カオスレギオン 【新たなる旅路】――6

 議会の主立った者たちに極秘に伝えられた聖印ハイリヒ盗難の報は、告げられた者たちに言葉通り、震撼をもたらした。
 事は聖地の存亡に関わる。
 聖地の民のほとんどに伏せられた形で、聖印の捜索は行われた。
 誰が何の目的でどのようにして盗みだしたのかという問題は明らかになっていなかったが、それも聖印が聖地の外に運びだされる前に見つけだし、相手を罠に掛けて捕らえれば明らかになることである。聖印の確保を最優先として、探索の指揮が執られた。
 アーシアとノヴィアもその捜索に協力した。みな何も言わなかったが、ノヴィアの万里眼ばんりがんの力に期待が寄せられていることは明らかだった。
 盗難が発覚したその日から、ノヴィアは聖地のあちこちをその眼差しで見通している。
 以前のように力を酷使しすぎて盲目となるような失態は起こさなかったが、それでも万里眼の力を発揮し続けての先の見えない探索は、確実にノヴィアを疲労させていった。
「どうかご無理をなさいませんように」
 慇懃に微笑してノヴィアをねぎらったのは、レノと名乗った議士だった。礼儀正しい態度にノヴィアは好感を持ったが、どちらかというと笑顔の違和感のほうを強く感じた。
 知った顔でもなかったため、曖昧に笑ってごまかしていたところにアーシアとジークがやって来たので、これ幸いとばかりに会話を任せてしまった。聖地の要職にある者たちとは、なるべくジークを通して会話するようにしている。従士であることを印象づけるためだった。
 レティーシャに出ていけと言われた背景をおもんぱかると、ノヴィアが率先して動くのはあまり良いことではないのだが、それでもここで聖印を見つけださないとレオニスの働きそのものが無駄になってしまう。
「ノヴィア、無理しちゃだめだからねぇ。ノヴィアだけに聖地の隅から隅まで見て捜せっていうのは無茶な話なんだからぁ。ほんとに無理しなくていいからねぇ」
 アリスハートがそう言って、ノヴィアの頬に手をあてた。
 ノヴィアは眼差しを元に戻すと溜息とともに目を閉じ、宝杖バストーを額に当てて聖性の回復に努めた。
「ううっ、自分が覗き魔になったみたいでイヤだわ」
 十五枚の金属の板の隠し場所など、ノヴィアには見当もつかなかった。
 聖印の原盤はそれほど大きなものではない。聖印自体が人の腕や腹などの特定の箇所に刻めてしまうような大きさなのだ。それを刻みこんだ板の大きさなどたかが知れている。ちょうど手の幅三つ分ほどの正方形の金属盤だ。
 そんなもの、どこにでも隠せる。一枚ずつばらばらに隠されでもしていたら、お手上げだった。
 おまけに以前、力を酷使しすぎたおりに、ノヴィアが捜していたのはドラクロワのみ―――つまり人の姿にだけ注意を払っていればよかったのだが、今回は物が物だけに、あちこち隠し場所になりそうなところを見なければならず、ノヴィアは自分が覗きの常習犯になったようで気分が悪かった。
 そして、ノヴィアの気持ちを暗くさせているものは、もうひとつあった。
 ―――内通者。
 聖印を盗みだした犯人は、合い鍵を作りだして犯行に及んだ可能性が高かった。
 それはつまり、鍵を管理していた議士代表者たちが誰であるのか、またどんな方法で管理していたのか、いつ何時にその鍵の型を取ることが可能なのか、熟知していたということである。
 シャイオンの統治にたずさわる者たちのなかに、裏切り者がいるかもしれないという事実が、ノヴィアの気持ちを重くしていた。
 あの激戦のさなかには、あれほどみなの心がひとつになっていたというのに、平和が来た途端、欲心が芽吹くのだろうか。
 やるせなくなってしまったノヴィアは、頭をふって暗い考えを追いだした。
「いけない、頑張らなくちゃ。時間がないんだもの」
 ノヴィアたちが聖印の盗難を知ったことは、盗んだ者もとっくに気づいているだろう―――アーシアが堤防の聖印を補強するというのは、議会で議決されたことなのだから。
 今頃、向こうも聖印をシャイオンの外に持ち出そうとしているはずである。何としても、その前に聖印を見つけださねばならない。
 懸念は聖印の聖性がきちんと保護されているかということだった。
 聖地の堤防や土地の豊饒にいまのところ影響は見られないので、盗んだ者もそれなりの措置をとっているのだろうが、正しく安置されない聖印の力が歪みだすのは時間の問題だった。
 ノヴィアが再び眼差しの力を発揮し始めたときだった。
「ここにいたか」
 聖堂のテラスに続く階段を、ジークがひとり上がってきた。相変わらず赤籠手ごてに白外套、手にはシャベルという戦装束である。
 ジークは、ノヴィアやアーシアとも別行動をとり、単独で動いていた。
「見つかりそうか」
「いえ………関係ないものばかり見つかります」
「誰かのへそくりとかぁ、子どもが埋めたガラクタとかだよねぇ、ノヴィアが見つけたのって」
 アリスハートの答えに、見たものの内容をあえて言わずにいたノヴィアの顔が真っ赤になった。
 む……と、ジークが何とも言えない顔になる。
「いいんです。もっと注意して見てみますから。―――それよりも、私を探しにこられたということは、何かご用でしょうか」
「これから諜報院ガルムの者と会ってくる。西のほうだ」
 ジークは何でもないことのようにそう言い、
「アーシアにはうまく言っておいてくれ」
 そう付け足した。
 ノヴィアは難しい顔でジークを見あげた。
「ばれたら、きっとものすごく怒りますよ………?」
「だいじょうぶだろう」
 あっさりとそう言い、ジークは階段を下りていく。ノヴィアとアリスハートは黙ってその背を見送った。
「巡察の仕事を隠れ蓑にして、狼男が動いてるって知ったら、アーシア絶対怒るよねぇ」
「聖師士は聖師士、黒印騎士団シュワルツ・リッターは黒印騎士団で、それぞれ別の使命があるのはわかるんだけど………」
「それともあれかなぁ? 狼男がいることで、アーシアのほうも仕事がやりやすくなってたりするのかなぁ?」
 それなら持ちつ持たれつよねぇ、とアリスハートが呟いていると、ジークの気配が遠ざかるのと入れ違うようにして、テラスの下方から聞き覚えのある声がした。
「ノヴィアちゃ〜ん!」
「あ、アーシアだ。噂をすれば何とやらねぇ」
 テラスにいるノヴィアたちに向かって大きく手をふってきたアーシアは、ノヴィアが手をふり返すと、すぐに聖堂のなかに姿を消してしまった。
 やがて階段を上がって再び姿を現したアーシアは、疲れた顔で二人に笑いかけた。
「ああもう、やっと見つけた。勘が狂いっぱなしだわ」
「ずっと私たちを捜してたんですか?」
「そうよ。一緒に聖地を見て回りながら万里眼を使ったほうが、ノヴィアちゃんも疲れないんじゃないかと思って………私ひとりだと、この土地ってどうも勘が狂うっていうか」
「あ、わかった。アーシア、ひとりだと道に迷うんでしょ?」
「ち、違うわよっ」
 慌ててアーシアは否定するが、あまり説得力はない。
「ちゃんと風を読んでるのに、目的地にたどり着かないだけっ」
「それを迷うって言うと思うんだけど………」
「でも、変ね………」
 ノヴィアは首を傾げた。
 大気の聖性に対する鋭敏さで風の行方を知り、道筋を察するアーシアの勘が狂うなど、滅多にないことだった。
「強い惰気があるわけでもないし、むしろ湖のおかげで逆に聖性が強いぐらいで………」
 はっとノヴィアは目を見開いた。
 絶句したノヴィアを、アリスハートとアーシアが怪訝な顔で覗きこみ、すぐに勢いよくのけぞった。ノヴィアが身をひるがえしてテラスの手摺りに取りついたのである。
 そのまま落ちんばかりに身を乗りだす彼女の腰帯を、慌ててアーシアつかまえる。
「ちょっ、ノヴィアちゃんっ!」
「聖性………強すぎる聖性………。抑えこむには、同じだけの聖性が………」
 うわごとのように呟きながら、ノヴィアの双眸はある一点をとらえていた。
 この聖地で唯一、ノヴィアの眼差しが届かない場所がある。
 あまりに巨大なその場所に宿った聖性が、ノヴィアの視線に宿る聖性と拮抗し、なかば視界を遮ってしまうのだ。
「そうよ、アーシアさんの勘が狂うのも当たり前………だって、この地には………」
 ノヴィアの視線の先を追って、アーシアもアリスハートも自然とそこへ目を向けていた。
 透明な水を満々と湛える、大陸屈指の湖。土地と同じ名を冠された、この聖地の中心にして象徴。
 シャイオン。
 街の向こうに、光を放つ澄んだ鏡が見えていた―――。



 街からやや離れた西の丘のふもとにジークの姿があった。
 整備された道から逸れた、湖に接する林のなかである。先の戦で奇跡的に戦火を免れた一群だった。
 一人たたずむジークのもとに、行商人の出で立ちをした男が近づいてくる。いかにも迷いこんでしまったというように、不安げにあたりを見回し、ジークの姿を認めて、ほっとした表情だった。
「申し訳ない。道をお聞きしたいのだが」
「地図は持っているか」
「おお、それならここに」
 男は懐から封筒を取り出すと、そのままジークに手渡した。
「―――遅くなってすまなかった。師士議会からの書状だ」
 書状を開き、ざっとそれに目を通したジークの視線が、ある一点で止まる。
「叛乱軍と聖王廃止反対派の残党が呼応………?」
 諜報院の男は軽く肩をすくめた。
「不幸な握手というやつだ。普通に考えれば水と油のはずなんだが、どちらも弱体化して、単独じゃ抵抗を続けづらいんだろう。まあ万が一、俺たちを打倒したとしても、直後に剣先はお互いに向けられているだろうよ―――やつらの狙いは、このシャイオンだ」
 ジークの表情が厳しく引き締められた。
「いまとなっては、大陸中でいちばん豊かな土地だ。聖都がまだああいう状態だ。ここさえ押さえておけば、物資にも情報にも事欠かないと踏んだんだろう」
 諜報院の男の言うことは、ほぼ事実だった。
 だからこそ、新生聖法庁は巡察の使命をアーシアに下し、それと同時に、自由に動けるようになったジークをも、真っ先にシャイオンへと遣わしたのだった。
 かつてのように、シャイオンの豊かさが争乱の火種となるようなことがあってはならない。
 ノヴィアが導き、レオニスが求めた和平こそが、聖法庁と聖地を結びつける絆とならねばならなかった。
「―――残党が、隣国と結託している可能性がある」
 ジークの言葉に、男は目を軽く目を見張った。
「何か情報をつかんだのか」
「この地の聖印が盗まれた」
「なんだと?」
 絶句する男をよそに、ジークは淡々と書状を折りたたみ、懐に入れる。
「もともと隣国はドラクロワに呼応して兵を挙げた。叛乱軍の残党をかくまっても不思議ではない。そして隣国の目的は―――」
「聖地の聖印か。なるほどな………」
 厳しい顔でうなずいた男に、ジークがきっぱりと告げた。
「これから取り戻す。この地で聖印が盗まれた事実は、俺が葬る」
「わかった。お前を信じよう、ジーク・ヴァールハイト」
 商人を装った諜報院の密偵は了承の意を返し、話は終わりとばかりに笑みを浮かべた。
「ところで、ひとつお前さんに聞きたいことがあるんだが」
「何だ」
「いや何、個人的な興味だ。ドラクロワを追う必要もなくなったいま、どうしてあんたがまた聖法庁の騎士として、あちこちを廻らさられる立場に戻ったのかが不思議でな………」
 ジークが無言で男を見た。その視線の鋭さに男はたじろぎ、慌てて手をふってみせる。
「すまない。立ち入ったことなら謝る。ただ、師士議会の発足に尽力したあんたなら、そのまま聖法庁の要職に就くことだってできたはずだ。フォード卿も、あんたに絶大な信頼を寄せている。改革を行うにしても、下で俺たちが持ってくる情報を待つより、上で情報を握る立場に立ったほうがいいはずだ。そう思うと、お前さんのことが不思議でたまらんのさ―――いや、別に答えたくないなら、それでいいんだ」
「性に合わん」
 ジークはなかば相手の言葉を遮るように、ぼそりと言った。
「俺のやるべきことは、あそこにはない。師士議会はフォード卿たちがうまくとりまとめるはずだ」
「そうか。いや、わかった。立ち入ったことを聞いてすまなかった」
「………それにまだ、多くの死者が打ち棄てられたままだ」
「なるほど。墓掘りらしい言葉だな」
 密偵の男は苦笑し、
「何にせよ、これからもよろしく頼む、黒印騎士団ジーク・ヴァールハイト」
 朗らかにそう告げていた。
「俺たちが持ってくる情報の中味も、あんたが動く意味も、みなこれから変わっていくだろうが、こうやって行く先々であんたに会うのだけは変わらなさそうだからな」
 男は片手を軽くあげ、木立の向こうへと姿を消した。
 林のなかに、再び静けさが戻る。
 しばらくして、ジークが声を放った。
「聞いての通りだ」
 声に応ずるように、すうっと木の影が伸び、まるでそこから分かたれるようにして隻眼の青年が姿を現した。トールである。
 彼がそこに身を潜めていたことなど、ジークは先刻承知だった。トールのほうも、ジークが察していないはずはないと気づいていた。
「聖王廃止反対派と、叛乱軍の残党………」
「どちらもこの地に因縁がある」
「はい」
 新生した聖法庁と同じように、ここは王を持たない土地だ。そして、ドラクロワの叛乱軍をさんざんに撃退し、ついに一歩も侵入を許さなかった土地でもある。
 自ら玉座を棄て、叛乱軍を退けた王はもういない。
 聖地の民すべてに国そのものを委ね、未来を指し示して、逝った。
「―――守ります」
 トールの声は、静かな意志を秘めていた。
「守ります。レオニス様が託し、ノヴィア様が見守るこの国を。―――どうか、力を貸してください、ジーク・ヴァールハイト」
 国を守る、その先頭に立つのはその国の民であるべきだった。よそから来たジークが、率先して守るべきものではない。
 正しくそのことを踏まえたうえでのトールの願いに、ジークは無言でうなずきを返していた。



 トールと共に街まで戻ってきたジークだったが、街に入っていくらもしないうちに目を細めて前を見た。
「ジーク様!」
 ノヴィアとアーシア、アリスハートがこちらへと走り寄ってくる。ジークのもとまでやって来ると、ノヴィアは切れた息を懸命に整え、それから告げた。
「わかりました」
 一通りノヴィアから報告を聞き終え、ジークはひとつうなずいた。
「わかった。―――このことは、ここに来るまでのあいだに誰かに話したか?」
 その問いにノヴィアが眉をつりあげ、
「従士の報告の義務は、騎士に対してのものです。ジーク様より先に他の誰かに話したりなんかしません」
 ちょっと怒った口調でそう言った。
「すまん」
 ジークが珍しく困ったような表情になり、素直に引き下がる。ノヴィアも言い過ぎたと思ったのか、少し罰が悪そうな顔になり、
「ここまで誰にも出逢ってはいません。アーシアさんもアリスハートも、ずっと私と一緒でした」
 と付け足した。
 珍しいやりとりをトールが内心、興がって聞いていると、不意にジークがふり向いた。
「軍は議会の承認なしには動かせないはずだな?」
「その通りです」
 慌ててうなずき、すぐにトールは相手の言いたいことを察した。
「もし敵に気取られないよう、内密に動かしたいのでしたら、議士長に判断を仰ぎますが―――」
「例外がそうあっては困るだろう。合議制の意味が無くなる」
 ジークが言うことも、もっともだったため、トールは沈黙せざるを得なかった。
「―――ノヴィア」
「はい」
「聖印以外にお前が見た、関係ないものを話せるか」
 途端にノヴィアの顔が戸惑ったものになった。覗きの自白をしているようで何やら罰が悪いのと、ジークの意図がよくわからなかったのだ。
「あの、ジーク様………? それは、子どもが木のうろや梁の上に隠した宝物や、その………旦那さんが奥さんに内緒で隠したと思しきへそくりとかを、ですか………?」
「ノヴィアちゃん、そんなものまで見えちゃったの?」
 アーシアが呆れたように言い、ノヴィアは顔を真っ赤にした。
「す、好きで見たわけじゃありません………!」
「お前が何か気づいたことや、妙だと思ったことだけでいい。何かなかったか」
 ノヴィアは思いだすように首を傾げていたが、やがて言った。
「そういえば、何ヶ所かのお店で、帳簿棚以外の場所に帳簿が隠すように置かれているのを見ました。あと、カーテンを閉め切った部屋で商談をしている商人の方とかも………」
「それって………」
 アーシアが何とも言えない顔になり、トールが溜息とともに額に手を当てた。ジークは眉ひとつうごかさず、
「場所はわかるか」
「もういちど見れば確実にわかると思います。ただ………」
 ノヴィアは口ごもった。
「私が見たからと言って、それで捕まえるとか、そういうのは………」
「わかっている。知らせるだけでいい」
「教えていただければ、あとは私たちシャイオンの者が調査して証拠をつかみます」
 トールが請けあうと、ノヴィアはほっとした顔で了承のうなずきを返した。
「他にはないか」
「他に、ですか」
 顔をしかめ、ノヴィアは懸命に己が見たものを思いだそうと努力した。
「あとは………整理整頓のされていない倉庫、とかでしょうか。穀物袋とか日用品とかと、武器や防具が一緒くたになってて―――」
「何それぇ? ごっちゃになってたら、出すときとかに困るんじゃないの?」
「そうね。片づけたくてしかたなかったわ」
 妖精ファーと少女の会話を聞きながら、ジークとトールが目を見交わした。
「どこの倉庫だ」
「あ………街の南です。大きな通り沿いの」
 再び向けられたジークの視線に、やはりトールが無言でうなずく。
 やがてジークから声が発された。
「軍は動かさなくていい―――今回は、俺が動く」
「………お願いします」
 トールが、深々と頭を下げた。