来る前から私のお気に入りの場所だったんだから」
「ここは誰の土地でもないだろう。強いて言えば王の土地になるんじゃないか?」
 面白くなそさそうなイルニーフェに輪を掛けた口調でゼルガディスが応えた。

「残念。ここは僕の土地なんだよ、お二方」

 突然、声が二人の背中にぶつかった。
 二人は弾かれるように後ろを振り返る。気配はまったく感じなかった。
 振り返った二人の両の目に映った姿は、いかにも貴族然とした、悪く言えば軟弱そうに見える青年である。しかし、見た目とは違いなかなかの手練れであることはゼルガディスには解った。いくつもの戦場を乗り越えてきた自分に気配さえ感じさせずに背後まで近寄ったのだ。
 柔和な笑みを顔に浮かべてその青年貴族は優雅に会釈をする。真っ直ぐな銀髪がさらりと揺れた。
「お初に御目文字つかまつります。私は紋章院に勤めるしがないヘラルド・アームズ。アリエール=ソフランと申します。国王陛下より子爵の位を賜ってございます。以後お見知りおきを」
 そして彼、アリエール=ソフランは瞳の奥で微笑んだ。完璧な自己紹介と言えるかもしれない。相手が名乗ったならば自分も名乗らねばなるまい。
「………丁寧なご挨拶、いたみいります………。俺……私はアメリア王女の―――」
「その先は結構。ゼルガディス卿。そしてイルニーフェ殿。お二方のお名前はよぅく存じ上げておりますゆえ。不必要な会話は往生際の悪い男ほどに世の中から消し去らねばならない代物。私も貴方も往生際は悪くないと、信じたいものですね」
 アリエールの淡い色彩の髪と瞳が笑う。ゼルガディスは思わず言葉を失った。慣れない言葉を使っての自己紹介は言葉半ばで止められてしまった。これはなかなか礼儀に適っていないのではないだろうか。悪びれのないその表情にゼルガディスはむっつりと黙り込んだ。
「で、ここが貴方の土地とはどういう意味なのかしら? いくら陛下直属の機関、紋章院の人間だからといってこの王宮内に個人が土地を持てるとは思えないけれど?」
 つまらなそうにイルニーフェがアリエールに質問を投げかけた。アリエールはにんまりと笑う。
 これほど笑顔の印象の悪い男も珍しいんじゃないか、とゼルガディスもイルニーフェも同時に思うほどに、アリエールの笑顔とは爽快とは縁遠いものであった。
「良い質問だね。さすがは黒鋼の女官と噂される未来の女傑だけはある。そうは思いませんか? 婿太子殿」
 一言も二言も多いアリエールの言にイルニーフェは口を曲げ、ゼルガディスは苦笑した。王宮内を問わずにゼルガディスとイルニーフェを取り巻く噂は多い。そして陰口も、仇名も。
 アリエールが言った通り、ゼルガディスは『婿太子』と呼ばれていたし、イルニーフェは『黒鋼の女官』と仇名されている。ゼルガディスのそれに関してはこれ以上説明のしようもないだろうし、イルニーフェに至っては悪口以外の何者でもなかった。鋼のようなその髪に掛け、鉄のように熱も持たず他者を跳ね返す冷たさの意を込められた仇名であった。本人達は気にしていないが目の前で言われ、イルニーフェはやや気分を害した。堂々と仇名を言われたことがではなく、レディに対する紳士精神の欠け方が気に入らなかったのだ。ゼルガディスにとっては陰で言うよりもこうして目の前で言うアリエールの心の持ちようは厭なものではなかったが。
「で、なんでなの?」
「ふふ。実はね、私の家系は代々紋章院総裁の地位にあったのだよ」
 その言葉に二人は目を瞠った。
 紋章院とは先ほどイルニーフェが言った通り、数少ない国王直属の機関のひとつで、紋章院とはその中での頂上に近い位置にある。王宮組織位の六位にあったはずだ。そしてその総裁とは世襲制で一つの家系のその嫡子がその地位を得る。しかもその地位とは二十六公爵の頂上にあるのだ。
「で、私の父が早くに身罷りましてね、私は若くしてその地位を譲り受けたのだがね。それを他人に売り払ったんだよ。えぇと、五の……六で、七年前になるねぇ」
 指を折りながら時を遡り数えるアリエールを二人はぽかんと大口を開けて見た。
 正気の沙汰ではない。
 額面通りの末代までの名誉、栄誉の名を他人に売り払うなど尋常ではない。なぜ先祖代々の誉れを彼は他人に売り払ったのだろうか。正気の沙汰ではない。
「そして売ったお金でこの土地を陛下から買ったのだよ。だからここは僕の土地なのだよ」
 男はからりと笑う。それでもやはり爽快さや陽気さとは懸け離れた笑顔だった。
「………よく、家族が許したものだな」
 ようやく出た言葉はそのままゼルガディスの感想であり、心境であった。
「いやあ。許すも何も。全部事後承諾でね。母親は狂ったように喚いていたかな」
 当たり前よ、とイルニーフェが心中で短く言う。
「で、爵位も何もかも売ったんだけどね。まぁこれまでの我が家の貢献もあってね、陛下が子爵の地位を下さったんだ。それでも母親は文句を言っていたけれどね」
 当然だろう、とゼルガディスも胸中で呟く。
 二人の感想を判っているのかいないのか、アリエールは目線でにやりと笑った。

「―――良い土地だろう?」

 低いその声音に二人は間を置かずに頷いた。正直な感想だった。
「終わりある人生にようこそ、とこの土地は言っているんだ」
 ゼルガディスの眉がぴくりと動く。
「危険思想の持ち主とは思って欲しくないんだけど、いつかこの王朝は終わる時が来るだろう」
 イルニーフェが少しだけ顎を引いた。同意見だった。危険思想とかそんなのは関係なく、この世に終わりのない物などない。永遠不滅のものなど無いのだ。
「何十年後か、何百年後かはわからないけど、この王朝が終わる時は、この土地から荒廃していけばいい。この土地から滅んでいけばいいと、思っているんだ」
 遠い目をして言うアリエールに、ゼルガディスは目を細めた。
 ひょっとしたらこの男も、疲れているのかもしれない。もしくは時折、疲労を感じた時にはゼルガディスのようにこの土地に足を運んでいるのかもしれない。
「随分と親切な思いやりなのね」
 イルニーフェが呆れたようにアリエールを見上げた。まあね、とアリエールは応じた。皮肉を通しそうもないその厚い面の皮をイルニーフェは興味深く観察した。
「そうだ。君達にこの土地に自由に入れる権をあげよう」
「………それはどうも」
「………有り難き幸せだわ、子爵様」
 唐突なアリエールの提案に、ゼルガディスとイルニーフェは小さく答えた。
「でも取引がある」
 取引、と聞いて途端に二人の表情が険しく、そして憮然としたものに変わる。
 二人ともとてもアメリアに気に入られているというのは周知の事実である。アメリアの傍にいるということは、ひいては権力――しかも最高権力――の傍にいるということになる。そこに目を付けた連中はよく二人に近づいた。なんとかアメリアに取り入ってもらおうという見え見えの魂胆をちらつかせながら、欲に目が眩んだ連中が言い寄るのは未だに絶える気配もないのだ。
 そんな二人の表情を見てアリエールは腹を抱えて笑った。爆笑と呼ばれる類の笑いだった。
「あっはっはっはっはっはっはっは! よしてくれよ! 二人してそんな変な顔をしないでくれ! 僕に笑い死にさせるつもりなのかい!? あっはっはっはっはっはっは!」
 目尻に涙さえ浮かべながら肩をひくつかせるように笑うアリエールを、二人は呆然と見詰めた。一々言動が突拍子で読めない男だった。少なくともここは爆笑する場面ではないと思う。
「僕に権力に対する欲が無いことくらいは想像して欲しかったな。くっくっく」
 そう言われてゼルガディスとイルニーフェは己に恥じ入った。取引とたった一言を聞いただけで他人を量ったのだ。たったの一言で人間性を決め付けようとしていたのだ。これは相手に対しての侮辱であるし、己に対しても恥ずべきことである。
 そもそも二十六公爵のトップの地位と荒れ果てた土地を等価と見なす男だ。
 とても強欲を持つ人種とは思えない。
「すまない」
「ごめんなさい。ちょっと神経質だったかも、だわ」
 二人は素直に謝罪した。イルニーフェは一言をくわえる辺りがただの『素直』とは言えないが、それでもこの少女にすれば最大限の素直であっただろう。
「いいさ。気にするコトじゃあないからね」
 アリエールは微笑んだ。少しだけ、この笑顔が気に入り始めたことをゼルガディスは自覚した。
「で、取引ってのは何だ?」
「うん、それなんだけどね」
 アリエールの銀の髪がしゃらりと音を立てそうに揺れた。
 再びアリエールは優雅にその場で頭を垂れた。

「お二方の紋章を作る際には、不肖ながらこの私に命じて下さいませ」