カオスレギオン 【新たなる絆】――4
翌朝、ノヴィアがジークの部屋に朝食を持っていくと、既にジークは街を発ったあとだった。
包みを床に放りだし、声をあげてノヴィアは泣いた。
ノヴィアの朝食を受け取らないということが、すなわち、ジークがノヴィアを従士として認めないということだった。ジークがノヴィアの従士の任を解こうとした半年前でさえ、ノヴィアはジークに朝食を届けることをやめなかった。
アリスハートがおろおろと周囲を飛び回る。
包みから転がり出た形容しがたい状態の食べ物は、さっき味見をしたアリスハートには、にわかに信じられないことに普通の味だった。
見た目はどうあれ、普段の味は絶品なノヴィアの料理は、思い詰めると味が変わる。とても食べられないほど塩辛くなるのだ。
しかしたとえ、どんな味だろうとジークは黙々と食べる。食べてくれる。
それはノヴィアも自覚しているジークへの甘えなのだが、今回はそれをしなかった。
甘える資格がないと、自らそう思ったノヴィアの判断だった。
しかし、いま、それを受け取る相手自体が既にいない。
「ひどい、ジーク様………こんなのって、卑怯です―――」
立ちあがる気力もなく、ノヴィアは泣きながら、手探りで床に落ちた朝食を集め始めた。
「ノヴィアぁ………」
共に自身も泣きそうなアリスハートの声が、いつもより歯切れが悪いことに気づく余裕もなく、ノヴィアは泣き続けた。
やがて。どれくらい泣いていたのか、ノヴィアはようやく顔をあげた。
泣き腫らした目以外にも、体全体がぼんやりと熱く、ひどくだるかった。
「ノヴィア、これからどうするのぉ………きっと、狼男、任務が終わってもここには戻ってこないよ………」
「私………」
ジークに食い下がる勇気も持てず、かといってジークの言うとおりに大聖堂に帰るのも嫌だった。
アリスハートの小さな手が、涙でごわついたノヴィアの頬におずおずと触れた。
「大聖堂で、ノヴィアの目が治ってから、狼男を追いかけるのってダメかな………」
「ダメよ」
ノヴィアはうなだれ、
「いまの私じゃ、目が見えるようになっても、きっとジーク様は同道を許してくださらないわ」
こんな惨めすぎる己では、ジークの旅についていく資格がない。
悲嘆にくれるノヴィアの隣で、アリスハートは泣きそうだった。ノヴィアがあまりにも可哀想で、ジークの言いつけをいまにも破って、何もかも洗いざらい話してしまいたくなる。
ふと、部屋の入り口に、人の気配がして、
「落ち着いたか、ノヴィア・エルダーシャ」
「あなた様は………」
「ジークから、あんたのことを頼まれたんだが………どうするね」
気遣う様なその声音に、ノヴィアはうつむいた。
「もう一日だけ、ここでジーク様を待たせてください」
教父は大きな溜め息をついて、やれやれと言った風情でノヴィアを見下ろした。
「まったく………こんなに愛らしい従士を泣かせるなんて、ジークはいったい何を考えているんだか。気持ちはわからんでもないが………」
「教父様」
ノヴィアがつと顔をあげた。
「ご存じなのですね。ジーク様が私を遠ざけた本当の理由を―――」
教父が返事に詰まる気配がして、
「ジークは………ああ見えても優しいんだ」
「それはよく存じております」
「俺は、それだけしか言わんよ」
「教父様………!」
「あんたの願い通り、もう一日だけここに置こう。しかし、ジークがここに帰ってくるなど、俺は保証できないぞ」
それだけを言うと、教父は部屋を出て行ってしまった。
包みを拾いあげ、ノヴィアはのろのろと立ちあがった。
「なんか………気分が悪いわ。きっと、ジーク様のせいね」
「な、なんで狼男のせいだってわかるの?」
「私がいま、そう決めたから」
唖然とするアリスハートを尻目に、ノヴィアはいつもよりゆっくりとした動作で、周囲を探り、己の部屋に戻っていった。
街の外、丘の上に佇むジークの眼下に、ひしめく軍勢の姿があった。
叛乱軍のなかに、化け物がいる―――。
それがジークにもたらされた情報であり、ドラクロワへの手がかりだった。
だが、今は眼下に見える叛乱軍のなかに、化け物の姿など見当たらない。しかし、ジークの目は、荷車に乗せられた、いくつもの蠕動する肉塊のごとき柱の姿が映っていた。
「増殖器か………」
それはかつて一度だけ目にした、堕界への扉を開き、魔獣を招き出す生きた鍵だった。ドラクロワが戦に用い、それは叛乱軍の聖法庁への切り札とされているという。
「瘴気に冒され、大地が死ぬこと………わかっているはずだろう、ドラクロワ」
きつく拳を握りしめ、
「そして………お前はここにはいない」
秘儀を求めるあの男にとって、この街を落とすことに特に意味はない。ここは、増殖器を与えられた叛乱軍の実験場としての戦場だった。
「死者を生み、無数の血を流させたその先に、俺たちの理想があるとでもいうのか、ドラクロワ―――」
静かに雨が降り出した。空は厚く重い雲によって幾重にも遮られ、暗く冷たく沈んでいく。風が逆巻き、ジークの頬に雨の滴を打ち付けた。
ふと、ジークがその風の吹き荒れる空へと視線を転じた。
遙か頭上で堕気が唸り、泣くように轟々と荒れ狂っている。
恨みと嘆きを秘めて怒り狂うその風に、ジークの顔が苦痛に歪み、耐えかねたようにその場に膝をつく。
「憎念ゆえ、天界にあがれぬ重き魂よ。その嘆き、俺が全て引き受けよう」
堕気が歓喜の渦を巻いて、ジークの身に流れ込んだ。
落ちるその影がじわじわと濃さを増していくのにつれ、暗く冷たい風は宥められたように静かに熄んでいた。ジークは浮かんでいた汗を無造作に拭うと、ゆっくりと立ちあがる。
その右手が、シャベルより聖咎の剣を引き抜き、
「復讐するがいい。これより―――弔い合戦だ」
ジークの掲げる左腕から、血が一筋、つうっと流れ落ちた。
それは唐突にやってきた。
闇一色だったノヴィアの視界が、不意に灰色に変わったのだ。
慌ててノヴィアはまばたきを繰り返し、杖の青玉に額をあて、聖性を高めてみた。
ゆっくりと、目を閉じ、そして再び開くと―――、
「………見えた」
ぽつっとそう告げられ、アリスハートは驚いた。
「えっ、み、見える、ノヴィア !? あたしの顔、見えてるのっ」
「ええ………見えるわ、アリスハート」
静かにそう答え、ノヴィアは杖を手に立ちあがった。
既に日は傾き、部屋の中は薄暗くなっている。ノヴィアは朝からずっと、椅子に座ったまま一人、考えに考え続けていたのだった。
どうしてジークは自分を置いていくようなことをしたのか。どうして自分の目は見えなくなったのか。どうして自分はこんなにも狼狽え、勇気を持てずにいるのか。
「どうして、急に見えるようになったのかしら」
「狼男が、行っちゃったからじゃん………?」
思わずといった様子のアリスハートの言葉に、ノヴィアは再び見えるようになった目を向けていた。
わずか一日。光を失ったのは、言葉にすれば、たったそれだけの時間であったが、それはノヴィアにとって途方もなく長い時間であった。
その一日の間に、自分は自信を失い、ジークから従士の任を解かれ、打ちのめされて悲嘆にくれていた。
「アリスハート、何を知っているの?」
己の失言に気づいたアリスハートは飛びあがった。もともと、隠し事は得意ではない。
「あ、あたし、何も言ってないよっ」
「いま言ったじゃない。ジーク様が行ってしまわれたから、私の目が見えるようになったんだって」
「そ、そんなこと言った? あは、あはは………」
「アリスハート」
名を呼ばれただけで、アリスハートは敗北を悟った。
おずおずと話される、己の親友とジークとの会話の内容を聞いていくうちに、ノヴィアはだんだんとうつむき、とうとうアリスハートの視界から、顔が完全に隠れてしまった。
「ノ、ノヴィアぁ………怒っちゃった? ごめんね………」
羽ばたいて、その顔を覗きこんだアリスハートは仰天した。
「ノヴィアっ?」
果たして、ノヴィアは笑っていたのだ。
見えるようになった紫の瞳から、後から後から涙をこぼしながら、それでも笑っていたのだった。
「私………やっぱり狎れていたんだわ」
ジークの優しさに。甘えさせてくれることに。目が見えることに。その力でジークを助けることに。その力を徐々に使いこなせていくことに。杖を授かったことに。その杖が、疲れても聖性を回復させてくれることに。ジークが交わしてくれた、ノヴィアの罪をも共に背負うという約束―――その全てに。
だからジークから言われたことがすぐに理解できなかった。目の見えない従士など足手まといだと言われ、その言葉が本心からではないと、すぐに悟ったものの、そう言った理由まではわからなかったのだ。
わからず泣きわめいて、馬鹿にするなと怒り、あげくにジークを叩いてしまった。
あのとき、すぐにジークの本心に気づいていれば。
涙を流しながらノヴィアは囁いた。
「ジーク様は優しい………」
優しすぎて、それゆえに誰よりも死の傍にいる。優しさゆえに、真実を葬り、ひとり心にそれを背負い、死者の墓を掘るたびに誰も死ななければいいと思っている。
「でも、もう少し、自分自身にも優しくしたって、いいんです………」
ジークは〈招く者〉。招くがゆえに、ただ独り。
軍団なのに、たった独り。
「私は〈見守る者〉―――」
それがノヴィアの役目だとジークが言った。
何があっても、何があろうとジークを見守る。それしか出来ない。そしてそれしか出来ないのなら、精一杯それをやるしかない。
この万里眼の力が、あろうとなかろうと、たとえ目が見えずにいても。
傍らで、見守る。
決然と顔をあげると、ノヴィアは部屋を出た。慌ててアリスハートが後を追う。
「ノヴィア、ノヴィア、いったいどこに行くのよぉ」
「ジーク様のところ」
予想通りの答えに、アリスハートはおろおろと、
「行ったら、またノヴィアの目、見えなくなっちゃうよぉ。それでなくても何だかノヴィア具合悪そうじゃん」
アリスハートの言ったことは真実だった。
先ほどからノヴィアは悪寒がしてとまらない。顔が熱く、頭がぼうっとするのは泣いたせいだと思っていたが、夕方になったいまでもそれが治らない。
「それでも、行くの」
ノヴィアは唇を噛みしめた。
ジークがいま戦っている。それなのに、彼の従士である自分が安全なところで一人、戦いを見守りもせずにいるなど許せない。そんなことでいて、何がジークの従士か。
教父を捜しあて、ノヴィアは彼にジークを追うことを告げた。
「しかし、そうするとあんたの目はまた―――」
「ジーク様の堕気が私の聖性を冒すのなら、それ以上の聖性を私が身につければいいだけです」
凛とした風情で途方もないことを、いともたやすく言い切った。
「それに、ジーク様のおそばにいられなくても、ジーク様の戦いを手伝うことはできます」
熱っぽく潤んだ目でノヴィアは、
「そのための、私の目です。ジーク様のためではなく、私自身のために、そうやって使う、力です」
言葉もなくノヴィアを見つめ返す教父に、ノヴィアは一礼して、告げた。
「私は、ジーク様の従士です」
「新たな絆を得たか、ジーク………」
かつての戦友であった彼は二年前、ドラクロワとジーク、そしてシーラの三人の絆が壊れ、よじれる一部始終を、ただ遠くから眺めるしかなかった。
「今度こそ絆を崩すな。また、自ら置いて去っていくような過ちは犯すんじゃない………」
ノヴィアが出て行った扉を見つめ、教父は呟いた。
「死ねない理由を、もっと増やせよ―――」