カオスレギオン 【新たなる絆】――3

「予定通り、街に入る」
 砦を発ったジークは、いとも簡単にそう告げ、逆にノヴィアのほうを戸惑わせた。
「あの、でもジーク様………私、足手まといなのでは」
「なら一人で引き返すか」
 言葉に詰まって立ちつくしたノヴィアを庇うように、アリスハートが盛大にわめいた。
「あのねぇっ、どうしてそういうこと言うのっ! ノヴィアは、自分があんたに迷惑かけるんじゃないかって気にして、そう言ってるんじゃないのよっ」
「街に入ったあと、お前とチビはそこに残っていろ」
 ぴたりとアリスハートが口をつぐんだ。ジークは淡々と、
「任務には俺一人で行く」
「はい………」
 ノヴィアは悄然として頷いた。目も見えぬ状態でジークの任務に同行しては、ジークは魔兵を招き出すどころではない。万里眼や幻視の力で援護することもできない。最悪、自分のためにジークが、以前の街へ引き返すと言い出すのではないかとさえ思っていたノヴィアは、それで妥協するしかなかった。
「別に迷惑をかけているのはお前だけじゃない。お互い様だ」
 とっさにノヴィアは返答できなかった。そのまま歩み出したジークの足音に、慌ててそれを追いかけた。
 心持ち大きめに音をたてて先を行く、その足音。
 半年ほど前の懐かしい感覚がよみがえり、一瞬、何もかも―――己の目が開いたことなど夢だったのではないかと錯覚しかけたが、地面に突くには短すぎる白木の杖が、ノヴィアを現実へと引き戻していた。
 半年前ほどまで、ノヴィアが手にしていたのは〈銀の乙女〉の聖具たる宝杖ではなく、盲人用の白木の杖だった。
 いまは違う。ラプンツェルの試練で杖は砕け、ノヴィアは光を取り戻し、聖性を宿す青玉を飾った短杖が数ヶ月前、代わりに彼女に授けられた。
 それを授かった日は、ノヴィアがなおもジークの従士で居続けることを彼に認めさせた、ノヴィアにとって忘れられない日でもあった。
 しかし今は、そのときから築きあげてきたジークの従士たる誇りや信念が、頼りなく消えてしまいそうなものに感じられる。
 勇気がない。臆病になっている。
 以前、ジークに向かって―――ジークが避ければ己にあたるように矢を放った勇気は、どこへ消えたのだろう。
 街が近づくにつれ徐々に強まってくる堕気に、普段は何ということもないノヴィアもそれに引きずられ、気分が暗鬱としてくるのを止めることが出来なかった。
 アリスハートの明るい声だけが、わずかにその気分を引き立ててくれるが、それでも完全には無理であった。
 街に入ると、真っ先にジークは教会に向かった。
 ジークの出で立ちと、彼が持つシャベルに面食らう聖法軍の兵士や教会の者にかまわず、自分を知る教父を見つけると、彼に部屋を用意してもらい、ノヴィアをそこに入れた。
 ジークが教父から任務に関する話を聞いている間、ノヴィアは部屋でまんじりともせずに待っていた。
「話ぐらいは、一緒に聞いてもよかったんじゃないのぉ?」
「うん。でも………。聞いても、私にはどうにもできないもの」
 以前は、ジークの食事しか作れない自分が情けなく、任務の話にすら同席させてくれずにいたジークに当たり散らしていた。そんな自分が思い出され、過去の自分の自暴自棄と、今の自分の臆病さに思い至り、ノヴィアがうんざりとしたときだった。
 足音に、はっと顔をあげると、すぐに扉が開き、ジークが中へと入ってきた。
「明日の朝、任務に出る」
 それだけを告げたジークに、ノヴィアは頷き、
「はい。お帰りをお待ちしています」
 しかし、ジークはその言葉に静かにかぶりをふった。
 その気配を察し、ノヴィアが青ざめる。
「待たなくていい」
「どういうことですか」
「俺が出たら、チビを連れて、エレミア師のところへ戻れ。ここの教父に護衛と馬車をつけてもらうよう話を通してある」
 アリスハートが絶句した。ノヴィアの体がよろめき、すんでのところで踏み止まる。
 〈銀の乙女〉のなかでも最高位の位階を持つ彼女のところへ戻るということは、マグノリア大聖堂で〈銀の乙女〉の一員として生きろと言うこと―――つまり従士をやめろと言われているも同然だった。
「どうしてですかっ」
「お前のその目だ。マグノリアの〈銀の乙女〉に、お前の目を癒してもらうといい。おそらく、癒されて目が開いても、力は元のままあるはずだ」
 ノヴィアの顔が希望に僅かに明るくなった。
「じゃ、じゃあ、目が治れば、またジーク様の旅に―――」
「いや。お前はそのままそこにいろ、ノヴィア」
 顔が蒼さを通り越し、紙の様に白くなる。
 あまりの衝撃に言葉もなく立ちつくしたノヴィアを代弁するように、アリスハートが憤然と、
「なんでよっ、あんた、ノヴィアに着いてきてもいいって約束したじゃないのっ。何だって今更そんなこというのよっ!」
「今度こそ本当に目が見えなくなりたいか」
 アリスハートが愕然としてジークを見つめた。
「堕気の影響が出ている。このまま俺の旅に同行し続けると、やがて本当に見えなくなるだろう」
「そんな………」
 ノヴィアの声が震えた。
「だって、いままでは何とも………」
 ジークの返答は素っ気なかった。
「限界を超えたんだ」
「そんなのって、そんなのってないよぉ―――」
 アリスハートが泣き出したが、ノヴィアのほうは逆に落ち着いたように見えた。
 両手で持った宝杖を前に、いっそ恐ろしいほどの静かな声音で問いかける。
「それが、私の限界なのですか」
 しばらく、ジークは無言だったが、やがて、
「そうだ―――」
「限界を知るということは、こういうことなのですか。最初から、ジーク様は私の限界が来ることご存じで、限界が来たら従士の任を解かれるおつもりだったのですか………っ !? 」
 何かを言いかけるようにジークの唇が動きかけたが、ノヴィアにはそれを見ることができなかった。
 無言。それがノヴィアにとって何よりも雄弁な答えだった。
 ノヴィアの唇がわなないた。
「私は、ジーク様の従士です………っ」
「これからはそうじゃない」
「従士です………!」
「目が見えない従士はこれから先、いても足手まといなだけだ」
 雷に打たれたようにノヴィアが立ちすくんだ。
 そう言われたことが信じられなかった。ジークは以前、目の見えないノヴィアを従士とし、導いてくれた。そのジークの口から、過去を否定する言葉が飛び出したのだ。
 室内に甲高い音が鳴った。アリスハートがひゃっと首をすくめる。
 ジークの頬を叩いたノヴィアが泣きながら、
「わ、私を馬鹿にしないでください………!」
 それだけ言うと、手探りで部屋の外へと飛び出していってしまった。
 叩かれたジークはしばらく無言でそれを見送っていたが、やがて空中に佇むアリスハートに目を向け、
「追わないのか」
「う、うん………」
 ジークの暴言に対して、いつもはノヴィア以上に怒るアリスハートだったが、ノヴィアの平手打ちに毒気を抜かれてしまい、逆に不安そうな顔をしていた。
「あのね、あのね、狼男………ちょっと聞きたいことがあるんだけど………」
「なんだ」
「あんたさ、ノヴィアの目が見えなくなったのはノヴィアのせいじゃなくて、他に原因があるって言ったよね」
 アリスハートは泣きそうに、
「それって………もしかして、またあたしのせいなのかなぁ」
 顔をくしゃくしゃにしてそう聞いた。
 この世に招かれた使命を忘れ、魂を持たず、故郷を求めて彷徨うエインセル―――それがアリスハートだった。自分がどこから来て、どこへ行くのかがわからず、寂しさに泣いていたところをノヴィアと出会った。
 しかし、半年前に明らかになった真実は、彼女はドラクロワが講じた策のうち、 〈刻の竜頭りゅうず〉の秘儀の歯車として、この世に無数に招いたエインセルのそのひとつであるというものだった。本人の気づかぬまま、力に惹かれ、その力を徐々に吸いあげる遅成体の彼女は、知らずしてノヴィアの力を吸いとり、目を開きたいと願う彼女の望みを妨げていた―――。
 また自分が知らないうちにノヴィアの力を吸いとっているのかもしれないと、不安に顔を歪めるアリスハートに、
「違うな。お前のせいでもない」
 あっさりとジークはそう告げた。
「ち、違うの………?」
「ああ、違うな」
 淡々とジークは続けた。
「俺のせいだ」
 あまりにさらりと言われたせいで、アリスハートは危うく聞き流すところだった。
「ええ? え、ええっ !? 」
「チビ、よく聞け」
 まともにその視線がアリスハートをとらえた。
 鋭すぎて狼みたいだと常々思っているその視線を向けられ、アリスハートは硬直したが、同時にひどく緊張した。
 ジークがこんなに真剣に自分にだけ何かを告げるということは、ほとんど初めてだった。
「この街は堕気が強いからすぐには無理だが………この街を離れれば、おそらくマグノリア大聖堂にたどりつく前にノヴィアの目は回復する。あいつの聖性はもともと強い」
 何のことかわからずにいるアリスハートに、
「目が見えるようになれば、ノヴィアはここに戻ってこようとするだろう。お前に頼みがある。目が見えるようになっても、ノヴィアをここに戻らせるな・・・・・・・・
「な、なんでよ………ノヴィアの目が見えるようになれば、前と何も変わらないじゃん」
「ここに来れば、また見えなくなるからだ」
「なっ………」
「強くなりすぎた俺の堕気が、ノヴィアのほうに逆流している」
 淡々と何でもないようのことに言うジークのほうが、アリスハートには信じられなかった。
 ジークが招く魔兵が膨大な数にのぼることは、アリスハートも知っていた。それこそ、たった一人でありながら、それは〈軍団〉だ。ここ一年で叛乱軍と聖法軍の激突は激しさを増し、ジークはそれこそ万軍を葬り、万軍の堕気を受け入れてきた。そのたびに堕気は膨れあがり、聖印ハイリヒは力を得ている。
「堕気や聖性の影響を真っ先に受けるのは、俺の場合この左腕だが、あいつの場合は力を宿している目だ」
「あ、あんたの堕気のせいで、ノヴィアの目が見えなくなったっていうの………?」
「そうだ。正確には、あいつに影響を与えている堕気のなかで一番大きな原因なのが、俺だ。だから堕気の少ないところにいけば、自然と目が開く」
 マグノリア大聖堂はほとんど聖性しかないからな、とジークは独り言のように続けた。
 かつて、その〈銀の乙女〉の総本山で、そこらじゅうが聖性だらけのなか、ジークの堕気の気配だけがひどく目立っていたことをアリスハートは思い出し、たまらずまた泣き出していた。
 ジークは優しいとノヴィアが言う理由が、ひどくよくわかった。真実を葬り、ただひとりでそれを背負い続ける。ジークはいつもそうしてきた。そしていまもそれを実践している。己の堕気を宥めてくれる者がいなくなるのを承知の上で、堕気のない場所にノヴィアを送り出そうとしている。これ以上、光を失うことがないように。
「ひどいよ………狼男ぉ、ノヴィアにそれを黙っていろだなんて………ノヴィアは戻るよ。目が見えなくても、あんたのところに帰ってくるよ」
「しかし、帰ってくるとまた目が見えなくなる」
「そうだよっ、あたしはそんなの嫌だよっ。だから、ひどいんじゃないかぁ………」
 自分はノヴィアを説得するだろう。マグノリア大聖堂に向かうことを、何とか納得させようとするだろう。
「………すまん、チビ」
 しゃっくりあげながら、アリスハートはジークを睨みつけた。
「でも、忘れちゃダメだからね。忘れるなんて許さないんだからね。ノヴィアは、あんたの従士なんだから。半年前から、狼男はノヴィアの杖だし、ノヴィアは狼男の杖なんだからね………あんたがどこにいようと、ノヴィアがあんたの従士をやめるなんてこと、絶対ないんだから………」
 ジークが初めて目をそらし、わずかながら肩を落とした。
「これ以上、あいつが何かを捨てる必要などない………」
「ノヴィアは、何も捨てたなんて思ってないよ」
「そうだな」
 頷き、ジークは静かに告げた。
「だから、困るんだ………」



「ジーク様の嘘つき………円から、出たのに。約束してくださったのに………」
 嗚咽をこぼしながら、ノヴィアは杖を握りしめた。
 目が開き、万里眼と幻視の力を受け継いだノヴィアが、正式に〈銀の乙女〉から〈見守る者〉の称号を授かると、それをきっかけにジークはノヴィアの従士の任を解こうとした。
 それを拒んだノヴィアに、ジークが提示した問いはひとつ―――お前に、俺が、討てるか。
 ノヴィアは二度、その答えを間違えた。そして三度目に、
「それが私の役目なら、私がジーク様を討ちます。他の誰にも、そうさせません」
 その答えを受けて、ジークは地面に円を描き、
「これの円が、俺の命だ。俺を、この円から追い出せ」
 そう言った。
 いくら本気で当てるつもりで幻視の矢を放っても、ことごとく防ぐジークに対して、ノヴィアが用いた策は、ジークが避けると、それがそのまま己を貫くように矢を撃ち放つことだった。
 果たして、ノヴィアを狙う矢を斬るために、ジークは円を出た。
 それでもなお従士とすることを拒んだジークに、ノヴィアは〈銀の乙女〉を辞め、称号も力も何もかも返還し、それでもついていくと告げ、ジークは折れた。
 ジークと共に行くことは、共に罪を背負うこと。この大陸を戦乱に陥れ、多くのむごたらしい死を生み出している親友のドラクロワの罪さえも、ジークは己の罪として背負い続けている。魔兵として受け入れた魂の過ちさえも背負うジークは、優しいからこその堕気をまとっている。
 それを共に負う―――かつて、ノヴィアはそう宣言した。
 いまでもその決意は揺らがない。なのに、ジークのほうからそれを否定してきた。
 以前のように、説得してジークの決定を覆し、ノヴィアが従士であることを認めさせるだけの勇気が、いまのノヴィアにはなかった。
 閉ざされた目が、いまのノヴィアを縛りつけている。
 見えないから。足手まといだから。迷惑だから。こんな己ではとても共に罪を背負えないから。
「どうして………どうして見えないの」
 違う。見えないことが辛いのではない。見えないというだけで、どうしてこんなに心弱くなっているのか、そのことが許せない。
 杖を握りしめ、ノヴィアはひとり、泣き続けた。