舞姫の翼(スカイ・エンブレム) 後編

 予想もしないその言葉に二人はぱちくりとまばたきをした。アリエールはまだ顔を上げない。
 なんだか二人とも急に居心地が悪くなった。その理由をいくつか挙げるとすれば、まず返答にとても困ってしまった事が一つ目になる。紋章などはそう簡単に作ったりできるものではないことくらいは二人も知っている。紋章院で審議に掛けられ、それから各機関に了承を得、そして国王に了解を貰わなければならない。そして紋章とは古来よりその家に受け継がれていくもの。歴史を重んじ、継承されていく事こそが紋章が現在もある一番の理由なのだ。だからそう言われても「あ、そう。じゃあ頼む」とは言いにくい。
 二つ目は先ほどからぴくりとも身体を動かしていないのですっかり固まった体が気持ち悪いこと。アリエールはさっきから常に二人を真正面から凝視とも言える視線で見据えているのだ。まるで解剖されているようだとイルニーフェが思ったほどに。
 そして三つ目は。
 アリエールが未だに顔を上げないことだった。
 なんとも居心地が悪い。
「あのな………、アリエール?」
 戸惑いながらもゼルガディスがアリエールのこちらへ向いたままのつむじを見る。やはり動かない。了解の回答を待っているのだろうか。
「ちょっと、貴方、アリエール卿」
 困惑をとうに通り過ぎたイルニーフェがしびれを切らしたのか、少し怒った口調でアリエールに言葉を投げた。それでも彼は微動だにしない。ゼルガディスは今や呆れ返っている。イルニーフェは苛立ちさえ覚えたようだが。
「アリエール卿! レディからの言葉に返答をしないなんて紳士道にもとる行為だわ!」
 少々険の見え隠れする表情で、イルニーフェが再びアリエールを鋭く睨む。
 その科白には確かに効果があった。アリエールの髪が微量だがしゃらりと動く。それでも頭を上げないままでアリエールはようやく口を開いた――そう、文字通り口を開いたのだ。
「ならば私の持ち出したこの取引に全く返答を返さない貴殿らは人間の道にもとりましょうな。先にお二方にお伺いを立てたのはこちら。ならば貴方方はそれに応えなければならない。己の回答を後回しにして先に私の回答を求めた上に非難するなど」
 ここで言葉を切って、アリエールは更に深々と頭を下げる。
「―――笑止」  
 錆びた刃のそれでアリエールは低く付けたし、再び黙した。
 イルニーフェは苦虫をまとめて十数匹分を噛み潰したような顔をし、ゼルガディスは小さく笑った。
「………あのねぇっ!」
「失礼を詫びよう。アリエール卿」
 顔をしかめたイルニーフェの刺々しい声と、ゼルガディスの涼しい声が同時にアリエールの耳に届いた。イルニーフェは目線で隣に佇むゼルガディスを捉える。その表情を見て次に口から出そうになった言葉を飲み込む。「紋章院に身を置きながら紋章取得許可にどれほどの労力がいるのか知らないとは言わせないわ」とそう言うつもりだったのだが、やめた。
 ゼルガディスの今までイルニーフェが見たことの無いその表情に、イルニーフェは口を噤むことにした。
 彼の顔はどう表現すればいいのか。
 晴れやかというほど晴れ晴れともしていない。
 爽やかというには少し明るさが足りない、その表情。
 例えるならば。
 イルニーフェはちらりと上目遣いで夜空を仰いだ。
 この夜空のようだ。星々を抱き、月光を護り、闇を包み、世界と在る。
 澄んだこの夜空のような表情だった。
 ここはゼルガディスに任せるのが上策といえるだろうな、と直感で思う。
「俺達は確かに紋章なんて持ってない。だが、いつか」
 イルニーフェの視線を横顔で受け流し、ゼルガディスは低くアリエールに話しかける。
「だがいつか、紋章を授かるような事があれば、貴卿に紋章の製作をお願いしたい」
 アリエールの銀の髪が月光を跳ね返して美しい白金に染まる。地上に降りた天の御使いとはきっとこのように儚く人の目に映るのだろう。
「これで、回答になるか?」
 アリエールがやっとその身を起こし、二人の顔を真正面に再び見遣る。にまり、とその口が柔らかな曲線を描いた。
「光栄の至り、ですね。婿太子殿」
 言いながらその鳶色の瞳がイルニーフェの眼を見つめる。イルニーフェは苦笑未満で嘆息して、
「私もその折には是非に。元紋章院総裁さま」
「恐悦至極。黒鋼の女官殿」
 不遜といえばそれまでのそのアリエールの態度に、ゼルガディスもイルニーフェも肩を竦めた。
「取引成立、だね。大丈夫。きっと二人には紋章の取得が下りるさ。これは確信」
 アリエールが白い歯を見せて莞爾と笑う。イルニーフェもいつの間にかこの男の笑顔が少しだけ気に入り始めていた。
「随分根拠に乏しい確信ねぇ。むしろ根拠が無いんだからそれは確信とは言わなくて、妄想と言わない?」
「言わない言わない。これは紋章院総裁の血が教える直感なんだから」
「元、でしょ」
 呆れた口調のイルニーフェにゼルガディスは吹き出した。
 なるほど。アメリアがこの少女を気に入るわけだ。イルニーフェのこのあけすけさはリナ=インバースに通じるものがあるではないか。
 笑われた方としてはむっとするしかない。
 ちょっと子供染みた反撃だったかしら、とゼルガディスが笑った理由を考えて再度むっとする。ゼルガディスはそういう理由で笑ったわけではないが、だからといってお互いにこの事に関して言葉に出し合うほど馴れ合ってもいなかった。
「あはは。確かに元、だよねぇ。でもね」
 一際、月が、瞬いた。

「二人を初めて見た瞬間に僕の脳裏には二人の紋章が浮かんだんだ」

 星が、輝き。
 闇が呼吸して。
 世界が拡がった。
「おっとっと、そんな胡散臭そうな目をしないでおくれってば、黒鋼の女官殿。二人は紋章に関しての知識は?」
 前半の言葉に反論しかけたイルニーフェだったが、またゼルガディスに笑われるのも癪だったので後半の質問にだけ答えることにした。
「いいえ、全然」
「同じく」
「じゃあ、簡単に説明しておこうかな、と言っても紋章に関してじゃなくてさ。僕が見た二人の紋章に関してだよ」
 どこか恍惚の表情でアリエールは腕を組んで踵でターンした。その優美な姿は舞踏会にでも出ればさぞかし貴族に娘達をうっとりとさせることだろう。
「まず、紋章の基本となるのは盾の形をした小紋章なんだ」
「それは知ってるわ。初めの頃は戦で使う盾に模様を描いてたのよね。それが発展して今の紋章の形をとったんでしょ?」
「ご名答。その盾の形をしたのを基礎に紋章が作られるんだ。その盾をシールドという」
 こくりとゼルガディスは頷く。
「シールドには基本の模様としてオーディナリが描かれるんだ。まぁ一番の下地だね」
 イルニーフェも頷く。頷く以外はできなかったのだが。
「そしてそのオーディナリの上にもうひとつ下地が描かれる。それがサブ・オーディナリ。オーディナリもサブ・オーディナリもどちらもその色によって意味を持つんだ」
 嬉しそうにアリエールがもう一度くるりと踵で回転した。
「そして二人も知っているだろうけど、よく何かの動物が描かれているだろ? こうシールドを挟むようにして一対」
 アリエールは胸の前で両手を広げてまるで何かを包みこむようにした。二人が頷くの待ってアリエールはまた嬉しそうに笑った。
「その動物をサポーターと呼ぶ。僕の脳裏に描かれたのはオーディナリとサブ・オーディナリ。そしてサポーターだけだったんだけどね」
 言ってからとうとうアリエールはその場で踊りだした。軽やかに踏まれるステップに二人は少々げんなりとする。どうやら彼の精神は実に高揚しているらしい。
「まず婿太子殿のシールドはね、青。これはね忠誠心を示す色合いなんだよ。意味としてはロイヤル。どうだい? ロイヤルってのは泣かせるだろう? 象徴としてはサファイヤなんだ。君のその瞳にぴったりだとは思わないかい?」
 両手を広げてゼルガディスの真正面へと回り込む。そしてまたターン。今度はイルニーフェの正面へと移動する。勿論、軽やかなステップを刻みながら。
「君には白………いや、銀がきっと似合う。その鋼色の髪にはきっと映える。うん、これはいい。意味としてはイノセンシィ………なんだけど、君は無垢って感じじゃあないよねぇ」
 また余計な一言を吐くアリエールをイルニーフェは軽く睨んだ。余計なお世話よ、と心の中で呟いて。
「あぁ、そうだった。イノセンシィは白につけられる意味だっけ。銀は確か………そう、純潔! うん、いいね! 宝石は真珠が象徴されてるんだ。君はとっても尖ったトコロがあるから真珠のあの丸さを見習うといい」
 うるさい、とまた心の中でイルニーフェが毒づく。
「オーディナリの形なんかどうでもいいから、サブ・オーディナリ! これはね、とっても重要なんだよ。オーディナリってのはどこの家でもそれだけは絶対に継承されていくものだからね。だからみんなサブ・オーディナリで工夫するんだ。サブ・オーディナリはね、水玉模様にだね!」
 くるくると器用に何度も廻りながら踊るアリエールを、ゼルガディスはよく目が回らないもんだと変な所で感心していた。幾つもの勉強の中でどうしても舞踏だけは苦手としている彼らしい感想ではあったのだが。
「婿太子殿が銀の水玉模様で、黒鋼のお嬢が青ってのはどうだい?」
 ぴたりと動くを止めて質問するアリエールに二人は眉を上下させた。そんなことを質問されても答えようがない。
「だからさ、二人のオーディナリとサブ・オーディナリの色を対照させるってコトなんだけど。うん! 素敵な考えだね! 意味としては婿太子殿は銀の水玉だから水になる。そして黒鋼のお嬢は青の水玉だから涙となるんだ! これって結構ヨロシクないかい?」
 自分で言ってとても気に入ったらしく次は鼻歌まで歌いだしたアリエールを二人はただ見るだけだった。なんだかこのテンションの高さが怖いくらいになってきたのだ。
 夜が深くなった。 

「ゼルガディス卿はアメリア王女の渇きを潤せるただ一人の水になって、イルニーフェ嬢はアメリア王女の涙を護るんだ」

 突然動きを止めて、低い声でアリエールは二人を見つめた。淡い鳶色が揺らぎを見せた。
 その急激な変化についていけずに二人は思わず固唾を飲んだ。
「サポーターはね、ゼルガディス卿が一角獣でイルニーフェ嬢が鳥……いや、翼だ」
 アリエールはそのままの姿勢で天を仰いだ。目を細くして弱弱しいその月光を眩しげに見詰める。
 消えて、しまいそうだった。
「一角獣も空を駆けることができるんだよ。その背には純粋なる乙女だけを乗せてね」
 星が眩しすぎる。
 小さく呟いてアリエールは再びその視線を二人に戻した。
「二人とも、王女と共に大空を舞うんだ。軽やかに駆けるんだ。きっと」
 最後の方はほとんど消えてしまいそうな声だった。
 ゼルガディスもイルニーフェもどうしていいのかわからず、ただアリエールを見守った。
 アリエールはそこへちょこんとしゃがみ込むと、ふぅと溜息を落とした。長い前髪を鬱陶しそうに人差し指で払う。その髪先からきらきらと銀光が零れる。

「終わりある人生へようこそ。終わりなき人生の旅人達よ」

 ぽつりとそれだけ落として、アリエールは勢いよく立ち上がった。その時しゃらりと銀髪が揺れた。イルニーフェは見るともなしにその動きを見ていた。
「ここに自由に入れるのは君達とアメリア王女だけだよ。この場所から終わればいいってのは正直な気持ちなんだけど、でもここから始まるのも面白いよね」
 するりとアリエールは二人の間を抜けるとそのまま振り返りもせずに無機質な王宮内へと消えていった。二人は立ち尽くしたままでその残像を見ていた。
 あの男が何を言いたいのかはよく掴めなかったが。
 多分、二人を気に入ったと言いたかったのかもしれない。
 ゼルガディスもイルニーフェも同時に夜空を見上げた。満天の星が二人を見下ろす。月が照らし出し、闇が抱きよせるようなその錯覚。
 世界が何かを予感したのかもしれない。
 ここはとても落ち着くいい場所だった。
 でももうこの場所には来ないかもしれないな、と二人は夜空を見上げてそう思った。
 アリエールが言った通りにゼルガディスとイルニーフェがアメリアと共に大空を舞う者ならば、疲れた時もそうでない時も彼女と共にあらなければならない気がする。
 ふっと息を小さく吐き出して、二人はちらりと目線で笑いあう。
 そのままで一言も口をきかずにアリエールを追うようにして大理石で覆われた王宮へと戻った。
 さわさわと、夜風が放り出された空間を撫で付けていた。
 あごん様から、15000HITのお祝いとしていただきました(><)
 タイトルが柚葉シリーズのなかの翼の舞姫の対となっております。時間軸としては『夢飾り』の後のお話。ゼルガディスとイルニーフェのお話で、あごんさんのオリキャラ、アリエール・ソフラン氏が登場いたしております。このアリエールはあごんさんの持ちキャラで、あごんさんのお話に名前は同じ別人としてあちこちに登場しているのですv アリエール氏が登場するあごんさんのお話は『星光卍会本部』の方に『静寂と孤独の狭間を彷徨う夜』があります(LINK→会員保管室→あごんの部屋で行けます)

 『夢飾り』の後というより、正確には夢飾りのラストの結婚式前の時間軸になりますね。何気に、あそこの前章とラストは時間に空白がありますから(笑)。
 作中の『愛した女性が王族だっただけ』という一文がハートを直撃ものです。そうよつまりはそういうことなのよねっ。さすがあごんさんです。
 これを書いていただいている最中に、あごんさんに「ゼルの結婚後の身分ってどーなるんですか?」と聞かれ「いちおー大公を用意してます」と答えた記憶があります。女王の旦那に階級がないわけにはいかんだろうということで、勝手に用意しましたが、大公になるのはアメリアが即位してからなので、いま現在(柚葉第二部)ではどうなってるのかサッパリわかりません。きっとこのあごんさんのお話の通り「婿太子」と呼ばれているかと思います(爆)

 桐生はいただいた設定を、自分の書いている本編にフィードバックさせるのが好きなので、実名では出てきませんが、紋章院とそこのアリエール氏は何度か第二部の本編にちらりと姿を見せています。(笑)
 素敵なお話をどうもありがとうございましたvv