光射す方へ(フロム・スーベニア)
風の結界にまとわりついた水は瞬く間に散っていく。
だがそれを待たずにリナは地上にあがってくるや、すぐに術の集中を解いた。結界がほどけ、まだ残っていた幾ばくかの水滴がリナとゼルガディスの周囲に落ちる。
「………あー、空気がおいしー」
ぱくぱく口を開いて呼吸しているリナの傍らで、ゼルガディスは浮遊を解除した。互いの足下で踏みしめられた落ち葉が、乾いた音をたてる。
「お前と酸欠で心中なぞ、ぞっとせん」
「あたしだって冗談じゃないわよ。って、寒い〜っ!」
地下水脈があることを知らず、いったん浮遊のみで内部に突入してしまったため、盛大に濡れてしまった装備はいまだ微妙に湿っている。晩秋の冷気に吹きさらされて、リナはひとつくしゃみをした。
「………暖をとっていくか?」
「や、いーわ。どうせすぐそこだし。ガウリイにお風呂沸かしてもらう、っくしゅ」
ゼルガディスはとりあえず、手近にあった岩に炎の槍を放った。
「お前に風邪をひかせたら、借り受けたおれが何言われるかわかったもんじゃない」
「あたしはモノじゃないっつーの」
「いいからさっさと、せめてマントぐらいは完全に乾かせ」
「あーい」
おとなしく放射熱でマントをあぶりはじめたリナを横目に、ゼルガディスは暮れかけた空を見あげた。腕にしっかり抱えた荷物のなかには、探し続けていた望む未来が入っている。さすがにまだ実感はわかない。
早朝にリナと遺跡に潜ったので、まる一日内部にいたということになるだろうか。二、三日はかかると思い、それぞれ保存食などを用意していたのだが、さいわい無駄に終わったようだ。
あたりが薄暗くなるにしたがって、異界への入り口のように黒く闇を溜めはじめた縦坑に目をやり、ゼルガディスはしばらく考えこんだ。森のど真ん中、何の遠慮もなく呪文によって盛大に縦坑を貫通させたのはリナとゼルガディスである。
気づいたその共犯者が、すぐに声だけを放って寄越した。
「風の結界と浮遊使わなきゃ、ただの井戸でしょ」
「………それもそうか」
「便利に使うから安心して。ガウリイに水汲みにきてもらうわ」
ちゃっかりしているリナに苦笑してうなずき、ふとゼルガディスは視線の先―――木の根元に落ちているものに興味を惹かれ、近寄ってひとつ拾いあげた。
「―――リナ」
声をかけられ、ぽんとそれを投げて寄越されたリナは、薄闇のなかモノが何であるのか判別できなかったらしい。
思わず両手で受けとめ、直後うぎゃっと悲鳴とともに放り投げる。
「っこらゼルっ! なんつうもんを投げてくんのよっ。思っきし刺さったでしょうが!」
再び足下近くまで転がってきた栗のいがをひょいと拾いあげ、ゼルガディスは少々腑に落ちない顔をした。
「お前、手袋してるだろうが」
「縫い目越しにきっちし刺さったわよ! ったく、あんたときたら平気な顔して素手でさわって! もとの体に戻ってもこんなことしてたら手ぇ血まみれになるからね!」
ゼルガディスは虚を突かれ、思わずリナを見返した。
怒ったような呆れたような、それでいて真剣な双眸と真っ向からぶつかりあう。完全に無自覚だった。向こうもそれを理解している。
彼は片腕に抱えた荷物と、別の手で持っている栗の実に交互に視線を落とし―――やがて静かに苦笑した。
「そうだな」
先程は薄かった現実味が不意に、じわりと濃さを増す。
「ったく………」
リナは悪態をついたものの、すぐに口元をほころばせ、今度はそっと栗の実を受けとった。
「で、どうしたのよこれ。まさかマントと一緒にあぶって焼き栗にしろってんじゃないでしょーね?」
「………みやげがいるんだろう?」
なんてことはない口調とともに肩をすくめると、今度はリナが薄暮のなか、まじまじとゼルガディスの顔を見つめ返す。
たしかに、家にいる娘におみやげを持って帰らないと、などとふざけたことを半分本気で口にしていたのはリナである。
そして、遺跡探索に来て四歳児のみやげにいったい何を持ち帰るつもりだ、と心底呆れていたのはゼルガディス。
合成獣の青年が居心地悪げに身じろぎするまで凝視していたリナは、やがてくすりと笑みをこぼし、栗を手のひらで転がした。
「あらやだゼルちゃんってば、小さい子にもやっさしー」
「あんたの娘にも、あんたの借り賃を払っておかないとな」
「だから、あたしはモノじゃないっつーの! って、こらっ。人の話聞きなさいよ!」
「さっさと戻るぞ。さすがにおれも寒くなってきた」
すっかり視界の悪くなった周囲を見まわし、ゼルガディスは朝方やって来た道を見つけだすと、さっさとそちらに向かう。
視界の隅―――嘆息したリナの唇から白い息が洩れたが、すぐに彼女はそのまま呪文を唱えはじめた。リズミカルに弾む白い呼気が途切れると同時に、ライティングの光がふわりと宵闇を照らす。影が長く、行く先に落ちる。
何がおかしいのかゼルガディスの背後で、くすくす笑いはしばらく止むことがなかった。
歩くうちに、日は完全に落ちきってしまった。
真っ暗な森を道なかばまでやってきたところで、二人は前方から近づいてくるライティングの光に気づいて立ち止まった。
すると向こうもこちらに気づいたらしい。いったん立ち止まり、それから速度をあげて接近してくる。夜目にもほの白い金髪が光を弾いた。
ちらちら揺れるその輝きに思わず目を細めたところで、娘を腕に抱いたガウリイがひょいと片手をあげて合図をしてくる。抱えられているリアの手のなかには、魔力の明りで輝く宝石の護符。
「おー、おかえり」
「、かえりなさーい」
のんきに父娘そろって挨拶され、リナとゼルガディスは何となく脱力感とともに顔を見合わせた。
「―――ただいま。って、よくあたしたちが帰ってくるってわかったわね? 二、三日はかかるかもって言ったでしょ」
「リアが散歩に行くって聞かなくてなー。それでもしお前さんたちと出会えたらラッキーということで歩いてたんだが」
「こら。それってリアが散歩ってごまかして、あたしたち探しに行きたがっただけなんじゃないの」
「かもなー。まあ、適当に歩いたら戻るつもりだったし、実際こうして会えたからいいんじゃないか? 早かったな」
「そうね。思ったより短くすんだわ」
会話中に腕のなかで「おりるおーりーるー」と暴れはじめたリアをガウリイはひょいと地面に立たせ、リナの背嚢を取りあげた。
「ゼルもお疲れさん。―――よかったな」
何気なく言われ、ゼルガディスが思わず相手を見返すと、ガウリイは笑いながらリナの頭にぽんと手を置いた。
「こいつの顔見ればわかるしな」
何と答えていいかわからず、ゼルガディスは結局こう言った。
「そりゃごちそう様」
「ゼルあんたねぇっ! 言うに事欠いてそれかッ!」
顔を真っ赤にしたリナが何やらわめきかけたが、マントの裾をくいくいと引かれ、やむなく口を閉じてそちらを見る。
「なに、リア?」
うんと背伸びしてライティングの光をかかげたリアは、母親の注意をひけたことが嬉しかったらしく、ととのった顔でにっこり笑った。こうして見るとリナにはあまり似ていない。
「かーさん、おかえりなさい」
「はい、ただいま」
母親の答えに満足そうにうなずいて、それからリアは昨日知りあったばかりのゼルガディスのほうを見た。彼の異貌に対して、呆れるぐらいに物怖じしていない。
「ゼルさんも、おかえりなさい」
「………ああ」
あらたまって言われると、何となく落ち着かないものがある。ゼルガディスは短くそう返したが、リアはまだ何かを待ち受けるように、じっと彼を見つめている。
何を求められているのかわからず、ゼルガディスがしばらく怪訝な顔で友人の娘を観察していると、その幼い顔がだんだんと困惑したものへと変わり―――やがてリアは涙目で母親のほうをふり返った。
「かーさん、ゼルさんまだおかえりじゃない? リアまちがえた?」
ぶっとリナとガウリイが揃って吹きだした。ゼルガディスはとりあえず硬直する。
ねーねーとマントを引っぱる娘の背をぽんぽん叩いて来た道を戻らせながら、リナが必死に笑いを噛み殺す。
「ぷっ、くく………っ。そういやゼル、あんたの『ただいま』って一度も聞いた憶えないわ」
「たしかに、たいていアメリアが言ってたもんなー」
「考えてみれば、あんた、あたしやガウリイが『おかえんなさい』っつっても、全部『ああ』の一言ですませてたわね。相づちって便利ね〜」
とうとう堪えきれなくなって、リナがけらけら笑いだす。後に続くゼルガディスは、ひたすら沈黙を貫いた。
行ってくる、程度なら別行動時にそう口にすることもあった。
気をつけて行ってこい、程度ならリナとガウリイの背中に投げた憶えもある。
だが『ただいま』と『おかえりなさい』は………思えば、どちらも行動をともにしていた少女の専売特許だった。
―――リナさんっ、ただいま戻りました!
―――あ、アメリア、ゼル。おっかえりー。
―――はい、ただいまですっ!
―――おう、ふたりとも帰ってたのか。おかえり。
―――ああ。
もともと、きっちり挨拶なぞするような性分ではないが、それでも本気で『ああ』しか言っていない記憶のなかの自分を呪い、ゼルガディスは内心頭を抱えた。だが呪ったところで過去が変わるわけでもなし。それに今現在なら言えるかと問われると、それもはなはだ怪しい。
ようやっと笑いをおさめたリナが、どこか懐かしそうな口調になる。
「気づかなかったわ。あんた全部アメリアに言わせてたのね」
「………言わせてたわけじゃない」
「でも言った気になってたでしょ」
「…………」
「あたしも聞いた気になってたわ、やーねー」
「オレもそうだなあ」
こんな子どもに言われてしまうまで気づかなかった、かつて自分たちのおかしさを、リナとガウリイも面白がって笑っている。
ゼルガディスのほうはといえば荷物を抱えてこの場から即、立ち去りたい衝動にかられていた。さすがにそれを実行に移すほど煮詰まってはいないが、ひたすら居心地が悪い。
その彼の目の前で、ライティングをかかげながらせっせと歩いているリアのほうはといえば、まだ納得のいっていない顔でときおり母親を見あげている。自分の言動が大人たちの記憶の扉を開いたことには、当然ながら気づいていない。
「しかたないわね」
リナが苦笑し、手にしていた栗の包みをゼルガディスへ投げ渡すと、それから娘を抱きあげた。ショルダー・ガードを装備したままの状態で抱きあげられることに慣れているのか、リアは少し身じろいだだけでおとなしく母親の腕のなかにおさまる。
「―――あのね、リア」
父親譲りのやわらかな金髪をかきあげ、どこか楽しそうな顔でリナは娘の耳元へ何やらこしょこしょとささやいた。
すぐにリアはきょとん、とした顔でまばたきし、それからゼルガディスを見た。嫌な予感にかられつつも、黙ってその視線を受けとめる。
子どもは母親に視線を戻すと、ことりと首を傾げた。
「そーなの?」
「そうよ。だから、いまリアに『ただいま』を言わなくてもいいでしょ?」
「うん、わかった」
母親の腕から降りるとリアはそのまま、てくてく元通り歩きだす。
「おい待てリナ、お前何を言った」
「それは秘密でーす」
「思いだしたくもない冗談でごまかすな、おい!」
「あら、ほんとに聞きたいの?」
今度は逆にからかうように問い返され、とっさに言葉に詰まってしまったゼルガディスは―――戦わずして己の敗北を悟った。攻め方を間違えた。栗と荷物を手に持っていなければ、顔をおおってうめいていたところだ。
「………いや、いい………」
ふふンとリナが鼻で笑い、ばさりをマントをひるがえして、先を行くガウリイの隣りに並んだ。
娘のほうは、母親の後を追うべきかどうしようか迷ったようだが、やがて何を思ったのか、ちょこちょことゼルガディスのそばへと寄ってくる。
「………向こうに行かないのか」
「こっち、あかりないよ?」
前を歩く母親が手にしているライティングを指さして、リアは不思議そうにゼルガディスを見あげた。
彼は無言でその手から宝石の護符を取りあげると、代わりに持っていた栗の包みを手渡した。
「これなーに」
「お前の母親からのみやげだ」
「おみやげ?」
「違うわよゼルからよー!」
間髪入れず前方から、リナの笑い声が夜気にのって飛びこんでくる。
それぞれ矛盾している大人たちの言い分を頭のなかでどう処理したのか、子どもはすぐに嬉しそうに笑った。
「じゃあ、かーさんとゼルさんありがとう」
「………どういたしまして」
「でね、あのね、どっち?」
ゼルガディスは無言で眉間にしわを寄せた。
「何がだ」
「リアどっちあるけばいい? みぎ? ひだり?」
現在、ゼルガディスの左隣りを早足で歩いているリアは、判断を仰ぐように彼の言葉を待っている。
「どっちか決まっているのか」
「あのね、とーさんとだと、リアひだりなの。かーさんとだと、みぎなの。だから、とーさんとかーさんとだと、リアほんとはあっちなんだけど」
と、リナとガウリイのあいだを指さし、困った顔をする。
「でも、みちがぎゅってしてるから、いまはだめ」
子ども特有の要領を得ない物言いを辛抱強く聞いていたゼルガディスは、やがて溜息とともに返事をした。
「とりあえず、左を歩け」
「うん、わかった。とーさんとおんなじ」
前を行くリナの背中に向かって、ゼルガディスは唸る。
「………押しつけたな」
「家までよっろしく〜」
あっけらかんとした答えに、ゼルガディスは疲れた息をひとつ吐いて、無言でそれを了承した。
ガウリイと一緒の場合は、抜剣をさえぎらず、剣を抜いたままでもすぐに抱きとれる左側。
リナとの場合は、とっさに手を伸ばすことのできる利き手のかたわら。
二人いる場合は当然ながら、そのあいだ。
リアの言い分を聞く限りでは、必ずその位置取りをするようにしつけられているようだった。固いショルダー・ガード越しに抱きあげられても嫌がらなかったことといい、相当旅慣れしている。
いまは道幅がせまいため、最後の選択肢はない。そうなると当然どちらかが子どものそばにつくはずなのだが、当の二人は平気な顔で先を並んで歩いている。
子守を押しつけられた以外にこれをどう解釈しろというのだ。世話になっている身としては、昨日と今日の宿賃だとでも思って歩くしかない。
「あのね、これなかなに?」
「帰ってから開けてみろ」
「うん、わかった。たべられる?」
「………リナの娘だな」
「ちょっとゼルどーいう意味よっ !?」
「リアはたべられないよ?」
勢いよくふり返ったリナの隣りで、ガウリイがふり返らずにひとり笑っているのがわかる。
―――やがて暗がりの向こうに、光がにじんだ。
壁の燭台かけにかかった魔力の明りと、扉の脇におかれたランタンの光とが、森のなかの一軒家にぬくもりのある陰影を生んでいる。
ゼルガディスの傍らにいたリアが、おうちーと駆けだしていく。
再会してからこっち、ガウリイがライティングを唱えられるようになったなどいう天変地異の前触れのような話はついぞ聞かないので、向かう先の明りもゼルガディスの手元の光もリアが唱えたものだろう。この先どう育つのかそら怖ろしい気もするが、少し楽しみなような気もしてくる。
「こら待てリア」
ガウリイが横を走りぬけようとした娘の体をひょいと抱きあげた。
「先に行かない。危ないだろ?」
「むう」
うなる娘に苦笑して、ガウリイはリナに軽く合図すると大股で先へと歩いていく。夜目が利くうえに、勝手知ったる家の周辺ということで、ライティングもないのにその足どりは危なげない。
「とりあえず、一息入れたらそれ解析しましょ」
「お前はとりあえず風呂だろう」
「わかってるわよ」
娘の前では我慢していたらしいくしゃみをひとつすると、リナは憮然とうなずいた。
「―――むしろ、これからが大変かもね」
ふと、ふり返ることなく独り言のようにそう呟かれる。
「………そうかもな」
「怖くはない?」
「わからんさ」
淡々としたその返答に、ちらりとゼルガディスのほうをふり返り、リナが笑った。
魔力の明りに片側の頬を光らせ、半身を闇に沈ませ。夜を脱し、払暁へと歩みだす直前のように、その輪郭を浮かびあがらせながら。
もう何度、目にしてきたかわからないその笑みで。
「おかえりなさい、ゼルガディス。―――さあ、アメリアのところに帰るわよ」
あんたの『ただいま』は、そのときに聞くわ。
いとも鮮やかに、彼女は言った。
