母親はいつだって彼女の誇りであり自慢であり唯一であった。
烏羽玉の艶のあるその豊かな髪。
見る者に強烈な印象を与えるその力強い深い海の青を湛えた瞳。
確固たる自信と揺ぎ無いその自尊心。
彼女は母親が大好きだったのだ。
邂逅も別離も人の世ではいつだって唐突で突然に起きるものだ。
一体どれだけの人間が愛する人間との別れにて、さようならの一言が言えるのだろうか。殆どの場合が前触れもなく訪れる不条理な別離を呆然と見送るだけにすぎない。
それほどまでにこの世は不安定でやるせないのだ。
彼女もまた、ただこの不安定でやるせない世界の住人であっただけのこと。
それは彼女も十分理解していた。
それでも、彼女にとって母親は誇りであり、自慢であり、唯一だったのだ。
その母親が彼女の目の前からだけでなく、彼女の大切な妹や父の前からも。否。あらゆる世界から姿を消したことは、到底彼女に耐えられるものではなかった。
さようならが言いたかったわけじゃない。
さようならが聞きたかったわけでもない。
―――ただ………。
・・・・・・・
青すぎる空を見てアメリアは短く呼気を吐いた。
アメリアがゼルガディスとの旅を終え、王宮に戻って早や五年の月日が流れていた。
「りあ、どうしタ?」
声の方を見遣ると、アメリアの纏う淡い碧のドレスの裾を掴みながら、白金の髪を持った少女の形態を捉った半精霊が憂鬱げなアメリアの顔を覗き込むようにしてこちらを仰ぎ見ていた。
「………私には会いたい人が沢山いるな、と思っただけですよ。ユズハ」
「誰とあう?」
「会うわけじゃないですよ。会いたいな、と思うだけです」
「ぜる?」
首を傾けるユズハにアメリアは苦笑した。
「それは勿論ですけどね」
「りーで?」
その一言にアメリアは憮然とした。
「それは今現在で最も会いたくない人です」
不快を隠さないそのアメリアの態度に、ユズハはほんの少しだけ眉を動かしたのだった。
セイルーン王国国王陛下より、アメリア=ウィル=テスラ=セイルーン王女に聖王国が属国マラード公国の第一王子、リーデット=アルス=セラ=マラードとの結婚の勅令が下ったのはつい先刻のことだった。
―――――――
豪奢にして豪華。壮麗にして荘厳。
そういう種類の言葉はこの部屋にこそ相応しい。もしこの部屋を目の当たりにすれば万人が万人、そう感じるであろう部屋であった。とは言え、この部屋に入ることを許可された人間は実に限られているのだが。この部屋への入室が認められているのは、部屋の所有者の血縁者だけとなっている。
つまり、セイルーン王国エルドラン陛下の直系の者だけなのだ。その数は王自身を除いて四。そのうちのひとつが現在この部屋に在室していた。
畏れ多くも王の御前にて頭を垂れることもなく、仁王立ちにて佇んでいた。
「随分と久しぶりじゃな」
黒檀の机に両肘を乗せて老人が目の前の人物に言葉を投げる。その人物は長い髪をふわりとかき上げてから小さく顎を引いた。頷いたのだと老人が気付くまで少々の時間がかかった。
「今まで音信不通であったくせに、なぜ今、出てきたのじゃ?」
老人の口調が苦いものに変わる。が、その人物は意に介さないようである。
その人物のシルエットが窓から零れる月光によって赤い絨毯の敷かれた床へと落とされた。
その影だけで完璧なスタイルを身に付けた女性だと知れた。それほどにその人物――彼女のプロポーションは芸術的であったのだ。
「何かわしに言いたいことがあるのだろう」
老人は苛々と彼女を睨め付けた。だが彼女はそれだけで動じるような精神の持ち主では決してなかった。
彼女には確固たる自信と。
揺らぎ無い自尊心があるのだから。
「いきなり王の部屋へ侵入したその理由はなんだ?――グレイシア」
「ほーっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほ!!!この私、白蛇のナーガがあなたのような凡俗な王に何か言葉を掛けるとでも!?ほーっほっほっほっほっほっほ!」
右手を腰に、左手の甲を右頬の当てがい、彼女は夜空をつんざくような高笑いをした。
「では即刻立ち去れ。お前はこの国を捨てたのだろう?」
老人――エルドラン王はその高笑いに怯むことなく彼女を一蹴した。
「その通りよっ!この国はもう私の祖国ではありえないわ。でも」
言ってナーガは瞳を王――祖父に向けた。
「この国は捨てた。でもアメリアの姉であることまでは捨てていないわ」
「同じことだ。お前がこの国を捨てたがゆえに。アメリアは意にそぐわない結婚を強いられているのだぞ。そんなお前にそんな科白は許されないであろうな」
吐き捨てるように言ってから祖父は孫娘を睨み付けた。彼とてもう一人の孫娘に対しての結婚の無理強いは本心ではない。王といっても人間だ。孫には幸福になってもらいたい。孫が心から愛した人間と婚姻を結ぶことが出来ればそれに勝るものではない。
実際に、アメリアには既に心に決めた男がいることもエルドランは知っていた。
それでも彼は王として、孫娘に結婚を命令した。
それは王自身の身体が引き裂かれるような苦痛でもあったのだ。
「お前さえいれば。アメリアは好いた男と一緒になる可能性も高かったことだろうて」
眉根を寄せてのその言葉に。
「ほーっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほ!!」
ナーガは高笑いで応えた。
エルドランの眉が上へと吊り上った。
「グレイシア!お前には人の気持ちが死ぬまで理解できぬようだな!」
激昂したエルドランに怯む様子も見せずに、ナーガは淡々とこう言った。
「私さえいれば、ねぇ。それは全員で私という存在に逃げているだけじゃあなくって?」
夜雲が月光を遮った。王の私室は完全に近い闇に呑まれた。
闇の中で闇に近い声が低く響く。
「果たして私が帰ったところで事態に真実の解決はあるのかしら」
エルドランが言葉に詰まり、闇の中の孫娘の顔を見ようとした時。
気配は急激に消えたのだった。開けっ放しだった窓に、絹のカーテンがひらひらと揺れていた。
――――――――
王の私室を文字通り飛び出し、夜空を高速飛行しながらナーガの脳裏には過去の残像がちらちらとちらついた。それはどれも最早本来の色彩を失い、セピア色に染まってしまっていたが。時間に風化されたとは彼女は思わない。それだけナーガの精神が逞しくなったのだと感じている。
ナーガとアメリアの母親は謀殺された。
アメリアはまだ幼くてその記憶は無いに等しいだろうが、ナーガにとってはそれだけは今でも鮮烈な色彩を持ったままで精神に深く刻み込まれている。
あの血の色は忘れない。
赤黒い―――毒を身体に抱えてしまった時の独特のあの色。
母親は祖父や父や――つまり聖王国王族に殺されたも同然だった。仮にも第一王位継承者の妻であった母に、葬儀はなされなかった。
母親の死は穢れとされたのだ。
母の名はアストーラといった。それは古代神聖語で「輝ける」という意味らしい。アストーラはフィリオネル王子に見初められ、王族となった。彼女にとって愛した人間が偶々王族であっただけのこと。アストーラはフィリオネルという人間を愛し、愛した人間のためならば王族となることも重荷ではなかった。
しかし、たとえ本人達にとって身分も家柄も関係ない婚姻だとしても。
周囲にとっては一生を左右する問題だった。
セイルーン王国は赤の竜神を祀る国だ。全国民は否が応でも生まれた瞬間に赤の竜神から洗礼を受ける。しかしながら赤の竜神とは宗教の対象になりえない。あくまでも主神なのだ。
宗教自体は大きく分けて四。
地竜王・火竜王・水竜王・空竜王を讃える四派になる。
この内で最も信者数が大きい宗派は火竜王神殿である。逆に最も少ないのは水竜王神殿である。これは千年前の降魔戦争の折、水竜王が滅ぼされたことが多大に影響している。
そしてアストーラの家系は代々水竜王派なのだった。
これは由々しき事態であった。本人以外にとっては。
セイルーン王家としては宗派を持たない。ただ赤の竜神を祀るだけである。そこへ弱小とも呼べる宗派を持った女が嫁いだのだ。周囲は騒然となった。
これを機に王家が水竜王神殿へと肩入れするかもしれない。
これを機に水竜王派は国の中枢へと近付けるかもしれない。
この反した思いはたちまち国民の胸を焦がした。
じりじりと。
少しずつ。
侵食するように、焦がし燻ぶった。
アストーラは弁えた女性であったので、決してその類のでしゃばりをしなかった。彼女は賢明であったし、聡明でもあったからだ。
だが、世界は勝手に周り、動くのだ。そこに人間の酌量など入る隙は微塵もない。
ある宮廷大臣はアストーラがいつか水竜王の教えを王子に囁くかしれない、そういった随分と勝手な推測を立て、それではいつか来るであろうその日の為にと、水竜王派へと肩入れを始めた。
またある宮廷大臣はアストーラの家系が政治中枢に関わる日を予想し、アストーラの五親等に至るまで、すべてにコンタクトを取った。あるかもしれない。そういった曖昧で手前勝手な理論でもって彼らは彼らの未来に有利な状況を作り上げようとした。
反してある宮廷大臣はその日を懸念し、微妙なバランスで保たれているこの四の宗派の揺らぎを心の底から心配したし。またある宮廷大臣は長い年月をもって作られたこの宮廷政治に、余所者の力が入る日を恐れた。
全ては根拠のない妄想に近い想像でしかなかったが。
机の上での理論しか知らない者達にとっては極めて現実に近いものだった。
そして母親は殺された。
しかも神聖なる王族の儀式の途中で。
その日は冬下がりのとても寒い日だったことをナーガはまだ覚えている。身体の中心から絶えず冷気が湧き起こり、細く短い指は震えることを止めなかった。
まだ小さなアメリアは参列を認められず、侍女と共に自室でお昼寝中のはずだ。
セイルーンの初代国王・クリトナリトエスの偉業を讃える建国の儀式。クリトナリトエス王はセイルーンの前身国であったイグラード国の最後の王、暗君王として恐れられたテオドール王を斃しここに聖王国を創設した王である。
祖父王や祭司長や宮廷大臣達の面白くない話を右から左へと聞き流しながら、小さなグレイシア王女は眠たい目を擦りながら隣に鎮座する母親の顔を眺めた。
いつも思う。
美しくて迷いのない、綺麗な母親だと。
グレイシアの視線に気付いたのか、アストーラが不意に振り向き、瞳の奥で悪戯めいた光を湛え微笑した。グレイシアも釣られて笑う。
早く終わればいいのにね、と母の目が語っていたからだった。
その時、グレイシアの髪が微量ではあったが揺れたのをアストーラは見た。風の入る隙もないこの神殿でなぜ髪が揺れるの?そんな疑問がアストーラの頭に浮かんだ時だった。ちくりと首筋に痛みが走ったのは。
それを疑問に思う間もなく耐え切れない嘔吐感に襲われ、その瞬間には嘔吐していた。
反射的に覆った手は、真紅に染められていた。
「お母さんっっ!!?」
グレイシアの叫びは果たしてアストーラに聞こえていたのか。
おそらく大量の吐血に驚愕する暇もなく、アストーラはこの世を去った。
神聖なる儀式を血で穢したと、そんな莫迦げた理由でアストーラの葬儀はされていない。
フィルオネル王子もエルドラン王もそれには随分と反発したが、神殿の総意思となればおとなしく引き下がるをえない。王国とは王室だけでは存在できない。神殿の強い意志の下では屈服を免れないのだ。
今でもナーガは血を嫌う。血とは母親の死そのものであったし、父や祖父の不甲斐無さの象徴にもなった。名乗るべき名前を変えれば何か変わるのだろうか、とも思ったが、グレイシアがナーガに変わったところで彼女自身に変化は起こらなかった。
母の死後、幾年も懸けてナーガは母の死の背後関係を調べ上げた。母の死因となったのは猛毒で有名なハフナンの草であった。そしてどうやら天窓近くから吹き矢で射られたらしい。こんな些少な事実もナーガは調べなければわからないほどに情報を遮断されていた。
そして町や裏の社会ともコンタクトを取り、黒幕までも調べ上げた。
宮廷書記官・ローザリット。それが母の生命を奪った男の名前と肩書きだった。
衝動は止められなかった。
彼女は、
母の、
仇を、
自らの手で。
そしてグレイシアは王宮を出た。
あらゆるカラクリが彼女の目に明らかになったからだった。
父も祖父も叔父も許せない。
セイルーン王家など滅べばいい。
禁忌ともいえるその願いと思い。
彼女はセイルーン王家の解体を心から強く望んでいる自分に慄然とし。
大切な妹を救うために、祖国を捨てた。
祖父も父も叔父も、母の生命を理不尽に奪った人間の名を知っていたのだ。
それでも宮廷書記官を逮捕することができなかった。
ローザリットは宮廷においての最高権力者であったからだ。政治に関しては王家よりも内実に詳しいであろう。そして宮廷内勢力の均衡を保つためには、ローザリットは必要不可欠であったのだ。
政治とは実に複雑なものだ。それはナーガにも分かっていた。
だが、母親は彼女にとって誇りであり、自慢であり、唯一だったのだ!
大切な人間を殺されて、報復ひとつできないのは、愚かなだけだ。
奇麗事なら沢山あるだろう。
そんなことを母親は望んでいない、と。復讐を果たして一体後に何が残るのか、と。
何も残らなくていい。残す必要など無い。母親の望みで生きてはいない。
誇りであり自慢であり唯一であった母親も、絶対ではありえないのだから。
大切な人間を殺されて、笑っていることはできない。
復讐ひとつできないで、死んだ人間をいたわれるものか。
だから、殺した。王家の思惑なんて関係がなかった。ナーガにとっては祖父や父も同罪なのだ。
でも、アメリアだけは違う。
大切な妹姫。姉として護らなければならない。
護るために、国を捨てた。
ここで重要なのは、グレイシアとアメリアがアストーラの娘であるということ。
そして第一王子の子供は二人とも王女であること。
この二つが鍵となる。
二人はセイルーンの姓だが、二人の血の半分は、水竜王派であったアストーラの血統でもあるのだ。
王女が女王になる瞬間、女王の血統もまたこの国の頂点に立つのだ。
国王が宗派を持ってはいけないのは法律で決められているのだが、王家の人間は宗派を持っても良いことになっている。ただ今のところ前例がないだけだ。
もし女王にならなかった王女が宗派を持つことになれば?
アストーラは歴史ある王家でただ一人、宗派を持っていた女性なのだ。その女性の子供が母に倣い宗派を持つとすれば?
机上の空論がまた飛び交いはしないか?
その場合、狙われるのは女王になる可能性の低い王女ではないのか?
つまり第二王女こそが標的になりはしないだろうか?
莫迦げた論理だが、宮廷とはそもそも莫迦げているのだ。あるかもしれない、で彼らは人間を殺すことができる。その場合も、凶事を未然に防ぐことができた、としか思えないのだ。
冴え渡る月光に照らされながらナーガはグレイシアの声で、
「アメリア………」
そう小さく呟いた。
・・・・・・・・
「私はね、思ってたんですよ」
「何を?」
香茶を口元に運びながら言うアメリアに、イルニーフェは視線を転じた。
「姉さんがいれば良かったのにって」
イルニーフェは少し眉を顰めてから小さく頷いた。
「ああ、第一王女のグレイシア王女のこと?」
「ええ。姉さんがいれば私が王位に就く必要も無いじゃないですか」
「まぁ順序から言えばそうかもしれないわね」
ユズハがテーブルにこぼれたケーキの欠片を口に入れる。それをアメリアが軽くたしなめた。
「そうしたら今の状況ほどあの人と結ばれるのも困難ではなかったのかな、って」
「……………」
イルニーフェはそれに応えなかった。なんとなく目の前の王女は自分に対して言葉を発していないような気がしたからだった。
「でも違うんですよね。姉さんがいるとかいないとか、それは関係ないんですよ、本当は」
アメリアが青い空に目をくれた。
イルニーフェは黙ってそれを見ている。
「例え今姉さんが帰ってきたとして、それで『おかえりなさい、じゃあ王位は任せました』では何ひとつ問題は解決しないんですよね。それでは厭なことから逃げて押し付けているだけなんですよね」
窓から入ってきた風がアメリアとイルニーフェとユズハの頬を撫でる。
心地よい風だな、とイルニーフェは素直に感じた。
「結局それじゃ私は姉さんに負ぶわれていたころと何一つ変わってないじゃないですか」
ユズハがそんなはずはないのに、眩しそうに目を細めた。
「だから、姉さんに会いたいけど会いたくないんです。もっと姉さんのように確固たる自信と揺ぎ無い自尊心を身に着けてから、会いたいなって」
「……………………」
あぁ、そうか、とイルニーフェは思う。
心地よいのは風ではなく、目の前の王女の気構えだったのだ。ユズハが眩しいと思ったのはこの陽射しではなくアメリアの眼差しだったのだ、と。
リナが提示した三ヶ月の期日まではあと一月余りだ。
それまでにアメリア王女の恋人は現れるのだろうか。
それでも確信していることがイルニーフェにはあった。
きっとその時までに、アメリアは確固たる自信と揺ぎ無い自尊心をその身に着けていることだろう。
――――――――
その日、ナーガは一人で杯を傾けていた。
緑深い山の奥で、自然に囲まれたままでナーガは祝杯を傾けていた。
今日は彼女の妹の結婚式なのだ。
本当は傍で見たい。祝福の言葉をかけたい。何より幸福そうな妹の顔を見たい。
でもそれは彼女にとって本当に必要なものでもないのだ。
なぜならば。
いつだって大切に想っているから。
傍にいないけれど。
心はいつだって傍にあるのだから。
幸福と誉れはいつだって妹の傍に。
彼女の想いと共に。
何時いかなる時もあるのだから。
だから彼女は一人、ここで祝杯を傾ける。
こんな日は人の声を聞きたくない。だから山奥を選んだ。
二度と会うことは叶わないだろうが、心は傍にあることを実感している。
さようならを言う気も聞く気もさらさら無い。
でもいつか。
愛している、と。
ありがとう、と言える日が来ればいい。
「おめでとう。大切なアメリア。私の妹」
END.