某月某日。アメリアが風邪をひいた。
発熱と咳、ぼんやりと潤んだ目とくれば、風邪以外の何者でもないだろう。
大雪が降った翌日だった。
「ゼルガディスさんごめんなさい………」
情けない表情と声で、アメリアが傍らの椅子に座ったゼルガディスを見上げる。
ゼルガディスは溜め息混じりに、その額に濡れタオルをのせてやった。
「あのな、アメリア」
「は、はい………」
「風邪を引いた原因に心当たりがあるか?」
熱っぽい顔をしかめて、アメリアがうーんと唸る。
しまった、質問なんぞするべきじゃなかったと思うが、すでに遅い。
「あ……昨日急に、冷えこんだからですか……?」
「そうだな。それもある」
ゼルガディスは頷いて、続けた。
「どうやら気づいてないようだから、俺が言っておく。お前の風邪の原因は………」
べてっと音がして、続いて「うきゃっ」と悲鳴があがる。
ローブの裾を踏んづけてすっ転んだ『原因』の襟首をつかんで引きずり寄せて、ゼルガディスはアメリアの枕元でぶら下げた。
「こいつだ」
ゼルガディスが猫よろしく宙づりにしていたのは、最近二人の旅に同道するようになった子ども―――ユズハだった。
元・炎の精霊。現在は、
邪妖精と合成されたうえ、その肉体すらも失って精神体のみの存在となっている、ちょっとどころでなくワケ有りな存在である。
ほとんど魔族のような存在の仕方だが、本職(?)とは違って具現化がヘタで、本質である『炎』と、今現在ゼルガディスにつりあげられてジタバタ暴れている五、六歳の子どもの姿しか取ることができない。
もちろん空間も渡れない。渡れるのかもしれないが、一度あちらに引っこむと戻って来れない可能性があるらしく(何せ具現化がヘタなもので)、まだ試されたことはない。
精霊だろうが何だろうが、精神年齢は見た目そのままで、何かにつけてゼルガディスと張り合っている。………アメリアからすれば、張り合うゼルガディスもどうかと思うのだが。
ジタバタしているユズハを見上げて、アメリアが怪訝な顔をする。
「ユズハが………?」
「こんな、空気のようなモンと毎晩寝て、体温を奪われないわけないだろうが」
魔族と一緒でその肉体に体温などない。偽装する魔族もいるだろうが、ユズハはそこまで器用ではない。
暑ければ熱く、寒ければ冷たい。もはや逆カイロだ。
冬もまっただ中のこの時期に、こんな周囲の気温とほぼ同じ物質を毎晩布団に引き入れていたら、暖かいはずがない。
「だいたいこいつに睡眠なんぞいらん。リナみたいに、あんなにぱかぱかモノを食う必要もない。あまり甘やかすな」
「ぜる、おろしテ」
「かわいがりたい気持ちはわかるが、そのせいで風邪をひいたら元も子もないだろう?」
「ぜ・るぅぅぅ、おろしテ」
「とりあえず、冬の間は一緒に寝るのをやめるんだうぉあちぃっ !?」
ぶんぶか手をふると、オレンジ色の火球が放物線を描いて部屋の端まで飛んでいった。
雪がいまだなお降る窓際で、ユズハは火球から子どもの姿に戻る。
「お前というやつは…………」
雪混じりの冷水が入った木桶にユズハをつかんでいた手を突っこんで、ついでにアメリアの額のタオルも突っこむ。
「ぜる、が、おろさないから、悪いんだもン」
「いきなり火球に変じるな。宿が燃えたらどうするんだ !?」
「燃やさないもン」
ゼルガディスの頬がひくりと引きつった。
「ほほう、なら俺の火傷はわざとだな?」
ゼルガディスはアメリアの額に濡らし直したタオルを改めてのせてから、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「雪も降ったことだし、今日こそ外に放りだしてやる! 雪だるまの隣りに並んで軒先に飾られたいかお前は !?」
「雪だるまだるま」
きゃらきゃら笑いながらユズハが逃げ回る。
アメリアは額の濡れタオルを押さえて、溜め息をついた。
「………なんか、悪化するかも………」
薬を買うため、いったん自分の部屋へ戻って外出の用意をしてきたゼルガディスが、ユズハを睨みつけた。
「いいか。絶っ対アメリアに触るなよ。風邪が悪化する」
ユズハがふくれっつらで、それでもうなずこうとした時、新たな爆弾を持ちこんだのはベッドの上のアメリアだった。
「ユズハも連れてってあげてください」
「俺がか !?」
「他にだれがいるんですか」
「冗談じゃない、ほっとかなくても迷子になるようなヤツを、どうして連れ歩かないといけないんだ」
にべもなくゼルガディスは断った。
「どうしてそんなに仲が悪いんですかっ。二人ともわたしが風邪ひいてる時くらいは仲良くしてくださいっ」
仲の悪い原因そのものであるアメリアが額の濡れタオルをむしり取って憤然と叫んだ。
そのとき。
バタンとドアが開いて、宿のおばさんが姿を現した。
慌ててユズハが帽子をかぶって耳を隠す。
突然のことに度肝をぬかれたゼルガディスの素顔はさらされたままだったが、宿のおばさんはそれを見ても特に驚いた表情も見せず、フンと鼻を鳴らすと、腰に手を当ててゼルガディスとユズハを睨んだ。
「病人がいる部屋でさっきからドタドタ騒ぐんじゃないよっ!」
……………。
数分後。
看病の邪魔とばかりに、宿のおばさんに(迫力負けして)二人は揃って追い出された。
「…………何でこういうことになるんだ?」
外に放り出されたゼルガディスが憮然として呟く。
溜め息が白い呼気となって煙った。ユズハが不思議そうにそれを眺める。
雪はいつの間にか降り止んで、積もった雪が陽光を反射してきらきら光っている。
陽の光は明るいが、硬質で弱く、雪が溶ける気配はない。
「さっさと薬を買ってくるか………、おい行くぞユズハ………?」
音がする方に視線を巡らせると、ユズハが雪をかきわけて作ってある道をそれて、どこか遠くへ行こうとしていた。
新雪に埋もれて、もはや歩いているのか這っているのかわからない姿勢でジタバタしているのだが、雪の感触が楽しくてしかたないらしく浮いて脱出してくる気配はいっこうにない。
「…………おい」
ざかざか雪をかきわけてそこまでたどりつくと、ゼルガディスはユズハをひょいと持ち上げた。
「何をやっている」
「泳いでみタの」
「…………」
たしかこの間、泳ぐとはどういうことかアメリアが説明していた気がする。
「泳ぐなら水の中だ」
「水、キライ」
元は炎の精霊だったせいで、ユズハは相反する属性の水に濡れることを、いまでも嫌う。
「雪ならいいか、と思っテ」
「そりゃ、もとは水だが………」
応えて、ユズハのペースに巻き込まれていることに気が付いたゼルガディスは、ユズハをひっつかんだまま雪の中を道の方へと戻り始める。
「いいからさっさと薬を買いに行くぞ! 寒いったらない」
本来の雪かきされた道のほうまで戻ってきて、ユズハを降ろす。
が、さっそく。
「あ、だるま」
とたたた。べふ。どしゃあっ。
「雪だるまはタックルするものじゃないと何度言えばわかるんだっ!」
頭から雪とバケツをかぶったユズハには、恐らく聞こえていないだろう。
結局、ゼルガディスは薬屋までユズハを抱えて行った。
帰り道、気がつくとユズハがいなかった。
「またかっ」
頭を抱えていると、名前を呼ぶユズハの声が微かにゼルガディスの耳に届いた。
「ユズハ? ったくどこに行ったんだ………」
「ぜ・る!」
「ユズハ? いったい何度こんなことをすれば――――」
家と家の間の空き地の中央に立って、ユズハが手をふっていた。
雪は積もった時そのままの状態で、真っ白な空間のなか、ユズハだけがポツンと落とした染料のように色彩を持っている。
ゼルガディスは低い声で名前を呼んだ。
「………ユズハ」
「なに、ぜる」
「お前、宙に浮いてそこまで行っただろうっ !?」
足跡も何もない。雪とユズハだけ。
「ン、浮いタ」
「お前の外見の年で浮遊を使えるヤツなんか、そうそういないんだ。頼むから目立つな!」
「だって、やってみたかっタんだもン」
もはや何も言う気力が起きず、ゼルガディスはユズハを手招いた。
行きと同じく宙を滑ってユズハが傍までやってくる。
白い空間にぽつんと残された、行きも帰りもない靴跡を見て、ゼルガディスは溜め息混じりに呟いた。
「………謎の怪奇現象っぽいな」
「キレイ」
「………このバカ精霊」
ゼルガディスは薬の入った袋を、ユズハに押しつけた。
「お前が持て。アメリアの風邪薬が入ってる。なくしたり落としたり乱暴にあつかったりしないで『おとなしく!』これを持って俺の後をついてこい」
ユズハは何か言いたげにゼルガディスを見上げたが、おとなしく薬の袋を受け取った。
平穏無事に宿の前まで帰ってきたとき、ユズハがゼルガディスの袖をクイと引っ張った。
「あれ、ナニ」
「…………?」
ユズハの視線の先を追うと、さっきまで雪だるまがあった場所に(ユズハがタックルしたやつだ)宿の子どもがまた何か作ったのだろう、白くこんもりとした塊ができていた。
緑の耳と、真っ赤な目。
「あれは雪うさぎだ」
「うさぎ?」
ユズハが興味津々といった様子で近づいていく。
「タックル………はできないか。踏みつぶすなよ」
「しないもン」
しゃがみこんで雪うさぎと睨みあいをしているユズハを見て、ゼルガディスは小さく肩をすくめた。
「気がすんだなら、さっさと行くぞ」
「………りあに見せタイ」
「は?」
「持ってく」
「待て待て待て」
問答無用で手袋をはめた手に雪うさぎをのせようとしているユズハの襟首を、ゼルガディスはひっつかんだ。
「お前この間、雪は部屋のなかに持っていくと水に変わることを身をもって学習しなかったか? それとも、もう忘れたか?」
「でも持ってく」
頑としてユズハは聞き入れない。
「アメリアの風邪が治ってから、一緒に作ればいいだろう」
「ン、作る」
「なら………」
「いまは、持ってく」
「だから溶けるんだ!」
「でも持ってくの!」
押し問答を続ける二人の間をひらりと白いものがよぎっていった。
「………雪ダ」
「また降ってきたか」
空を見上げたあと、ゼルガディスは溜め息をついた。
「しょうがないな………」
「ゼルガディスさん、お帰りなさい」
ベッドの上で体を起こしたアメリアは、部屋に入ってきたゼルガディスにそう声をかけた。
朝よりもだいぶ具合はいい。
「ユズハはどうしました?」
いつもなら真っ先に駆け寄ってくるはずの、小さな姿が見えない。
枕元のテーブルに買ってきた薬をのせると、ゼルガディスは憮然とした表情で濡れタオル入りの木桶を取りあげながら言った。
「うさぎが逃げないように見てるんだと」
「………は?」
「いいからそこにいろ」
木桶を手にゼルガディスは部屋から出ていってしまう。
「………仲がいいならいいで、ちょっと妬くかも………」
ぼそりとアメリアは呟いた。
しばらくして、今度こそ二人揃って部屋に戻ってくる。
「りあ!」
ユズハがぱあっと顔を輝かせて、駆け寄ってこようとして―――
「うきゃっ」
「………やっぱりコケたか」
木桶を手にしたゼルガディスが、呆れた表情でユズハを見下ろした。
「やっぱり俺が持ってて正解だったな」
「あうー………」
呆然と見守るアメリアの目の前に、ひょいと木桶が差し出された。
「ほらよ。ユズハがどうしてもお前に見せたいんだと」
ちっちゃな濃い緑の耳に、真っ赤でまん丸い目。
雪の盛られた木桶のなかに、ちょこんと座っている雪うさぎ。
「これ………わたしに、ですか?」
「ン」
ユズハがアメリアのベッドの上に、べふっと顎をのせた。
「ゆずは、うさぎ初めて見タ」
「まさか本物だと勘違いしてはいないだろうな………」
頭痛をこらえるような表情でゼルガディスがうめく。
「りあにも、見せたかっタの」
ユズハが嬉しそうにそう言ってくる。
その表情に嬉しくなって、アメリアは笑った。
「ありがとう、ユズハ。ゼルガディスさんも」
「すぐに溶けるって言ったんだがな」
そっぽを向いたゼルガディスが、小さな声でそう言った。
「でも嬉しいです。可愛いですね」
木桶のなかの雪うさぎをアメリアは覗きこんだ。
思わず触ってみたくなるが、触ると間違いなく溶けてしまう。
「あ、そうだ。ユズハ、わたしの風邪が治ったら雪うさぎ作りましょうね。その帽子の上にのせたげます。きっと似合いますよ」
ユズハが帽子の上をぱっと手で押さえた。
「でもこれ、うさぎにはあげないもン」
「はいはい」
ゼルガディスは窓の外に目をやった。
「この様子だと、また積もるな………」
「ぜる」
「なん―――わぶっ」
ずっと隠し持っていたらしい雪玉を、ぎゅむうとゼルガディスの頬に押しつけて、ユズハが可愛らしく首を傾げた。
「ぜるも、うさぎにナル?」
「…………ユズハ」
「なに、ぜる」
「まずはお前がうさぎになれっ。ちょうど目も赤いくて耳も長い!」
「うさぎうさぎ」
ンベっと舌を出しながら、ユズハが部屋のなかを逃げ回る。
木桶の雪うさぎを目線の高さまで持ち上げて、アメリアはうさぎに話しかけた。
「仲がいいのは気のせいだったみたいですね………」
…………………
「ねえ、ゼルガディスさん」
「何だ?」
ユズハがようやくゼルガディスの部屋に寝に行ったので、部屋は静かな落ち着きを取り戻していた。
ゼルガディスは、ユズハとベッドのスペースを取り合う気はなかった。もとから体温の低いゼルガディスだから、ユズハと寝ても風邪を引くことはないだろうが、寒いものは寒いし、普通にイヤだ。それくらいなら、ソファで寝たほうがよい。
枕に頭をすっぽり埋めたまま、アメリアは傍らの椅子に座っているゼルガディスを見上げた。
窓の外は白い雪明かりに満ちている。
部屋は暗いはずなのに、そのせいか、どこか明るい。
射しこむ雪明かりは青白くて、ゼルガディスの銀髪がそれを受けて光を帯びた。
「………ごめんなさい。迷惑かけて。ほんとはこんなところで時間を無駄にしているわけには、いかないのに」
「気にするな」
「…………」
部屋は蒼い闇。窓の外を見下ろせば白く明るく、音すらしないだろう。
全部、雪に吸い取られて。
だけど。
「ゼルガディスさん」
この声だけは、雪に吸い取られないでいて。
「いつまで、わたしを一緒に連れていってくれますか?」
「…………」
ゼルガディスが静かに椅子から立ち上がった。ひんやりした指先がアメリアの髪を軽く梳いていく。
「お前が、そう望む限り………」
ドアが開き、静かな足跡が部屋を出ていく寸前、アメリアは囁いた。
「意地悪ですね」
「………お前は責任から逃げるようなヤツじゃない」
「わかっててそう言うんですから、やっぱり意地悪です」
「………悪い」
「いいえ、大好きですから」
ごがっと何かがどこかにぶつかる音がした。
クス、とアメリアは笑う。
サイドテーブルの雪うさぎが、ほんのりと白く明るい。
ユズハがくれた雪うさぎ。
明日には、溶けてしまうだろう。
だけど、明日またユズハと作ることができるだろう。
アメリアはそっと目を閉じた。
「でもまだ………もうしばらくだけ、あなたと一緒にいさせてください」
ドアがそっと閉じられる。
けれど、遠ざかっていく足音はない。
――――髪に再び、指が触れた。