恋妃――十二国記――〈上〉

 麒麟きりんじんの生き物。天帝に仕え、よく天命を聞く。この獣が王を選び、玉座に就ける。麒麟に見いだされるのは王気を宿した人物だ。王になるべく定められた天命を持つ者。
 慶東国けいとうこくの王と麒麟は共にその号を景王けいおう景麒けいきという。
 しかしその景王の座は、前王崩御ののち各祠に麒麟旗が揚がった後も、長く空位のままだった。
 そして、長いその時代を経た後で、慶国の民はようやく新たな王を得た。
 何の変哲もない商家に生まれたごく普通の娘。その娘の足許に、王の前以外では決して膝を折らぬ獣は額ずいた。
 天啓は彼女を示した。彼女以外、誰も景王ではありえない。
 慶主景王―――名を舒覚じょかくという。




 それでも最初、彼女は微笑んだのだ。
 ―――景麒、わたくしは良い王になりたいわ。と。




 紗のとばりのうちで全てを放棄して一人、舒覚は顔を覆った。
 牀榻ねまの外から控え目に彼女を呼ぶ声が聞こえてくる。主上、と。
 そう呼ばれるのはここ金波きんぱ宮において彼女しかなく、この世界を以てしてもわずか十二人しかいない。
 三年前ほどまではただの娘であった自分に、諸侯諸官が伏礼する。それほどの価値など自分にあるものか。
 何か大それたことを望んでいたわけでもない。はたを織って花を摘み、土地を耕し日々の糧を得て、母や妹と助け合い、そうして王の不在を嘆き、新しい王が起つことをただ祈る―――
 王が玉座にいれば全てはうまくゆくのだと、何の疑いも持たずにいた。
 それは違うのだと身を以て知った今でも、やはり自分はただの娘なのだ。国を背負い民を護り、そのために官を動かすことなど到底できない。
「―――主上」
 牀榻の前に立てられた衝立の向こうから、先程よりもはっきりとした声がした。
 違う、わたくしは王などではない―――主上と呼ばれる度にそう幾度となく叫びそうになって、舒覚は声を呑み込んできた。たとえ悪い夢としか思えなくとも、間違いなく彼女自身しか王はいないのだと、その存在を以てわからせてくる相手が今、彼女を呼んでいる。
 彼女が夢見ていた幸せを取りあげ、この美しいだけの檻に据えた人物。
 玉座に就いた最初の頃は憎くて憎くて、それでも頼れる者は彼しかこの王宮に存在せず縋って、そして突き放された。
 政務をれと。慶の民を案じてくれと。あなたは王なのだからと―――
 舒覚とて最初のうちはそうしようと努力をしたのだ。選ばれたのだから良い王になりたいと、ある種のおそれと共に一度はそう誓ったのだ。
 しかし、王の不在に馴れた官たちは舒覚を侮り、己の利のみばかりを重んじて彼女に取り入ろうとした。もともと自信なく玉座に臨んだ舒覚は、すぐに政務に興味をなくした。自分の言うことなど何一つ取り合ってもらえないというのに、一体に何をしろというのか。
 愚痴をこぼせば景麒はそれを咎める。
 どれほど彼と言葉を交わしても、いっこうに会話は噛み合わず、思うことは相反した。互いに真摯に相手を捉え言葉を向けているというのに、何ひとつ添うことなどない。景麒は舒覚を理解せず、舒覚も景麒が理解できなかった。
 なのに、どうしてこれほど愛おしいのか。
「―――主上」
 もう一度、声がした。
 愛おしい、しかし決して寄り添わぬ半身。
 彼女の麒麟。



 予青、と新たな元号が定まってから、ようやく一度目の夏が来た。
 麒麟が生まれ育つ不可侵の地、蓬山ほうざんの主である碧霞玄君へきかげんくんに呼ばれて王宮を空けていた景麒が帰還したのは、ついさっきのことである。
 鬱々うつうつとして舒覚は園林ていえんに目をやった。とろとろとした暑気がそこかしこに澱んでいる。
 帰ってきたとなれば、あの金の髪を持った生き物はまた舒覚をいさめる言葉を口にするのだろう。
 彼がいない間、彼女が政務を放擲ほうてきし王宮の奥に閉じこもっても、誰も訪ねてはこなかった。この王宮のなかで、真実彼女を気にかけているのは景麒のみなのだと、改めて思い知る。
 己の惨めさを今更ながらに知ろうとも、最早何の思いも浮かんでこないが、ひどく心細いこともまた事実だった。
 ことあるごとに景麒の諫言かんげんを聞くのも辛いが、打ち捨てられたようにここの四阿あずまやに座る自分の在り様にも我慢がならない。針のむしろとはこの自分のためにある言葉に違いない。
 舒覚は手元の刺しかけの刺繍に視線を落とした。茎が描く曲線で繋がれた野の花の図柄。これを刺しているときだけ何もかも忘れていられる。
 ―――帰りたい。
 胸のうちから湧きあがる思いに、舒覚は唇を噛み締める。
 ―――家に帰りたい。
 家に帰り、よく知った炉の傍で使い古した床几こしかけに座り、刺繍をするのだ。死んだ母はおらずとも妹と共に、麦を挽き米をつき、糸を紡いで日々をそうやって過ごしていく。
 ここに来た最初の頃、目を見張った雲海の眺めも園林の素晴らしさも、ここに来るまで見たこともなかった紅玉を繋いで作られた美しい花鈿はなかざりも、全ていらない。
 美麗な御物ぎょぶつも飾りたてられた堂室へやも、諸官が額ずく玉座も、老いない肉体も、欲しい者がいるならば喜んでくれてやるものを。
 ただの娘に戻れるならば、他には何も望まないというのに。
 さあ、と風が園林を吹き抜けて、澱んだ暑気を掻き回した。
「主上―――」
 来たか、と舒覚は刺繍から顔を上げる。
 園林に敷かれた遊歩のための石畳を金の髪をした人物が一人こちらに歩いてくる。舒覚は実際に見たことがなかったが、獣形に転変すればたてがみになるというその金の色を持つ者が誰かわからぬ者など、どこの国を探してもいない。
 いさめの言葉はもうたくさんだと思っている傍ら、帰還に小さな安堵を覚える。
「景麒」
 溜め息と共にひっそりとそう呼ばれ、慶国の麒麟は一礼した。
「蓬山より只今戻って参りました。長らく御前を離れましたことを深くお詫び申し上げます」
 舒覚は名前を呼んだきり黙りこくっている。
「主上」
 耐えかねたように景麒が舒覚を呼んだ。顔が苦渋に歪んでいる。
朝議ちょうぎにはお出になっておられますか」
「どうしてそのようなことをわたくしに聞くのです。わたくしに聞かずともそれに答える者など幾らでもいるでしょう」
 舒覚の答えに景麒は深く顔を伏せる。最早このようなやり取りしか成立しなくなってから、どれほどになるのか。
 これではいけない、と思う。
 つい先日、訪れた先の蓬山でも碧霞玄君―――玉葉ぎょくようにも言われたばかりである。正論ばかり吐かずに、まずは景王のお心を安んじてさせあげろと。
 しかし、どうしろと言うのだ。叱っても励ましても少しもよくなる気配がない。
 舒覚の様子をうかがった景麒は、余所よそを向いて深く俯いた彼女のその手が刺しかけの刺繍を強く掴んでいるのに気がついた。
 ―――刺繍をなさっておいでだったか。
 機を織り、刺繍をしている間だけ、舒覚は幸福そうな顔をする。
 蓬山でまみえた幼い同胞と同じく、彼女もやはり淋しいのだろうか。
「主上………」
 思い切って景麒は口を開いた。
「そう強く掴まれてはせっかくの刺繍が駄目になってしまいます」
 虚をつかれたように舒覚が顔を上げた。ひどく驚いた表情で景麒を見、手元の刺繍に視線を落とす。そうしてようやく気づいたかのように、布を握りしめていた手を開いた。
 堪えきれなくなったのか、嗚咽を洩らして顔をそむける。
「もういや。家に帰りたい………。王宮ここから降ろして」
「主上」
「わたくし、王になんかなりたくなかった」
 もう何度と繰り返されたかもわからない言葉だった。即位してそれなりの時間が過ぎ、わずかばかりの余裕が出てきた頃―――それは官の専横に絶望した舒覚が政務を放棄しはじめた頃でもあったのだが―――彼女はよくこうやって景麒を責めた。
 泣くばかりの彼女に、それでも耐えて政務を執るよう懸命に諭したが、蓬山から帰還した今、それは逆効果だったのだろうと思う。
 再び刺繍を握りしめて涙を零している主の前に、景麒は膝をついて視線の高さを同じくした。
「お許しください」
 舒覚が自らの麒麟を見た。
「主上が今の暮らしを望まれていないことはわかります。御生家を懐かしまれるのも、淋しく思われるのも、私が主上を玉座にお就けしたからでしょう」
「景麒」
「私のせいです。お許しください。―――ですが、私には主上しか選べませんでした。主上しかおられなかった」
 舒覚がまたたいた。
「………わたくしだから?」
 景麒は頷く。
「私が選ぶことができたのは、主上だけなのです。お許しください」
 舒覚は白いかおをいっそう白くして、涙を零した。
「とても淋しい」
「はい」
「とても辛い」
「はい」
「とても、とても………」
「お許しください―――」
 舒覚は景麒に縋りついて静かに泣き出した。彼がその背を撫でてやると、ますます嗚咽を零す。
 しかし最も深いところで決定的な何かがすれ違っていることに、景麒も舒覚も気づきえなかった。

 ―――この時から、囚われてしまったのかもしれない。