第2話 黒の学院 [4]

 招集をかけられ、六人は自房の前に設けられたささやかな居間に顔を揃えた。
「いったい、何事ですの。狭苦しい」
 顔色を変えている白煉(ビャクレン)、頭を抱えている燈海(トウミ)、縮こまっている月羽(ツキハ)を順繰りに眺め、最後に部屋に戻ってきた翠璃(スイリ)が顔をしかめる。
 六人も揃うとさすがに少々狭かった。もともと円卓と簡単な炉があるだけで居間と呼ぶのもはばかられるほどの小さな空間だ。この部屋の三方をぐるりと取り囲むように六色の戸布が下げられている。
 もちろん戸布の向こう側もささやかすぎる空間だが、個室が与えられているというだけで、選徒は破格の待遇を得ていると言えた。黒学院はとにかく敷地面積が限られているので、ほとんどの学徒が二人部屋や大部屋なのだ。
「珍しい取り合わせだ。私の観察では白煉と燈海は、驚愕の対象や表現の仕方が違っていることが多いと思うのだが。二人揃って取り乱しているとは余程のことなのだろうか?」
 紫音(シオン)がよくわからない理屈付けとともに首を傾げる。
「大当たり。余程過ぎてちょっとさすがにこれはあたしでもマズイと思った。これは一刻も早く何とかしないとかなりマズイよ」
 マズイマズイと連呼する燈海に、月羽がますます身を縮こまらせるのを見て、白煉が溜息をついてそれを制する。
「だいじょうぶよ月羽。あなたが申し訳なく思うことは何もないの。こればかりは、いままで気づかなかった瑳雪(サユキ)さまの手落ちだわ。たしかに盲点だったとはいえ、あなたのこれまでのことを考えると、気づいてしかるべきだったのよ」
「いったいどうしたの?」
 首を傾げた紅乃(コウノ)に、白煉が溜息混じりに答える。
「日常生活では翼を出さないじゃない?」
「ふぇ?」
 白煉の意味するところがわからず、紅乃が再び首を傾げる。ついでに背から薄紅色の翼をふわりと顕してみせた。
「紅乃、邪魔でしてよ。視界を遮らないでいただける?」
 翠璃が閉じた扇で目の前の翼を退ける。邪険に扱われた紅乃は膨れっ面をしつつも、素直に翼をしまった。
 白煉の言うとおり、普段の生活では翼を出さない。垂直方向や長距離の移動時、晶術使用時は別だが、あとは祭事や正装するときぐらいだ。出していたところで不作法というわけではないが、そもそも就寝時には必ずしまうので、出しっぱなしにしておくものではないという意識がある。
 ことに学院では、翠璃が紅乃に文句を言ったように、狭い空間で集団生活を営んでいるため、翼を出していると邪魔なのだ。
「そういえば、月羽ちゃんって普段は翼出してるの? 見えないからわかんないんだけど」
 紅乃の疑問に、察した翠璃が思わずといった態で扇で口元を押さえた。
「まさか………白煉、冗談ではなくて?」
「わたしも冗談だと思いたかったわよ」
 白煉が困り果てた顔で月羽を見やった。
「―――月羽、これまで一度も翼を出したことがないらしいの」
 紅乃が嘘っと叫びかけて慌てて自分の口を押さえた。顎に手をあてた紫音が目を細め、おそろしい帰結を口にする。
「ということは、必然的にいままで一度も飛んだことがないということになるが?」
「………ありません」
 ほとんど消え入りそうな声で月羽が答える。
「わたしには翼ないんだと、ずっと思ってたから………」
「そんなわけないよっ。なかったら死んじゃうんだから!」
 とうとう紅乃が大声をあげ、月羽がびくりと身体をふるわせた。失言に気づいた紅乃が慌ててあやすように彼女の手をとって謝る。
「本ッ当に瑳雪の怠慢ですわね、これは」
 鼻の頭に皺まで寄せて翠璃が言い放ち、一同に座るよう扇子で示した。これは相当話が長びくと予想してのことだ。
 とりあえず皆で落ち着こうと、白煉と紅乃が茶を淹れた。共同生活も一年も経てば役割が決まる。特に茶に関しては茶道楽の白煉と茶菓を作るのが得意な紅乃が自然と請け負うようになっていた。二人ともすすんでやりたがるし、他の三人も自分で淹れるより美味しい茶が飲めるので文句があろうはずもない。
 甘い芳りのする茶碗を手に、燈海がほうっと溜息をついた。
「ああ、びっくりしたなあもう」
「燈海、一人で先になごまれると皆が困る。私はまだ驚いているのだ。―――月羽、これは確認なのだが」
 布をかぶった小さな頭が紫音に向きなおるのを待って、彼女は生真面目な口調で尋ねた。
「本当にいままでに一度も翼晶を出したことがないのか? 見えていないため自分でも気づかずに無意識のうちに出していたということは?」
「な、ないと思います………」
「まあ、無意識に出しているなら意識しているはずがないな。つまらないことを訊いてすまない」
 翼の出し入れは、翼晶族にとっては歩いたり話したりするのと同じだ。いつできるようになったのか、どうやってできるようになったのか憶えているようなものではなく、気がつくとできるようになっているものだし、やり方を知っているものである。出したことがない、出し方を知らないという月羽の状態は、それこそありえないと言いきれてしまうほど、相当おかしいことだった。
「さすがにこれはみんなの不審をかうよねぇ」
「飛べないと図書室とかの高いとこに手が届かないしねぇ。晶術も使えないし」
 紅乃と燈海が顔を見合わせる。翼については貴賤も身分も関係ない。それこそ自らの命に直結しているものだし、生活していくうえで根本的なところに支障を来す。
「状況を整理したほうがよいのではなくて? とりあえず、月羽」
「は、はい!」
 思わず居住まいを正した黄国の選徒に、碧国の王女はにこりともせずに告げた。
「貴女に翼がないということはありえなくてよ。なぜなら、わたくしたちの翼はわたくしたちの石核。命そのものなのだから。月羽が生きている以上、神帝からいただいた翼は必ず存在してよ」
 そこまで言ったところで、翠璃が不意に思いきり顔をしかめた。怒られるのかと思い、月羽が椅子の上で縮こまる。
「まさかとは思うけれど、石核は知っているわよね? さすがにそれが「ないと思ってた」なんて言わないわよね?」
 翠璃をのぞく四人が、本当に「まさか」という表情で月羽を見た。
 月羽は慌てて頷いた。さすがにそれは知っている。石核という名を知らなくても、それがとても大事なものだということは本能的に知っていたし、いまでは瑳雪から教えられたきちんとした知識がある。―――ただ、石核はあるが、自分はそれを翼にすることができないのだと、いままで思いこんでいた。
「そういえば、月羽ちゃんの生まれ石って何?」
「遺伝にもよるが、生まれたときから〈透過〉がかかっていては本当のところはわかるまい。推測の域をでないだろう」
翼陽(ヨクヒ)さんの生まれ石は知っているかしら?」
 白煉が気遣うように月羽の手をとりながら顔を覗きこんだ。死を分かち合うことなく逝った彼女の双子。双子は生まれ石が一緒のはずだ。
「………陽長石(サンストーン)
「なら、あなたも陽長石の可能性が高いわね」
「ほんと?」
「ええ。調べてみないと何とも言えないけれど………解呪にあたった術士たちは何か言っていなかったかしら?」
「―――らないって」
「え?」
「わからないって、言ってた」
 これにはさすがに一同も顔を見合わせた。
 黄国選徒なのだから、黄系統の石で間違いないはずなのだし、双子の生まれ石が違うという話は聞いたことがない。月羽の生まれ石は陽長石のはずだ。ただそれだと、どうして翼陽だけ先に死んでしまったのか説明がつかなくなるのも確かだ。
 これで石核の扱いに詳しい晶術の専門家たちがわからないとなると、それこそ本当に不明ということになる。
 訪れてしまった沈黙を破ったのは、仕方ないとでも言いたげな燈海の声だった。
「ま、生まれ石わからなくても翼は出せるし、飛べると思うよ。晶術は無理かもしんないけど、アレ下手くそな人はほんと下手だから、使えなくても月羽が気に病む必要ないし」
 手の甲にある自身の石核をひと撫でして、燈海は肩をすくめる。彼女自身も晶術は苦手な部類に入る。
「燈海の言うことは正しくてよ。月羽、とりあえず貴女のするべきことは、翼を出せるようになることと、飛べるようになることよ。わたくしたちが早急に解決すべきなのはこの二点でしょうね」
 五人が一斉に頷く。
 つられて月羽も頷いた。本当にこの人たちは、月羽に至らない点があっても怒らない。
 その代わりによく瑳雪に対して怒っているようだが、なぜそうなるのかは月羽自身にはいまいちよくわからなかった。瑳雪ときどきとても厳しいが、基本的にいい人だと思う。
 みんな、当然のように何とかしようとしてくれる。とても嬉しくて、とても不思議だった。どうしてこんなによくしてくれるのだろう。黄国の使者や瑳雪ほど、優しく丁寧に接してくるわけではないが、乱暴ではない。
 月羽にはうまく言葉にできないが、彼女たちと一緒にいるのはとても居心地がいい。まるで、翼陽が月羽の部屋を訪れたときのようだった。双子の弟との短い逢瀬はあの日の差さない部屋に射しこむ陽光そのものだった。
「ところで、どうやったら翼の出し方を月羽に教えることができるのだろう」
 紫音のその一言に、紅乃と白煉、翠璃の眉間に皺が寄る。
 子どもに「どうやって歩いているの?」と聞かれ言葉に詰まるようなものである。間抜けな話だが「それは、足で………」としか答えようがない。知らないうちにできるようになっているものだから、いざやり方を聞かれても困るのだ。
 ひとり、燈海が顔をしかめて首を傾げている。
「うーん、教えられないこともないかもしれないけど………」
「えっ、燈海ちゃんそれほんと?」
「まあ、どうやるの?」
 紅乃と白煉が驚いた顔になる。ひとり翠璃は眉をひそめた。
「まさかとは思うけれど、貴女、泳げない者は池に突き落とせば必死で泳ぐとか考えているのではなくて?」
「それに近いよ。別に高いところから突き落とすわけじゃないけど」
 悪びれなく燈海は言い、翠璃は無言で片眉をあげた。
「ただ、成功するかどうかわかんないし、けっこう失礼な荒療治だから、やっていいものかどうか迷ってるのは事実」
「けっこう失礼って。燈海、あなたいったい」
「やってくださいっ!」
 白煉の言葉を遮ってそう叫んだのは当の本人だった。
 月羽の勢いに押されて、五人は一瞬押し黙る。はっと我に返った月羽は今度は消え入りそうに身を縮こまらせた。
「ご、ごめんなさい。あの………」
「月羽の気持ちはわからないでもない」
 紫音が言い、白煉が苦笑して頷く。
「でも、一応どんな方法なのか聞いてから決めたほうがよくてよ」
「あ、ごめん。それはダメ」
 あっさりと燈海が翠璃の言葉を却下した。
「えっ、ダメって、どうして?」
「言ったら身構えるから。意識して構えられたら、もうその時点で失敗だから」
「………あの、燈海。あなた本当に何をする気なの」
 白煉までが眉間に皺を寄せてそう問うた。
「だから、かなり失礼な荒療治」
「礼儀に無頓着な燈海がそこまで言うところをみると、相当おすすめできる方法ではなさそうよ。月羽、考えなおしなさいな」
 顔をしかめて翠璃が言い、白煉もそれに頷いた。紅乃は自身も迷っているのか首を傾げたままだし、紫音は好奇心が勝っているのか、どちらでもよさそうである。
 五人それぞれの顔を見まわし、月羽はしばらく考えこんだ。
「………でも、翼。できるだけ早く、出したいです」
 おそるおそるそう言うと、燈海が肩をすくめて残りの四人を見まわした。
「だってさ。やっていい?」
「………月羽が望むなら仕方がないわ。でも、どうしようかしら。見て怒らずにいられる自信があまりないかも」
「わたくしも」
「でも、気になるし」
「後学のためにぜひ見てみたい」
「人それぞれだねぇ。そのあたりはどうでもいいから、当人に聞いて」
 目で問われ、月羽は首を縦にふった。絶対によくわかっていないと思われる安易な返事に白煉と翠璃が溜め息をつくが、とりあえずいまは口を差し挟むのを控える。
「えっと………じゃあ、月羽」
 名を呼ばれ、月羽は頷いた。布と仮面に加えて〈透過〉もかかっているので実際には知りようがないが、固唾を呑んでいるのが傍目からも見てとれる。
「とりあえずなんだけど」
 燈海は一度言葉を切ると少しのあいだ視線を泳がせ、それから意を決した顔で月羽に言った。
「―――ほんっとにごめん。石核のある場所、聞いてもいい?」
「はい?」