カオスレギオン 【新たなる旅路】――4
聖地最後の王の像は、墓地にある。
以前は謁見の間の入口に飾られていたのだが、王の死とともに墓碑になり、場所を移したのだった。
その漆黒の像の前に、ノヴィアは立っていた。
幾多の亡者の上を歩む、少年の像である。通った鼻筋に繊細な容貌、この黒一色の像からはわからないが、生前の彼は金銀の髪に、青紫色の瞳を持っていた。
哀れにのたうつ亡者を踏みにじり、高みへと歩む彼の腕には、この地の紋章でもある白水仙の花束が抱えられ、彼はその花を自ら足蹴にした亡者たちへと無造作に投げ与えている。
憐憫と蹂躙。搾取と恩恵。どこまでも手前勝手に力をふるい、手を差し伸べる、王者の傲慢―――独裁。
この墓碑の下に眠る者が、どんな王であり、何を為したかを、一目見ただけで理解させる像だった。
広場の断頭台、城の聖母像と並んでこの聖地の象徴と称えられる墓碑の周囲は、亡き王を偲んで手向けられた花によって埋め尽くされていた。春の訪れを告げる白水仙の花も咲き始めたいま、献花の多くはその白い無垢な花だった。
昼下がりのいま、墓地は閑散として人影もない。
漆黒の墓碑の前に、ノヴィアは手向けの花も持たずにたたずんでいた。アリスハートも傍らにおらず、ひとりきりだった。ノヴィア自身が、そう望んだのだ。
「ただいま………レオニス」
囁いてノヴィアは目を閉じた。
どこからともなく、レオニスの「おかえり」という声が聞こえてくるような気がした。
同時に「もう帰ってきたの?」と呆れたような苦笑も聞こえてくるような気がした。
どこまでも遠くへ。彼が見られなかったものを見守るため、旅を続ける。
それが彼がノヴィアに望んだことだった。
たしかに、帰ってくるには少し早いかもしれない。
しかし、この聖地への帰還がほんのひとときのものであることを、ノヴィアはよく理解していた。
「ただいま………そして、また、いってきますね」
囁いたノヴィアの頬を、涙が一筋だけ伝わった。
「………レオニス。あなたが最後まで守り通した故郷を………見ました」
ここまで来る途中、トールとともに街道を歩み、街を通り抜けながら、ノヴィアは聖地の様子に胸を打たれていたのだ。
あの戦いを終え、ノヴィアは〈銀の乙女〉として聖法庁とシャイオンの和平を仲介し、戦後の後見人であるジークとともに合議制への移行を手伝った。
ジークが聖都に召還され、共にここを立ち去ったとき、シャイオンはまだ復興の途上にあった。
生産の拠点ではなく、交易の拠点としての復興を、生前のレオニスが計画していたおかげで、周辺諸国の予想を超えた速度で復興はなされていたものの、それでも白亜の城はその壁が崩れ、北の森はうっすらと緑に覆われているばかりで跡形もなかったのだ。
それがどうだろう。
いまは北の森にも若木が育ち、城は修復されて陽の光にまばゆく輝いている。以前と比べて格段に痩せてしまったとはいえ、耕地では麦穂が揺れ、交易の中心地となった街は活気に満ちて、行き交う人々の顔は輝いている。
これもみな、この地を故郷とする人々が、復興に力を尽くしたからだった。
ジークがドラクロワを追い、懸命に戦っているあいだ、この地の人々はシャイオンを以前のように豊かにしようと頑張っていたのだ。
ジークの故郷は大地そのものだが、ノヴィアの故郷はこの土地だった。
かつて、ジークのように大地と一体になれるだろうかと不安をこぼしたノヴィアに、とある蛮族の男は、そのように感じるのはノヴィアには帰るべき土地があるからだと言った。
そのときのノヴィアにはわからなかったが、いまならわかる。
あのとき既に、その場所はノヴィアに用意されていたのだ。そうして、ノヴィアを待っていた。そこでは、もう一人の自分が生きていた。
この地が自分の故郷なのだ。どこに行こうとも、いつでもその場所にあって、自分がどこから来たのかを教えてくれる場所。
伸びる若木のように、未来へと確かな足取りで歩く国。
レオニスが、ノヴィアへと遺したものだった。
それを間違いなく受け取っているのだという想いで、ノヴィアの胸はいっぱいになった。レオニスが見せたかったものを、自分はいま確かに目にしている。
「私がまた旅立っても、帰ってくる度に、私はこの国が故郷であることを誇りに思うでしょう」
どれほど旅が長く、ひとところに留まることなくさすらっていても、同じ大地のどこかに自分を「おかえりなさい」と迎え入れてくれる土地がある。それを知っているということは、何という幸せなことなのだろう。
何という大きなものを、自分はレオニスから与えてもらったのだろう―――。
「ありがとう、レオニス――――また、来ますね」
目尻に浮かんだ涙を拭い、ノヴィアは笑ってそう言うと、墓碑に背を向けた。
墓地を後にしたノヴィアは、冬枯れの木立のなかを歩いていた。
寒々しい枝は、それでも新芽が芽吹く直前の膨らみを孕んで、早春の風に揺れている。
今頃、ジークとアーシアは到着の挨拶を、議事堂で議士たちに告げているはずだった。
その間、好きにしていいとノヴィアは言い渡されている。いつものように、街を見ろとも言われなかった。黒印騎士団として動いている以上、ジークが何らかの任務を受けていないはずはないのだが、それでも特に何かをしろとは言われなかった。
この地を故郷とする者としての時間を、レオニスの双子の姉としての時間を、ジークはきちんとノヴィアに与えてくれたのだった。
レオニスのもとに帰還の挨拶を告げたいま、ノヴィアはもう他にするべきことはないように思えた。あとはこの地での任務を果たすだけだ。聖地シャイオンの双王の片割れではなく、ジークの従士として―――。
静かな決意とともに、ノヴィアが木立を歩いていると、にわかに横手のほうから形容しがたい唸り声が聞こえてきた。
思わずそちらに足を向けると、近づくにつれて異様な虫の羽音も唸り声のなかに混じりはじめる。
辿り着いたのは、城の中庭の一角だった。
「ふんふるぐるるるうらららぎがあうううううぉおおおぁん♪」
そこでは、歌っているのか叫んでいるのか判然としない声をあげながら、白い髪の娘が蠅を撒き散らして何かを作っている真っ最中だった。
石材とおぼしき白い塊に蠅がたかり、見る間に食い尽くしては黒煙のように飛び立っていく。すると、いままで蠅がいたところには、唸り声と蠅の群れからは想像もつかぬ、湖を抱いた聖地の風景が出現していた。まるで、湖とその向こうに広がる聖地を、いままさに湖岸に立って眺めているのではないかと錯覚してしまいそうなほどに、精緻を極めたうつくしさである。
真っ白な髪に無垢な緑色の目をした娘は、なおも鼻歌のように奇怪な歌を口ずさんでいる。
名はたしか―――レティーシャ・ベルゼブベス。
以前、初対面の時にレオニスから、ジークを斃すつもりで呼びよせた四人目の刺客だと紹介されていたため、数々の傑作を目の当たりにした今でも、彼女が彫刻家とは思いがたいノヴィアだった。
「えるらうぅぐおぉぉうあうぎぉ―――あ」
ふと、鼻歌が途中で途切れ、蠅が足元の影に吸いこまれるように消えていく。
その大きな緑の目が、ノヴィアの姿を認めてわずかに見開かれていた。
途端にノヴィアは罰が悪くなり、あたふたとレティーシャに対してお辞儀をした。
「えっと、その。お久しぶりです」
「………もう一人の、レオニス様」
ぽそっと呟くと、レティーシャは急に創作の意欲をなくしたように、石材の群れからぺたぺたと遠ざかった。
「お邪魔してごめんなさい。すぐに立ち去りますから、そのままどうぞ彫ってください」
慌てるノヴィアをちらりと見やり、レティーシャがぼそぼそと言う。
「早く、出てって」
「ご、ごめんなさい」
「街から」
一瞬、ノヴィアは聞き間違いかと思った。
唖然として立ちつくしていると、レティーシャは体を揺らしながら、どこか遠くを見るような眼差しでしゃべりだす。
「いると、綺麗じゃないの。もう一人のレオニス様、いるの、だめだよね。レオニス様、もういないからね。ちっとも綺麗じゃなくなるね。ね、だから、早くいなくなるといいね、ふー」
「な―――」
「ね、レオニス様、まだ綺麗じゃないよね。もっともっと綺麗、見せてくれるよね。そのためには、もう一人のレオニス様は、邪魔だよね。レオニス様、もう一人のレオニス様、違うもんね。違うのに、わかってないんだよね。だめだよね。ね」
誰にともなく虚空にそう呟き、それからレティーシャはノヴィアを見て、ぼそりと言った。
「出てけ」
ぷつん、とノヴィアのなかで、何かが音を立てて切れた。
ノヴィアがレオニスの墓参りをしているあいだ、アリスハートは何をするでもなくトールの肩にのって、城のなかを見て回っていた。
「お城、誰でも入れるようになったんだねぇ」
以前とはだいぶ様変わりした城のなかをきょろきょろと眺めまわし、
「審議中の議事堂や、施政を行う区画は立ち入り禁止ですが、それ以外の場所は領民も旅の者も、自由に中に入れるようになりました」
「お城って滅多に入れないもんね。前はゆっくり見て回る暇なんてなかったから、何か得した気分かも。あ、トール、あれは何?」
などと、指さしては、アリスハートは城の内部を見物してまわった。
一通りトールの肩にのって城を巡り、入口近くの広間までやってきたアリスハートは、不意に目を見張って、声をあげた。
「えっ、ノ、ノヴィア?」
驚きの声をあげるアリスハートに対して、トールは無言のままだった。
城の広間に飾られているのは、白亜の聖母像だった。この城に―――この地にやって来た者を分け隔てなく迎え入れるように、大きく両手を広げている。
その様子から限りない母性を感じさせる、まさに聖母と呼ぶにふさわしい傑作だった。
しかしアリスハートが驚いたのはそのことにではない。
若々しさとともに、落ち着いた優美さと気品を漂わせ、慈愛に満ちた表情を浮かべている聖母の顔は、あろうことかノヴィアにそっくりだったのだ。
「な、なんで? あたし、前にもこの像見てるけど、そのときはノヴィアにそっくりだなんて思わなかったよ。ちょっとは似てるなぁって思ったかもしれないけど………」
戸惑ったように呟いて、アリスハートはトールに尋ねた。
「ねぇ、トール。この像はノヴィアをもとにしてあるの?」
「いいえ。レオニス様の母君の顔を模されています」
この像が作成された経緯を思いだし、少々苦い顔になったトールに対し、アリスハートは納得したようにうなずいていた。
「なんだ、そっかぁ。レオニスのお母さんってことは、ノヴィアを生んだお母さんの像なんだね。この像がノヴィアそっくりになったんじゃなくて、ノヴィアがだんだんこの像に似てきているだけなんだ」
アリスハートはまぶしそうに聖母像を見あげ、
「ノヴィア、大人になったら、こんな顔になるんだねぇ。優しそうだねぇ」
嬉しそうにそう言った。
トールはしばらく無言で聖母像を見あげていたが、やがて、
「………そうですね。本当にそっくりになられるのでしょうね」
「どうしたの? 何だかトール、あんまり嬉しくなさそうだね」
心配そうなアリスハートの声音に、トールは苦笑して、その小さな輝きにそっと手を添えた。
「この聖地の象徴である聖母像そっくりにノヴィア様が成長なさると、そこに別のものを見出す者もいるのですよ」
「それって、ノヴィアが双王の片翼って言われるのと同じことかなぁ?」
「………誰がそれを言ったのですか」
「砦の兵士さん。お帰りなさいって、そう言ったの」
「そうですか」
アリスハートに気づかれぬよう、トールは微かに吐息をもらした。
「そんなことがあったんだ………」
話を聞き終えたアーシアは、溜息とともにそう呟いていた。
ジークが語るこの聖地での激戦は想像以上のものだった。いったいどれだけの死者をこの地でジークは葬り、どれだけの魔兵が戦いのなかで天へと還ったのだろう。―――おそらく、天へと還った魂以上に、ジークが受け入れた堕界の魂のほうが圧倒的に多かったに違いない。
話を聞けば聞くほど、こうして目の当たりにする聖地の様子が、どれほど奇跡的な復興を遂げたのかがわかる。
「そのレオニスって子は、あなたたちの理想を真っ先に体現したのね………」
回廊の窓枠に手をかけ、アーシアはそこから見える湖と街、その向こうに広がる耕地に目を凝らした。
話を聞いたいま、新たなる想いとともに聖地の風景が目に飛びこんでくる。
「ノヴィアちゃんも、頑張ったのね」
「ああ」
「だからなのね?」
アーシアは短くそう尋ねた。
「だから、帰ってくるのが早すぎたって、言ったのね?」
アーシアは、出逢ったばかりの頃にノヴィアに向かって、こんな小さな子に命預けちゃって申し訳ないなどと言ったが、とんでもなかった。
ノヴィアの為した働きを思えば、あの小さな体が、一回りも二回りも大きく見えてくる。
ジークたちに出逢うまで、銀銃を持つ重さ、命を奪う重さを知らずに、それを振りまわしていた自分と違って、何と凛然としているのだろう。
聖地での戦が始まる直前、ノヴィアはジークと別行動をとり、一人シャイオンに赴いた。同行していた諜報院の者たちは、その全員が旅の途中でノヴィアを守って命を落とした。それほど苦難の道行きだった。
激戦のなか辿り着いたシャイオンで、ノヴィアは聖法庁との和平を説き、そのまま聖地を守るためにそこに留まると、その眼差しの力を以て、双子の弟であるレオニスを助けた。
そうして、二人が力を合わせて叛乱軍を退けていくその様子に、いつしかひとつの呼称が生まれていたのだった。
聖地シャイオンの双王―――。
あの戦火のなかで勝利への確信とともに生まれ、レオニスの死による終戦とともに失われたはずの呼び名だった。
双王の片翼―――。
そう呼ばれるのは、いまのノヴィアではない。一年半前の、あのときのノヴィアだ。
この聖地に、すでに王はいないのだから。
「きっと………あんまりレオニスって子がすごい領主だったから、ここ人たちは、その子が負ってたものを一度に全部背負おうとして、無理してるのね。だからノヴィアちゃんに、助けてほしいって思っちゃうのね………」
「ここの民がレオニスになる必要はない」
ジークはただそれだけを言った。
ただひとりの主に向かって膝をつき頭をたれることは、己の足で立って歩むより、どれほど楽なことだろうか。
一人の優れた王に決断の全てを任せてしまうほうが、民は楽なのだ。
しかし、聖地最後の王は自ら王座を棄て、民に歩く方向を示して逝った。
これからこの地の民は、誰も辿り着いたことのない未来へ、長い道のりを歩んでいかねばならない。
ノヴィアを頼り、奉じるということは、ようやく歩み始めたその道を後戻りするということだった。
「人はみな、誰もが自分自身の王だ。そのことに気づけば、背負うべきものを悟るだろう」
「大陸中の人たちにそれを気づかせるのが、私やジークのこれからの仕事よね」
背後のジークは無言だったが、うなずいたことがアーシアには気配でわかった。
湖は光を弾き、聖性に満ちてまばゆく輝いている。
アーシアが、強い決意とともに窓の外に広がる聖地に目をやったときだった。
「―――ジーク殿」
不意に横合いから声がかけられ、アーシアとジークはほぼ同時にそちらのほうをふり向いた。
回廊の奥から、先ほどまで議事堂で顔を合わせていたレノと呼ばれていた議士が、穏やかに歩み寄ってくる。
二人が無言で待ち受けていると、立ち止まったレノは慇懃に一礼して言った。
「あらためまして。レノ・サピアスと申します」
「議会発足当初はいなかったな」
切りこむようなジークの言葉に、レノは微笑した。
「ご明察の通り、私は終戦後に商人としてこの地を訪れ、そのままここを故郷と定めた者です。幸運にも議士として、シャイオンの皆さんに受け入れていただきました」
「商人か。何を商っている」
「穀物ですよ。ここに来てからは商売が成功して、それ以外にも手広く商わせていただいています」
とても商人とは思えないような上品な物腰に、アーシアは内心ひそかに感心した。そうえいば先ほどの議事堂でも、新参者とは思えない貫禄で議長の隣りに立っていた。
「それで、俺に何か用か。それとも、聖師士にか」
無愛想な表情を崩さない、ほとんど喧嘩腰のような物言いに、慣れているアーシアもさすがにひやりとする。
しかし、レノは気を悪くしたようすもなく頷くと、声をひそめて話しだした。
「実は、聖師士殿にお願いがあるのです」
にわかにアーシアは緊張した。巡察先の要職にあるものが、聖師士に個人的にお願いしたいことがあるなどと言いだすと、大概ろくなことにならない。
ジークも微かに眉をひそめて、レノを見ている。
しかし、レノの口から出たのは予想外の言葉だった。
「堤防を補強し、巡察を終えましたら、なるべく急いでここを立ち去っていただきたいのです」
ジークの眉間に皺が寄った。明らかに怪訝な表情をしていた。
「どういう意味だ」
「そのままです。あまり長くあなたたちが聖地に逗留されるのは好ましくないのです。―――我々にとっても、ノヴィア様にとっても」
ジークとアーシアがそれぞれ驚いた顔をするのに、レノはひとつうなずいてみせた。
「その様子だと、すでにお二人ともお気づきかと思います。たまたまですが………ここのところ、立て続けに難しい問題が出てきていて、議会も紛糾し、うまくまとまらないのです。そのたびに、レオニス様ならうまく処理なさるだろうにという空気が生まれていて………」
レノは弱々しく笑ってみせた。
「生前のレオニス様を存じ上げない私からすると、正直困惑するばかりなのですが………みな、気弱になっているのです」
「そこに、ノヴィアが来たというわけか」
レノが首を縦に振って首肯した。
「聖地の血を色濃くひいた御方です。和平の仲介者でもあり、優れた聖道女でもあられる。―――それに、聖地の象徴とされる広間の聖母像に、あまりにもよく似ておられます」
その言葉に、ジークがわずかに虚を突かれた表情になったが、レノはそのまま続けた。
「そのため………ノヴィア様を見ると、つい頼りたくなってしまうのでしょう。しかしそれは、聖地にとってもノヴィア様にとっても、良いことだとは思えないのです。それゆえ無礼を承知で、なるべく急いでこの地を去っていただけないかとお願いしている次第で」
「あの戦いを知らない者だからこそ言える言葉だな」
無神経と思えるほどの、ずけりとしたジークの言葉にアーシアはぎょっとしたが、レノは真摯な表情でただうなずいていた。
「知らない私だからこそ、あなたたちにこうしてお願いができるのだと思っております」
その答えを聞き、ジークはうなずいた。
「俺たちも気づいていた。考慮して動こう」
レノの面に安堵の色が現れた。
彼はそのまま深々と一礼すると、アーシアにも目礼し、二人の前から立ち去っていく。
その背中を見送ったアーシアは何だか拍子抜けしてしまい、肩の力を抜いた。
「何頼まれるかと思ってかまえちゃったけど………まともなお願いだったわね」
同じように、レノの姿が回廊を曲がって消えるまで目で追っていたジークは、うなずくでもなく黙っている。
「………あら?」
不意にアーシアが声をあげ、窓のほうへと向きなおった。
何事かとジークがそちらに目をやると、アーシアが開けた窓から金色の羽を震わせて、アリスハートが飛びこんでくるところだった。
「や、やっと見つけた〜!」
「どうした、チビ」
「だからチビって言うなぁ! えっと、そうじゃないっ。それどころじゃないんだってば!」
両手をふりまわしてわめくその様に、アーシアとジークが怪訝な顔になる。
「えっと、アリスハート? 何がそれどころじゃないの?」
「ノヴィアを止めてよっ。喧嘩しそうなの! トールじゃ手が出せないんだってば!」
「け、喧嘩?」
突飛な申し出に、アーシアの目が丸くなった。
あの銀髪の青年でも止められないとは、いったいどれほどすごい喧嘩なのか、逆に興味が湧いてくる。
「ノヴィアちゃんが、誰と喧嘩するっていうのよ」
「あの蠅と仲のいい変わった女の人と―――ぐぇっ」
言い終える前にジークにつかまれ、アリスハートが潰れた声を出した。
「こらっ、つ、つかむなぁっ!」
「どこだ、チビ」
言いながらジークのすでに窓枠に片脚をかけている。
アーシアが目を白黒させていると、アリスハートが涙目になりながら窓の外を指さした。
「お、お城の西の中庭ぁ」
途端にジークが無造作に窓を乗り越えた。ここが二階だということを思いだしたアーシアが慌てて下を覗くと、着地したジークがシャベルを片手に木立の奥へと駆けていくところだった。
「ちょ、ちょっと、ジーク! ああっ、もう!」
やけくそ気味に叫び、アーシアも窓から飛び降りた。
―――手が出せない。
トールは途方に暮れて立ちつくしていた。
眼前に向かい合うノヴィアとレティーシャは、まるでトールなどいないかのように、互いに睨み合ったまま微動だにしない。
ノヴィアは、その眼差しの力を発揮する寸前。
レティーシャは、影から蠅を呼び放つ直前である。
アリスハートとともにノヴィア見つけたときには、すでにこうなっていたのだ。
完全な膠着状態だった。トールが迂闊に割ってはいると均衡が崩れ、どちらかがもう片方に攻撃を始めるだろう。間に割りこんだトールもまず無事にはすまないはずだった。
トールにとって最優先すべきなのはノヴィアの安全だが、かといってレティーシャを害するのもためらわれた。彼女はすでに稀代の彫刻家として聖地に居場所を得ている。トール自身も彼女に対する以前の屈託はなく、互いにレオニスを慕っていた者としての妙な親近感すら抱きつつあるのだ。
そもそも、何でこのような事態に陥ったのかすらも謎のままだった。
ノヴィアが、ひた、とその視線でレティーシャを見据えたまま、厳しい声音で言った。
「言った言葉を撤回してください」
「ぶぐ」
レティーシャは奇妙な呻き声をあげただけだった。足元でぶくり、と泡立つように蠅が蠢く。
その様子にノヴィアがますます表情を険しくした。矢を見ないところからすると、相手が蠅を放ちざま、無視の力を発揮させる気なのだろう。
ノヴィアもレティーシャも、それぞれ本気になったら洒落にならないほどの聖性と堕法の使い手である。
トールは己を盾にしてでも二人の争いを諫めるべきだと覚悟を決めた。
「―――取り消してください。私だって、あなたと喧嘩なんかしたくありません」
宝杖を握りしめ、ノヴィアがなおも叫んだ。
「あなたに出てけなんて、言われる筋合いは、ありませんっ!」
その言葉にトールがわずかに瞠目したときだった。
ずどん! と凄まじい音が鳴り響いた。
レティーシャが思わずそちらをふり向く。ノヴィアも、びくっと肩をすくめて同じ方を見た。
「何をやっている」
地面にシャベルを突き立てたジークが、厳しい声音でそう言った。
レティーシャがこの上もなく不愉快そうな表情で、ぷいと顔を背ける。
張りつめていた気配が霧散したことにトールが安堵していると、ジークを呼びにやらせたアリスハートがすぐ傍まで飛んできた。
「トール、呼んできたよぉ」
「ありがとうございます、アリスハート」
遅れてアーシアが走ってきたが、ジークはふり返りもせずにもう一度、言った。
「何をやっていると訊いている」
アリスハートが怯えてトールの肩で縮こまる。
ノヴィアは恥じ入るようにうつむいた。
「………申し訳ありませんでした」
己の感情のままに力を行使することなど、言語道断だった。
もし自分が間違ったことをしでかしたら、ジークにもその罪を背負わせてしまう。ようやく頭の冷えたノヴィアは、そのことを思いだして己を叱咤し、気を引き締める。
「二度と、やりません………」
「やるなら素手でやれ。それなら止めん」
悄然とそう言ったノヴィアに、なんとジークはそんなことを告げていた。
ノヴィアはおろか、レティーシャまでもが、ぽかんとしてジークを見つめる。
おそるおそるアリスハートが尋ねた。
「す、素手って………つまり、殴り合えってことぉ?」
「死にはしないだろう。気がすむまでやるといい」
「それもどうかと思いますが………」
「ジーク、それはちょっと………」
トールとアーシアが口々に止めるなか、ジークはノヴィアとレティーシャをそれぞれ見据えて、淡々と訊いた。
「どうした。やらないのか」
二人は揃って黙りこんだ。
どうしたもこうしたも、このようにけしかけられ、しかも他人が見ていることにあらためて気がついた後に、素手でとっくみあいなどできるはずがない。
おまけに二人とも、とっくみあいの喧嘩など、生まれてこのかたやったこともなかった。
「………申し訳ありませんでした」
ノヴィアがもう一度、言った。
「ぶぐ」
レティーシャは鈍い呻き声をあげ、身をひるがえしてここから立ち去ろうとした。謝罪の言葉など死んでも言うもんかという態度である。
「ちょ、ちょっと、あなた!」
アーシアが思わず呼び止めると、ちらりとふり返ったレティーシャは、
「あんたも、出てけ」
ぼそりとそう言って、アーシアが絶句しているあいだに木立の奥へと消えてしまった。呆れたトールの口から、思わず溜息がもれる。
「なるほど。原因はそれか」
ジークはあっさりした口調でそう言うと、シャベルを引き抜き、肩に担いだ。
「俺たちもさっき、そう言われたばかりだ。気にするな」
「ジーク様も……… !?」
ノヴィアは絶句したが、それ以上に驚いたのはトールだった。
「誰があなたにそう言ったのですか」
ジークの口からレノの名前を聞くと、トールは再び溜息をついた。
「そうですか。レノ殿が―――」
「どういう人物だ」
「戦後の復興に穀物商として参入してきた方です。耕地で食料を持久できるようになるまで、良質な穀物を大量に卸していただきました。人望もあり、議会でも副議士長を務めています」
淡々と私見を交えずにトールが語る。
「お前の言う、あるといえばある不備とは、これのことか」
「はい」
トールがうなだれるようにうなずき、ノヴィアは驚いてアーシアに尋ねていた。
「何があったんですか?」
「うーん、ちょっとね………」
アーシアが言葉を濁していると、ジークが別のことをノヴィアに言った。
「レオニスには会ったか」
「はい」
慌ててノヴィアは居住まいを正すと、うなずいた。
「ただいまと言いました。―――次は、いってきますと言う番です」
決然としたノヴィアの言葉に、ジークがうなずきを返す。
「ならば何も気にする必要はない。お前はお前のつとめを果たせばいい」
「はい―――」
それだけで、ノヴィアにはだいたい何があったのか察することができた。そうなると、レティーシャが言いたかったことも、わからないでもない。腹が立つのに変わりはないが。
「アーシアが依頼を受けた。後で話す」
「そうよ! 聞いてよ、ジークったらひどいのよっ」
わめくようにアーシアが言い、ノヴィアが目を丸くする。
三人のそのやりとりを少し離れたところから眺めるトールの肩の上で、アリスハートが淋しそうに足を揺らした。
「何か、ここにはあんまり長くいられないみたいだねぇ………。せっかくノヴィア、帰ってきたのに」
「何度でも帰ってくる場所ですよ」
穏やかなトールの声に、アリスハートは首を傾げた。
「え? どういうこと?」
「ここはノヴィア様が何度でも帰ってくる場所であって、ずっと居続ける場所ではないのですよ」
「うーん、トールの言うこともわかるんだけどねぇ。せっかくトールに会えたのになぁ」
「また会えますよ」
「それもそっか。えへへ。何度でも、帰るたびに会えるよね」
「はい」
笑いあう二人の前方では、アーシアから立て板に水のごとく愚痴を聞かされ面食らうノヴィアと、口を挟めないのか、その最中ずっと無言のままのジークの姿があった。