カオスレギオン 【新たなる絆】――2

 陽の落ちた真っ暗な部屋の中で、ノヴィアは一心にある一点を見つめていた。
 傍らに浮かぶアリスハートの金の羽だけが、茫洋と闇に浮かぶ仄かな明かりであった。
 ノヴィアが見つめる先には、火の消えた蝋燭がある。
「火が………見えます・・・・
 呟くやいなや、蝋燭の頭芯にぽっと茜色の光が灯った。
 不意に生じた暖かな炎は、ノヴィアのまなざしに見出され、さらに揺らめき、とうとう芯が焦げるジジ……という音をたてて、そこに在るものとして定着した。
 ノヴィアがほっと息をつき、集中を解く。
「やっぱりすごーい、前は炎を見る・・なんて無理だったじゃない。やっぱりノヴィア、だんだんと力を使いこなせているんだよぉ!」
 ことさら明るく、アリスハートがそうわめいた。
「ううん、でも、やっぱりとっても疲れちゃった」
 ノヴィアはそう言って、短杖の頭に飾られた青玉に額をあてた。聖印を刻み込まれた青玉から流れ込む聖性が、ノヴィアの疲労を癒してくれる。
 たしかに以前は、この託されたばかりの幻視の力を使いこなせず、炎や水などの形のないものを具現させることは出来なかった。
 いまはかろうじて、薪に火をつけることぐらいはできるようになった。矢も、たくさん見ることができ、ごくわずかながら軌道を変えられもする。
 聖女ラプンツェルの魂から幻視の力を託されたのと、母親から受け継いだ万里眼の力が開花したのは、ほぼ同時だった。
 唐突に手渡された二つの偉大な力を扱いかねていた自分に、
「まあ、慣れだ」
 と、ジークはあっさり言ったものだった。
 先ほど、彼から再び同じことを言われたが、それには続きがあった。
「慣れることと、狎れること………」
 呟いて、ノヴィアは不安げな顔になった。
「私は狎れているのかな……?」
「そんなことないよぉ、いい気になってる人がそんなことを言ったりしないよ」
 いつでも自分を慰め、力づけてくれる友達の言葉に、ノヴィアはくすっと笑った。
「ありがとう、アリスハート」
 蝋燭の炎を受けて、夕焼けのような影を帯びるアリスハートの姿に、ノヴィアは改めて己の目が見える幸せを実感した。
 母親から注がれる愛情を疑い、受け継いだ万里眼を拒絶し、無意識とはいえ自ら望んで暗闇のなかにいたノヴィアに、光を取り戻すきっかけを与えてくれたのはジークであったが、その間中、ノヴィアを励まし、勇気づけてくれたのはこの小さな妖精だった。
「見えるって、いいな」
 ぽつっとそう言ったノヴィアに、アリスハートが目を丸くする。
「どうしちゃったの、急にそんなに改まっちゃってぇ」
「ううん、ふとそう思っただけ」
 ジークの姿が見えるということの幸せ。
 彼に教えてもらったことは無数にある。
 怖さに耐えてまで目を塞ぐのもひとつの勇気だと言った。自棄になるな、道は必ず見つかるとも。本当に気にするべきなのは自分の心だとも、言った。そして、お前には助けられているとも、言ってくれた。
 一度は、目の開いたノヴィアを〈銀の乙女〉のもとに残して去っていこうとしたジークだったが、彼が与えた試練を乗り越え、自分はいまも従士としてジークの旅についていくことを許されている。
 これ以上、何かを望むのは贅沢というものだった。
「すぐにジーク様から答えを得ようとするなんて、ダメだよね」
 ジークの背負う使命に、少しでも役に立ちたい。それには自らのまなざしに宿る力を使いこなすことだった。
 自分の役目は〈見守る者エルダーシャ〉―――望む答えだけを得ようと、自らの目を閉ざすことは、あってはならないことだった。
「だいじょうぶだよぉ。ノヴィアがそう思ってても、狼男が答えなんてくれるわけないじゃん」
「あら、ジーク様はとても優しいのよ。だから、つい甘えてしまうわ」
 うげ、とアリスハートがうんざりした顔をした。日々のノヴィアとジークの様子を見ていても、どこらへんでノヴィアが『甘えて』いるのか、ジークが『甘えさせて』いるのか、さっぱりわからない。
 ジーク様は優しい、と、甘えさせてくれる、が、頑として譲らないノヴィアの彼に対する評だった。
「明日も、栄養のあるものを作ってあげなくちゃ」
「それはいいんだけどぉ、ノヴィアまで風邪ひいちゃダメだよ? 狼男ってば、ノヴィアに風邪うつして自分は治っちゃったりとか、しそうだよぉ」
「私? 私はだいじょうぶよ。だって、昨日ジーク様が外套を貸してくださったもの。体が冷えたりなんか、してないわ」
「でもでも、透視の力を使いすぎて疲れちゃったりすると、感染っちゃうかもしれないよ。狼男もだけど、ノヴィアも無理しちゃダメなんだからね」
 優しいアリスハートの言葉に、ノヴィアは微笑んで頷いた。
「だいじょうぶよ。気をつけるわ。ありがとう、アリスハート。修行もほどほどにする」
 己の力で灯した蝋燭の炎を見つめ、ノヴィアは再び己の力に思いを馳せた。
 ジークは力を使いこなすには、限界を知ることだとも、言った。
 力を使いすぎて倒れたことがあるが、それとはまた違うだろう。
 どんな力も、完全ではない。自分のこの偉大な二つの力も、ジークも………。
 自然と、宝杖バストーを握る手に力がこもった。
「頑張るのよ、ノヴィアちゃん」
 自分で自分を励まし、
「はいっ、頑張りますっ!」
 元気よく、自分でそう答える。
「相変わらずだよぉ、ノヴィアの一人頑張るちゃん………」
 アリスハートが、がっくりと肩を落として呟いた。



 翌朝、ちゃんと言葉通りに風邪を治したジークと共に街を発って、次の街へと移動している最中、ふとノヴィアは己の視界がぼやけたような気がして瞬いた。
「どうした、ノヴィア」
 目敏く尋ねてきたジークに、ノヴィアは首を横に振り、
「なんでもありません。ちょっと、疲れたみたいです」
「万里眼を使いすぎたな」
 あっさりとジークはそう言って、少し休もうと提案した。
 ジークが次に向かう先では現在、叛乱軍に寝返った聖堂騎士団と街を守護する聖法軍との間で、激しい戦いが起こっている。
 戦況は聖法軍に有利であり、街をよく守っていると噂されているが、街壁の外では敵味方の区別のない乱戦も起こり、略奪も横行しているという。そのため、道と安全をノヴィアの万里眼で確かめながら、ここまで進んできたのだった。
 一同は、街道から外れた森の中に腰を下ろし、ノヴィアが今朝作った包みを開いて食事をとった。
 休んでいる間、宝杖をあてて回復に努めていたにもかかわらず、朦朧とかすむ己の目にノヴィアは、
(やっぱり昨日、無理して炎を見なければよかったんだわ………)
 内心で激しく後悔していた。
「気負うな」
 不意にジークがそう言った。
「狎れてもいけないが、気負ってもいけない。俺のために力を使うのはかまわないが、俺のためだけには使うな」
「は、はい………」
「先を見てくる。ここにいろ」
 言うなり、ジークは立ちあがって、あっという間に姿を消してしまった。
「やっぱりジーク様には、みんなわかっちゃうんだわ………」
 悄然と呟いて、ノヴィアは目を閉じた。
「私のこの力は、杖のようなもの―――」
 この白木の宝杖を授けてくれた〈銀の乙女〉、エレミア・フェルテールが彼女に教えてくれたことだった。
 どんな力も、その者の歩みを助ける杖のようなものにしかすぎない、と。
 やがて、近づいてくるジークの気配を感じ、ノヴィアはゆっくりと目を開いた。
「ノヴィアぁ、だいじょうぶ?」
 かすんでいた視界はいつの間にか晴れ、覗きこんでくるアリスハートの顔と、遠目にもはっきりと燃えたつジークの赤髪が、鮮明に目に飛びこんできた。



 翌朝、異変に気づいたのはノヴィアだった。
 目を覚まし、周囲が暗いことに気がついて、夜が明けぬうちに起きてしまったのかと思った。
「ちゃんと起きたと思ったんだけどな………」
 街道の途中で、一同はうち捨てられた砦を見つけ、そこに宿を取ったのだった。
 疲れもあってかノヴィアはすぐに眠り込んだが、どんなに疲れていようと明け方には目を覚まし、朝食とその日の昼の糧食の準備をするのが習いとなっていた。
 寝直そうと、もぞもぞと寝返りをうったところ、
「あ、ノヴィア、おはよぉ………」
 目を覚ましてしまったらしいアリスハートの声がした。
「ごめんなさい、起こしちゃった? まだ寝ててもいいわよ。私も寝直すから………」
「え、また寝るの? もう、こんなに明るいのに?」
 アリスハートの言葉に、ノヴィアは愕然となった。
 はね起きて、暗闇のなか、見えぬアリスハートの姿を探す。
「ア、アリスハート、いま、何て………」
「ノヴィア?」
 眠そうに目をこすりながら親友を見あげたアリスハートは、そこにかつて見ていた眼差しを見出して、眠気も一気に吹き飛んだ。
 その茫洋とさまよう淡い紫の瞳は、ノヴィアの目が見えない時・・・・・・・のものだった。
「ノヴィアっ、ノヴィアっ !? 」
 恐慌をきたしたアリスハートの声に、ノヴィアのなかでの疑惑は確信に変わった。
 周りが暗いのではない。己が見えていないのだ。
 自分の瞼は既に開いているにもかかわらず。
 昨日まで、あんなに当たり前に見えていた光が、目覚めた今、どこにもない。
「どうして……… !? 」
 恐怖が一気にノヴィアのうちから噴き出した。
 見えない。何も見えない。
 かつて、やはり突然に目が見えなくなり、暗闇のなかに足を踏み出せなかった恐怖がよみがえり、ノヴィアは敷布をつかんだまま、寝台にうずくまった。
「なんで、私、もう何も………!」
 もう母を恨んでもいない。誰を憎んでもいない。
 自ら目を塞ぐ要因など、もはやノヴィアのなかには何もないはずだった。
「あ、あたし、狼男を呼んでくるよっ」
 慌てたようなアリスハートの言葉に、ノヴィアは思わず叫んでいた。
「やめて!」
 アリスハートがジークを呼びに行かなかったとして、隠しおおせることではない。すぐにもノヴィアの目が見えなくなったことはジークには知れてしまう。
 急に恥ずかしくなったのだ。
 また目が見えなくなったことが。そんな弱さをいまだうちに抱えている自分を、ジークに見られることが耐えられなかった。
「やめてって、ノヴィアぁ………」
 おろおろとしたアリスハートの声に、ノヴィアは涙を拭ってむりやり微笑んだ。
「ごめんなさい………でも、着替えるまでジーク様を呼ぶのはやめてほしいの」
「あ、ああ………そういうことぉ。び、びっくりしたぁ………」
「ごめんなさい。アリスハート………」
 消え入りそうな声でノヴィアは呟いた。
「ごめんなさい………」



 アリスハートに手伝ってもらい、手探りで着替え、身の回りの整理をすませたノヴィアは、凝然と寝台の隅に腰掛けたまま、ジークが来るのを待っていた。
 ジークの気配が動くのが、ここからでもはっきりとわかる。
 堕気をその身にまとうジークの炎のような気配は、目の見えぬ頃のノヴィアのもうひとつの杖であり、その足音はあまり多くを口にしようとはしないジークの、もうひとつの言葉だった。
 ノヴィアへの気遣いも、決して表には出さない感情も、様々に零れだしていたその足音に、耳を澄ませなくなったのはいつからだろう。
(目が見える様になってから、目に頼りすぎていたんだわ………)
 いま、こちらに向かうジークの足音はどこか急く様なものだった。
 心配されている。そう思って、ノヴィアは声をあげて泣きたくなった。
「ノヴィア―――」
 扉が開き、ジークの声を聞いた瞬間、ノヴィアのなかで限界がきた。
「ジーク様………っ」
 見えぬ目から溢れ出した涙がノヴィアの頬を伝って落ちていく。アリスハートがおろおろと、手を伸ばして涙を拭った。
「ごめんなさい、ジーク様………」
「なぜ謝る」
「だって、私、また目が………せっかくジーク様に導いてもらい、見えるようになったのに………どうして………」
「ノヴィアぁ………泣かないでよぉ。すぐに見えるようになるよぉ」
「チビの言うとおりだ」
 滅多なことでは気休めなど口にしないジークのその言葉に、びっくりしたノヴィアの涙が思わず止まった。
「どうしてと言ったな」
「は、はい………」
「急に目が塞がった理由がお前自身にもわからないなら、それはお前のせいではないだろう」
 ジークらしかぬ物言いだった。詭弁のように聞こえ、ノヴィアが訝しんだとき、
「少なくとも、俺は、お前にその理由があるようには見えない」
 ノヴィアの紫の瞳に、みるみるうちに涙が盛りあがった。
「本当ですか………? 本当に、私自身の心に、目を塞ぐものがあるせいではないと………」
「俺はそう思う」
「………ッ」
 後から後から涙が零れて止まらなかった。
 ジークに会うことを恐れていた自分が馬鹿らしかった。ノヴィアが抱いていた己自身への不審をジークは見抜き、そうではないと否定してくれた。
 ではなぜ―――と新たな疑問がわきあがってくるのも事実だったが、それでもジークに肯定されたことが、己の心に疑いをもたれなかったことが、身に沁みるほど嬉しかった。
「ありがとうございます………ありがとうございます、ジーク様」
「礼を言うにはまだ早い。お前のせいではないのなら、他に原因があるはずだ」
「はい………っ」
 しゃくりあげるノヴィアの背を優しく叩いて、ジークは促した。
「ノヴィア、ほら、泣きやんでよぉ。ノヴィアがご飯作ってくれないと、あたしも狼男もお腹をすかせたままなんだからね」
 ノヴィアと元気づけようと、わざとそう言ったアリスハートは、そっちに気を取られていたせいで、ジークの表情に気づかなかった。
 ジークはその鋭い眼光に、いつも以上に厳しいものを浮かべていたのだ。