第2話 黒の学院 [5]

 ―――石核のある場所?
 きょとんと月羽(ツキハ)が首を傾げるその傍らで、紅乃(コウノ)の顔が真っ赤になった。白煉(ビャクレン)翠璃(スイリ)も彼女ほどではないが似たようなものだ。ひとり紫音(シオン)だけが無表情を保っている。
「燈海、月羽に愛の告白でもする気なのか?」
「何でそうなるワケ。仕方ないじゃん。聞かないとはじまらないんだから」
 日頃はさばけた態度の燈海が唇を尖らせ、拗ねたようにそう答えた。
「確かに、出だしから本当に失礼だこと」
「そうね。失礼ね」
 一同は頷きあったが、ひとり訳がわからず首を傾げていた月羽の次の言葉に凍りついた。
「え、あの。石核がどこにあるかって、人に聞いたらいけないんですか………?」
「月羽ちゃんっ !?」
 紅乃ががくがくと何度も首を縦にふる。
「知らなかったの !? そんな失礼なこと人に聞いちゃダメなんだよ!」
「えっ、え?」
 紅国選徒のあまりの勢いに月羽はうろたえて、他の面々を見まわした。翠璃は視線を逸らし、白煉が沈痛な表情で月羽に言い聞かせてくる。
「いい、月羽? 紫音や燈海みたいに目に見える位置に石核がある人は別として、石核が見あたらない人にそれがどこにあるかを尋ねるのは、とても失礼なことなの。絶対に初対面の人にそんなことを聞いてはダメよ」
「はあ………」
 曖昧にうなずきを返しながら、そういえば白煉や紅乃は一見して石核が見あたらないことに遅まきながら月羽は気づく。おそらく服を着ていてはわからない位置に顕れるのだろう。
「あの、どうして失礼になるんですか?」
「どうしてって………」
 今度ばかりは白煉も絶句して顔を赤らめてしまった。これまた「どうして裸は恥ずかしいの?」と聞かれているようなもので、やはり「裸だから」としか答えようがない。
 翠璃は扇で顔を隠してしまったし、紅乃はこの場から逃げたいのを我慢しているような顔をしている。燈海は頭を抱えてしゃがみこんでいた。
 首を傾げる月羽に答えをくれたのは、ひとりだけ冷静な紫音だった。
「人体急所だからだ。抉りとられれば即死するものが身体のどこにあるのか聞かれて簡単には答えられる者はいないだろう。心臓と同じぐらい大事なものだ。見える位置に石核がある者に対しても、石核についてあれこれ尋ねるのは礼儀違反とされる」
 月羽が首を傾げたまま動きを止めた。紫音の言葉を反芻(はんすう)して、数秒後に理解に至ったらしく、納得したように頷く。
 紫音はそのまま解説を続けた。
 その手が軽く己の髪を持ちあげ、左耳の石核を月羽に見えるよう示す。
「私のように保護しようもない目に見える位置に石核が顕現(けんげん)しているのは、一般的に言えば不利なこととされている。耳を削がれればそれで終わりだからな。石核は私たちの命そのものだ。そのため、石核の場所を教えるということは、相手に命を預けるという意味でもあり、最大限の親愛の表現とされている。見える位置にある者は別として、通常女性は両親か夫となる男性にしか石核の場所を教えない。『あなたの石核の場所を知りたい』というのは、男性からの露骨な求愛の―――」
「紫音っ!」
「っキャー! やめてやめて紫音ちゃんッ!」
 たまりかねた翠璃が叫び、紅乃が真っ赤な顔で両耳を塞いだ。燈海はまだしも平然としているが、ちょっと困った顔をしていてほんのり顔が赤い。白煉は卓上にあった給仕の盆で完全に顔を隠してしまった。
 涼しい顔の紫音と、これだけ聞いてもやはり何が何だかよくわかっていない月羽の二人だけが部屋のなかで平静を保っている。
「月羽、これで聞いてはいけないとわかったか?」
 言われて、月羽は頭巾におおわれた頭をゆっくり巡らせて四人を見た。それから紫音に向きなおり、こくんと頷く。
「えっと、はい。たぶん」
「それは何よりだ」
 重畳、と紫音が頷きを返す。残りの面々が恨めしげに紫国の選徒を眺めた。翠璃の唇から物騒なうなり声がこぼれる。
「し、紫音ちゃん、紫音ちゃん、紫音ちゃんってば………!」
「私は事実を述べたまでだ」
「もう少し慎みをお持ちなさい!」
「慎んでいるとおそらく月羽には一向に伝わらないと思うのだが。それで、燈海。あとはどうするのだろう? 石核の場所となると私たちは席を外すべきだろうか」
「何か、どっと疲れたよ。………お茶おいし」
 燈海が疲れた顔で呟き、茶椀を引き寄せると一口茶を啜った。左手の石核が手の動きにあわせて淡い水色に輝く。彼女のような位置に石核がある場合、貴族は手袋や手甲で隠すのをたしなみとするが、平民出身の彼女はそのあたりに無頓着なので普段から剥きだしだ。
「月羽、あたしの(へや)に行こうか。月羽はかまわなくてもみんなかまうし。石核の場所ってのはそうそう人に教えるものじゃないから」
「あ、はい」
 浅葱色の戸布をまくりあげて手招きをする燈海の後に続いて、月羽も房に入った。
 その後ろ姿を見送りながら、一同は深い溜息をついた。
「何だかとっても疲れたわ………」
「白煉、手間をかけて悪いのだけど、お茶を淹れなおしてもらえないかしら。何だか本当に疲れてよ。この紫国選徒の分はよろしいから」
「茶は茶壺で一度にまとまった量を淹れる。私の分を除くのは非効率的だと思われるのだが」
「お黙りなさい、(キツ)()家の()紫音(シオン)………あら嫌だ」
 何事かに気づいて眉を動かした翠璃に、もっともらしく紫音は頷いてみせた。
「我ながら、(たく)し名の通りに育ったと思う」
「本当だねぇ。紫音ちゃんは、理性の人って感じだよねえ………」
 白煉を手伝って茶を淹れなおしながら、紅乃がしみじみと呟き、ふと眉根を寄せた。
「そう言えば、月羽ちゃんも「リ」=月羽って言ってたね………。ちゃんとした託し名、付けてもらえたのかな」
 翠璃が扇の陰で苦い顔になる。
「そのあたりは無用の心配ではなくて? 月羽という呼び名自体が、弟からもらったものだと言っていたわ。弟からもらったのなら、まだまともな字でしょう。彼女の親はそもそも託し名など名付けてもいないでしょうよ。誓い名だけはあったでしょうけれど」
 全き名は、二つの姓と三つの名から成る。(うじ)の一姓、(かばね)の二姓。秘される誓い名、願いの託し名。そして、個の呼び名。
 託し名は親の願いと祈りだ。このように育ってほしいという未来への指針として与えられる。孤児などの事情で名を得る機会のなかった者は自分で名付けたり、近しい人物から名を与えてもらったりする。
 対する誓い名は神帝への名告(なの)り。死後も神々の典籍に載るとされる名前で、名そのものが力を持つ。大規模な晶術の行使には誓い名の言挙(ことあ)げが必ず必要だ。こればかりはどんな境遇の者だろうと自らの名を持っている。自身では知らなかったとしても、必ず存在する。
 不意に、ぱんっと手を叩くような音が浅葱色の戸布の向こうで聞こえた。
 一同は会話を中断し、そちらを向く。
 やがて戸布から、ひょいと最年長の選徒が顔を出した。
「一応、出たっぽいよ。見えないからわかんないけど」
 身も蓋もない報告をしながら、燈海は戸布を高くまくりあげ、動作の遅い月羽を先に自房から出してやる。
 おそるおそるといった風情で、月羽が歩いてくる。本当にいままで一度も翼晶を顕現させたことがないのだろう。うまく体の均衡がとれないらしく、歩きかたがおかしい。
その背の翼袖(よくしゅう)と呼ばれる衣の合わせ目が持ちあがっているのを見ると、たしかに出てはいるようだ。相変わらず見えないが。
「本当に顕現しているみたいだけれど………燈海、あなたいったい何をやったの?」
 新しい茶の入った椀を手に、白煉が眉をひそめて問いただす。
 途端に月羽がぶんぶんと首を横にふった。見えないからわからないが、おそらく涙目だろう。
「もう二度と絶対イヤです………」
「………燈海………」
「燈海ちゃん………」
「燈海、非常に気になる」
「………燈海、貴女という人は」
 口々に物問いたげな顔を向けられ、燈海はわざとらしく首を傾げた。
「うん、内緒。庶民の子どもって、遊びかた乱暴なんだよね」
「遊び………」
「子どもの………」
 それで翼が出せるのか? しかも乱暴、非礼?
 絶句してしまった白煉と翠璃は、それきり追求をやめてしまった。



 時は少しさかのぼり。
 月羽を迎えいれて戸布を降ろし、燈海は寝台を指し示した。
「椅子ひとつしかないし、あとは全部居間に出してあるから、とりあえずそこ座って」
 おっかなびっくり月羽は寝台に腰掛けた。見回せば、三日前に与えられたばかりの月羽の房と何も変わらなかった。備えつけの寝台に、机と書架と衣裳櫃。私物と思われるものもほとんどなく、殺風景といえば殺風景だ。
「あたし身ひとつで来たからさ、ほんとに全部ここ来て揃えたんだよねー。行けばあるだろうって思ったし」
「燈海………?」
「月羽の家はどうかしんないけどさ。あたしの家は、普通の平民。農家だよ………農家ってわかる?」
「………野菜とか作るのを仕事にしてる人」
「うん、まあそうかな」
 寝台に座った月羽の正面に椅子を置いて座りながら、燈海は苦笑する。身分による隔たりという以前に、月羽とは根本的に色々とすれ違っていそうである。
「えっと、じゃあ、さっそくで悪いけど、石核の場所教えてくれる? みんなには内緒にしとくから」
 月羽としては内緒にされなくても別にかまわないのだが、どうやらそれは常識に外れた行為のようなので、とりあえず黙って頷いて手を持ちあげた。
「………ここです」
「うわ、マジで?」
 示された場所に燈海が目をまん丸に見開く。それから困ったように顔に手をあてた。
「透過しててよかったのかもねぇ。これはあたしの左手よりきついなあ」
 燈海は机の上の小物入れから定規を取りだした。
「あ、上着に翼袖あるよね? まあ、翼袖ないやつなんて見たことないけど」
 言われるままに頭巾を降ろして、仮面もとった月羽は困惑して燈海を見返した。これからいったいどうなるのだろう。
 選徒の最年長者は、定規でかりこりとこめかみのあたりを掻いている。
「石核ってさ。当たり前というか、かなり硬いんだ。生まれ石に関係なくね。石核が人体急所って言われるのは、石核そのものが急所なんじゃなくて、石核を(えぐ)りだされたら死んじゃうからで、石核自体はけっこう丈夫なのね。まあ、傷つかないことがないわけじゃないし、傷ついたらそれこそシャレにならないぐらいの後遺症が出るらしいんだけどさ」
「え、あ、あの、燈海………?」
「そんでもって、あたしたちは石核が命に関わるって本能的に知ってるから、石核の場所についてはどうしてもビビりが入る」
「ビ―――は?」
 貴族の生まれに加え、様々な知識が欠けている月羽には、燈海が使う俗語の意味がさっぱりわからなかった。
「で、育ちの悪いそこらのクソガキとかは、石核が硬いのをいいことに、これで度胸試しをするわけなんだな。出したら負けよということで、まあ今回は出さないと困るわけだけど―――痛かったらゴメン」
 止める暇もあらばこそ。燈海が手にした定規で思いきり月羽の石核を叩いた。
「 !! 」
 目の前に星が飛び散った。月羽は自分の髪の毛が逆立ったような気がした。いや気がしたのではなく、逆立ってる、絶対これは逆立ってるに違いない。
 はしった衝撃が肌への痛みなのか、石核へ響いた痛みなのかわかりようもないが、猛烈に痛い。
 あまりのことに何の反応もできなかった。
 ただ背後でばさり、と勢いよく空気を打つ音がする。燈海が「あ、出たっぽい」と呟くのを遠くに聞きながら、月羽は心の底から思った。
 白煉と翠璃の言うとおり、やめておけばよかった………。
「はいお終い」
 衝撃と驚愕でくらくらしている月羽をよそに、のんびりと燈海が定規を机上の小物入れに戻す。
「ごめん、月羽。だいじょうぶ?」
 だいじょうぶじゃないです、と内心で月羽は呟いた。口にはできそうにはないが。
 燈海が手を伸ばし、月羽の石核の顕現していた場所にそっと触れてくる。思わずびくりと肩をすくめた月羽に苦笑しながら、燈海はそこを撫でた。
「だから、かなり失礼な荒療治だって言ったじゃん?」
「はい………」
 頷きはしたものの、かなり恨めしげな声だったのだろう、燈海がさらに苦笑する。
「ほんとは人の石核に触るのも、すんごい礼儀違反なんだけどね。いまは顕現してないから」
「えっ?」
「翼、たぶん出てるよ。意識してみて。あたしの手が触ってるところから、石核触られたときの嫌な感じがしないでしょ?」
 言われて初めて月羽はそのことに気づいた。石核を触られているときに覚える、あのむずがゆいような鳥肌だつような気色の悪い感覚が、たしかにしない。
 かわりに両肩のあいだに、似たような感覚がある。
「動かしかたやら何やらは、ここを出てからみんなから習う、ということで」
 燈海は笑って、撫でていた手をどけるとそこに唇を寄せた。
 声もなく硬直している月羽に、燈海は屈託無く笑ってみせる。
「この位置に石核だと、見えるようになったらキレイだろうね」
 今度こそ月羽は絶句していた。
 透過のことはもうほとんど諦めていた。手だけ解呪できただけでも、奇跡だと思っていた。それを。
 この目の前の蒼国の選徒は、解呪できる日が来るのが当たり前の未来であるかのように―――。
「ほんとはあたしの石核も、手袋とかで隠さなきゃいけないんだけどさ。めんどいし、自分の石核見るの好きなんだ。あたし生きてるなあって見るたび思うし。紫音とかは鏡でしか見れないでしょ、あれって損してると思うんだよね。―――あ、コレ内緒ね」
 左手の石核をちょっと掲げてみせ、燈海は何でもないことのように肩をすくめてみせる。
「どうしたの、月羽? 黙っちゃってるけど」
 黙って月羽は首を横にふった。泣きそうになっている彼女に気づいたのか、燈海が慌てて顔を覗きこんでくる。
「ごめん、泣くほどびっくりした?」
「い、え………びっくりは、しましたけど。泣くほどじゃないです」
 正直にそう答えながら、月羽は少し両肩のあいだを意識して感覚してみた。
 ふわり、とかすかに空気が動き、気づいた燈海が笑う。
「あ、いまちょっと翼動かしたでしょ。調子いいじゃん」
 何とも気楽な口調に、月羽もちょっとだけ笑った。
 戸布に手をかけながら、ふと燈海が思いついたように口にする。会話の続きのような、何ら変わらぬ口調のまま。
「ほんとに不思議だよね………神帝さまは、何考えてあたしや月羽みたいなのを選徒に選んだんだろうね」
「………わかりません………」
 それこそ月羽も知りかった。なぜ、日の当たらぬ部屋にいた自分に、誰からも知られることなく暮らしていた自分に、あの日、銀の烏が舞い降りたのか―――。
 戸枠にかかった燈海の左手で、彼女の石核がきらりと光を弾く。
「ま、何にしたって、きっと何とかやってけるよ。あたしたち」
 浅葱色の戸布が大きくひらめき、大気をはらむ。
「一応、出たっぽいよ―――」
 皆に向かってそう言いながら、戸布を高くまくりあげ、燈海がうながす。月羽は仮面と頭巾をもとのように被りなおし、寝台から立ちあがった。
 ―――翼のあいだを、ふわりと風がすり抜けていった。