【聖印歴795年2月】
聖法庁への大規模な叛乱が鎮圧され、復興の準備が始まる。
それは、新たなる始まり―――。
【聖印歴795年2月】
聖法庁において合議始まる。その中にジークの名が見られる。
一人の女の死によって潰えかけた理想は、一人の男の死によって生かされ、残された一人の男によって、いまもなお抱かれ続けている。
三人で抱いた理想を一人抱く男の手には、いまだ棄てることの叶わぬ剣が握られている。
遠い理想の実現に向かって、新たなる時代を護る力として。
【聖印歴795年4月】
聖王廃止の議題紛糾。前聖王の一族が、率先して合意する。
【聖印歴795年5月】
一部の者が、独自に聖王を立てんと武力行使するも、解散す。
黒印騎士団の名が囁かれ、武力を廃した合議が続けられる。
「聖法庁は相変わらずのようですね………」
溜息混じりの苦笑を洩らし、隻眼の青年は聖都からもたらされた手紙をそっと折りたたんだ。
「それでも、彼らが抱いた理想に少しずつ近づいているそうです。あなたが継ぎ、そして真っ先に成し遂げた理想に………」
失われた左目は、かつてともに過ごした過去を。
光を宿す右目は、そのときに示されたこの国の行方を、あの日以来、追い続けている。
鏡のように澄んだ大湖のほとりでは、
白水仙の花が咲き乱れていた。
【聖印歴795年6月】
ノヴィア・エルダーシャ、聖道女の位階の昇格を称えられる。
アーシア・リンスレット、女性初の聖師士の位階を得る。
「ノヴィア・エルダーシャ。
万里眼の使い手にして、幻視の力を宿す遙かなる眼差しを持つ子よ。紋章に名を刻まれ、教えの杖を授けられたあなたの
階梯への到達を、〈銀の乙女〉は心から祝福します。―――新たなる到達は、新たなる始まりよ」
「心得ております」
はっきりとした口調でそう告げた少女は、淡く澄んだ紫の双眸を真っ直ぐに目の前の老女へと向けた。
「いい目だこと」
〈銀の乙女〉のなかでも最高位の称号を持つ老女は、少女のその様子にふわりと口元をほころばせた。
「アーシア・リンスレット。
浄めの力を宿し、虚無を穿つ
銀銃の使い手。大気の聖性に愛されし子よ。紋章に名を刻まれ、銀銃を授けられたあなたが新たに手にしたものを、〈銀の乙女〉は心から
言祝ぎます。―――〈銀の乙女〉は聖マグノリアから始まったわ。女性の聖師士はあなたによって、これから始まるのよ」
「お任せください」
晩秋の
朱莉樹の葉色に似た短髪を揺らし、女は満面の笑みを浮かべて、きっぱりと頷いた。
「必ず、私の後に続く〈銀の乙女〉たちの模範となるような立派な聖師士になってみせま―――きゃあ !?」
式典用の聖衣の裾に足をとられてすっ転んだ相手を見て、老女は深々と溜息をついた。
【聖印歴795年8月】
賢老院に代わり、師族以外の者をふくめた師士会議が発足。
【聖印歴795年9月】
師士議会により、聖法庁の要職が刷新される。武力闘争に
発展しかけるもこれを抑制。「聖王廃止」協議は続けられる。
「とうとう、この日が来たか………」
燃えるような赤い髪をした男がそう呟いた。
感情を容易にあらわにしない淡々とした口調だったが、それでも感慨めいた気配がその端々に滲んでいた。
かつて果てしない夢を託した王座だった。
いまはもういない友がこの王座につき、騎士となった自分が永遠の忠誠を誓う。王座を棄てるために王座につき、剣を棄てるために剣を握る、その王と騎士を、蜂蜜色の髪を持つ、だれよりも争いがなくなることを願う女が優しく見守る―――。
その夢の亡骸はいま、抱き続ける理想のひとつの過程として、永久にこの場から失われようとしている。
そうして―――、
「誰もがみな、王になる―――」
かつて三人が
臨んだ理想を呟き、男は王座の間を後にした。
【聖印暦796年1月】
聖王の座が撤去され、聖王制度は名実ともに廃止される。
*
*
*
聖印歴796年2月。
冬の終わりの硬質な陽光が梢の先できらめくように戯れている。
アルカーナ大陸を南北に貫く大きな街道から離れたところにある森は、薄片のような陽の光と静寂に包まれて、春の目覚めを待つ眠りのなかにあるようだった。
しかし、さきほどからどういうわけか、寒さの残る森の静寂を破るように言い争いの声が盛大に響き渡り、春告げの鳥たちの営みをおびやかしていた。
「だから、こっちよ!」
張りのある澄んだ声が声高に何らかの主張をしている。
声の出所をたどれば、街道からはかなり離れているため、本来ならば旅人などいるはずもないその森のなかに、
巡礼者と思しき複数の人影があった。
「―――だから、こっち! 絶対こっちだってば!」
朱莉樹色の髪の女が、子どものように人差し指で示した先は―――鹿さえも駆け下るのをためらいそうな断崖絶壁だった。
「ひえぇ、無理だよ。アーシア、いくらなんでも無理だよぉぉ」
金髪金瞳の
妖精が、半分呆れながら怖々と崖を見あげ、金の翅脈のはしる羽をぶるりと震わせた。白いシルクのドレスを身にまとった、手のひらほどの大きさの女性形の妖精である。
「だいたいこんなところ通らなくても、無事にちゃんと目的地につけるってば。ちゃんとした
街道があるんだからさぁ」
「いいえ、絶対こっちよ。こっちを行ったほうがいいわ」
強硬に主張するアーシアに、栗色の髪を二つに束ねた少女が憮然とした面持ちで、崖と傍らの男を交互に見あげた。
「以前は、こんなところを通って辿り着いた記憶はないんですが………」
「俺も、ないな」
「いまに始まったことじゃないですけれど、なぜ、私たち、この崖を昇らねばならないのでしょうか」
「わからん。おそらく、そこに崖があるからだろう」
「聖師士として巡察の義務があるって、アーシアさんは仰いますけど………」
「旅には向かない性格だ。授かる位階を間違ったか」
崖を前にして言いたい放題に言う二人に、
「あっ、ジークもノヴィアちゃんも何を言うの。私が言う道が正しいって、とっくに知ってるでしょうっ」
子どものようにわめきたてるその胸元で、〈銀の乙女〉の紋章が揺れている。
さらに腰帯から吊された薬籠に至っては、これまで男性しかその位階に昇ることを許されていなかった聖師士の紋章が刻まれているのだが、その威厳を無にするかのような本人の挙動だった。
「知ってはいるんですが、そこを行くのとはまた別です」
むっつりと言い返すノヴィアの胸元にもまた、〈銀の乙女〉の紋章が輝きを放っている。
こちらは腰帯に
聖印の刻まれた
宝杖を挿し、”杖の教え”を授かった高位の聖道女であることを物語っているのだが、初めて会う者はその年齢に不釣り合いな位階に驚いた顔をすることが多い。
「結果的に正しいのはわかっているがな」
ジークがそう言って、わずかに肩をすくめた。燃えるような赤髪に、鋭い眼差しを持つ双眸。美貌といってもいい顔だちなのだが、白外套と黒革の鎧という戦装束の全身から漂う殺伐とした雰囲気のおかげで、そのことに気づく者は少ない。
何より、その出で立ちに加えて、赤い籠手をはめた手で、ばかでかい銀のシャベルを担いでいるものだから、会う者は呆気にとられ、続いてそのシャベルの歯の裏に聖法庁の紋章が刻まれていることに気づいては、唖然とする羽目になるのだった。
実に目立つ取り合わせの一行だったが、幸か不幸か、いままでそのことを―――、一人でも目立つが、四人揃うとさらに目立つことを―――面と向かって指摘した者はいなかった。
一行のなかでも、女性初の聖師士というひときわ晴れがましい称号を持つアーシアは、ジークの言葉に我が意を得たりといきおいよく頷いた。
「そう! 正しいのよ。だからこっちの道を―――」
「だからぁ、道なんかどこにもないんだってばあ。これは崖だよぉ………」
「いいえ、アリスハート、この先に道があるのよ!」
大気の聖性に対する鋭敏さで風の行方を知り、道筋を察するアーシアの勘は、よほど強い堕気に惑わされない限り、外れることはない。
しかし、その外れることのない彼女の勘の最大の問題は、どこまでも直線的な我が道を行くことであった。
道などない山を越え、橋をかけようのない急流を渡り、野生の獣でも怖じけそうな崖を昇り、そして下る。ほとんど前人未踏の大踏破だった。
「―――ノヴィア」
ジークがふり向くと、宝杖を手に視線を虚空に据えていたノヴィアが、溜息とともに目を伏せ、見るのをやめた。
「たしかに、この崖の向こうに道が
見えます。最後に人が通ったのがいつかもわからないような道ですが………」
「だからさぁ………何で街道を行かないのよぉ。前みたいに、敵に見つからないように先回りしたいって言うんならともかく、目的地は
ノヴィアの故郷だよお?」
アリスハートの言葉に、えっとアーシアが驚き、背後のノヴィアをふり返っていた。
憮然と唇を引き結び、無言でノヴィアは頷いた。―――先ほどから微妙に機嫌が悪いのは、自分はきちんと正しい街道を歩んで正面から故郷へと入りたいのに、どうしてこんな無断で領地の境界を侵すような真似をして辿り着かねばならないのかと、少しばかり腹を立てているせいだった。
これから向かう場所は、ノヴィアにとって、あまりにも特別な『故郷』だった。
「聖地シャイオンが、ノヴィアちゃんの故郷だったなんて………」
驚いたように口元に手をあてていたアーシアは、謝るどころか俄然はりきって崖上を指さした。
「なら、なおさら早く辿り着かなくっちゃ! やっぱり、こっちよ!」
「ああああ、アーシアぁぁぁ」
アリスハートががっくりと肩を落とした。
気が遠くなり、ぐらりと傾いだノヴィアの肩に、ぽんとジークの手が軽く置かれる。
「仕方ない。聞いてやれ」
「うう………わかりました」
涙目になってノヴィアは頷き、すぐに決然とした表情で崖を見つめなおした。
「階段が―――見えます」
その途端、野生の山羊さえも転がり落ちそうな崖の傾斜に添うようにして、虹色の階段が出現していた。
踏むのをためらうような透きとおったその
階に、アーシアが歓声をあげながら走りよった。いささかの逡巡もなく、動きも軽やかに数段駆けのぼると、ジークたちを手招く。
「早く早く! ノヴィアちゃんが疲れる前に登りきっちゃうわよ!」
「ならそれ以前に、見させないでくださいっ!」
「ほら、早くーっ!」
やれやれと言った様子でジークがシャベルを担ぎなおし、ざくりと土を踏んで前に出た。
「先に行く」
「はい。どうぞ昇ってください」
階段に視線を据えたまま、ノヴィアは視界に入るジークの広い背中に向かってそう答えていた。
「あたしはノヴィアと行くよぉ」
ふわりと羽をたたんだアリスハートがノヴィアの肩に止まる。
「ええ。行きましょう、アリスハート………シャイオンへ」
澄んだ鏡という名の大陸屈指の湖を抱く、うつくしい豊穣の大地。
旅路の途中で思いがけずノヴィアが得た故郷であり、ただひとりの双子の弟が愛し守った聖地でもあった。
いつかこの土地へ帰ってくることを誓っていたが、これほど早く現実のものとなるとは思ってもみなかった。
「トール、元気かなぁ」
アリスハートがのんびりと言うのを聞きながら、ノヴィアも新たなる一歩を踏みだした。
天界と堕界を分かつ混沌の大地、アルカーナ。
その昔、聖クレマチスが神から
聖印を授かり、不毛の大地であるアルカーナを豊穣の地へと変えた。かくて聖印歴は始まりを告げる。
その聖クレマチスから、天界の聖印二百種、堕界の聖印八十種を授けられた
聖七師族が聖オヴェリア教団を作り、聖法庁とその頂点たる聖王が誕生してから、七百年。
聖印歴796年―――。
神は人のなかへと宿り、滅んでは生まれゆく命の連環をその墓標とした。
人の魂を解放する力は、
人自身の手に委ねられた。
竜頭が巻かれ、未来へと
刻が進みだす。
人は新たなる歴史を、歩み始めた―――。
そして、聖法庁ただひとりの
黒印騎士団もまた、新たなる旅路を歩み始めていた。
師士と従士、その友たる
妖精とともに。
そしてまた、いまだ憎念ゆえに天界にあがれぬ、多くの死者の魂とともに。
いつか、剣を棄てるために。