揚羽蝶

 目の詰んだ木地に、黒漆を幾重にも丁寧に重ねて。あまり艶は出さずに、さらりとした漆黒に。
 蝶の片翅をかたどり、翅脈の模様に似せて透かしを幾つも入れる。空いた穴の部分には朱の漆。ひらりと垂れ下がる二筋の尾翅は、髪に挿すための櫛となる。
 どの部分が描く曲線も、そのままたどっていけば必ず別の曲線につながるのだろうと思えるように優美に、流麗に。
 そして小指の先よりも小さい、赤い珊瑚の真球を二つ。翅の終わりにさりげなく留めて。動きにあわせて、微かに揺れるように。
 ―――まるで、蝶が留まっているように。



 自身の執務が一段落ついて公妃の執務室に顔を出したマラード公主は、目的の人物を見いだせず軽く首を傾げた。
 まだ発声には至っていないその疑問に部屋に残っていた人物が答える。
「妃殿下ならお庭ですよ」
「庭?」
 公主は怪訝な顔をした。
 彼の公妃は完全な室内派で、外で乗馬をするよりは部屋で本を読む方を好むタイプだった。―――もっとも、馬には乗ろうにも乗れないのだが。相変わらず。
 だから、よほど興がのらない限り、庭の散歩などしないはずだった。
 ふと思い当たることがあって、彼は公妃付きの女官に問うた。
「もしかして―――追い出した?」
「はい。おっしゃるとおりです」
 問われた相手は、おっとりと微笑んで頷いた。
「顔が青白いと病人に間違われて執務が滞りますと言ったら、仕方なくお庭に出てゆかれました」
 執務が滞るというあたりがポイントだ。
 実に扱い方を心得ている説得の仕方だと感心したが、それをやらずに敢えて正攻法でいくのが彼だった。当然、相手は怒るが、こっちが正論だと不承不承負けを認めてくれる。―――こっちの不利が判明している場合に限って、時々こっそり搦め手もつかうが。
「本を持っていかれましたわ」
「………やりそう」
 外に出てまで本を読む――――というより、外に出ても何かすることがあるわけでもないので本を読む、のだろうか。散歩や散策は苦手な人種と得意な人種がいるものだ。
 会いに行くべきか、そのまま自分の部屋に引き返すべきか、少し迷った。
 もともと用があって顔を出したわけでもなく、単なる気まぐれだった。用もないのに顔を出すと、たいてい相手は怒る。
 逡巡している彼の様子を見て、女官が気を利かせた。
「陛下もご休憩ですか?」
「そうだけど」
「でしたら、妃殿下を呼んできてくださいますか。お茶の用意をしておきますから」
 反論するべき理由もなく、しかし少々複雑な顔で彼はお礼を言った。
「………ありがとう。ラウェルナ」
「どういたしまして」
 隣国クーデルア出身の女性はふわりと微笑んだ。



 マラード城内で庭といえば実は一箇所しかない。
 小国なため、城自体もセイルーンなどの大国の領主の城より多少大きな程度だった。しかも小高い丘の上に建っているため、城だけで精一杯で庭を造園するには敷地の余裕がない。庭と言えば中庭だけだ。
 代わりに周囲は森に囲まれている。丘の麓から広がるその森の頂上から、頭ひとつ飛び出すようにして城が建っているため、途方もなく展望だけはいい。天気の良い日は城下だけでなく隣町の町並みまで見える。
 城下が庭かな、と彼自身は思っている。
 以前そのことを話したら、「じゃあ、あなたは庭師ね」と言われた。
「その話の運びだと君もそうなるよ」と言うと、
「結構なことだわ。もとが平民だもの、庭師でむしろ嬉しいわね」
 と、小さな肩を軽くすくめていた。
 執務室は五階にあり、庭は斜面に建っている関係上、二階にあった。
 狭い分、高層建築になっているマラード城は、通常の出入りが二階からで、実質的に地下一階となっている地上一階の他に、地下がもう一階あり、地上のほうは五階まである。
 毎日の階段の昇降は実はけっこうな運動だった。階段の上り下りができなくなったら代替わり、とはこっそり囁かれている噂だが、ほぼ事実に近い。
「下りて、庭を歩いて、また上って五階までいくのは、確かに大変だよ……」
 わざわざ庭に出たがらないのも無理はない。
 最近特に健康を害しているというわけではなく、単にほっとくと執務しかしないので適当な理由を付けて追い出しただけだろう。趣味は政治と言い切られては、宰相も困るに違いない。
 庭は薔薇だらけだった。
 彼の母親になる前公妃のレイフィメと、姉のアセルスが薔薇が好きだったせいもあるが、国の紋章が蔓薔薇のせいもある。半島中でも、この庭でしか育てていない交配種もあるらしいが、実はあまり興味がない。
 薔薇も綺麗だが、薔薇以外でも綺麗な花はあるはずだった。強いてあげられるほど執着しているものはないのだが。
 ただ、困ったことに薔薇はあまり似合わない。
 花のひとつひとつが小さくて、かたまって咲くようなもののほうが似合うと思う。相手は花そのものが自分に似合っているとは微塵も思っていないようだが。
 そう広い庭ではない。呼べば充分、相手に声が届くはずだった。
「―――――、」
 けれど、いらえも、草を踏む音もせず、仕方なく彼は蔓薔薇の緑門をくぐって、丈高い木をまわって奥に踏みこんだ。
 緑は濃くて、少し暑いぐらいの陽気だった。
 視界のすみを黒い影がちらりとよぎり、見れば黒い蝶だった。向こうの茂みの方には、名前のわからない黄色い蝶もいる。
 気づけば、鳥の声もしていた。
 園丁が落とし忘れたらしい野放図に伸びた一枝を手で引き下ろしたとき、彼は当初からの目的を見つけた。
「イルニーフェ―――」
 陽は薄曇りの空から射したり隠れたりして、四阿の蔓薔薇の屋根からこぼれ、微かに明暗を変える。
 椅子に背中を預けて本は膝に置き、そこには片手が添えられていたが、頁は風がめくっている。
 微かに届く、深く静かな呼吸。
 ―――視界の端をひらひらと再びよぎっていく、黒。
 踏み込めずにいる彼を尻目に、漂うように四阿あずまやの周囲を飛び回り、やがて―――そっと、翅をたたんだ。
 絹糸のように細い足が鋼の髪をとらえる。
 風にあおられたかのように、ときおり、翅がやわやわと広がり、また閉じる。
 その艶めかしく繊細な黒。かすれた刷毛ではかれたように、わずかにのっている赤の色。
 光に透けて、鈍く輝く鱗粉の黒。
 その下の鋼の黒。
 象牙の頬に落ちる睫の影。



 眠たくなるような午後だった。



 しばらく身じろぎもしなかったリーデットは、思い出したように目を細めて吐息だけで笑うと、枝からそっと手を離した。
 一人で帰ってきた公主に、ラウェルナが軽く目を見張る。
「妃殿下はお庭には居られませんでしたか?」
 お茶の準備をしていた侍女たちが、その言葉に仕事の手を止める。二人が揃って帰ってくると思っていたらしく、二客のカップがテーブルにのっている。
 リーデットは苦笑した。
「いたけど寝てたからね。また日が傾いてから起こしにいくよ」
「まあ、起こしていらっしゃればよかったのに」
 侍女の一人がそう言った。
 リーデットが応えるより早く、ラウェルナが軽く笑って首を横にふる。
「妃殿下は起こされたと知ったら、きっとお怒りになられます」
 おそらく、自分がうたた寝していたこと自体を不覚だと思うに違いない。
「片づけなくていいよ。このままここでお茶にしよう。帰ってきたら、そのときお伺いをたてるよ。なんでここにいるか不審そうな顔はされるだろうけど」
 ソファに腰を降ろし、リーデットは肘掛けに頬杖をついた。
 その様子を見守っていたラウェルナが、軽く首を傾げる。
「陛下」
「ん?」
 彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
「僭越ながら、とてもよいことがありまして?」
 リーデットは小さく笑って、目を閉じた。
「おしえない」


 目の詰んだ木地に、黒漆を幾重にも丁寧に重ねて。あまり艶は出さずに、さらりとした漆黒に。
 蝶の片翅をかたどり、翅脈の模様に似せて透かしを幾つも入れる。空いた穴の部分には朱の漆。ひらりと垂れ下がる二筋の尾翅。
 どの部分が描く曲線も、そのままたどっていけば必ず別の曲線につながるのだろうと思えるように優美に、流麗に。
 そして小指の先よりも小さい、赤い珊瑚の真球を二つ。翅の終わりにさりげなく留めて。動きにあわせて、微かに揺れるように。
 ―――まるで、蝶が留まっているように。


 とりあえず。
 口実がなくても、君に贈ろう。