翠璃はいらだたしげに首をふった。
「皆、馬鹿ばかりだわ」
呟いて、視線を周囲に投げる。
先ほどから翠璃に舞踏を申しこんでくる男の手が、ひっきりなしに彼女の目の前に差し出されている。
頭から翼の先までも飾りたてた、その頭の中味は空に近い貴族の子弟たち。
大陸六国のひとつ、碧国の現王の娘。母親の身分が低いにもかかわらず、その聡明さにおいて父王に溺愛されている、次代の碧国王の最有力候補。
それが翠璃だった。
(馬鹿みたい。王位などいらないと何度おっしゃればお父様にわかっていただけるのかしら)
その翠の瞳がぐるっと周囲を見まわした。
視線が遠くから苦々しげに自分を見てくる兄や弟たちとぶつかって、冷たい光を放つ。
(そんなもの、喉から手が出るほどほしがっているお兄さまたちにやってしまえばよろしいのに)
差し出された手を、無造作に翠璃は持っていた扇子で払いのけた。
「わたくしと踊りたければその毒針の入った指輪をはずしてから出直してきなさい」
顔はそう悪くはない青年が狼狽したように翠璃のところから離れていった。
冷たい姫だと評されるその美貌にさらに酷薄な表情を浮かべて、翠璃は硝子杯を手に取った。
するりと銀の指輪を指から抜き取ると酒杯のなかに落としこむ。
見る見るうちに銀が曇るのを見て、翠璃は事も無げにその酒杯を脇へ避けた。
「次」
今度は銀の耳飾りを落としこむ。やはり色が変わった。
「次」
もう片方の耳飾りも変色した。
「まったく。いちいち確認しなければ酒も飲めないっていうの?」
悪態をついた翠璃は近づいてくるどこかの貴族の青年に気づいて、毒杯を卓に戻すと、愛想良く笑いかけた。
「あら、こんばんわ」
「こ、こんばんわ」
いつになく愛想のいい王女に、やや驚いた表情でその青年は挨拶を返した。
翠璃はその青年貴族に背を向けて、卓の上に並べられている無数の料理のなかから、たっぷりと煮汁の詰まった肉の小麦包みを皿ごと手に取った。
べしゃあっ。
顔よりも大きいそれを顔面に叩きつけられて、青年が床にひっくりかえる。
その手にはフォークがさらに内側に曲がったような道具が握られていた。
翼晶族が、その翼を出さないときに体に顕す〈石核〉をえぐりだすための暗器だ。翼をもがれれば自分たちは死んでしまうが、翼が顕現していないときでも石核をえぐりだされれば、やはり死んでしまう。
挑発するように夜会用の絹服から露出している、両の鎖骨の間にある翡翠の石核をひとなでして、翠璃はさらに肉の小麦包みの上から、今度は蜜のたっぷりかかった柘榴のシャーベットが山盛りになっている器を、男の顔に押しつけた。
「百年早い。出直してらっしゃい」
男の手から暗器を取りあげて短くふん、と鼻で笑う。
「だれか、この愚か者を運び出してくれる? ついでにこのけったくそ悪いフォークもね」
翠璃の石核が肌に溶けこむように姿を消すと、大きく肌が露出している衣の背中から、翡翠の翼がその姿を顕した。
「くだらない」
吐き捨てて、翠璃は窓を開け放つと露台へと出た。
(碧=妃の姓などいらないわ)
「碧」は文字通り、碧国の王族が帯びる国字。「碧」も色を示すとされる文字であり、頭に色を関する名を持つのは王侯貴族たる証拠である。同じように「妃」の文字は王族の女性であることをあらわす。。
そんな姓などいらないと思うものの、王女であること以外の自分など想像もつかない。
夏の夜風が翠璃の髪を揺らして、未だにぎやかな広間へと抜けていく。
不意に、翠璃は目を凝らした。
その手袋に包まれた手が露台の手すりを強くつかむ。
「あれは―――」
夜に舞う銀の影。
六国いずれにも属することのない絶対中立の〈黒地〉から遣わされる銀の鴉。選定烏。
そうだった。今年は、その年。
百年に一度の年。
王都の空を舞う選定烏のその銀瞳が、翠璃をとらえた。
痺れにも似た直感が背筋を奔る。
あれは、自分だ。
選徒は自分だ―――!
「降りてきなさい!」
王女の声に、何事かと広間の人間が露台を見やる。
翠璃は夜空に向かって手を差し伸べた。
「わたくしはここにいる! 碧国の選徒は、ここにいるわ―――!!」
「突然ですが、父さん、母さん。長い間お世話になりました」
長女の言葉に、両親は目を剥いた。
「あんた、いきなり何言い出すの」
「いったい何だっていうんだ」
薄い水色の髪を高い位置でひとつに結わえた少女は、さばさばとした笑みを浮かべる。
「あたし、黒の学院に行くから」
「は !?」
両親は呆気にとられた。驚きから回復すると、今度は笑い出す。
「冗談もいいかげんにおし。あんたみたいなただの農民の娘が黒学府になんかいけるもんかね」
大陸六国。各国の最高学府は王立学院。さらにその上をいく、文字通り大陸最高の学び舎―――黒の学院。
「燈海、たちの悪い冗談はよしなさい。どこに遊びに行くのかは知らんが、米も麦もいまは放っておいても平気な時期だとはいえ、あんまり感心できることじゃない」
「いんや。本当のことだってば」
あっさりと娘は首を横にふった。
「ごめんなさい。もう家に帰ってこれるかわからないから、収穫は真海と璃青に手伝ってもらって。あたしがいないぶん、家に入るお金も減ると思うけど、それはまあこれで勘弁してくんない?」
燈海が木の卓上においた革袋を見て、両親は無言で目をみはる。革袋の中を覗かなくても、重い音で中味が何かわかる。形はいびつだが、どれも同じ純度と重さで、六芒星の小さな刻印が捺されたモノが入っているはずだ。
とどめとばかりに袋の端から予想通り、砂利のような銀の粒がひとつ転がり落ちる。
一年は働かなくても遊んで暮らせる額だ。
「………あんた、こんな金どこから………」
うろたえる母親に、燈海はあっさりと答えた。
「役所」
「お役所 !?」
父親の顔が蒼白になる。
「まさかお前盗んで………」
燈海が父親の頭をはたいた。
「あーん? もう一度言ったら、あたしこのお金持ったまま学院行っちゃうよ?」
「いったい何なんだい !? ちゃんと説明しておくれ! この金はどうしたんだい。なんだっていきなり黒の学府に行くなんて言い出すんだい。あそこはうちらみたいな無学の農民がどんなに頑張っても入れるところじゃないんだよ!」
「無学じゃないわよ。ちゃんと冬の間学校行ってるじゃない」
「それでもだよ! あそこは、出た人全員が国や神帝様の神殿に召し抱えられるようなところなんだよ。うちらみたいな身分の人間が黒に行ったなんて話聞いたことない」
荷物を抱えた燈海があっけらかんと言った。
「あら、じゃあこれから伝説になるのね、あたし」
「いいかげんにおしッ!」
怒鳴られて、燈海は軽く肩をすくめた。
「だって本当だもの。あたしはこれから黒の学院に行ってくる。そのお金はそのことを役所に告げたら支度金だってくれたの。黒地に行くまでの旅費は差し引いてあるから、遠慮なくもらってちょうだい」
「支度金………?」
「役所がくれた?」
ついに思考に混乱をきたして、両親は黙りこんでしまった。燈海は呑気に、最後に家のお茶でも飲んでいこうかしらと呟いて湯を沸かし始める。
「ちょっとお待ちよ。あんた、本当に黒学府に行くのかい?」
「そうよ」
茶碗を持つ燈海の手の甲に浮かび上がった青緑柱石の石核が、澄んだ水色の光を放った。
「百歩どころか一万歩譲って、あんたが黒の学院を目指しているとしよう。でも、なんだってお役所があんたに支度金をくれるんだい」
「だってあたしは黒の学院を受験するんじゃないもの」
明るい浅葱色の目がおもしろがるような表情を浮かべた。
両親の分もお茶を淹れてやりながら、燈海は何事かと顔を出した弟妹たちに明るく言った。
「というわけで、あたしは家を出るからあんたたち後をよろしくね」
「ちょっとどういうことだよ?」
「そうよ、姉さんだけ仕事をさぼるなんてずるいわ」
「馬鹿。あたしはもっと大変なのよ」
お茶を飲みながら燈海はそう言うと、いまだ狐につままれたような顔をしている両親に向かって一礼した。
「あたしは学院を受けるんじゃないの。あたしは選ばれたの」
窓のほうでばさりと羽音がした。
家族がそちらを見ると、銀色の大きな影が窓枠から長女の肩に止まるところだった。
銀色の鴉。
その意味するところを知らない者は、この大陸にはいない。
燈海が両親に気さくに手をふった。
「そういうわけで、何か選定されちゃったから、行ってくる」
家は大騒ぎになった。
屋敷中が張りつめた氷のような気配におおわれていた。
ときおりばたばたとあわただしい足音が行き交い、切迫した叫びが交錯する。
暗い部屋のなか、衣にくるまって、月羽は一心に祈りを捧げていた。
生まれたときから外すことを許されていない手袋は、いまは祈りの形にかたく組みあわされている。
(翼陽………翼陽………)
半身をわけた弟の無事を一心に祈って、月羽は自分たちを創りたもうたという神帝に願った。
(どうか翼陽を死なせないでください………!)
月羽がそう祈った瞬間。
屋敷中をおおった気配が劇的に変化した。張りつめた緊張がぷつんと切れて、一気に静寂のなかへとなだれ落ちる。どこかで声があげられたような気がした。
慌てて月羽は立ちあがり、まとった衣を引きずりながら窓の傍まで近寄った。しかし外を覗いても、見えるのは広大な中庭ばかり。
(どうしたんだろう。翼陽は助かったの?)
たしかめたくとも、月羽はこの薄暗い陽の当たらない部屋から出られない。
狂わんばかりに翼陽の無事を願っていると、ばたばたと乱れた足音が月羽のいる部屋へと近づいてきた。
「―――サエ!」
悲鳴のように叫ばれているのは、生まれたときに与えられた月羽の名。
扉が荒々しく開けはなたれ、髪をふり乱し目も落ちくぼんだ女性が、よろめきながら部屋へと入りこんできた。
「サエ? サエはどうしているの !?」
「お母さま………」
慌てて月羽は窓から身を離す。花蔦を描く鉄格子の端に手袋の指先が引っかかり、するりと脱げた。
はッと息を呑んだが遅かった。
手袋が脱げた途端、ぎょっとしたように母親が目を見開いた。その顔が―――会うたびにいつも固く強ばって笑顔ひとつ見せたことのなかった顔が、いままで見てきたなかでもいちばん怖ろしい形相となり、月羽は頭からかぶった衣のなかで反射的に身をすくませた。
母親のなかで何かが弾け飛んでしまったことが、わかってしまった。
「なぜっ!」
すさまじい形相で母親が月羽につかみかかった。
「なぜ、なぜ、なぜっ! なぜ生きているの !!」
衣ごと髪をつかまれ、床に引き倒される。月羽は必死で衣が剥がされないよう手で押さえた。衣がなくなり月羽の姿があらわになれば、ますます母親は怒り狂うだろう。
「なんで生きているの !? 私の翼陽が死んだのに、どうしてお前は生きているの! どうしてっ !?」
血を吐くような叫びに、体中を殴打されながら月羽は涙が溢れだした。
では、やはり翼陽は死んだのだ。
彼女のたったひとりの双子の弟は。
「ああなんで! 気味の悪い! 双子は死を分かちあうというから翼陽のために生かしておいたのに!」
母親の手や足が容赦なく月羽の体にぶつかっていく。
体をまるめてそれに耐えながら、月羽はきつく目を閉じた。
(翼陽、翼陽………)
そうだ。翼陽が死ぬより、自分が死んでしまえばよかったのに。
優しくて、賢くて、屋敷中の誰からも愛されていた翼陽。
どうして弟が死ななければならない。
どうして自分は生きている。
双子が死を分かちあうのならば、自分も死ななければならないのに!
「奥様っ、おやめください!」
いくつもの知らない声がして母親の手が離れていった。
耳をふさぎたくなるような母親の叫びが遠ざかり、部屋の扉が閉ざされる。
月羽はしばらく微動だにしなかった。体の痛みは薄れても、思考は痛い痛いとうめき続けている。
それでもやがて、月羽はのろのろと顔をあげると床から起きあがった。
衣を剥いで、顔を空気にさらす。
何も変わらない部屋。そしていつもと変わり様がない、たとえ変わっていても月羽にはその変化を知ることのできない屋敷。
ただ、翼陽がいない―――
あの扉を開けて、艶やかな琥珀の頭を覗かせることは二度とない。
「翼陽………ッ」
視界が歪む。
月羽はその場で泣き崩れた。
月の光が射しこむ頃、ようやく月羽は顔をあげた。
窓の格子に引っかかった左の手袋をとり、きちんとはめなおす。
物心ついたときから月羽の全身はそれこそ頭の先から爪先まで、その素肌をさらすことはかたく禁じられていた。
忌み子と呼ばれて育った。少なくとも、そう言い聞かされてきた。
生まれてこなければよかった、生まれるべきではなかったと誰もが口をそろえて月羽を責めた。
彼女には、自分に向けられるその言葉と視線の意味すらもわからないまま、ただそれを受け入れるしかなかった。
物心ついたときすでに、月羽の世界はこの薄暗い部屋に限定されており、世話係の愛想のない老夫婦以外、人の顔を見ることはなかった。ただ、言葉と文字は教えてもらえた。そうしないと表情で空腹を訴えることすらできない自分とは意思の疎通がはかれず、死なせないようにするのがむずかしかったのだろう。
ときおり訪れる父親と母親の冷たい視線の意味すらわからず、それでも月羽に会いに来てくれるのは彼らだけだったので、自分は素直にその訪問を喜んでいた。
数年前に、自分に双子の姉がいることを知った翼陽がここを探し当てるまでは―――本当に月羽は無知で愚かな幸福しか知らなかった。
翼陽が訪れ、そのとき初めて月羽は自分に弟という存在がいることを知ったのだ。
弟は優しかった。最初、月羽を見て目を丸くして怯えたものの、だんだんと言葉を交わすようになり、色々なことを教えてくれた。
抱きしめられる温もりも、頬にくれる口づけのくすぐったさも、全て翼陽がくれたもの。
その翼陽はもういない。
たった十七だったのに、黄国に蔓延した流行り病が弟の命を奪っていった。
「独りなんてやだ………」
寝台の枕に顔をおしあてて月羽は嗚咽を噛み殺した。
寂しいという意味を知らない頃には戻れない。孤独しか知らなかった幸せで哀れな子どもにはもう戻れない。
与えられる温もりを、その嬉しさを自分はいちど知ってしまった。
「翼陽………」
ばさり、と羽根の音が月羽の耳をうった。
顔をあげると、窓に一羽の銀色の鳥が留まって月羽を見おろしていた。
しばし月光が染めあげるそのとろりとした銀色の羽根に目を奪われてから、月羽は異常に気がついた。
鳥は、鉄の格子のはめられた窓の内側に留まっていたのだ。
「どこから来たの………」
月羽は涙を拭いながら立ちあがった。
大きな鳥だった。ぬめるような銀色の翼を折りたたんで、静かに月羽を見つめている。
「きれい………」
おそるおそる月羽は手を伸ばした。
月羽の指が触れても鳥は別段嫌がったようすもなく、おとなしく撫でられるがままにされている。
温かい。
指が触れた瞬間、そう思って月羽はまた泣いた。
「一緒にいてくれるの?」
問いかけられた言葉を理解したのか、銀の鴉はわずかに首を傾げた。
それから一年。
母親と老夫婦以外の人間がこの部屋に足を踏み入れ、月羽の世界が音と色をともない渦を巻いて流れだしていくなか。
この銀色の鳥は彼女から離れることはなく、その傍らにいてくれた。
彼女が新しい友を得ることになる、その日まで。