恋妃――十二国記――〈下〉

「主上―――」
 景麒けいきの声はなおも舒覚じょかくを呼びさいなむ。
 声だけで姿が見えないのは、ひとえにここが王の臥室しんしつだからに他ならない。女御じょごと押し問答をしてようやく衝立の向こうまでは辿り着けても、牀榻ねままで踏み込むことはできない。
「主上、どうか朝議にお出ましください―――」
「わたくしは出たくなどないのです。下がりなさい」
「ですが」
 きっと景麒は衝立の向こうで、苦渋に満ちた顔をしているのだろう。
 それは舒覚のせいだが、彼女のためだけに苦しんでいるのではない。麒麟は民意の具現、慈悲の生き物であり、常にその哀れみは民へと向けられている。どれほど舒覚が恋おうとも、その紫の目に彼女だけが映ることは決してない。
 これほど苦しくて苦しくて仕方がないのに、景麒はそれに気づく気配はない。否、気づいていても、舒覚の憔悴が己への執着ゆえとは思いもよらない。
 予青、と称して既に数年。国は平らかに治まるどころか確実にその傾斜をきつくしている。いまや滑り落ちることなく踏みとどまる者など何処に見出すことができるだろう。
 舒覚には最早どうすることもできない。何もしたくないというのが正しかった。己のことすらどうにもならぬというのに、この慶国に散らばる幾万もの民を幸せになどできるはずがない。
 雲海の上には寿命がない。王も麒麟も諸官もすべて老いを忘れ、時間も忘れて暮らす生き物だ。時をえても鈍い変化しか訪れぬ金波宮きんぱきゅうの更に奥にひきこもっている舒覚には、伝わってこないけいの国土の荒廃などどうでもよかった。
 ふいに舒覚を呼ぶ景麒の声が途切れた。衝立の向こうで、幾つかの会話が交わされている。景麒と言葉を交わしているそのほのかな声に彼女は覚えがあった。
 かっとなって舒覚は被衫ねまきの襟を掻き合わせると衝立を押しのけた。
「主上―――」
 驚いた景麒が舒覚を振り返る。
「何を話しているのです」
 固い声で問うと、彼女の女御が平伏した姿勢からさらに頭を低く床につけた。
「あの………主上の朝餉あさげをどうされるかと………」
「いらないわ」
 素っ気なくそう答えると、舒覚は景麒へ視線を投げた。被衫ねまきのまま牀榻しょうとうを出て姿を見せた彼女に対して、呆然とした顔を向けている。
「どうして台輔たいほにわたくしの朝餉のことなど尋ねるのですか」
 女御はますます萎縮して平伏した。
「答えなさい」
「い、いえ。あの………もうしわけありません………」
「景麒もどうして女御などに言葉をかけるのです」
「主上、それは―――」
 自王の勘気を悟った景麒が困惑したように平伏し続ける女御を見た。
綸枝りんしは私が主上とお話している最中なので、朝餉のことをお訊ねしてもよいものかうかがったに過ぎません」
 舒覚は景麒をめつけた。
「景麒は棆枝を庇うのですか」
「そのようなことではありません。―――主上、せめてうわぎを」
 舒覚に着せかけるうわぎを求めて、景麒が綸枝を振り返る。そこに舒覚は強烈な嫉妬を覚えた。なぜ景麒が綸枝ごときに目を向けるのか。
 景麒の主は自分だけ。景麒が目を向けてよいのは彼が選んだこの自分だけなのに。
「―――下がりなさい! 二度とわたくしにその顔を見せないで!」
 景麒と綸枝が共に舒覚を見た。誰に向けての言葉なのか―――仕える王から灼けつくような視線を浴びて蒼白になったのは綸枝の方だった。言葉もなく、平伏し直すと逃げるように臥室しんしつの外に出ていく。
「主上、綸枝は何も粗相などしてはおりません。お叱りになる必要はないでしょうに」
「景麒。あなたも下がりなさい。―――いえ、下がってはなりません。あなたも朝議に出なくてよいのです」
「それはなりません、主上―――!」
 狼狽した声で景麒は異を唱えたが、舒覚はひっそりとそれに笑うだけだった。
 景麒は愕然と目の前の主を見つめた。痩せた。三年前から日を追うごとに舒覚の頬は削げていく。しかしそれとは逆に目だけは、追いつめられた炯々けいけいとした光を増していった。
 ―――最早とりかえしはつかぬのか。
 暗然たる思いにとらわれて、景麒は臥室に立ちつくした。



 結局、景麒すら遠ざけ舒覚は一人、牀榻しょうとう衾褥ふとんを拳で叩いた。その拳も骨や筋が浮き上がるほど痩せこけ、叩いたところで分厚い衾褥はたいしてへこみもしない。
「いやよ………」
 ぎりぎりと爪が牀榻の縁に傷をつけていく。
「どうしてわたくしを見てくれないの。どうしてわたくしだけを案じてはくれないの」
 ―――景麒………!
 ただの娘に帰りたいと嘆くことすら諦めた舒覚に残されたただ一つのもの。彼女を選び、彼女を玉座に据え、彼女と共に在るはずの人ではない存在。
 ………あの金のたてがみはわたくしだけのもの。あの紫の双眸もわたくしだけの………。
 最早、彼以外に望むものなどこの世にはないというのに。
「景麒………」
 どれほど景麒に焦がれようと、舒覚自身最初からわかっている。麒麟は慈悲の塊。民のために王を選び、そのために王につくす。王だけのために生きているのに、舒覚だけのためには決して生きない神の獣。
 何もわかってくれない舒覚の半身。あのとき、即位してようやく一年が過ぎようというあの夏の日に、わずかなりとも通じ合えたような気がしたのが間違いだったのか。
 しかしもう遅い。
 不器用なその在り様に気がついてしまった。ときおり垣間見せるその気遣いに、舒覚を案じていないわけではないと知った。彼自身が選んだ唯一無二の王に、彼なりに心を砕いてきたのだと知り―――そして恋い焦がれてしまった。
 彼がたとえ女御とはいえ自分以外の女にその目を向けると考えるだけで、身悶えするほどの嫉妬を覚える。
 恋しくて恋しくてたまらない。
 舒覚の双眸が言い知れぬ光を宿した。
 彼さえいればいいのだ。
 景麒さえ傍にいてくれれば。
 ―――金波宮に、女はいらぬ。




 それから年が過ぎ春を迎えたその夜、舒覚はふらりと園林ていえんに出た。
 手入れする者もなく、荒れてゆくばかりの園林はまだそれでも幾ばくかの美しさを保ってそこにある。春先の強い風がざわざわと暗い色の塊を揺らして音を立てていった。
 雲海の上にあり、下界の天候など関係ないはずの王宮内にしてはやや強い風だった。果たしてこれも慶国が傾きゆく証なのかと、舒覚は風の吹き抜ける先を追う。
 ―――苦しい。
 月が出ていなかったため、園林の中は暗かった。黒々とそびえる四阿あずまやの影を避け、舒覚は水辺へと出る。沢を真似た流れが池に落ちる微かな水音が葉擦れの合間に彼女の耳に届く。
 池のほとりの花の咲き乱れた園林にかつて舒覚の愛していた野に咲く小さな花はない。いまも鮮やかな牡丹が池の水面に花びらを落としていた。いかなる風の悪戯か、池に架かる橋の上にも紅の花弁がほたほたと散っている。
 ―――苦しい。
 最早、この金波宮に女はいない。凌雲山りょううんざんふもとに広がる堯天ぎょうてんの都にもいない。つい先日、慶国そのものからの追放を勅命として命じた。もうすぐ慶の国土から舒覚以外の女は消えてなくなる。
 ―――最初は金波宮だけだった。
 しかしすぐにそれは堯天になり、景麒が女を庇う度に舒覚は範囲を拡大し、ついには慶国全土に至った。たがが外れたようだと彼女自身も思ったが、事実外れたのだろう。止まらない。
 女という女は慶国から追放を命じられ、妖魔の跳梁ちょうりょうするなかを国の外へと逃げていく。
 もはや舒覚の天命が尽きていることが周囲の誰の目にも明らかだった。物の見える良識ある官は王宮から出ていった。後には己の懐を満たそうとする専横のやからと他に行くあてもない男の官吏が残るばかり。
 坂を転がり落ちるように、彼女自身も傾いていく。
 舒覚は橋の欄干に手をおいた。爪の色が薄い。艶もなくぼろぼろになったそれが骨ばかりの指の先にはりついている。
 その手の甲に牡丹の花びらが舞い落ちた。
 牡丹の紅色が闇の中で浮き上がって見えるほど、その手の甲は青白い。
 ―――景麒。
 舒覚は目を伏せた。
 彼女の病みに同調するかのように景麒も日に日に衰えていく。老いと死を知らない麒麟が病むときはただ一つ、王が道を失い、天命が尽きたときだけだ。麒麟は王の生き方の鏡、麒麟が死ねば王も死ぬ。そうやって天は、昏君こんくんを玉座から追い払うのだ。
 愚かな舒覚のために病んでゆく景麒。
 彼の姿を目にする度に、舒覚は自分の愚かしさを思う。痩せて生気を欠いてゆく顔は罪の所在とその自覚を促すと共に、狂おしいほどの愛しさをも募らせる。
 ―――こんなに愛しくて。
 ―――苦しい。
 主上、と呼ばれる。彼女こそが間違いなく王なのだとわからせてくるその言葉の響きさえ、彼に呼ばれるのであれば嬉しかった。
 彼の望むような王に成れればよかったのだが、もとより道など舒覚のうちにありなどしない。道を違えたその先で彼女は景麒に恋をした。
 そして景麒は死んでゆく。
 彼が選んだ主の愚かしさのために。
 ―――わたくしより先に。わたくしを罰するための天の道具として。
 逆巻くような突風が手の甲の紅を吹き飛ばした。
 園林の木々が悲鳴にも似た激しい音を立てる。園林のなかを駆け抜ける風に地に落ちた花弁が一斉に宙に舞い上がった。
 無数の紅が散る。
 重い雪片のように花弁が辺りに降り注ぐ。
 舒覚は振り返った。理由もわからず橋の上から園林の入り口を振り返っていた。
 ―――そこに理由があった。
 景麒。
 彼女の麒麟がそこには立っていた。その薄い紫の双眸が舒覚を凝視している。金のたてがみにはらはらと赤がまとわりついて肩に落ちた。
 ああ、と舒覚はうめく。
 今更のように、悟った。



「景麒………」
 最初からこの麒麟は舒覚を見ていてくれたのではないだろうか。それゆえに、自分はこれほどまでに恋しく、苦しかったのではないだろうか。
 王になりきれぬ舒覚に振り回されて、それでもその舒覚のためだけに生きるしかない哀れな生き物。
 最愛の麒麟。
 だからこそ舒覚は悟りえた言葉を、これまで一度たりとて景麒に告げることのなかった自らの言葉と共に言わなければならない。
 いまここで、紅を絡ませて立つその姿を、未来永劫、忘れぬように心に刻みつけて。
「愛しています。わたくしの景麒―――」
 景麒の双眸が見開かれる。



 愕然と景麒は立ちつくす。闇の中で暗く溶けるその金の色彩に目を細めて、舒覚は微笑した。
 美しい、と感じた。ともに病み衰えた二人。降りしきる牡丹の花弁の妖しさに並び立つことは到底かなわない。しかし間違いなく、今ここに立つ景麒は美しい。
 胸の奥で熱を放ち続ける燠火おきびが掻き立てられ、舒覚の視界が深紅に染まる。
 ―――こんなにも愛しい。目がくらむほどに。
「………わたくしは死ぬでしょう」
「主上―――」
 景麒が掠れた声をあげた。その唇は、まだ踏みとどまれると慰めにすらならぬ嘘の言葉をまた紡ぐのか。全ては結末へと収束してゆこうとするこの流れに気づかぬはずもないだろうに。
 せめて、と舒覚は願った。せめて景麒がこの瞬間の彼女だけは長い間忘れることがないように、と。―――自分はこれから死ぬまでの短い間、決して彼を忘れることはない。
 零す機会をとっくに逸していた涙が今更のように舒覚の頬を伝い落ちた。
「けれど、景麒は死にません。わたくしが死なせない」
 ―――牡丹はいつの間にか園林を埋めつくしていた。



 ―――西に。
 蓬山ほうざんに、一人。
 失道しつどうおちいった麒麟を治す方法はわずかに二つ。王がその性根を入れ換え道を正すか、王が麒麟を手放すか。
 麒麟が死ねば王も死ぬ。しかし、王が死んでも麒麟は死なない。病みの原因である王がかくれれば、王のための病は快癒かいゆする。
 慶王舒覚は一人、蓬山に登り退位を申し出た。天がこれを許したとき、王となる天勅を受けて神に生まれ直した只人ただびとは、もはや生きていくことすらかなわない。
 慶国から―――西に。
 蓬山に、一人。
 十一の国で十一のほうがその時鳴いた。鳳凰ほうおう二羽のうち、おうは他国のおうと意志を通じ、ほうは他国の大事を鳴く。
「慶国に二声―――景王崩御」
 その慶国では二声宮の主が、一生に二度しか鳴かないその二度目の声をあげて地に落ちた。ただ一声、
「崩御」
 景麒は強く目を閉じる。



 それでも最初、彼女は微笑んだのだ。



 ―――景麒、わたくしは良い王になりたいわ………



  ―了―