子どもたちは眠れない 〔1〕

―――その日、あたしが王宮を訪れると何やら異様な雰囲気だった。


 廊下の角を曲がったところで、顔見知りの女官さんが顔を輝かせて、あたしの手をとった。
「ああ……! よく来てくださいました。あなたがたをおいてこの事態に対処できる人たちはおりません………!」
「はあ………」
 しばらく行くと、やはり今度も顔見知りの侍従さんが、渋い顔であたしたちを見下ろした。
「ああ……! なんてことだ。よりにもよって、こんなときに遊びに来るだなんて。事態はさらに悪化の一途をたどるのか………」
「をい………」
 いったい何事なのだ。
 さらにこの後も、出逢う人間全てに安堵と不安と期待と懇願の混じった―――強いて表現するなら、この世の終わりのような顔を向けられて、ひたすらわけがわからない。

「姉さん?」

 隣りを歩く五歳年下の弟が、困ったように青い目であたしを見上げた。いつかは追い抜かれるにしろ、あたしの方がまだ背は高い。なにしろ弟はまだ成長期前だしね。
 あたしは不機嫌な表情で唸った。
「―――言わなくてもわかってるわよ」
「うーん?」
 弟が真っ直ぐな栗色の髪を風に遊ばせながら首を傾げる。どういうわけか、弟は母さん似であたしは父さん似の外見なのに、髪質と目の色はその逆なのだ。
 弟―――ティルトは怪訝な表情で尋ねた。
「オレたち、何かした?」
「………今日はまだ何もやっていないわよ。来たばっかじゃない」
 あたしは横目でティルトを睨んだ。
「だいたい、すでに何かしていたら期待と絶望の表情なんぞされるもんですか。まあ、でも―――」
 あたしは小さく肩をすくめる。
「いまから会いに行く人たちが教えてくれるでしょうよ」
「来たよ」
 言ったそばから、ティルトが回廊の奥に視線を向ける。
 父さんほどでないものの、ティルトの五感は鋭い。
 今回はあたしも気づいた。相手の気配が一際だって異質なものだったからだ。
 しばらく歩くと、回廊の角を曲がって『あたし』が姿を現した。
 ふわりと巻いた金色の髪は背の半ばまで。できればもう少し長くのばしたいと思っている。
 髪質と一緒に受け継いだ母さん譲りの真紅の目。身長はこないだ、とうとう母さんに追いついてしまい、さんざん文句を言われた。
 あたしと寸分違わぬ『あたし』が目の前に現れた瞬間、あたしは用意していた力在る言葉を解き放った。
「アクアクリエイトっ」

 ―――ばしゃぁッ!

 頭から『あたし』が水をかぶる。
 その途端、『あたし』は塗れた半紙が肉球にはりついた猫のようにうきゃわきゃし始めた。………どーでもいーけど、あたしはそんな得体の知れん動きはしないぞ。
 ティルトは毎度のことなので、もはや表情ひとつ変えずにのほほんと『あたし』に向かって挨拶をする。
 そのあたし本人といえば、腰に手を当てて言い放った。
「その悪趣味な出迎えはやめなさいと言ってるでしょ。―――ユズハッ !! 」
「うううっ」
 しゅっとその姿が縮んで、クリームブロンドにオレンジレッドの瞳をした七歳くらいのとてつもなく可愛い女の子へと変化した。
 そこにもう『あたし』はいない。

 ――ユズハ。

 ここの王宮の王女さまとその旦那さんが旅の途中で出逢って、それ以来ずっと一緒にいる、火の精霊と邪妖精の精神の合成獣だ。
 合成獣と定義するのもアヤシゲな、実体をもたない精神生命体だから、あたしに変ずるぐらいはお手の物だが、やられるこっちとしては実にハタ迷惑である。
 濡れた尖り耳がぴくぴく動いた。
「くーん。ヒドイ! ゆずは、水キライだってバ!」 
「あんたが悪い」
 あたしは、にべもなく幼なじみの半精霊に答えた。


 ―――あたしはリア=ガブリエフ。愛称はクーン。
 現在十四歳。リナ=インバースと、ガウリイ=ガブリエフの長女である。





 さて。
 どうして、あたしの呼称がクーンなのかというと、理由は簡単。

 ひたすら!

 紛らわしいのである。母さんと。
 考えてみればいい。遠くからぶんぶか手をふりながら(いや別に必ずしもふる必要はないけれど)リアだのリナだの呼ばれて区別がつけられる相手がいるだろうか。
 いるとしたら、それは多分、うちの父さんと不肖の弟だけだ。
 あいにく二人とも、名前を呼ばれる当の本人たちではない。
 辟易した母さんは、早々に別の呼び名をあたしに付けた。
 リアの方は、母さんのお姉さん―――ルナさん(こう呼ばないと怒るのだ)に付けてもらったものだから、そっちのほうは動かせない。
 だからこれはただの愛称だ。
 ただの愛称とは言っても、紛らわしさに辟易したここの王宮の一家の人たちは、あたしのことをずっとクーンと呼んでいるから、もはや第二の名前になりつつある。
 この目の前のユズハもしかり。
 なにせ名前を省略する名人なので、アメリアさんも『りあ』、あたしも『りあ』、ついでに母さんが『りな』では何が何だかさっぱりなのだ。

「あううううう」
 水に濡れた自分を見下ろして、ユズハが呻いている。
 半分は火の精霊だから、濡れるのは本能的に嫌いらしい。
「くーん。意地悪」
「………あのね。くんくんくんくん子犬じゃないんだから。クーでいいって言ってるでしょ?」
「くー、ダメ。混じル」
「だから、いったい何と混じるっての………?」
「青イ生き物とかー、イロイロ」

「………ナニ、それ」

 勝手に人の名前を省略するくせに、どういうわけか、あたしの名前だけ略そうとしないんだ、これが。
 もはや挨拶代わりとなった問答を済ませると、あたしはユズハに尋ねた。

「アセリアとユレイアはどこにいるの?」

 この事態はどうしたのか、とは聞かない。ぶつ切り大根のような言葉遣いのユズハに尋ねてもどうせロクな答えは返ってこない。
 アセリアとユレイアは、ユズハと同じくあたしとティルトの幼なじみで、ここセイルーンの双子の王女さまたちだ。言うまでもなく、アメリアさんとゼルガディスさんの子どもである。
 ちなみにティルトと同い年。うう、一人だけ年上でおねーさんは寂しいわ。一応、ユズハはあたしより年上だけど除外。これを年上と仰ぎたくはない。
 ユズハが答えるより先に、ティルトが答えた。

「姉さん、来たよ。二人とも」

 見れば、中庭のほうから二人と二匹が走ってくる。もうちょっと詳しく説明するなら、一匹は抱えられている。
 双子だけあって二人ともそっくりな容貌をしているから、遠目にはどっちがどっちか区別が付かない。
 ので、あたしは二人が従えている猫で区別をつけた。
 父猫のオルハ譲りの真っ白な毛並みをしたユキハを抱えている方がアセリアで、チョコレート色っていうんだろうか、落ち着いた色合いの毛並みのクレハを従えているほうがユレイアだ。
 この二匹の兄弟猫ならあたしの家にもいる。白に茶のブチがいい具合に混ざった毛並みをしてて、名前はラァ。
 こっちのほうはあの二匹と違って、二親の性格の微妙なとこばっかし受け継いでて、とことん性格が悪い。名前の由来は、ティルトが生まれたときに付けられた名前を聞いてゼルさんが「ラ・ティルトからか?」と本気で訊ねたとこから来ている。嘘のようなホントの話。いや、ホントだってば。

 中庭を突っ切ってこちらまで全力疾走してきた二人は、しばらくの間は呼吸を整えるのに必死だった。
「よかったですぅ。クーン姉さまとティルが来るのを待ってたんですぅ」
 アセリアがぜいはあ言いながら、ユキハを地面に降ろす。
 そのアセリアのセリフを、ユレイアが遮った。
「だからダメだ。リナさんたちが出てきたら、よけい話がこじれる」
「どうしてココにかあさんの名前がでてくるんだ?」
 あたしもティルトに同感だ。
 あたしたちはごく普通に、いつも通りに王宮に遊びにきただけだ。母さんに「持ってけば?」と渡されたお土産のお菓子と一緒に。
 それなのに王宮はわけのわからない空気に包まれている。
 あたしとティルトと、ついでにユズハも放っておいて、アセリアとユレイアは二人で言い争いを始めた。
「じゃあ、どうするんですかっ。わたしたちが口出しできることじゃありませんし、おじいさまだって困ってるじゃないですか!」
「だからってリナさんに仲裁を頼んだら、もっとねじれるに決まってる!」

 ………ユレイア。あんた人の母親を何だと思ってるの………って仲裁?

 アセリアが泣きそうな顔でユレイアを見た。
「だってもう夫婦ゲンカじゃすみませんよぅ。そのうち政治問題になりますううううぅ」

 ―――は !?

 あたしの頭の中を、互いに全く仲良くしそうにない単語が二つ飛び交った。
 夫婦ゲンカと政治問題。
 あまりのミスマッチさがかえって斬新かつクリエイティブかもしれない。

 夫婦ゲンカってあれだよねぇ………。犬が食べるとか股越していくとかいう………。

 ちらっと隣りを見ると、やはりティルトが呆気にとられた顔をしていた。
「………姉さん。オレ、いま何か聞き間違えたかな」
「………あたしもそう思いたい」
 唸って、あたしは目の前の言い争いに割って入った。
「ストーップ。何? アメリアさんとゼルさんがケンカしてるの?」
「はい」
 渋っていたわりには、あっさりユレイアがうなずいた。
「二日前からなんですぅ」
 それでこの妙に緊張したおかしな空気が王宮内に漂っているのか。
「ホントにケンカしてるのか? うちのとうさんかあさん以上に仲がいいのに?」
 ティルトが疑わしそうに言った。
 あたしもそう思った。
 いやホント。ティルトが言うとおり、ゼルさんとアメリアさんはハタ迷惑なほど仲がいいのである。軽いケンカなら四六時中しているうちの父さんと母さんとは違って、いさかいひとつあたしは見たことがない。
 ………イヤ、単にあたしが見たことないだけかもしれないけどね。
 それでもやはり、あの二人がケンカをしているのなら、王宮の空気がここまで緊張するのも何となくうなずけてしまう。
「嘘じゃナイ。ケンカ、ほんと」

 やれやれ。

 あたしは中庭の中央まで歩いていくと、噴水の縁に腰掛けた。
 後をついてきた双子に問いかける。
「で、どうして夫婦ゲンカが政治問題なのよ?」
 普通は双子でも継承権に優劣がつくはずなのだが、それを嫌ったアメリアさんとゼルさんの配慮で、この二人の継承権は同位だ。帝王学とやらも二人そろってきちんと勉強しているらしい。
 その二人が政治がらみになると言うんなら、多分そうなんだろう。九歳とはいえ、そこらへんは侮れない。
 二人は顔を見合わせると、溜め息をついて、話し出した。
「三日前に、女の人が王宮に来たんです」
「父上を訪ねて来たんです」

 ………うあ。なーんかヤな展開。

「でも、ぜる、いなかっタ」
「ちょうどおじいさまに同行して視察に行ってたんです」
「だから、母上が応対に出たんだけれど………」
 ティルトが、この先オレ聞きたくない、という表情をしている。
「その女の人は単刀直入にこう切り出したそうです」
 二人は声を揃えた。

『わたくし、ゼルガディス様のお妾になりにまいりました』

「―――叩き出せ、ンなもん」
 あたしははっきりきっぱり言い切った。


 こういうあたり、あたしは自他共に認める母親似である。