序章 それぞれのはじまり [1]

 それは、いつの時代も六人。
 一人が欠けても増えてもいけない、暗黙の了解。当たり前の常識。



「すばらしいわ。相変わらず頑張っているようね」
 王立学院からもたらされた成績表を見て、手を叩いて喜ぶ無邪気な母親に、白煉ビャクレンは黙って頭をさげた。純白の髪が肩からなだれ落ちて左右に霧の幕をつくる。
「それで、こちらには休暇の間じゅうずっといるの?」
「はい。そのつもりです」
「まあ。それはよかった。今度一緒に布を見にいきましょう。ね? 貴女と白氷ハクヒに新しい服を仕立てさせようと思うの。好きな布を選びに行きましょうね」
 出された名前に、白煉は首を傾げた。
「白氷姉さまはこちらに帰っているのですか?」
 四つ年上の姉の日溜まりのような顔を白煉は思い出す。理知的で艶のある美貌と評される白煉に比べて、下手をするとその妹よりも年下に見られがちな童顔の姉だった。
 いつまでたっても子どものような母親が、うきうきとした表情で頬に手を当てた。
「あの子ももうすぐ帰ってくるそうよ。領立学府でいったい何を学んでいるのかしら」
「たしか、経済ではなかったかと思いますが………」
 白煉は母親の疑問に答えたが、当の母親はそれを聞いてはいなかった。何を思い出したのか、溜め息をついている。
「ほんとにもう………あの子は小さい頃から世話ばかりかけて。その点貴女は手がかからなくて助かるわ」
「はあ………」
 曖昧に相づちを打って白煉が母親の部屋を辞そうとすると、おっとりした母親の声が背をうった。
「ときに白煉。貴女はもう剣体舞けんたいぶはやめたのかしら」
 白煉はわずかに息を呑んで、悟られぬよう表情を殺した。
「はい………」
「そう。ならいいの。コウ家の跡取りとしてはちゃんと白雷ビャクライがいるんですもの、女の貴女がわざわざ武の技を会得する必要はないのよ。心配しなくてもだいじょうぶだわ。貴女は刺繍も料理もとても上手ですもの、きっと素敵なお嫁さんになるわね」
 白煉は黙って頭を下げた。
 その表情を見られたくなかったのかも、知れない。



 庭に出た彼女の姿を見つけて挨拶をしてくる使用人に気のない返事を返して、白煉は人気のない奥の庭に出た。背の高い山梔子くちなしに四方を囲まれた小さな庭で、幼少の頃、白煉が作った木の椅子がひとつ置いてあるばかり。
 花の盛りのいま、この小さな空間には眩暈を覚えるほどの山梔子の芳香が漂っていた。
(どうして、女は武の技を学んではいけないのか)
 母親の言葉が白煉の胸を締めつける。
 たしかに刺繍も料理も好きだ。だが、剣体舞はもっと好きだった。
 剣を動かし翼を動かし、呼吸を整え、気の流れ、石の共振を感じ取るその技。自分がこの世界の一部なのだと確かに感じる瞬間を得ることができるのに。
 皓=武家は六国のひとつである白国の名家。優秀な武官を輩出する名門の家。
 しかしそれは男のみを見た事実。皓家の女は影で家を支えひっそりと消えていく。

 ―――あなたは手がかからなくて助かるわ。

 おっとりして頼りない典型的な長女気質の姉と、両親が歳を得てから生まれたため溺愛されている軟弱な弟。
 両親の関心は手のかかる姉と弟二人のみに向けられ、優秀な白煉は放任されている。
(どうして、私だけ―――)
 姉が金のかかる領立学府へと進んだため、白煉は学費の安い王立学院へ進まねばならなかった。
(私は、いったい―――)
 知らず、白煉は剣体舞を舞っていた。
 手が伸ばされ、ひるがえされる。足が踏み出され、音もなく体が空間を流れていく。
 心を落ち着けるには、これがいちばん効果的だった。
 ひと通り舞い終えたあと、白煉は周囲が騒がしいことにようやく気がついた。何事かと山梔子の庭を出ると、白煉の姿を見つけた使用人の一人が駆け寄ってくる。
「白煉お嬢様、あれを―――!」
 使用人が指差す空には、優雅に屋敷の上空を旋回する銀影があった。
「あれは………」
 白煉が目をすがめてその影を確認する間もなかった。まっすぐにその銀色の影は白煉目がけて滑空してくる。
 ばさり、と鳥の羽音がした。その空気の流れが白煉の頬をうつ。
 思わず差し伸べた腕に、静かにその銀色のからすは降り立った。
「お前は………」
 白煉が絶句したとき、使用人が短く叫び声をあげて屋敷に身をひるがえした。その叫びが空に高く響き渡る。
「白煉お嬢様に〈選定烏せんていう〉が !! お嬢様が〈黒の学院〉に選ばれなすった―――!」






 紅乃コウノは優美な細工の施された格子をつかんで、あらんかぎりの父親の悪口を述べ立てていた。
 天井の明かり取りの窓にも、優雅な花を描いた鉄の格子が入っていて、飛んで逃げることもできそうにない。
 格子越しに小さな屋敷の荒れ放題の中庭が見てとれる。
「ひどい………。いくら何でもあんまりよ。顔も見たことのない男性と結婚しろだなんて」
 紅乃は唇を噛んで、目を潤ませた。
 下位の神官である紅乃の家は、貧乏ゆえの存続の危機に陥っていた。これは父が悪いわけではなく、先代の当主―――紅乃の祖父が大変な浪費家だったためだ。借金の金策と神官の資格保持の裏工作に腐心する父親が、起死回生の策としてこぎつけたのは、紅乃を裕福な高位神官の家に嫁がせることだった。
 どうやら向こうは父親が勝手に作った紅乃の肖像画を見て、いたく彼女のことを気に入ったらしく、もはや紅乃が首を横にふってもどうにもならないところまで話は進んでしまっている。
 それでも紅乃が頑強に抵抗すると、父親は紅乃を婚礼の日まで屋敷の一室に閉じこめるという手段に出たのだった。
「何よ何よ。毎日のご飯作ってるのはあたしじゃないの。あたしをこんなところに閉じこめたら、父さんの食べる物なんかこの屋敷のどこにもないんだからっ」
 薄紅の目は泣いたせいで、さらに赤みを増してしまっている。
「父さんのバカああああああぁぁぁっっ !! 」
 涙目で紅乃は絶叫した。



「紅乃や、綺麗だよ。死んだ母さんが見たらさぞかし喜ぶことだろう」
「死んだ母さんが見たらさぞかし嘆くことだと思うわ。借金のかたに一人娘を売り飛ばそうっていうんだもの」
 父親は顔をしかめて紅乃を見た。
「人聞きの悪いことを言うんじゃない」
「だって事実だもん」
 いまにも婚礼の刺繍を施した被り布を剥ぎ取りそうな紅乃に、父親は情けない顔で懇願した。
「なあ、ほんとに頼むよ。向こうは紅国きっての名門の神官家の跡取り殿だぞ。それが何を間違ったのかお前を気に入ったというんだ。いったい何が不満なんだ」
「全部よおおおぉっ!」
 手に持っていた真紅の芥子けしの花束を紅乃は父親に叩きつけた。
「勝手に結婚する相手を決められるだなんて! たとえ向こうがあたしを気に入ってようと、お金持ちだろうと、そんな結婚絶対にイヤ !!」
「いまさら、ぐだぐだいうんじゃないっ」
 父親のほうも負けじと怒鳴り返した。
「もうすでに皆様方お待ちなんだ! 何が何でもお前を婿殿に引き渡すッ」
「イヤだってば!」
 礼服姿の父親に引きずられるようにして、紅乃は神殿の祭祀の間までたどりついた。
 そこで初めて夫となる名家の跡取り息子とやらを見て、げんなりとする。
 不細工だった。そのうえ中年だった。
 渾身の力をこめて父親の手をふりほどいたとき、頭上から鳥の羽ばたく音が聞こえた。
「え………?」
 思わず上を見上げて紅乃は、ぽかんと口を開いた。
 翼を持つ自分たち翼晶族よくしょうぞくにとって、神聖な祭祀の間に天井がないのは当たり前だった。婚礼の日に相応しい晴れ渡った初夏の空を、大きな銀色の影が舞っている。
 大陸六国。どこの国にも銀色の鳥はいない。
 ただの六羽を除いては。
 呆気にとられた娘の視線を追って、父親も唖然として口を開いた。
 婚礼の参列者も口々に上を指差した。
「〈選定烏〉だ―――」
「黒学府の遣いだぞ」
「この中に、〈選徒せんと〉がいるんだ!」
 参列者の叫びは紅乃にも聞こえていたが、そんなことはどうでもよかった。
 陽の光をあびて空を旋回する銀色の選定烏はとても綺麗だった。
 しばらく神殿の空を舞ったあと、銀の鴉は一声鳴くとゆっくりと神殿内に降りてきた。
 人々が固唾を呑んで見守るなかを選定烏はゆうゆうと舞い降りてきて、その銀の翼をたたんだ。
 ―――紅乃の肩の上で。
 驚愕のざわめきが爆発する前に、紅乃は婚礼の被り布を剥ぎ取って床に投げ捨てた。
「婚礼は中止よ! あたしは、〈黒〉に行くんだから !! 」






紫音シオン! 王立学院を退学したってどういうことなの!? ちゃんと説明してちょうだい!」
 癇性な祖母の声に、廊下を行く紫音は静かに後ろをふり返った。
 紫闇の瞳に、わずらわしげな表情が浮かぶ。
「説明も何も、その紙に全部書いてありますが」
「どういうことなの! なんで退学などするの! あれだけ苦労してお金も出してやったのに………!」
「おばあさま」
 紫音は自分を育ててくれた祖母に向き直った。
 彼女が口答えをすれば死んだ両親の教育が悪かったと嘆き、彼女が誉められれば自分の教育が良かったのだというような、身勝手で厳格な祖母。
 歳を重ねるたびに神経質になり、紫音への束縛はどんどんと強くなっていった。
 王立学院から帰省するたびに、紫音は家中の雑用をやらされる。育ててやっているのだからそれぐらいはするのが当然だと祖母は言う。外出は許されない。自由な服装も許されない。自分のお金など持ったこともない。王立学院寮へ送られてくるわずかな生活費を貯めて好きな本を買うぐらいしかできない。
 だが、どうすればいいのか紫音にはわからなかった。
 物心ついたときからこうだった。
 堪え忍ぶしかなくて、いつも脳裏に暗い祖母の影があった。どうすれば彼女の支配から逃れられるのか彼女には見当もつかなかった。
 王立学院でも、紫音は変人扱いされた。
 たしかに自分は人とはどこか違うようだと漠然と感じたものの、どうして違うのか、どこが違うのかわからなかった。別に孤独が苦しかったわけではない。独りなのには馴れていた。
 そしてそれは、つい半月ほど前の話だった。
 ―――変わった。変われる。
 初めて紫音は期待というものを胸に抱いた。
 血相を変えた祖母に、静かに相対する。
「王立学院で学ぶべきことはもうありません」
「何を言うの。あなたはまだ二年しか在学していないじゃないの。たしかにあなたの頭はこの上もなく優秀です。飛び級のうえに特待生で王立学院に入学したのですからね」
「そう。特待生です」
 紫音はうなずいた。
「おばあさまにお金を出してもらってはいません。やめるのも学ぶのも私の自由だと思います」
 孫に初めて口答えをされて、老女が絶句する。
 見る見るうちにその顔が怒りに歪み、王立学院からの知らせを記した紙を持つ手がぶるぶるとふるえた。
「そうかい! なんて恩知らずな孫だろう。ここまであたしが育ててやったのにそんな口がきけるなんて!」
 祖母が持っていた紙を紫音に叩きつけた。
「勘当だ! もうあんたはこの家の人間じゃないよ。どこへなりとも行っておしまいっ !! 」
 紫音は静かに一礼した。
 恐縮したのではなく、感謝をこめて―――



 さっさと荷物をまとめて紫音は祖母の家を出た。もとより自分の私物などたかが知れている。あの家では、紫音の服もくつも筆も、全てが祖母の所有物だった。祖母にとっては孫の紫音も所有物だったに違いない。
 さすがにいま身につけている服や沓は返せないので持っていくことにして、紫音が持っているのは、秘かに買い集めた本数冊だけだった。
 街を出たところで、紫音は空に向かって手を差し伸べた。
 すぐに羽ばたきが起きて、銀色の鳥が紫音の腕へと止まる。
「半月も待たせてすまなかった」
 選定烏は小さく首を傾げた。
 紫音は空を見上げた。街からのびる街道は、草を踏みわけて作った地上の他にも、もうひとつ空にも存在する。飛んでいける距離にある隣町に向かう様々な色の翼の流れが、もうひとつの街道だ。
 背中の紫の翼を広げると紫音は空へと舞い上がった。銀の鴉がその後を追う。
 街を去る者たちと、街にたどり着いた者たちの二つの翼の流れが滞った。なかには羽ばたきを忘れて落ちかける者もいる。
 その人の流れを縫って飛翔しながら、紫音は誇らしげに微笑んだ。
「私が、紫国の選徒だ」