カオスレギオン 【新たなる旅路】――7
春先特有の曇り空は、月を隠しているところだけを朧に輝かせながら、風によってゆっくりと流されていく。
雲間から月が顔を覗かせる時だけ、湖面が鏡のように闇にきらめいた。
対岸がかすむほどに大きい湖の堤防の上で、複数の人影が人目を忍ぶように動いていた。
昼にジークが書状を受けとった場所よりも街から離れた、湖をだいぶ西にまわりこんだ場所である。ちょうど領地の北西にあたる湖岸だった。
かつて湖の北岸をとり囲んでいたはずの森は、戦時の伐採や秘儀の乱発によって跡形もない。わずかに残された木立と植林された若木が、まばらに湖に接して立っているだけである。
身を隠す場所もないようなその湖畔で、黒一色に身を固めた者たちが、灯りもともさずに何かの作業をしているのだった。
やがて、一人が湖のなかから何かを引きあげる。
手鈎に引っかけられた革の袋だった。それが幾つもある。
何度か手繰り寄せる作業をくり返し、とうとう全部引きあげ終わると、黒装束の者たちは今度は堤防からそれを降ろしはじめた。下で待ち受けていた者がそれを受け取り、傍らの馬に載せようとする。
「―――そこまでにしていただきましょう」
黒装束姿の男たちが一斉にふり向いた。
視線の先に、レノ・サピアスの姿があった。背後には無数の兵の姿があったが、その鎧に聖地の紋章である白水仙の図案はどこにも見あたらない。
「聖地の聖印、こちらに返していただきましょう」
男たちの総身から、じわりと怒りの気配がにじんだ。
「どういう意味だ」
「まさか貴様、我らを裏切るつもりか」
「これは人聞きの悪い」
レノは涼しい顔で軽く肩をすくめただけで、否定はしなかった。
「先に独断で動いたのはそちらでしょう。なぜ勝手に聖印を盗みだしたのですか」
品の良い口調はそのままに、その声音は侮蔑に満ちている。
「まだその時期ではないと私は言ったはずです。あなたがたが無断で聖印を移動させてしまったせいで、私は何も知らずに堤防の補強などを頼んでしまったではないですか。あろうことか、ジーク・ヴァールハイトが同道している聖師士などに。おかげで非常に困った事態になってしまった」
レノは溜息混じりに眉間を指で押さえた。
黒装束の男のひとりが、いらだった様子でレノを睨みつける。
「そのような些事は、いまここで聖印を持ち出してしまえばすむことだ!」
「無理です。それでは私の計画にも差し障りがでてきます」
「何だと………?」
「私も、この聖地を愛してしまったということですよ」
芝居がかったしぐさでレノは両手を広げてみせた。
「すばらしい土地です。わざわざ聖印など盗みださずとも、この地で王になればいい。あなたがた隣国の都合にも、すでに死んだヴィクトール・ドラクロワに従う烏合の衆にも興味はない。支配の形は何も王という名前で行う必要はないのですよ。合議制とて、あらゆる根回しを行うことによって意のままに動かせる」
レノが片手をあげると、背後の兵が一斉に弓を構えた。
「聖印を取り戻した功績によって、私の議会での影響力がまた一段と強まるわけです。あなたがたにはもう付き合っていられない。私のために消えてもらいます。―――この地を足がかりにして、私はただ一人の王になる」
「貴様………!」
怒りと狼狽の叫びがあがった。
レノの笑みが一段とにこやかさを増す。
弓が引き絞られる音だけが、闇夜に響き―――。
ずどん! 湖面を揺るがすような音が、突如としてまったく別の方角から響き渡っていた。
双方が愕然として音のしたほうをふり返る。
「―――仲間割れか」
「ジーク・ヴァールハイト―――」
その名を呟くレノの額に汗がにじんだ。
地面にシャベルを突き立てたジークがひとり、その場に立っていた。
「聖印を置いて、いますぐこの地より立ち去れ。二度と戻ってくるな」
ジークが隣国の間者に向かって、傲然と告げる。それからレノのほうに目をやり、
「貴様は、聖地の法で裁かれるべきだ」
「聞く耳持ちませんよ、ジーク殿。あなたをここで黙らせてしまえばすむことだ」
「お前にそれができるか」
「ならば、いまここで、あなたのその力で魔兵を招きますか? そうすれば引きあげられた聖印はひとたまりもなく惰気で歪むでしょうね」
レノが従える私兵の半数以上が、矢の狙いをジークへと変えた。
狙われたジークは平然として、表情ひとつ変えずに左腕を持ちあげた。
「ためしてみるか」
「脅しても無駄ですよ」
レノがせせら笑う。しかしすぐに、その表情が笑みのまま凍りついた。
ジークが素早く銀剣を抜き放ち、雷花をまとわせた左腕を大地に叩きつけたのだ。まばゆい雷光とともに轟々と風が吹きすさび、あたりに惰気が荒れ狂う。
「馬鹿な、本当に魔兵を―――聖印ごと我々を――― !?」
刹那、轟音とともに隣国の間者たちが高々と弾き飛ばされていた。
まったく別方向から来た青い光の一撃が、男たちを湖へと吹き飛ばしたのだ。凄まじい音が続けざまに響き渡り、湖畔が昼のように明るく照らされる。同時に、凛冽とした聖性があたりに渦を巻いて広がった。ジークが放つ惰気が、みるみるうちに押しかえされていく。
銀銃を両手に構えたアーシアが、ノヴィアとともに、間者がいた場所へと走りこんでいた。
「聖印は任せて!」
アーシアが左手の銀銃を天に向かってかざすや、その聖性を息吹かせる。
「な、なん―――」
レノが混乱から立ち直るよりも早く、ジークの口から烈声がほとばしった。
「ジーク・ヴァールハイトが招く!」
稲妻が荒れ狂い、惰気とともに無数の気配が大地から噴きあがる。シャベルの歯が銀色の飛沫となって溶け、顔のないトカゲのような姿で凶悪な咆吼をあげるにいたって、レノもその私兵も、愕然とその場に凍りついていた。
アーシアの銀銃によって早春の湖に突き落とされた隣国の間者は、這々の体で争乱の場所から離れた湖岸に上陸した。
「レノ・サピアスめ………!」
怒りと寒さに震えながら、呪詛の言葉とともに男たちは顔を上げ―――凝然とその場に凍りついた。
まるで幽鬼のように、女がひとり立っていたのである。足は裸足で早春の冷たい大地を踏みしめ、髪も服もぞっとするほど白い。
妙にあどけない恬淡とした双眸が男たちをとらえていた。
「レティーシャ・ベルゼブベス―――!」
「逃がさない」
その足元から霧のように湧きあがった黒雲が、すさまじい羽音とともに男たちに襲いかかった。
「………遅かったようですね」
トールがその場にやって来たとき、湖岸にはレティーシャがひとり、ぽつねんと立ちつくしているだけだった。
やってきた彼を一瞥しただけで、レティーシャは顔色も変えずにたたずんでいる。
疲れた表情でトールは溜息をついた。
「情報を聞きだすために生かしておいてほしかったのですが……」
「ぐぶ」
考えていなかったというふうに、レティーシャが短く唸り声を発した。
トールが無言でいると、レティーシャは居心地悪そうにそわそわとしていたが、やがて、
「………次から、そうする」
視線をよそに向けたまま、ぼそぼそとそう呟くと、トールの脇を通り過ぎて、どこかに行ってしまおうとする。
「レティーシャ」
「ぶ」
嫌そうに立ち止まった相手に、トールは穏やかに声をかけていた。
「ありがとうございます」
「………レオニス様の綺麗、もっと見たいだけ」
小さな声でそう囁くと、レティーシャは今度こそ姿を消してしまった。
残されたトールは鉄鞭をしなわせると、無言で音がする方へと足を向けた。
悲鳴や怒号、武器や防具がたてる耳障りな金属の音をかき消すように、向かう先からひときわ大きく響いてくるのは、この世の者ではない魔兵たちがあげる、哀れで暴虐な唸り声だった。
彼等を招くただひとりの存在に向かって、トールは語りかけていた。
「あなたと同じように、いつか剣を棄てる日が来ると、信じています。ジーク・ヴァールハイト―――」
さらなる戦いの場へと歩きだす彼を、湖畔にひっそりと咲く白水仙の花が見送っていた。
レノは血走った目であたりを見回していた。
周囲では彼の私兵が次々と斃れていく。魔兵のおぞましい姿に恐慌をきたしたまま、その爪や牙で引き裂かれ、絶叫とともに血を流しながら戦意を失っていくのだ。
誤算だった。まさかジーク・ヴァールハイトが聖印を前にして魔兵を招くとは―――。
あの女の聖師士の得物は知っていた。虚無を穿つ銀銃―――〈銀の乙女〉が身を守るときだけに使用する武器。聖師士としての箔付けと護身を兼ねて、マグノリア大聖堂が授けたのだと理解していたそれが、まさかあんな使い方をされるなどと、どうして予想ができようか。
いまや、彼と彼の兵たちは堤防を背にして、魔兵たちに三方を囲まれてしまっていた。
「降伏しろ」
ジークが厳然とした声音で告げる。
「この期に及んで降伏の勧告とは………。お優しいことですね、ジーク・ヴァールハイト」
「お前を裁くのは俺ではない。この地の民だ」
「仕方ありません」
その言葉に、降伏するのだと誰もが思ったときだった。
ジークがわずかに眉をひそめた。突如としてレノは狂ったように笑いだしていたのだ。
「これ一枚しか作りだせなかったので、あまり使いたくはなかったのですが」
懐から取り出された水晶の板のようなものに、ジークが瞠目した。
その意図を阻止するべく、魔兵が一斉に殺到する。しかし、レノがそれを片手で堤防に押しつけ、腰から抜いた短剣で、堤防の聖印を傷つけるほうが速かった。短剣の刃には聖印が刻まれ、尋常のものではないと一目でわかる。
傷つき、解体された聖印が光の欠片となって宙を舞うのと、レノの手の下で聖印の原型が、かっと光を放ったのは同時だった。
―――轟音と共に堤防の壁が崩れ、水が怒濤の勢いであたりへと流れこんだ。
大地とのつながりを断たれた魔兵が、たちまちのうちに酸を浴びたように溶け崩れていく。ジークはさらなる魔兵を招くため、後方へと跳躍して逃れた。
「いまです、聖印を奪いなさい!」
レノが叫び、崩れた包囲網の一角から、アーシアのもとへと兵が殺到した。
「アーシアがまずいよっ、ノヴィア!」
聖印を戦闘から遠ざけるためにその場を離れていたノヴィアは、アリスハートの叫びに慌ててアーシアのほうを見た。
聖印の原盤は、湖の水を満たされた革袋のなかにひとつずつ収められていた。聖性を宿したシャイオンの水で聖印は密閉され、その聖性を保護されている。
これならば、多少手荒に扱っても問題はない。
難点は、金属盤の重さに加え、革袋に満たされた水のせいで、そのひとつひとつがかなり重いことだった。ノヴィアの力では同時に三つを運ぶのがやっとである。
運び終えたのは九つ。まだ六つが、まだアーシアの足元に残っている。決壊した堤防から溢れだした水が、みるみるうちにそこに押し寄せ、あたりを濡らしていく。
アーシアは両手で銀銃を撃ちまくっていた。聖性が嵐のように吹き荒れ、轟音とともに兵が吹っ飛んでいくが、きりがない。
アリスハートを原盤のもとに残し、アーシアのところへ駆け戻りながらノヴィアは叫んだ。
「矢が見えます―――!」
突如として現れた金色の矢が、驟雨のように兵たちに向かって降り注いだ。
多くの者が悲鳴をあげてその場で転げまわり、そこに炸裂した銀銃がさらに多くの兵を吹き飛ばしたが、逆に幾人かが弾丸を避けてアーシアの足元へと転げこんでくる。
慌てて銀銃を向けるアーシアだったが、銀銃が火を噴くよりも、兵士が原盤の入った袋のひとつを後方へと投げ飛ばすほうが速かった。
遅れて放たれた青い光に、足元にいた兵が悲鳴をあげて吹き飛ばされる。
高々と投げあげられた袋は、弧を描きながら落ちていく。
アーシアは唇を噛んで頭上を見あげ、目を見開いた。
途中で口紐がゆるんだのか、銀色の飛沫とともに、輝く金属の板が袋から零れて宙を舞うのが見えた。落ちていくその先では、戦いの憎悪と魔兵によって惰気が渦を巻いている―――。
とっさにアーシアは原盤に銀銃を向け、渾身の力でその聖性を息吹かせていた。
青い光が拡散し、原盤が聖性に包まれる。同時に衝撃によって、小さな金属盤はより高く空中へと舞いあげられた。
落下地点に向けてレノの兵が殺到する。
走るノヴィアは、見あげたその先で原盤に刻まれた聖印をはっきりと見てとっていた。
―――豊穣の聖印。
実りをもたらし、土地を豊かに―――レオニスが約束してくれた―――泣くノヴィアを抱きしめて―――戦いの向こうには平和があるのだと―――いかなる傷を人と心と土地に負うことになろうとも、その先には豊穣と幸せが―――。
(レオニス………!)
夢中でノヴィアは叫んでいた。
「階段が見えます………!」
虹色にきらめく幻視の階段が、ノヴィアの足元から瞬く間にして虚空へと伸びた。アーシアが、レノが、兵が、愕然と見あげるなか、ノヴィアはひとり、幻の階段を駆けあがっていく。
眼差しの力が階段を見るよりも、ノヴィア自身が駆けあがる速度のほうが速かった。やがてその足が、虚空へと消える階の最後の段を蹴る。
ためらうことなく、ノヴィアは空中へと身を投げだした。
栗色の髪が夜風をはらんでゆったりと広がる。落下しながら、ノヴィアは懸命に聖印へと手を伸ばした。
(レオニス………!)
灼けつくような想いで、祈った。いまここで、どうか自分にこれを受け止めさせてくれ。
きっと、いまここで、こうするために、自分はこの地に帰ってきたのだ。守るために―――。
(レオニス………お願い!)
じりじりするような一瞬の間をおいて、両手が聖印の原盤に触れる。
すかさず聖印を引き寄せ、胸元へと抱きこんだ。身をよじる直前、真下で自分を見あげる憎悪に歪んだレノの顔が見えた。
それを最後にノヴィアの体は反転した。耳元で風が唸り、背を下にして落ちていく。目に映るのは曇った夜空だけだった。
幻視の力を大地に向けて発揮することもできなかったが、ノヴィアに恐怖はなかった。
逆に、不思議なほどに確信があった。
確かなその予感とともに、原盤をしっかりと抱きしめ、目を閉じる。
―――ノヴィアの体は、大地に叩きつけられることも、槍に貫かれることもなかった。
横合いから伸びた腕が風のように彼女を抱き留め、堤防の上へと軽やかに跳躍していた。強い惰気に全身を包まれる。ノヴィアは安堵とともに、よりいっそう原盤を己の体へと押しつけた。
赤籠手をはめた腕が堤防の上にノヴィアを降ろした。彼女が抱く原盤への悪影響を怖れるように素早く遠ざかるその影を、とっさにノヴィアは見あげている。
そこに、声が届いた。
「よく、守った」
「はい―――!」
「あとは、俺がやる」
「はい………!」
そのまま剣を手に、ジークは堤防をすべり降りていく。途中で側面を蹴って跳躍すると、ジークは左腕に雷花をまとわせ、着地と同時に乾いた大地の上に叩きつけた。
「ジーク・ヴァールハイトが招く!」
かっと稲妻がほとばしり、惰気の風が吹き荒れる。
白い光にレノの歪んだ顔が、塩の彫像のように浮かびあがった。魔兵が咆吼をあげ、アーシアの銀銃が立て続けに轟音を放つ。
新たに招かれた魔兵が水に溶け崩れていくよりも、レノたちが戦意を喪失するほうが早かった。
「に、逃げ………」
自らの兵をも見捨て、ひとり戦いの場から逃げだそうとしたレノの行く先に、音もなく人影が立っていた。
静かな怒りをこめた隻眼が、レノをとらえる。
「どこに行こうというのです?」
「ひっ………」
反射的に後ろをふり向いたレノは、背後からジークが歩み寄ってくることに気づき、逃げることもできずにその場に立ちつくした。
「お前のような者にこそ、アズライールは囁きかけ、利用する―――」
「な、何をわけのわからないことを………!」
「囁きが聞こえなかったか?」
ジークが淡々と言い、わずかにその左腕を持ちあげた。背後では、溢れる水がその勢いを衰えさせていた。武器を棄てた兵に剣や爪と突きつける魔兵たちの向こうに、堤防の水門を閉じ、自ら幻視した階によって大地に降り立つノヴィア・エルダーシャの姿がある。彼女を出迎えた聖師士は、まだ油断なく銀銃をあたりに向けて構えていた。
ジークが重ねて問うた。
「ただ一人の王になれ、自分こそが王だ―――そう囁く声が聞こえてこなかったか」
「馬鹿なことを………それこそ、私の野心だ! 私の望みなのだ―――!」
「囁きは、自分自身の魂のなかから聞こえてくる」
顔を引きつらせたレノに向かって、ジークの左腕が掲げられていた。
トールが無言で目を見張る。
「ジーク・ヴァールハイトが招く!」
紅蓮の雷花の咲き乱れる左手が、レノの胸に向かって叩きつけられていた。
「アズライールの欠片よ! 世界の原理の下、いまひとたび無数の命に宿り、飛散せよ! ―――何度でも俺が、お前を葬る!」
男の全身を紅蓮の稲妻が奔り抜け、その身から目には見えない何かがジークによって引きずりだされると、闇のなかに四散した。
意識を失ったレノが大地に倒れこむ。
哀れな男だとトールは思った。もしレオニスが生きていたとしたら、レノのような男を取りたてることはない。最初からわかっていたのだ。
いまはそれよりも訊ねたいことがあった。
鉄鞭が黒い靄となって、トールの手から消える。
その隻眼が、正面に立つ赤髪の男の姿をとらえていた。
「―――アズライールとは、聖印をもたらした神の名ではないのですか」
「そうだ」
「なぜそれを、あなたが葬るのです………? いえ、あなたが聖都で葬った真実こそが………神だったのですか?」
トールの問いに、ジークはしばらく沈黙していたが、やがてぽつりと応えた。
「ヴラドの民にも、言い伝えがなかったか」
「は?」
「クレマチスの民と和平を結ぶにあたって、忘れ去られた伝説だ。俺が出逢った蛮族は、みな似たような伝承を持っていた」
何のことかと問い返そうとしたトールの脳裏に、ひとつの答えが浮かびあがっていた。それは、自身の記憶のなかから導かれた答えだった。この身がシャイオンの民ではなく、まだヴラドの民であった頃、長老から聞かされた口伝の一説が、記憶の蓋を開かれ、まざまざと甦ってくる。
「豊穣の種を蒔く神は………大地から実りを刈りとる。我らは神の手のひらからこぼれ落ちた種であり、蒔かれることなく大地に芽吹き、刈られることなく大地に還る………」
ジークは静かな意思を宿す双眸で、トールを見ている。
トールはわずかに震える呼気を肺から吐きだしていた。
「あなたは………あなたがたの、理想は―――」
「理想は、レオニスが継ぎ、真っ先に示してくれた」
虚を突かれてトールは黙りこんだ。ジークは剣を収め、元通りになったシャベルをかつぐ。その指が一瞬、左腕の聖印に触れていた。
「それを、俺もあいつも感謝している」
トールはただ無言で目を伏せた。
胸に迫るものがあった。この言葉をレオニスに聞かせたかった。彼はとうに知っているのかもしれないが、だがトールはそうしたかった。
レオニスもトールも、ジークとドラクロワの姿を心に描き、その背中を追い、勝つことを、越えることを、灼けるように渇望していたのだ。
レオニスは孤独な戦いと苦悶の果てに、とうとう追いつき、追い越して、その先へと行ってしまった。今度は、トールがそれに追いつかねばならなかった。
神すらも越えて―――。
「聖印は………これからどうなるのですか」
「いまはまだ消えないだろう」
ジークはあっさりとそう言った。
「聖印は人の魂を解放し、力に変える。いままで聖印の先は、神へと繋がっていた。いまは全人類に繋がっている」
「それは―――」
「円環だ」
ジークが静かに、そう告げた。
「全ての者が、王になる。誰もがみな、自分自身の王である限り、聖印が人を食うことはない。それは人に還る、人自身の魂の力だ」
ちらりとふり返った視線の先には、アーシアとノヴィア、アリスハートの姿があった。足元には、彼女たちが守った聖印の原盤が誇らしげに置かれている。
視線に気づいたアーシアが、こちらに手を振り返してきた。
まるでその仕草に応えるように、ジークの言葉が紡がれる。
「いつかは聖印も失われるかもしれない。俺やお前が、剣を棄て命を終え、大地に葬られた遙か後に。………だが、理想は生き続ける」
「レオニス様が亡くなられた後でも、この国が歩きつづけるように………ですか」
後を続けるように、トールはそっと囁いた。
ジークがふっと表情を動かした。微かに笑ったのかもしれなかった。