カオスレギオン 【新たなる旅路】――8

 聖印ハイリヒが無事に戻るやいなや、アーシアによって堤防の補強が行われた。
 レノの罪状は表向きは議員や商人への収賄ということにされたが、取り調べるうちに芋づる式に発覚した余罪のうちのひとつなので、間違ってもいない。レノは以前のやり手ぶりが別人のように腑抜けており、周囲を困惑させている。
 ジークとアーシアは聖地の議会と協力して事後処理にあたっており、手持ちぶさたになったノヴィアはレティーシャを探して、城の中庭へとやってきていた。
 旅立つ前に、もう一度会っておきたかったのだ。
 ノヴィアがその姿を見つけたとき、レティーシャは蠅を撒き散らしてはおらず、石材の上に腰掛け、手にした袋からぽくぽくと何かの菓子を食べている最中だった。そうしていると何やら幼い子どものように見える。
 足をぶらぶら揺らしていたレティーシャは、ノヴィアの接近に気づくとおそろしく嫌そうな顔になり、石材から降りるとさっさとどこかに行ってしまおうとする。
 その背に、ノヴィアは朗らかに声をかけていた。
「先ほど、聖堂の司祭となって、聖地に残ってくれないかとお願いされました」
 レティーシャの足がぴたりと止まった。ノヴィアは続けた。
「―――でも、断ったので安心してください」
 そう嘆願してきたのは、レオニスの側近だった一部の議士たちだったが、ノヴィアはきっぱりとそれを断った。最後にはほとんど怒りだしていた。この地の領主は、聖堂の管理者も兼ねていた。領主の血を引くノヴィアが司祭職に就いてしまえば、以前と何も変わらなくなってしまう。断って当然の願いだった。
 ノヴィアから思いもかけず叱りとばされ、議士たちは自分たちの甘えに気づき、おのおの反省したようだったが、ノヴィアとしては溜息のひとつもつきたくなる。
「馬鹿ばっか」
 レティーシャがふいに呟いた。
「そうすると、棄てるのにね。綺麗守るために行っちゃうね。もう一人のレオニス様。綺麗棄てるね。もう来ないね」
「ええ、もう行きます―――でも、棄てません」
 きっぱりとノヴィアは言い、ぎっとこちらを睨んだレティーシャに対して、にっこり微笑んでみせた。
 その笑みに、レティーシャがぽかんとした顔になる。
「私はもう行きます。でも、また帰ってきます。今度帰ってきたときには、レオニスがあなたに遺した綺麗を、ぜひ私に見せてください」
 ノヴィアを穴が空くほど見つめていたレティーシャだったが、急にそっぽを向いた。
 そして顔を背けたまま、ぼそぼそと呟く。
「………しばらく、帰ってこないで」
「ええ、当分その予定はありません」
「時間………かかるから。レオニス様、もっともっと綺麗、見せてくれるはずだから」
「楽しみにしています」
 微笑するノヴィアをどこか忌々しげに一瞥し、レティーシャはぷいと背を向けて立ち去った。
 白い髪が揺れるその後ろ姿を見送っていると、違う方角からアリスハートがやって来た。
「あ、いたいたぁ。何やってたのよぉ」
「うん、レティーシャさんにお別れを言ってたの」
「ええっ、あの人に? じゃあ、仲直りしたんだ?」
「どうかしらね」
「へ?」
 ふふっとノヴィアは笑うだけで何も言わないので、アリスハートは怖くて突っこんで聞くことができなかった。
「え、えーと、ノヴィア? 暇なら、あたしと一緒に広間に行こうよ。おもしろいものが見られるから」
「広間に何かあるの?」
「行ってみたら、きっとノヴィアびっくりするよぉ」
 首を傾げながらも、アリスハートに誘われるまま城の広間へとやってきたノヴィアは、そのレティーシャが作った聖母像を前に呆然と立ちつくす羽目になった。
「ほら、ノヴィアにそっくりでしょぉ?」
 アリスハートの得意げな声も、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
 眩暈がしそうだ。以前にもこの像は何度も見ていたが、似ているなどとは思いもしなかった。余裕がなかったのかもしれないが、それでもこうまで似ていたのなら、さすがに気づいたはずである。
 ならば、結論はただひとつ。自分がこの像に似てきているのだ―――。
 ノヴィアは聖母像を見あげ、ますます聖地から旅立つ必要性を感じた。たしかに、この像と同じ顔が聖地を歩き回っていたら、ノヴィアにその意志はなくとも聖地の象徴と見なされてしまいそうだった。
 それにしても………。
 思わず、しみじみとした呟きがノヴィアの唇から洩れていた。
「私、大人になったら、こんな顔になるのね………」
「そうだよぉ、ノヴィア、美人になるよぉ」
 無邪気なアリスハートの言葉に、ノヴィアはひとり顔を真っ赤にした。
 誰かに聞かれていたらと慌てて視線をはしらせたが、幸い広間にはノヴィアとアリスハート以外、誰の姿もなかった。
 この聖母像の顔を初めて見たとき、素直に綺麗だと感じたことを思いだし、ノヴィアは胸が騒いで落ち着かなくなった。
 どきどきと鼓動を打ち始めた胸を、そっと押さえる。
 アリスハートの何気ない言葉で、自分が過ごしてきた年月を急に思い知らされたのだった。法衣は何度か丈を直した。身につける位階のしるしも変わった。序列に厳しい〈銀の乙女〉では、年齢によっても服や紋章に細かな規定がある。十七。そうだ、自分はもうすぐ十七になるのだ。それは〈銀の乙女〉では成人と見なされる年齢だった。それは大人になるのと同じことで―――。
 ―――早く大人になりたい。
 かつて、何度も自分が繰り返し口にしていたことだった。
 その時が目前に迫ってきていることに今更のように気がつき、目の前がくらくらした。
「ア、アリスハート………」
「んー、どうしたのぉ?」
「………私、どこか変わったように見える?」
「えー、どこがぁ?」
 きょとんと答えてくるアリスハートに、ノヴィアはわずかな落胆を覚えた。
 アリスハートは聖母像とノヴィアを見比べ、
「そりゃあ、狼男の旅についてまわるようになったときと比べれば、ノヴィアはすっごく変わったわよぉ。色んなものを手に入れたじゃない。あたしや狼男と一緒に」
 自分なりの答えを見つけると、満足そうにひとつうなずく。
「でも、どんなに変わっても、ノヴィアはノヴィアだもん」
「私は私………」
 呟いたノヴィアの胸の奥で、鼓動とは別の何かがどきっと音をたてた。
 最初は暗くて、怖くて、光が欲しくて、縋りついたのだ。―――それから、力を得、自らそれを棄てた。新たな杖とともに歩みだし、多くのことを教わった。多くの人々の想いに触れ、自分自身のなかに隠れていた気持ちを見つけ、望みを知った。より遠くを見ることを覚え、相手もまた自分を見ていることを知り、ともに歩むこと、一人で歩むことの喜びを知り、友を得、喪い、故郷を得、守り、そして―――。
 去来したすべての記憶の向こう側には、いつも必ず同じ男の姿があった。
 自分の望み。最高の望みは―――。
 思わず、ノヴィアは聖母像を仰ぎ見ていた。
 両手を広げたその姿に、彼女の姿が重なった。蜂蜜色パーニヤの髪に翡翠の瞳。自分が大人になろうとして抱く理想の姿、雰囲気、面立ちを全て兼ね備えたような女性の姿。
 聖母のように両手を広げる彼女の顔は―――近づいて、越えたい、そう願うノヴィアをいたずらっぽく見守るように、やわらかに微笑んでいる気がした。
 唐突にノヴィアは、彼女がジークと出逢っただろう年齢に自分が達しつつあることに気づいた。
 途端に羞恥に近いに感情に襲われ、居たたまれなくなった。頬がかっと赤くなり、闇雲にどこかに走りだしたいような気分になる。何だか、落ち着かなくてたまらない。
「あ、ちょっとノヴィアっ !?」
 アリスハートが驚きの声をあげた。慌てたように広間から走り出たノヴィアが、ちょうど広間にやってこようとした人影と正面からぶつかったのだ。
 ノヴィアの鼻から頭蓋の奥にかけて、きーんと痛みがはしった。涙がにじみ、思わず鼻を押さえる。目の前に火花が散り、ふらついたノヴィアは、自分の鼻先に黒い革の胸鎧があることに気づいて仰天した。
「だいじょうぶか」
 落ち着いた声が頭上からふってくる。
 ノヴィアは慌てて顔をあげた。どうやら自分が激突した相手は、こともあろうにジークだったらしい。自分がジークに抱きつかんばかりの恰好になっていることに気づき、ノヴィアは悲鳴をあげて飛び離れた。
「だ、だいじょうぶですっ。何でもありません! 行ってきます!」
「い、行くってどこに? ノヴィア? ああっ、もう待ってよぉ!」
 猛然と走り去っていくノヴィアを、アリスハートが追いかける。遠ざかっていく二人の姿を見送りながら、アーシアが呆気にとられて呟いた。
「どうしちゃったの、ノヴィアちゃんってば………」
「わからん」
 ノヴィアに悲鳴をあげられたせいか、ジークは心なしか憮然とした顔でそう答えた。
 議士長やトールとともに今回の事後処理を終え、ノヴィアを迎えに来た二人だったが、肝心のノヴィアがどこかに行ってしまった。しかたなく広間に入った二人は、問題の像を見あげた途端、やはり呆然とした顔でそれを見あげた。
 ジークでさえも驚いたように目を見開き、無言で像を凝視する。
「やだ、ほんとにそっくり………」
 アーシアが呟く。
 二人して食い入るように像を見つめたまま、しばらく動けずにいた。それほどの驚きだった。
 やがて、アーシアが溜息をつき、首をふった。
「こればかりはレノの言った通りかもしれないわね。たしかに、似すぎよ」
「前に見たときはそれほど似ていなかったんだが………」
 ぼそりとジークが呟く。
 まるで像の顔が変わったと言わんばかりの言いように、アーシアが呆れた顔になった。
「ジーク、あなたねぇ………」
 呆れ顔のまま、アーシアは腰に手をあてた。
「あのね、ノヴィアちゃんだって、いつまでもちっちゃいままなわけないでしょ。あなたは忘れてるかもしれないけど、ノヴィアちゃんはもうすぐ十七なの! 〈銀の乙女〉じゃ成人よ成人! 単独での巡礼も許されるし、希望する聖堂への赴任もできるようになるの!」
 ジークは像からアーシアに視線を移し、奇妙な表情になった。それから自身の胸―――さっきノヴィアがぶつかってきたあたりを見つめる。
「そういえば………背が伸びたか」
 ノヴィアが聞いたら激怒しかねない。アーシアは、このやりとりだけはノヴィアに聞かせるまいと固く決心をした。
「もうっ! そんなんじゃノヴィアちゃんに愛想つかされるわよ!」
「それは困る」
「そうよ、困る―――えっ?」
 アーシアが呆気にとられているうちに、ジークはさっさと背を向けて広間の外に出てしまっている。いま耳にしたのは幻聴かと思いかねない素早さだった。
「ジ、ジーク?」
「あいつはいつでも力を棄てられる」
 小走りに追いついたアーシアの耳に、ジークのそんな言葉が聞こえてきた。まるで独り言のような調子だった。
「自分一人の意志で、あいつはそれを決めることができた。誰一人として果たせなかったことを、あいつはたった一人で決めて、実行した―――」
「ねえ、ジーク、何の話?」
「ノヴィアが力を棄てたように、俺もいつか剣を棄てたい」
 アーシアは耳を疑った。ノヴィアが従い、師として主として仰いでいるジークが、彼女のように力を棄てたいと望んでいるなどと、思いも寄らないことだった。
 しかし、ふと自分はどうなのかという疑念が湧き起こった。自分は銀銃ヘイリンを棄てられるのか。胸に刻まれた浄める者リンスレットの聖印すらも棄てて、称号すらもなくし、紋章も返し、何者でもないただのアーシアとなることを、たった一人で決めることができるのか―――。
 ぶるりと身を震わせ、アーシアはジークがそう思う気持ちが少しだけわかったような気がした。
「変な話………。ノヴィアちゃんは、ずっとあなたの背中を見てるのに。本当はあなたがノヴィアちゃんを追いかけているのね」
 ジークは否定も肯定もしない。
 ふふっとアーシアは笑って、ジークの隣りに並んだ。ジークが言う意味では、アーシアも、同じようにノヴィアを追いかけているのだ。愛想を尽かされて困るのは、こちら側だった。
「―――ノヴィアちゃんはすごいなあ」
 思わず、感嘆の溜息が口をついてでいた。ジークは無言だったが、似たような思いでいることがわかり、アーシアは何だかおかしくなった。
 いつか剣を棄てるために戦う―――。
 その日が来たときこそ、先を行くノヴィアの隣りに、ジークもアーシアも並ぶことができるだろう。ノヴィア自身は、自分が二人の先を歩いているなど、少しも気づいてはいないだろうが。
「………ジーク、あんないい子、手放しちゃダメよ。愛想つかされるのが困るなら、ノヴィアちゃんに背が伸びたかなんて、絶対に言っちゃダメ。いい? 絶対よ?」
 思わず強い口調でそう言ったアーシアに、ジークは何とも言えない表情で顔をしかめたのだった。



 ―――春の淡い色をした空の下、聖地の外れに、旅立つジークたちの姿があった。
 聖都ロタールへと続く大きな街道が、その足元から遙か先へと伸びている。
「こんなに早く、別行動になるなんて………」
 しみじみとそう呟いたのはノヴィアだった。
 ノヴィアとアリスハート、ジークの正面では、アーシアが一人、晴れ晴れとした顔で笑っていた。
「しかたないわ。あなたたちまで聖都に戻る必要はないんだもの」
 聖法庁への親書を託されたアーシアが、ジークたちと別行動になるのは当然だったのに、数日前までそのことを失念していたノヴィアは、こうして離ればなれになることがひどくさびしく思えた。
 ジークと違う使命を負うアーシアとはいつか、別行動をとる日も来るだろうと予感していたのだが、こんなに早いとは思ってもみなかったのだ。
 いまはまだ、ともに旅をしたいと願っていたのに―――。
「だいじょうぶよ」
 ノヴィアの表情に気づいたのか、アーシアが元気づけるように明るく言った。
「聖都での用をすませたら、すぐにでも追いかけるわ。私が表で色々騒いだほうが、ジークのほうもやりやすいでしょ?」
 思いも寄らないその言葉に、ノヴィアが目を見張り、アリスハートがかこりと顎を落とす。
 ジークは特に表情も変えなかった。知っていたのか、と問うこともなく、
「ああ、助かる」
 などと、淡々と答えている。
 ますます開いた口が塞がらなく二人に、
「あ〜あ、私もたいがいお人好しよね。自分から噛ませ犬を引き受けるなんて」
 アーシアは軽く肩をすくめ、二人に対して軽く片目をつぶってみせた。
 自分はまだまだ子どもだと、わけもわからず宝杖バストーを握りしめてしまうノヴィアだった。
 少し離れたところでは、アーシアが乗る馬の手綱をトールが押さえ、話が終わるのを待っている。
 アーシアが旅立つのを見届けてから、ジークとノヴィアも旅立つことになっていた。
 やがて、アーシアがさっぱりした表情で三人を見回した。
「じゃあ、私そろそろ行くわね」
「ああ」
 ジークがうなずき、ノヴィアとアリスハートもそれぞれ言葉をかける。
「お気をつけて」
「ノヴィアもいないんだから、勝手に道を外れちゃダメよぉ、アーシア」
 途端にアーシアがむっとした顔になり、
「わかってるわよ」
 などと、子どもっぽい口調で反論する。
「チビもたまにはいいことを言う」
「ちょっと! ジークまで何を言いだすのよっ」
「だからチビって言うなっ!」
 そのやりとりにノヴィアがくすくす笑っていると、不意にアーシアが法衣の袖を引っぱって、ジークとアリスハートから遠ざかろうとする。
「どうしたんです、アーシアさん?」
「いいから、ノヴィアちゃん、ちょっと………」
 首を傾げながらも、ジークたちに声が届かないところまで離れたノヴィアに、アーシアが変に慌てたような表情で囁いた。
「その………………抜け駆けしちゃ、ダメよ?」
 思わずノヴィアは、まじまじとアーシアを見つめ返してしまった。
 アーシアは、ちょっと焦ったような怒ったような、何とも言いがたいどぎまぎした顔でノヴィアの返事を待っている。
 何だか妙におかしくなってしまい、ノヴィアはくすっと笑うと、その耳元に囁き返した。
「だいじょうぶです。私、当分は従士ですから」
 いつか、ジークが剣を棄てる日が来るまで、自分は従士でいるのだ。そこから先は―――わからない。まだ、何も予想できそうにない。
 アーシアがノヴィアを見る。
 ノヴィアもアーシアを見た。
 二人して見つめ合い、それから同時に同じ人物のほうをふり向いていた。
 ジークは相変わらずいつもの恰好で、シャベルを片手に、女同士の内緒話が終わるのを待っている。特に興味もないという無表情なその顔の隣りでは、逆に興味津々といった顔でアリスハートが宙を舞っているのだった。
 アーシアとノヴィアは再び顔を見合わせ、二人して弾けるように笑いだしていた。
「頑張れっ、ノヴィアちゃん!」
「頑張れっ、アーシアさん!」
「はいっ、頑張りますっ!」
「うんっ、頑張るわっ!」
 ぱんっと両手を叩き合う二人の姿を見て、離れた場所ではアリスハートが呆れたように、しみじみと呟いていた。
「二人頑張るちゃんって言うのかしらねぇ、これは………」



 遠ざかる騎影を見送っていたノヴィアは、傍らのジークが動く気配に顔をあげた。
「そろそろ、俺たちも行こう」
「はい」
 うなずいて、ノヴィアは遠ざかるアーシアの姿に背を向けた。
 これから先は、かつてのようにジークとアリスハートとの三人旅になるのだ。それがひどく久しぶりであることに改めて気づき、妙に照れくさいような気持ちになった。
「狼男も残念だわねぇ、もう馬に乗れなくなっちゃって」
「歩くのが当たり前だ」
 アリスハートのからかいに対しての、ジークの答えはあっさりとしたものだった。その足取りは大地を踏みしめ、迷いなく道の先を目指している。
「乗れれば儲けものだけど、乗れなくてもいいってわけねぇ」
「………いつか、乗れるようにもなる」
「へ?」
 思わずきょとんとしたアリスハートにジークは淡々と、
「いつか、剣を棄てる日が来る。その日が来れば、力も棄てる」
 当然のように言った。迷いのないその口ぶりに、アリスハートのほうが呆気にとられ、わけもわからず、うなずいてしまう。
 ノヴィアが立ち止まった。
 先を行くジークがそれに気づき、怪訝そうにふり返った。アリスハートも不思議そうな顔になる。
 たたずむノヴィアは、凛とした顔でジークを見据え、そして、
「―――その日まで、私はジーク様の従士です」
 春の風に吹かれながら、迷いなく、そう告げていた。
「どうか、ジーク様が剣を棄てるその時を、私に見守らせてください」
 まるで挑むかのような口調だった。ジークは微動だにせず立ち、ノヴィアを見つめている。
 やがて、確認するように、
「それが、お前の見たいものか」
 ひどく素っ気なく問うた。アリスハートがどきりとするような口調だったが、ノヴィアは怯むことなくうなずき、ふわりと微笑さえしてみせた。
「はい。ぜひ………私に見せてください」
 栗色の髪が風になびき、ノヴィアはふと、己の目線が以前よりも高くなっていることに気づいた。
 こうやって少しずつ、自分は近づいていくのだ。多くの望みに、多くの場所に。目の前の男に―――。
 ジークがわずかに目を細めた。その口元に、珍しくはっきりとした微笑が浮かび、
「―――頼む」
 短く、そう答えていた。
 ジークの笑みに目を奪われていたノヴィアは、はっと我に返ると、その頬に朱を散らせながら、うなずいた。
「は、はいっ! 頑張ります!」
 呆気にとられるアリスハートの脇を抜け、ジークの傍らも通り過ぎて、ノヴィアは小走りに先へと行ってしまう。
「何かよくわからないけど………ノヴィア、元気だねぇ」
 アリスハートが首を傾げながら、その後を追いかけて、ついっと先へ飛んでいく。
 道の先を行く、青い法衣の小さな背を見つめ、ジークが微かに囁いた。
「………きっと、お前が最後の従士になる」
 ノヴィアが立ち止まり、ジークのほうをふり向いた。
 花がほころぶように笑い、早く来いとでもいうように首を傾げてみせる。その傍らで、アリスハートが呆れたように腰に手をあてて、何やらわめいていた。
 ジークは確かな足取りで追いつくと、並んで道を歩き始めた。