カオスレギオン 【新たなる旅路】――2

 ヴィクトール・ドラクロワが指揮した聖法庁への大規模な叛乱から、すでに一年が過ぎていた。
 しかし、聖都ロタールの八重の城壁の中心からその王座が廃されて、まだひと月ほどしか刻は経っていない。
 この一年は、聖法庁に属する者にとって、また叛乱の鎮圧の中心にいたジークたちにとって、長いようで短い、凄まじい変革の嵐とともに歩んだ一年だった。
 聖王を廃止し、賢老院が解散され、代わりに発足した師士会議によって、聖法庁の役職はその多くが刷新された。
 ジークはその変革の表に立つこともあったが、多くは裏にまわり、時にはその左腕によって不平を抑え、不満をなだめ、その歩みに立ち会ってきた。
 そして先月―――ようやく王座の間から聖王の座エリシウムが撤去されたのを見届けてから、ジークは聖都を後にしたのだった。
 相変わらず、聖咎の剣イルドンガンツィアを収めた銀のシャベルに、〈戦場の真理ヴァールハイト〉の紋章を刻んでの、ただひとりの黒印騎士団としての旅立ちであった。
 首謀者たるドラクロワを喪った叛乱軍の勢力は散り散りに離散したが、それでもまだ各地で無益な抵抗を続けている。いずれはそれらも鎮められていくだろうが、悠長にそれを待っていられるほど、新生した聖法庁の地位は盤石なものではない。
 聖王廃止の反対を叫ぶ勢力もいまだ存在している。内憂外患といってもよかった。
 聖印を通じて人の魂の力を刈りとっていた霊神アズライールは、ジークによって人のなかに飛散させられたとはいえ、すべてが一新されて何もかもが新しく始まるわけではないのだ。
 長く続いた叛乱によって、多くの秘儀が聖法庁から流出した。それが各地でいつ悪用されるとも限らず、変革によってもたらされる混乱が、それに油を注がないとも言い切れない。また、それが、アズライールの復活を招かないとも。
 多くの土地が、理想と現実の天秤の間を揺れ動いている。その天秤の動きを、独立と調停の時代の使者として見守るのが、新しい時代にジークが己に課した役目だった。
 どれほど周囲の環境が激変しようと、揺るぎなく彼の従士であり続けようとするノヴィアも、当然ながらジークに付き従っている。もちろん、親友のアリスハートも一緒だ。
 そして、女性初の聖師士として各地の巡察の義務を負うアーシアも、その旅に同行していた。
 彼女は、巡察の義務があるのは自分なのだから、自分の旅にジークがついてきているのだと常に主張しているのだが、現実として先頭を歩いているのはジークであることが多い。
 アーシアが先頭を歩くと、色々と問題がありすぎるのだ。
 例えば、ちょうどいま現在のように。
 崖を昇ったと思ったら、同じぐらい急勾配の山道を下り、倒木を越え、枝蔓を切り払い、道なき道を越え、一行はようやくシャイオンの名の由来である湖を一望できる開けた場所に辿り着いていた。
「相変わらず、アーシアの勘ってば、変だよぉ。あそこをああ行ってこう行って………なのに、何でこんなちゃんとしたところに出るのよぉ?」
 道程の途中からノヴィアの法衣の懐に潜りこんでしまったアリスハートが、呆れたように言うのに対し、
「ほら、ちゃんと着けたじゃない。やっぱり正しかったでしょ。街道よりも早いわ」
 アーシアが満面の笑みを浮かべて胸を張った。
「それは認めますが………」
 釈然としない表情のノヴィアが、宝杖を片手にそう言った。
 崖にきざはして、谷に橋を具現し、木立の向こうの障害を見通す。
 彼女の透視と幻視の力がなければ、アーシアの旅路は途中で立ち往生を余儀なくされていたに違いなかった。ある意味、アーシアの能力を完璧に補完しているのが、ノヴィアの力なのだ。アーシアが何の遠慮もなく道を示すのも、ノヴィアがいるという安心感があるからでもある。ノヴィアにとっては不本意だろうが、そういう意味では、互いに息のあった二人であると言えた。
「それにしても、本当に綺麗なところねぇ………」
 風を受けながら、アーシアが広がる景色に目を細めた。
 横たわる大湖とそこから流れだす幾つもの河。よく整備された街道と水路。そして、そうやって交差する幾つもの道のあいだに広がる一面の耕地は、この地の豊かさを象徴するような光景だった。
 いまはまだ寒さも厳しく、冬枯れの木が寒々しいが、春はすぐそこまで来ている。
 春になり新芽と花が芽吹けば、どれほどうつくしい光景がこの地に広がるのか、楽しみになってくるほどだった。
「あの人の軍に攻めこまれて、土地のほとんどが死んだって聞いていたけど、噂ってあてにならないものね」
「いや、事実だ」
 いままで無言だったジークが、アーシアの言葉を否定した。
 ふり返ったアーシアは、ジークとノヴィアの表情を見て、すぐに察しが付いたのか頷いた。
「あなたたちもいたのね。そのとき、その戦いに」
「そうです」
 ノヴィアが首肯し、ジークが黙って頷いた。
「そして、そのとき、この地が私の故郷になりました―――」
「土地もまだ、完全に癒されてはいない。一年と少しで、これだけ復興できれば上出来だが………」
 ざっと聖地を見まわし、ジークが告げた。
「ここから先は街道を行く」
 有無を言わさぬ口調だった。
 ノヴィアが顔を輝かせ、アーシアが不満げに唇を尖らせる。
「どうしてよ? 私が道を示したほうが早いって、あなたも知ってるでしょ?」
「聖師士が無断で領界を侵すほうが問題だ」
 ぴたりとアーシアが口をつぐんだ。
「街道をたどり、関所で正規の手続きを踏んで入領しろ」
「わ、わかってるわよっ」
 明らかにいままで失念していたとわかる口調でアーシアが顔を真っ赤にして怒鳴り、眼下に見える街道のひとつを勢いよく指さした。
「とりあえず、あの街道まで降りるわよっ」
 アリスハートが呆れた顔で見守るなか、アーシアはずんずんと丘を下りはじめた。
 ノヴィアがジークを見あげ、それからアーシアの後に続く。
 二人と妖精が丘を下っていくのを見守りながら、ジークはもう一度、広がる聖地の風景に目をやった。
 かつての戦いの集結間際に、膨れあがり極まった堕気が聖性へと反転し、戦いで死に瀕していた大地を癒し、緑を芽吹かせた。
 それは戦後の荒廃すらも予想していた、いまはもう亡き聖地最後の領主の策であり、彼が選択した未来への示唆そのものだった。
 以前の腐り落ちる寸前の果実のような円熟した豊穣さは望むべくもないが、それでもこれから満ちていく可能性をはらんで、この緑野はどこまでも広がっていく。
 滅びの先の甦り、命の円環。
 それこそが霊神アズライールが最も怖れたことであり、ジークたちが掲げる理想の根幹をすものだった。
 聖地最後の領主は己の命を賭して、誰よりも真っ先に―――ジークやドラクロワよりも先に、それを示し、成し遂げたのだった。
「見事だ………レオニス」
 ぽつりと呟き、ジークはあるかなきかの微笑を浮かべた。
 丘の麓で、アーシアとノヴィアが彼の名を呼んでいる。
 その呼び声に答えるように、ジークもまた、丘を下りていった。



 一同は街道を通り、境界に設けられた関所で正規の手続きを踏んで、シャイオンへと入った。
 聖法庁から巡察の師士が赴くことは、すでに事前に通達がなされている。ジークたちはすんなりと関所を通された。むしろ、熱烈な歓迎を受けたと言っていい。
 境界の関所は、防衛の砦も兼ねている。関所に詰める者たちは、巡察使が来ることを知ってはいたが、それがジークたちだとは知らなかった。
 そのため、一年半前の激戦において魔兵を率い、聖地を守り抜いたジークの再訪を知ると、喜びに湧いて、一行を大いに歓待してくれたのだった。
 ジークが馬を借りたい旨を伝えると、それも喜んで了承してくれた。三頭ではなく、一頭でいいという注文には、目を白黒させていたが………。
「大人気ねぇ。みんな、シャベルにも驚いてないみたいだし」
 馬上で、アーシアが呆れたようにそう言った。巡察の使命を帯びた聖師士は自分なのに、むしろジークたちのほうが熱烈に出迎えられていることに、少々複雑な思いだった。
「巡察するのは私なんだけどなあ」
「当たり前だ。俺は聖師士じゃない」
「そうじゃなくて―――」
「歓待されていると、見えなくなるものがある」
 背後から聞こえたジークのその言葉に、アーシアの背筋は無意識のうちにぴんと伸びていた。
 巡察―――それは各地の領主に煙たがられる仕事でもあった。どの土地にも聖法庁へ隠しておきたいことのひとつやふたつはあるものだ。
 しかしアーシアとて、各地の領主の内政にケチをつけるつもりで巡察しているわけではない。各地にはいまだに叛乱軍の残党と、聖法庁の改革による混乱が潜んでいる。いずれ治まっていくものとはいえ、それらに不穏な気配がないかを監視し、流血を未然に防ぐのが、今の時代の聖師士に与えられた巡察の使命だった。
 一年前の叛乱で戦乱の無惨さを嫌と言うほど味わってきたアーシアは、強い決意と誇りを持って、この義務を自身に課している。
「だったら………正面切って入らないほうがよかったわ」
「隠されているものを見るのは、見せたがっているものを見た後でも充分だ」
 そう告げた後で、ジークは無造作に付け足した。
「それに、ノヴィアの故郷だ。きちんとしたがっている」
 背後の本人に聞こえないようにぼそり呟かれたその言葉に、アーシアは、あーあと小さく肩をすくめた。
「何のかんの言って、あなた、けっこうノヴィアちゃんに甘いのよねー………きゃあっ !?」
 馬が急に速度をあげたため、アーシアは危うく舌を噛むところだった。
「気をつけないと、舌を噛むぞ」
 背後から手綱を操るジークが、平然とそんなことを言ってくる。
「あ、あな、あなた、わざとでしょ、きゃああああっ!」
「こ、こらっ、狼男! 急に速度あげるなぁっ。急ぐなら急ぐって、あわわわっ!」
 ジークの背後からも、急にあがった速度に対してアリスハートの抗議の声があがったが、背後のもうひとりは黙りこくったままだった。
 怪訝に思ったジークが、背後をちらりとふり返る。
「ノヴィア、どうした。眠いのか」
「あんたの操る馬の上で寝られる人なんているわけないでしょっ! ノヴィアはちょっと疲れてるだけっ」
 アリスハートがわめき、ジークはわずかに馬の速度を緩めた。ジークの前に座るアーシアが、安堵の吐息をもらす。
「ノヴィア―――」
「い、いえっ、何でもありません! 寝てません!」
 ジークの腰に手を回し、ふり落とされないようつかまっていたノヴィアは、再度ジークから名を呼ばれ、我に返った。
 慌てて背筋を伸ばし、居住まいを正し―――何を思ったか腰からぱっと手を離す。その体が振動でぐらりと傾いだ。
 並足とはいえ、自ら落馬するような自殺行為にアリスハートが悲鳴をあげた。アーシアが思わず、身をよじって背後をたしかめようとする。
「乗馬中に手を離すな」
 咄嗟に手綱を絞り、馬を止めたジークがふり返りざま、落下しかかるノヴィアをつかまえて地面に下ろしていた。
 危急の際だったため、襟足をつかみ、猫の子を持つような形になってしまったのは仕方がない。
 下ろされたノヴィアは、慌てて馬上のジークを仰ぎ見て、顔を真っ赤にして頭を下げた。
「すいません! 本当にすいません!」
「怪我はない、ノヴィアちゃん? ジークの手綱が乱暴で酔っちゃったんじゃないの?」
 アーシアの言葉にノヴィアは首を横にふり、
「本当にすいません。いろいろ考え事をしていて………」
「さっきの砦のことか」
 ジークに指摘され、図星だったノヴィアはうつむいてしまった。
「砦って………何のこと? 何か変なことあったっけ?」
 首を傾げるアーシアとアリスハートにかまわず、ジークはノヴィアに告げた。
「気にするな。別に、帰ってきたからといって、ここに留まり続けるつもりはお前にはないはずだ」
 はっとノヴィアが顔を上げた。
「それとも、そうしたいか」
「いいえっ!」
 アーシアとアリスハートがびっくりするような大声をあげると、ノヴィアはまた首を横にふった。
「帰ってくるのが………少し、早かったんだと思います。ただ、それだけです」
 ノヴィアの言葉に、ジークは頷いた。
「俺も、シャイオンに巡察の指示が下るのはもう少し先だと思っていた」
「何………。もしかして、私のせいで、何かノヴィアちゃん困ってる?」
 そろりと尋ねてきたアーシアに、ノヴィアは三度首を横にふった。
「だいじょうぶです」
 そう言って、ノヴィアは再び馬に乗った。ジークが馬腹を蹴ると、馬は再び街道を進みだす。今度の歩みはゆっくりだった。
「ジーク、どういうこと。私、何かまずかったかしら」
 首だけを後ろにひねり、ジークの背後にいるノヴィアに聞こえぬよう小声でそうただしたアーシアに、ジークは小さく首を横にふった。
「お前がまずいわけではない。まずいのは、砦の兵の一言だ」
「一言………? 何か、言っていたかしら………」
「王になるということは、それだけ重いことだということだ」
 それだけを言うと、ジークは口をつぐんでしまった。
 やがてアーシアは、砦でノヴィアを迎えた兵士が、何と言っていたかを思いだした。
 喜びと驚きの混じった顔でジークを出迎えた砦の隊長は、ジークに付き従うノヴィアを見て、うやうやしくこう言ったのだ。
「お帰りなさいませ。双王の片翼たる方よ―――」



 街道を進み、湖を迂回するようにして、対岸の城とその背後に広がる街を目指していた一行のうち、その人影に真っ先に気づいたのはアリスハートだった。
「あ、あれってトールじゃないの?」
 指さす先に、街道の脇に立ち、こちらを見ている銀髪の男の姿があった。
 アリスハートに言われて、ようやくその存在に気づいたアーシアが、驚きの声をあげる。
「えっ、えっ? いつから立ってたの。全然気づかなかったわよ」
「そういうやつだ」
 事も無げにジークが言い、そちらに馬を寄せていく。
 やがて互いに言葉を交わせるような距離まで近づくと、黒い法衣を身にまとった男はうやうやしくアーシアに向かって頭を垂れた。
「お迎えにあがりました、聖師士殿。聖地シャイオンへ、ようこそいらっしゃいました」
「えっ、あ、はい!」
 聖地に入って以来、真っ先に注意を向けられることのなかったアーシアは、突然の指名に慌てた。
 トールは続いて、その背後のジークへと視線を向ける。
「お久しぶりです。ジーク・ヴァールハイト」
 ジークは無言で頷いてその言葉に応えたが、トールはわずかに首を傾げてこう続けた。
「………大道芸にでも転職したのですか」
「いいや。職を変えた憶えはない」
 あくまでも真面目にそう答えるジークに、トールは一頭の馬に三人が相乗りしている様をつくづくと眺め、それから、
「そうですか」
 と、小さく肩をすくめてみせた。
 ジークは無言だったが、アーシアが何となくむっとして反論しようとする。しかし、機先を制するように、トールはジークの背後へと声をかけていた。
「お帰りなさい、ノヴィア様―――」
 万感の想いと敬意の宿るその口調に、アーシアは吐きだそうとしてた反論を思わず呑みこんでいた。
「ただいま、トール………」
 少しはにかみながらノヴィアはそう答えた。ひとところの土地に迎えられ、そこの者からお帰りなさいと言われ、ただいまとそれに応えることは、いままでになかったことだった。
 慣れぬ帰郷の言葉に、自分自身でも少し戸惑っていた。
 ノヴィアの肩の上で、アリスハートがトールに向かって身を乗りだす。
「ねえ、トール、あたしはぁ?」
「お久しぶりです、アリスハート。あなたも、元気そうで何よりです」
「えへへ、トールもねぇ」
 ありきたりの再会の挨拶のなかに、まぎれもない親愛の情が含まれているのを感じとり、アーシアはなかば呆気にとられたように呟いていた。
「人は見かけによらないのね………」
 背後でふっと息が吐かれた。どうやらジークが珍しいことに吹きだしたらしい。
「よく、俺たちに気づいたな。関所から連絡が行ったか」
「いいえ。実は―――」
 淡々としたトールの表情がわずかに揺れた。
 困ったように肩をすくめ、街道から少し離れたところにある、開けた土地に視線を向ける。もとは森だったと思われるその場所では、人の背丈に満たぬひょろひょろとした若木が生えているばかりだった。
「彼女が………この道の先から、とても不愉快な者が来ると」
 その視線の先では、若木に寄り添うようにして立ちつくし、こちらを見ている、白っぽい髪の女の姿があった。年の頃はアーシアと同じぐらいに見えたが、浮かべる表情は奇妙に恬淡として、あどけない。
「なるほど」
 ジークが呟いた。その声音に、少しばかり呆れたような色が混じっていた。
「な、何よ! 不愉快な者ってっ」
 アーシアが憤然と声を荒げるが、女は興味が失せたようにふいと背を向けると、いずこともなく歩き去ってしまった。
「気にするな。お前の事じゃない」
「私のことじゃなくても失礼よ!」
「害はない。ほうっておけ」
 あっさりとそう言い、ジークは馬から下りた。トールが徒歩で一行を迎えたため、ここから先は歩いていくつもりなのだろう。察したアーシアも馬を下りる。
 ジーク用に長さを調節されたあぶみに足が届かない小柄なノヴィアをジークが抱き下ろすと、ノヴィアは顔を真っ赤にして礼を言った。
 アリスハートがふわりとノヴィアの肩から離れ、当然のようにトールの肩に腰を下ろす。
 そのトールに、ジークが何でもないことのように、しかし傲然と告げていた。
「巡察に来た。この地に、不備はあるか」
「あると言えばありますし、ないと言えばないとも言えます」
 淡々とそう答えると、トールは一向に先だって街道を歩きだした。
 綺麗に整備された街道は、一行の姿以外にもちらほらと人影が見える。多くは荷馬車や荷車を引く商人だった。
 戦争の荒廃の後、聖地は貿易の要として復興を遂げていた。
 王座は廃され、民の合議のもと、この地の執政はなされている。修復された城は、民が共用する、施政と催し事の場となっていた。
 街の手前で一同をふり返り、トールは告げる。
「どうぞ、その目で確かめてください。レオニス様が示してくださった方向へ、歩きつづけるこの国を―――」