カオスレギオン 【新たなる旅路】――3

 かつて謁見の間だったという議事堂に足を踏み入れたアーシアは、思わずそのまま立ち止まってしまいそうになった。
 居並ぶ議士たちが一斉にこちらを注視し、値踏みするような視線をアーシアに対して向けていた。
 ここ数ヶ月で慣れてしまった視線とはいえ、身がすくむ。
 女性初の聖師士せいしし―――その輝かしい称号の裏には、数え切れないほどの蔑視べっしと差別が隠されていた。
 いままで男にしか務まらなかった聖師士の任務が女に務まるものかと、各地を駆けずりまわる巡視の任に堪えられるものかと、無言の悪意がアーシアに向けられ、その失脚を待っている。
 無論、アーシアがじけることはない。むしろ生来の負けん気が顔を出し、これまで懸命に聖師士の任を果たしてきた。しかし、そのほとんどは復興中の聖都でこなしてきたものであり、本格的な巡察の任はこれが初めてである。
 アーシアが緊張のあまり固唾を飲んだとき、その視線が不意に逸れ、彼女の背後へと向けられた。動揺にも似たどよめきが、議士たちのあいだに広まる。
 彼女に続いてその姿を現したジークが、無言で一同をぐるりと見まわした。何をしたわけでもないのに、威圧されたように議士たちが黙りこむ。その様子を少しおかしく思い、そのことでアーシアはうまく平静を取り戻した。
 凛と背筋を伸ばすと、腰の薬籠を手に取り、そこに刻まれた紋章が全員の目に見えるよう、両手で捧げ持つように掲げて告げる。
 一同の視線が再びアーシアに集中した。
「聖法庁より巡察の使命を受けて、この地を訪れました。聖師士アーシア・リンスレットです」
 〈浄める者リンスレット〉の称号に、議士たちのあいだに、ほう、という感嘆の声があがった。
「私がこの地で見定めるのは、聖法庁と聖地の和平がいまなお確かなものであるという確信と、この地の復興が順調に進んでいるという確認です。再びこの地が戦乱に巻きこまれるようなことは、あってはなりません。ようやく訪れた平和な時代を手を携えて守っていくために、今回この私が遣わされました。どうぞ、逗留とうりゅうの許可をいただけますよう―――」
 そう言って、アーシアはにっこりと笑った。突然の笑顔に議士たちが驚くなか、
「本当に………うつくしい土地です。来て、驚きました。この地を故郷とする人々は、どれほど幸せなことでしょう」
 誉められて、悪い気がするはずがない。何人かの議士が相好を崩し、誇らしげに頷いてみせた。
 議士長とおぼしき初老の男が一同を見まわし、それからひとつ頷いて、アーシアを見つめた。
「この地へようこそ参られた、巡察の聖師士殿よ。あなたの訪れを、聖地は心から歓迎いたしましょう。どうぞ、心ゆくまでご逗留なされよ」
 アーシアは内心でほっと安堵の息をつき、表面上は落ち着いて見えるよう、できるだけ平静を保ちながら一礼した。
 このまま、退室を促されるのか、それとも議士の紹介が始まるのかと思っていると、議士長は何か言いたげな顔でアーシアと、その背後のジークの顔を見比べている。
 明らかにジークの顔を知っていると思われるその様子に、これは自分から紹介したのほうがいいのだろうかとアーシアが思案していると、ジークのほうが先に口を開いた。
「ジーク・ヴァールハイトだ。聖師士の巡察に同道している」
 言わずもがなというか、アーシアと行動をともにしている時点で、容易に推察できるだろう事実を述べられ、議士長は居心地が悪そうに身じろいだ。
「その………久しいですな。一年前、あなたには本当にお世話になった」
「いや。当然のことをしただけだ」
 それだけを言い、ジークは黙る。アーシアが呆れるほど、とりつく島もなかった。
「ジーク殿、つかぬことをお伺いするが………あなた様の従士もやはり共にこの地に?」
「いまは席を外させている。俺は聖師士の同行者に過ぎない。その同行者の従士まで、到着の挨拶をする必要はないだろう」
 ジークは何でもないことのように言い、しかし切りこむような口調で後を続けた。
「それとも、何か用でもあったのか・・・・・・・・・・?」
「いえ、その………」
 何人かが慌てて、気まずそうに顔を伏せた。
 それでいて、何か言いたげにジークとアーシアを見ている。
 不意に、気まずい空気を打ち破るような、張りのある声が響いた。
「―――聖印ハイリヒを扱える者がいないのですよ」
 そう告げたのは、議士長からほど近いところに立っていた中年の男だった。わずかに白いものが混じる茶色の髪を撫でつけ、中肉中背の体に仕立てのよい衣服を身にまとっている。生真面目な顔が、ジークとアーシアに向けられていた。
 その視線を受け、ジークはわずかに目を細めた。知らない顔だった。少なくとも、以前の戦いのときにいたレオニスの廷臣ではない。
「レノ殿………!」
 咎めるような声があがり、場が騒然としたが、男は真摯な表情で一同を見まわし、声をあげた。
「我らは先日、聖法庁に司祭の派遣を要請するよう、可決したばかりではないか。ジーク殿にお話しして、何の不都合がある。私はあの時の戦いにいなかったが、いまではこの地を真の故郷だと思っている。ジーク殿はこの地を命懸けで守ってくれたのだろう? 何の気兼ねがあるというのだ」
「しかし―――」
「なるほど。それでノヴィアか」
 どよめいていた議事堂は、ジークのその一言で水を打ったように静まりかえった。
 アーシアには何のことかわからないが、とても口を挟めるような雰囲気ではない。
 ジークはレノと呼ばれた男を一瞥すると、議士長に向かって口を開いた。
「書状はできているのか」
「え? は………?」
「司祭の派遣を要請する聖法庁への書状だ」
「いえ、まだ―――」
 そうか、と頷き、続けてジークはこう言った。
「では、できあがったらこいつに託せ。こいつが良いようにするだろう」
「えっ、ええ……っ !?」
 突如としてジークから指名され、アーシアは仰天したが、ジークはまったく意に介せず、
「そのために結んだ和平と巡察だ。聖師士を使って悪いということはないだろう」
 そう、あっさりと言った。
 一同は唖然とした。ジークは、ちょうどいいタイミングで巡察に来た聖師士に便宜を図ってもらえと、あからさまにそう口にしているのだった。
 ジークにちらりと視線を寄越され、アーシアは慌てて背筋を伸ばした。こうなっては腹を括るしかない。
「お任せください。必ず師士議会のもとへ書状を届け、この地に良い司祭を派遣いたしましょう」
 アーシアの言葉に、議士たちが顔を見合わせる。聖師士との顔合わせとして招集をかけられたこの場で、いきなり提案を出されてしまい、あきらかに戸惑った表情だった。
「私は聖師士殿にお任せしてもかまわないと思います」
 真っ先に賛意を表明したのは、やはりレノだった。
「そ、そうだな」
「使者を立てるよりも確実でしょう………」
「ジーク殿もそう仰っていることだし―――」
 口々に議士たちがそれに賛成し、議士長を見た。すぐに何を求められているのか察した議士長が、居住まいを正して一同を見渡す。
「では、司祭の派遣要請を聖師士殿にお任せするか否かについて、決をとる。反対の者は挙手して意見を述べよ―――」
 幾人かの手があがり、何度か意見を出し合い、しばらく議論した後、アーシアに書状を託すことで一同はまとまった。
「………うまく機能しているようだな」
 アーシアにしか聞こえないような小声で、ぼそっとジークが呟いた。
「ほんと………こうしてみると、師士議会って、シャイオンの合議制と何にも変わらないのね。むしろ、こっちが先に始まった分、聖法庁は出遅れてるわね………」
 結論が出たところで、議士長がアーシアに目を向ける。
「では、アーシア殿に改めてお願いしたい。司祭の派遣を希望する我らの書状を、聖法庁に届けてはいただけないだろうか」
「たしかにその任、お引き受けいたしましょう。お任せください」
 精一杯、威厳があるようにアーシアがそう告げると、議士たちのあいだに安堵の表情が広がった。
 引き受けたはいいものの、聖法庁に帰ってからのことを思い、気が遠くなりかけたアーシアに耳に、ジークの囁きが聞こえる。
「お前の最初の功績になる。良い司祭を推薦してやれ―――」
 愕然として、アーシアは危うくジークを見あげるところだった。
 まさかそこまで意図して、自分に書状を託せと言ったのか。ただノヴィアから議士たちの関心を逸らせるだけではなく。
 ジークは涼しげな顔で、さらなる火種を落としてくれた。
「早急に聖印を必要としているなら、それもこいつに頼むといい。リンスレットの称号からもわかるように、強い聖性の持ち主だ。堕界の聖印でもない限り、扱えるだろう」
 おお、と議士たちのあいだに、どよめきが広がる。その手があったかと言わんばかりの様相に、
「ジークっ!」
 今度こそアーシアは悲鳴をあげていたのだった。



「ちょっと! どういうつもりよ !?」
 議士たちへの挨拶を終え、ようやく議事堂を後にしたアーシアは回廊に誰もいないのをいいことに、さっそくジークに食ってかかった。
 噛みつくようなアーシアの剣幕にも、ジークはさして動じた顔もせず、
「シャイオンの復興を支援すると、聖法庁は約束している。お前が聖印を使って堤防の補強をしたところで、問題はないだろう」
 何でもないことのようにそう言った。
 議事堂で到着の挨拶を述べたアーシアは、早々に二つのことを聖地を与る者たちから依頼された。
 ひとつは聖法庁へ、シャイオンからの書状を届け、聖地への司祭の派遣を要請することである。
 領主が司祭を兼ねていたこの土地は、最後の領主が逝去し、合議制へと移動したいま、聖堂とそこに受け継がれる聖印を管理する司祭の座が空席となったままだった。
 本来ならば、聖法庁への帰属を強めるためにも、早急に司祭が派遣されてしかるべきなのだが、実際にそうはならなかった。
 シャイオンの民が聖法庁の干渉を怖れて、敢えて要請しなかったという理由もあるが、聖法庁側も激化した叛乱と鎮圧後の復興、それに続く内部改革で、それどころではなかったのである。
 いずれにせよ、聖堂に伝わる聖印は土地の豊穣に密接な関わりがあるため、司祭の不在はいつまでも放っておいていいものではない。
 己の功績になるようジークが気を利かせてくれたということもあり、アーシアはその依頼を受けた。
 問題は二つ目だった。
 司祭を派遣を待てぬほど、早急に聖印を必要とする理由が、シャイオンにはあった。
 増水にともなう、堤防の補強である。
 聖地の名をそのまま冠されている湖は、巨大な人造湖だった。あちこちに、聖印によって補強をほどこされた堤防や水路がある。聖印が刻まれていることによって、堤防はより強固に水を支え、崩落や老朽を防いでいるのだ。
 しかし、定期的に秘儀を行わねば、聖印の保護もいつしか薄くなる。
 避けては通れないその時期と、春の嵐と雪解けによる増水が、今回たまたま重なってしまったのだった。
 そのため、聖印による補強を緊急に必要としている堤防が数ヶ所あり、議会は聖性の使い手を求めていたのである。
 当初、ジークの到来を知った議士たちが、密かにあたりをつけていたのはノヴィアだったのだが、ジークがその矛先をアーシアへと逸らしてしまった。
 仰天したアーシアは、当然ながら言葉を尽くして辞退しようとしたが、早急に堤防に聖印の秘儀をほどこす必要があるのだとかき口説かれ、ジークが会話の要所でそれを後押ししたため、否応なく引き受ける羽目になったのだった。
「近隣の聖堂から司祭を呼ぶか、聖法庁に早馬をたてるべきよ。私にやれだなんて無茶だわ」
「隣国はドラクロワに呼応して、ここに対して兵を挙げた」
 さすがにアーシアが言葉を失っていると、
「聖法庁に早馬を立てたところで、お前がいるんだ。お前がやったほうが早いと返されるだろう」
 事も無げな口調で言われ、アーシアは泣きたくなった。
 万が一、失敗したらと考えるだけで、鳩尾のあたりが冷たくなってくる。
 終戦直後の復興には、聖法庁から派遣されてきた数人の司祭が聖印を使い、壊れた堤防や水路を修復した。いずれも聖印の扱いに長けた者たちであった。土地と結びついた聖印は迂闊に扱ったり、動かしたりすると、その聖性が歪んでしまうのだ。
 〈銀の乙女〉とはいえ、聖堂に受け継がれた聖印など触ったこともない自分に、それをやれ・・などと、暴挙としか思えない。
 それを、ジークはあっさりと言ったものだった。
「たいしたことじゃない。聖印の原盤から原型を取りだし、堤防の聖印と呼応させればいい。あとは勝手に聖印が堤防を補強する」
「原盤から原型を取り出せないから、みんな困っているんでしょっ!」
「お前ならできるだろう」
「どうしてよ! 私………体に聖印があるのよ。私が触ったせいで、ここの聖印に変な影響とかあったら………どうするのよ」
 泣きそうな顔でアーシアは呟いていた。
 アーシアの体には、胸から腹にかけて、リンスレットの聖印が直接刻みこまれている。大気をきよめ、聖性を息吹かせるアーシアの力だが、刻まれ子と呼ばれる悪習によるものだった。
「だいじょうぶだ。リンスレットの聖印だろう。お前の聖性で聖印は保護される。ノヴィアよりも、お前のほうが適任だ」
「あなたがノヴィアちゃんに、どうしてもここの聖印を扱わせたくないのは、よくわかったけど………だからといって、私に押しつけなくたって」
「本当は、聖印を扱う力のある者は、一般にも大勢いる。シャイオンにもいるだろう」
 淡々とジークが言い、アーシアはますます事の理不尽さに対して怒りが募ってきた。
「なら、私じゃなくて、ここの人たちがやるべきじゃないの………!」
「みな、お前のように、失敗して聖印を歪めてしまうことを怖がっている。以前は領主がひとりで負っていたものを、この地の民はまだ背負い切れていない」
 アーシアが言葉を失っていると、ジークはちらりと視線を向けた。
「お前のほうが、シャイオンにいるはずの力を持つ者より、確実に聖印を扱える。―――今回だけ、やってやれ」
「………わかったわ」
 気がつくと、アーシアはそう答えていた。
 ジークは、できないことをやれとは言わないだろう。できると信じているからこそ、アーシアにやらせるのだ。
 溜息をついて、アーシアは天を仰いだ。
「あーあぁ、何か想像していたのと違うなぁ。巡察って、もっとノヴィアちゃんみたいな仕事かと思っていたのに」
「ノヴィアみたいな………?」
 怪訝な顔をしたジークに、アーシアはくるりとふり返った。
「見守ること」
「全然違う」
「そうみたいね」
 ひょいと肩をすくめ、アーシアはジークよりも先に廊下を歩きだした。
「じゃあ、ノヴィアちゃんとアリスハートを迎えにいきますか」
 そうして、すたすたと迷いなく歩いていく。ノヴィアの聖性を風が知らせているのだろう。建物のなかならば、あたりかまわず破壊して直進していく心配もない。ジークは黙って後に従った。
 しばらく黙って歩いていたアーシアだったが、やがて我慢できなくなって口を開いた。
「―――どうしてノヴィアちゃんに聖印を扱わせたくないの? あなた、ここ来てから、やたらとノヴィアちゃんに気を使ってるわよね。双王の片翼って何・・・・・・・・?」
 聖印を扱う代わりに教えろ言わんばかりの、挑みかかるようなアーシアの問いを、ジークは静かに受け止めた。
「あいつには双子の弟がいる。いまはもういない、聖地シャイオン最後の領主だ」
 さすがに驚いてふり返ったアーシアに、ジークは以前にこの地で起きた戦いを、淡々と語り始めた。