カオスレギオン 【新たなる絆】――5
教会を出たノヴィアはすぐさま万里眼を使って街の外を見た。
ジークはすぐに見つかった。無数の魔兵に囲まれ、同じぐらいに無数の魔獣と人間の兵たちを相手に敢然と剣を手にしている。
ジークを中心に甲魔、凄魔。左右に剛魔とノヴィアの前では招かれたことのない魔兵が斜線陣形を展開し、その上空で麗魔が円陣をなしていた。
剣を振るうジークの言下、魔兵が陣形を変え、魔獣たちに突進していく。この街に来る前に、やはりジークが魔兵を招いて倒した、銀の爪を持つ魔獣だった。しかしあのときよりも数が膨大だった。
ジークが再び何か命令を下す。万里眼では何を言っているかまではわからない。ただ何かを叫ぶ口の動きが見えるだけだった。
これだけの数の魔兵を招いたジークの左腕から、おびただしい血が滴っている。
ノヴィアは指が白くなるほど強く宝杖を握りしめた。
「私は、〈見守る者〉―――」
急に身をひるがえすや、先ほど出てきたばかりの教会に駆け込んだ。
回廊を走り、驚く教父には目もくれず、貸し与えられた部屋に駆け込むと、端然と椅子に腰掛けた。
「しばらく、お部屋をお借りします」
様子を見に来た教父にそう告げ、ノヴィアは白木細工の宝杖を胸の前で握りしめた。
既にその紫の瞳は、壁を突き抜け、ここではないところを見ている。
教父は何も言わずに部屋から立ち去った。
「アリスハート………」
ノヴィアの囁きに、アリスハートはおどおどと、
「な、なに、ノヴィア」
「倒れたら、後はよろしくね」
「ええっ !? 」
驚きわめくアリスハートの声は、もはやノヴィアに届いていなかった。おそろしいまでに目に意識を集中させると、視覚以外の五感が薄れ、周囲の何もかもが消え去った。
(ジーク様の堕気が私の聖性を冒して、私の目が見えなくなるのなら………)
―――ならば、そばにいなければいい。
遠くからでも見守れる。
ひとり戦うジークの姿をとらえ、ノヴィアは決然と告げていた。
「ジーク様の左腕に、強い聖性が―――見えます」
透視と幻視の力を併用したことは過去にもあった。
しかし使った直後、意識を失うほどの疲労に見舞われ、それ以来使ったことはない。
いまもただ、こうして見ているだけで視界が朦朧とかすんでいる。
万里眼の見つめる先に、ノヴィアが望む効果はまだ現れていなかった。ノヴィアは歯を食いしばって、なおも精神を集中させる。
不定形の炎や水などを具現させることでさえ、ノヴィアにはまだ荷が重すぎた。複雑な人や動物などは試そうと思ったことすらない。
まして、聖性に形はない。
ノヴィアの幻視の力は、形があるものの幻を見ることによって、そこに具現させる力だった。人の目に映るということは、それだけで力になることだった。そうジークに教わった。
そしてこうも教わった。
強い力が形を成し、意志を持つ。魔兵も、エインセルもそうやってこの世界に存在しているのだと―――。
ノヴィアは懸命に、聖性に形を与えようとした。
様々なイメージが脳裏に現れては消えていく。一度、成功すると思われるイメージが思い浮かんだが、それは即座に却下した。シーラ。
そうしている間にも、ジークの左腕から血は滴っていた。籠手の下にあるためよくわからないが、ほとんど噴き出しているような勢いだった。
やがて、雷花をまとうジークの左腕が大地に叩きつけられ、新たな魔兵を呼び出した。
呼び出された魔兵はノヴィアも知っているものだった。砲魔ネルヴ。右腕が巨大な砲身となり、焼けただれた体と仮面の様な貌の至るところから煙霧を噴きあげている。
次にジークが何と叫んだか、ノヴィアにはわかった。
(獅子座の陣―――撃てっ)
果たして、砲魔たちが凸陣形をなし、一斉にその砲身から火を噴いた。
予測がついたのは、以前ジークが砲魔たちを招いた時、そう叫んだからだった。近接戦闘には向かない兵種だと、そのときジークは言い、そして―――。
ノヴィアの思考に、ひとつの天啓が閃いた。
思わず椅子から立ちあがり、ノヴィアはこう叫んでいた。
「ジーク様の左腕に、私の姿をした聖性が………見えます!」
軍団を率いながら、ジークは増殖器をひとつひとつ破壊していった。
増殖器をひとつ破壊するたびに、魔獣は数を減らし、戦況は確実に魔兵たちに有利となっていく。しかし、いまだ無傷の増殖器から尽きることなど知らぬように、新たな魔獣が生まれてくるのもまた事実だった。じりじりとした消耗戦であった。
いまもまた、新たに生み出された銀脚獣の群れが怒濤のようにジークたちに迫ってくる。それを見てとるや否や、ジークは左手を大地に叩きつけた。
「悲憤の魂よ! 地刻星の連なりの下、巌魔ヘイトレッドとなりて我が敵を払え!」
大地の亀裂から雷と共に現れた巌魔たちが、軋るような咆哮をあげた。
「牡牛座の陣!」
瞬く間に陣形が再編され、甲魔を除いた残りの魔兵たちが、巌魔を先頭に突撃陣形をとる。
「増殖器だ。行け―――!」
ジークを中心に地上と上空で円陣を成す甲魔と麗魔を残し、残りの魔兵が増殖器へ向かって弾丸のように突進した。犠牲をものとものしない、捨て身の戦術だった。
少しでもその進撃を助けるために、ジークの周囲の甲魔と麗魔が魔獣たちへと躍りかかる。ジークもまた、多くの魔獣たちに剣を振るった。
左腕は血まみれで、激しい動きにあわせて雫を飛び散らせる。
わずかにジークは顔をしかめた。
「保ちそうにないな………」
これ以上、新たな魔兵を呼び出すことは無理だった。
そのとき、堕気と瘴気の荒れ狂う戦場に突如として白い光が溢れた。
咄嗟にジークが光から目を庇おうと左腕をあげかけ―――愕然と目を見張った。
白い光と錯覚したものは、強い聖性だったのである。
そして聖性が生じているのは己の左腕からだった。正確にはジークの左腕を包むように聖性が漂っているのだ。他の空間に目をやれば、相変わらず堕気と瘴気で満ちている。
「何だ―――」
不意に聖性から光が溢れ、集束し、形を取った。
今度こそジークは絶句した。
おぼろに輪郭を輝かせた、見慣れた少女の姿がそこに現れたからだった。
栗色の髪と淡い紫に輝くはずの瞳に色はなく、その体を通して、向こう側の甲魔たちが透けて見えていた。
幽明のようなノヴィアは、ジークの左腕を、その胸元に押しつけるようにして抱きしめた。
おびただしい出血が急に止まった。焼けつくようなジークの左腕の堕気が、ノヴィアの形をとった聖性によって宥められていく。
ジークの脳裏に過去の記憶が去来した。たしかにノヴィアにこうやって聖性を宥めてもらったことがある。なんとかしてくれと差し出した左腕を、あろうことかノヴィアは己の胸元に突っ込んで堕気を中和したのだった。
淡く輝く白いノヴィアはジークと目が合うと、花が咲きほころぶように微笑した。
ジークは無言で、その聖性から戦場に視線を戻すと、
「お前にはいつも………助けられている、ノヴィア」
ノヴィアがふわりと左腕から離れた。
かっと辺りを皓く染める雷花が生じ、ジークの左腕に集い、そしてそこから迸る。
「ジーク・ヴァールハイトが招く!」
左手が激しく地面に叩きつけられた。
「絶望の魂よ! 冥刻星の連なりの下、哭魔ブラスフェミーとなりて、我が敵に雪崩れ込め!」
咲き乱れる稲妻から跳ね出たのは、細長い手足を持った赤い蚤のような姿の魔兵だった。動きも蚤のように跳ね飛んで、魔兵たちの頭上を越え、残り三つとなった増殖器に向かってそれぞれ殺到する。
途中、銀脚獣の爪にかかり、いともあっさり串刺しとなる幾つかの哭魔もあったが、その多くが増殖器にとりついた。
それを見届け、ジークがその剣を掲げた。
「牡羊座の陣―――!」
剣が風を切って振りおろされる。それを合図に、一斉に哭魔たちが、内側から閃光を放った。次々と轟音を放ち、自爆していく哭魔たちの攻撃に、増殖器がまるで苦痛を示すかのように身をよじって絶叫を放った。
そしてついに、最後の増殖器が巌魔に握りつぶされるのと同時に、残っていた魔獣たちが消え、辺りには静寂が訪れた。
魔兵たちの凶暴な歓喜の声に包まれながら、ジークは憮然とした表情で己の左腕を見やり、
「結局………無理か」
嘆息混じりにそう呟いた周囲で、魔兵たちが崩れ、淡い光となって立ちのぼり、のぼりきれなかった者たちは黒い液体となってジークの足元に集い来る。
「仕方ない………お前たちも、あいつも、俺と共に行こう。ドラクロワを止めてもなお、お前たちが残り、あいつが光を失うことになろうと―――俺がすべて、その罪を負う」
魔兵からもノヴィアからも、その無言の信頼がジークに伝わってくる。完全ではないジークに、それでも彼らは信頼を寄せ、命を預け、共に彼の敵に相対するのだ。
「帰るか………」
無意識にそう言ったジークの口許に、あるかなしかの微笑が浮かんでいた。
茜色の落陽に、白い外套が赤く染まっていた。
教会に帰り着いたジークを、かつての戦友である教父が迎え、無言でノヴィアの部屋の前まで彼を連れて行くと顎をしゃくった。
む………と固い表情になり、ジークがその扉を開けるなり、アリスハートがすっ飛んできた。
「なんだよっ、馬鹿っ、能なしっ、狼男っ! あんたのせいで、ノヴィアがさっきから、倒れちゃったままじゃんかぁ………!」
泣きながら指さす先に、床に倒れ伏したノヴィアの姿があった。掌にのるほどの体のアリスハートでは、頬を叩いても気づかせるほどの威力にならず、当然、助け起こすことなどできるはずもなく、ただ傍でノヴィアの名前を呼びながら、泣いているしかできなかったのだ。
「俺を呼んでくれりゃよかったのに………」
部屋を覗きこんだ教父の言葉に、
「あたしひとりじゃ、扉も窓も開けられないんだよぉ………」
アリスハートは泣きじゃくりながら、ノヴィアの胸元に座りこんだ。
ジークが無言でそのシャベルを教父に手渡した。その所作に教父のほうが驚いて目を丸くする。
大股でノヴィアの元に歩み寄ると、ジークは抱き起こし、頬をはたこうとして、憮然とした顔をますます憮然とさせた。
「熱い………」
ノヴィアは高熱を発していたのだ。
「あれだけ騒いどいてさぁー」
久しぶりに青空が窓から覗く部屋の一室で、明るいアリスハートの声が、さっきからさんざん同じ事を繰り返しわめいている。
「結局、ぜぇーんぶ、狼男が風邪ひいて、ノヴィアにそれをうつしちゃったのが原因、なんだもんねぇ」
ノヴィアが顔を赤面させ、ジークが無言で渋面を作ったが、もともとノヴィアの顔は発熱のために赤い。
寝台に体を起こしているのがノヴィアで、その傍らで何をするでもなく椅子に座っているジークだったが、何もしていないわけではなく、つい先ほど、教会で作ってもらった食事をノヴィアに持ってきたところだった。
ノヴィアの目はいまも多少かすんでいる。
しかしそれは風邪をひき、体調をくずしたことでノヴィアの聖性が弱まっているせいだった。健康を取り戻し、聖性が回復すれば、すぐでも視力が元に戻ることが判明している。現に今も宝杖の聖性に触れれば、一時的だが視力は回復した。これを永続的なものにするには、ノヴィアが風邪を治し、心身共に健康になる必要がある。
ジークの堕気が彼が体調を崩したことで強まり、風邪をひきかけて知らず聖性が弱まっていたノヴィアがそれに影響を受け、結果として目が見えなくなっていたのだ。
ノヴィアが健康なら、何の問題もないわけである。
「狼男もノヴィアもあれだけ大騒ぎしたのにさぁ」
「もう、アリスハートったら何回も同じことを言わないで」
ばつが悪そうにノヴィアが寝台の上から、アリスハートを軽く睨んだ。
アリスハートは止まらない。結局、二人に挟まれていちばん苦労したのは自分だと思っているのだ。
「だってぇ、狼男はノヴィアを追い出そうとするし、あたしに余計なこと頼むからあたしはノヴィアに睨まれるし、ノヴィアはノヴィアで倒れたらよろしくなんて、めちゃくちゃ言い出すし………」
「あっ………」
アリスハートの言葉に、ノヴィアがしまったと声をあげたが、すぐに傍らのジークの視線にぶつかって、首をすくめた。
「そんなことを言ったのか」
「あ、あの………はい………聖性を見たことなどなかったので、どうなるか予想がつかなくて………」
ジークはしばらくノヴィアを眺め、やがて視線を外し、
「慣れるまで、もうやるな」
ぽつっと言った。
「あと、礼を言う」
ジークがそう続けたことに、アリスハートの顎がかこっと外れた。
「狼男が感謝してるよ………」
「お前のおかげで、腕が保った」
「はい………」
ノヴィアが熱に潤んだ目で精一杯、微笑んだ。
「これで二度目だ」
「はい………」
「いつもすまない」
アリスハートの顎がまた外れた。
「今度は謝ってるしぃ………」
ジークの言葉を聞いたノヴィアは、こぼれるような笑顔をで首を横に振っていた。
「いいえ。私はジーク様の従士ですから」
しばらく、無言で間があいた。
知らずアリスハートが緊張に喉を鳴らしてジークの返事を待っていると、
「―――ああ。その通りだ」
小さくはあるが、はっきりとそう告げられ、アリスハートは安堵し、ノヴィアは泣き笑いの顔ではっきりと頷いた。
「はい」
「いまはゆっくり休め。次の目的地は聖都だ」
ジークが言ったことに、ノヴィアとアリスハートは唖然とした。
「聖都って………聖都ロタールですか?」
「他に聖都があるという話は聞いたことがないな」
真面目くさってそう答えたジークは、
「聖王様がいらっしゃるという?」
「その聖王と賢老院に呼ばれた」
さらにそう答え、ますますノヴィアとアリスハートを驚かせた。
「狼男って、実はとっても偉かったんだねぇ………」
「わ、私も聖都までご一緒していいんですか?」
ジークはその赤みがかった灰色の目で静かにノヴィアを見下ろし、
「お前は俺の従士だろう」
「………はいっ」
ノヴィアは、思わずアリスハートがつられて微笑んでしまいそうな笑みを見せていた。
ジークのその言い分を内心で図々しいと呆れていたアリスハートだったが、ノヴィアのその笑顔を見て、
(ま、いいか……)
と、思い、そしてすっかり嬉しくなった。そのまま無邪気に宙を舞い、ジークとノヴィアにその金色の羽の向こうに広がる青空を透かし見せる。
「とりあえずー、狼男もノヴィアも、二人とも元気に風邪ひかなければ、これからは何とも問題ないわけだよねっ」
その言葉にノヴィアとジークは、お互い何とも言えぬ表情で顔を見合わせた。
やがて、窓からノヴィアの笑い声がこぼれ、風に運ばれていったのだった。
そして一同は聖都の八重の城壁をくぐる。
聖印歴七九四年十二月―――。
アーシア・リンスレットが銀銃を手に一行と出会うのは、もう間もなくのことだった。
主、汚れし霊に問いたもう。
「汝の名は何か」
彼、答えていわく―――
「軍団、我ら大勢なるゆえに」
かくて汚れし霊は、暗黒き印を担い、主の敵を討つ使命を得たり。
