Ria and Yuzuha's story : Last wish 【All standard is you】 前編 〔24〕
(真紅の闇を統べる王―――)
(黄昏よりも暗きもの)
(血の流れより紅きもの)
(いまここに汝を呼ばわん)
日が暮れて行くにしたがって、家々にぽつぽつと明かりが灯っていく。柔らかでにじむような炎の灯火から、皓々と白いライティングの明かりにいたるまで、宵闇を彩ってセイルーンを飾りたてていく。
何もかも置いてきた。
ひどく身軽で、清々していた。何も手にしなかったのではなく、手にしようとしなかった愚かな身軽さだったが、それでも風が通り抜けていくのを心地よく感じた。
あとはどこかで監視しているだろう魔族を出し抜くだけ。それこそが至難の業だと知ってはいたけれど。
―――詠唱さえ邪魔されなければ、すべては終わる。
「どれほど愚かか………わかってないわけ、ないでしょう?」
気休めだが、宝石の護符はすでに敷地に埋めこんで魔法陣を形成してある。一瞬でもいい。気づくのが遅れれば、その一瞬で勝機はこちらのものになる。
微笑して、リアはその家の門扉を開いた。
「だってあたしは、これだけはしないと誓ったはずだったもの」
自分の価値は知っている。泣きたいほどの幸福感とともに。
冬枯れの庭を通りぬけ、明かりのこぼれる窓の前に立つと軽く叩いた。すぐに窓が開き相手が顔を出す。灯火をにじませるその銀色の髪を、心底愛しいと思った。
「どうして玄関から入ってこないんです」
「ここでいいの」
笑うリアの声音に何かを感じとったのか、ふとゼフィアがその表情を揺らがせた。
「クーン―――」
「あたしはとても身勝手で、とても当たり前のことを願うわ」
相手の指に己の指先をからめて引きよせ、そっと唇づける。
これが自分に残された、自分にできる最善。
それでも、その愚かさが軽減されるわけでもなく。
「どれほど怒られるかも知っている。どれほど泣かれるかも知っている。どれほどの傷を負わせ、どれほどの苦痛を一方的に与えるかも。それでもあたしは、この選択肢があたしの手のひらに残されていることに、いまだけは感謝する」
自分は何度でも同じことをくり返すだろう。ただひとつの世界を失わないために。
「クーン、何を―――」
「ゼフィ」
見えないとわかっていても、リアは微笑した。
「あなたと出逢っていなければ、この選択肢はなかった。でも、あたしはあなたと出逢わなければよかったとは思わない。あたしはあなたと出逢えたことに感謝してる。それがどれほど悪意にもとづいたものであろうと、感謝してる。だからあたしは、あたしの選択に価値を見いだせる」
笑みとともにふわりと細められる双眸は、たぶんとても、卑怯で、狡い。
「白状させてね。あたし、あなたと家族になりたいと思ったの」
「クーン! だから何を―――!」
「………本当にごめん。勝手ばっかり、綺麗事ばかり言って、甘えて………ごめんなさい」
ささやく声はひどく危険な予感をはらんで風に散る。
「あなたは、あたしが生かす。誰の手にも渡さない」
―――あなたの闇は、あたしが引き受ける。
「クーン………!」
いまこのときほど、相手の表情が見えないことにいらだちを覚えたことはない。
ゼフィアが問いただそうとしたときだった。
「―――どうぞ、生きて。ね」
甘くささやかれる声はこのうえもなく愛おしく、同じほどに怖ろしく。
乖離し、虚ろとなる。数時間前まで、たしかに腕のなかにあったはずの存在が。まるで狂いだした夢の続きのように。
いけない。そう思って手を伸ばした途端、伸びてきた手が逆にゼフィアを抱きしめた。
耳元でささやかれる、けむるようなその声。
「真紅の闇を統べる王―――」
聞き慣れない混沌の言語に、鼓動が大きく音をたてた。視界がくらりと傾ぐ。
「な―――」
「黄昏よりも暗きもの、血の流れより紅きもの」
声ともいいがたい吐息のようなささやきが、ひそやかに、だが確実に何かをとらえていく。
不意に抱きしめていた手がするりとほどけた。伸ばした手は空をつかむ。流れこむ冷気が手の届かない場所まで彼女が逃れたことを、彼に知らせた。
呪文を紡ぐ声も遠くなり、不自然な圧迫からも解放される。
ただ遠く、鈴が鳴った。
「クーン!」
怒りと焦燥に声がざらつく。
いま、ここで、手を離してしまったら。
とりかえしがつかなくなる―――。
詠唱は続く。
いまここに汝を呼ばわん
汝が欠片の縁に応え
埋もれし時の流れより
今ひとたび仮初めの目醒めならんことを
用意している呪文はふたつ。いまはまだ、ひとつ目だ。
(この呪文に呼応するのは、あたしだけでいい)
十八年間、ただぼんやりと付き合ってきたわけではない。
方法があったからこそ、誓ったのだ。これだけはやらないと。
(さあ、あたしの賭がはじまるわ―――)
はるか昔に捨てたはずの手札が最後に残された切り札。
リアは微笑んだまま、手にした賢者の石を口元へと持っていった。
世界を愛し肯定したまま受け入れる覚醒の結果は、魔王にすらわからない。
「あたしは、あたしを受け入れる」
望んでいたことでしょう?
誘うようにそう呟いて、リアは賢者の石を飲み、
「ひとつになりましょう………赤眼の魔王、シャブラニグドゥ―――」
生まれて初めて、その名を呼んだ。
―――そして、世界は震撼する。
世界がふるえた。
壊れたままにしていた心を正気に戻すには充分すぎるほどの衝撃が、波紋のように世界を走り抜けていった。
横っ面を引っぱたかれたような衝撃が去ると、あとは無惨な現実が目の前に横たわるだけだった。
「………フラウ?」
名を呼ばれた彼女はひっそりと涙を流し、かぶりをふった。
白い髪がふわふわと踊り、肩を流れる。
「ひどい………」
ただ泣くより他はなく、フラウは涙をこぼし続けた。
言ったのに。
救わないでって、言ったのに―――。
甲高い音をたてて陶器の皿が砕け散った。
自らが落とした皿の破片の上に倒れこもうとしたミレイを、傍らにいた同僚が顔色をなくして抱きかかえる。
「―――ミレイ !? ミレイ、どうしたの!」
「い、や………」
色をなくした唇がわななき、ヘイゼルの瞳が茫然と見開かれる。
たったいま自らのうちに降りた意志に対しての精一杯の抵抗が、かすれた呟きとなって唇から洩れた。
シルフィールが慌てた様子でやって来るのを見つめる双眸から、涙が溢れた。
だが溢れた涙が頬を伝わり落ちる頃には、その顔からいっさいの表情が消え、乾いた声音が駆けよってきたシルフィールに向かって紡がれる。
「………星の都にて、時の流れに埋もれし赤き闇、いまあきらかなる意志にて解放されしものがひとつ。その傍らに、深く眠っていたはずのものがもうひとつ」
―――神託。
そのことを悟った神殿の者たちのあいだに、衝撃が波紋のように広がった。
ミレイの手を握りしめたまま、シルフィールは声もない。
「意を留めよ。肯定と否定が詠われしとき、傾ぎは極み、天秤は次の揺り返しへと遷るだろう。世界はいまだなお―――」
発されたときと同じように唐突に言葉は途切れ、がくりとミレイが仰け反った。
シルフィールは慌ててその体を支えたが、無言できつく唇を噛んだ。
星の都。赤い闇。解放。
何だこの不吉すぎる神託は。しかも途中で途切れた。
やってきたアーウィスにミレイを任せ、シルフィールは立ちあがる。
凛とした声音があたりに命じた。
「隔幻話のある街まで出向きます。だれか馬を!」
セイルーンのリナたちに、連絡を。
サイラーグにほど近い森の片隅で、ひどく透明な眸をした女が空をふり仰いでいた。
長い黒髪が風にあおられるまま、先ほど駆け抜けていったふるえの行く先を追うように立ちつくしている。
凪いだ湖面のようなその表情が、わずかに揺らいだ。
その手が手放したはずの胸元の宝石を求めてさまよった。
あるいはその宝石を託したはずの相手を求めて、さまよった。
「私のうちの魔が騒いでいる………」
アークの顔が苦渋に歪む。
届くはずのない声が夜空に向かって放たれていた。
「いけない、クーン! それでは………それでは、あなたを愛してくれる人が死んでしまう!」
(呪文はまだ………)
(もうひとつ、残っているわ………)
視界が真っ赤に染まっている。
闇に溺れそうな自身の理性を全力で押しとどめながら、リアは思わず微笑していた。
この身の魔力は母親をしのぐほど。
魔力容量が大きいということは、リアという存在の色がついた魔力が大きいと言うことだ。
それはつまり、魔王への影響が大きいということでもある。魔王の依り代にふさわしいだけの魔力を有しているということは、覚醒への大きな足がかりであると同時に致命的な弱点でもあった。
身に宿す力が取るに足りない者であれば、覚醒しようという漠然とした意思すら持たずに欠片は眠り続ける。その意思を持てるほどに刺激を与えてくる大きな魔力は、しかしその強さゆえに依り代である人間の意識が影響を及ぼさずにはいられない。
また、他の種族と比べて極端に短いサイクルでくり返される転生は、水流が長い年月をかけて小石の角を削りとっていくように、魔王の欠片を徐々に浄化、消滅させていく。あるいはそこまでは至らずとも、いままでくり返してきた転生の数だけ、人の意識に影響を受けやすくなっている。
赤の竜神の封印は斯くも用意周到で、そして人にとって………残酷だ。
(あたしの魔力は………充分魅力的でしょう?)
目を閉じ、リアはすぐに再び大きく目を見開いた。
ゼロスが気づく前に片を付ける―――!
―――永久と無限をたゆたいし、すべての心の源よ
折れることなき精神の薄刃よ
我が身なり ならざる力よ
その手が鞘から短剣を静かに抜きはなった。
なかば融けあいかけている魔王の意識が驚愕と混乱を伝え、自身の意図に抵抗してくる。ねじ伏せられそうになり、必死で抵抗した。
(あれほど覚醒したがっていたでしょう?)
(だめ………あたしたちはひとつになるの)
そして、自らを封印へと変えるのだ。
完全であろうと不完全であろうと賢者の石は力の端末でしかなく、ただ力を与えるだけ。飲みこんだ賢者の石がこの呪文の発動を助け、威力を増幅するだろう。
術の対象者を変えたことと、皮肉にも共通の属性を得たおかげで、要求される魔力容量は軽減された。いまならこの呪文は発動する。たとえ効果が納得のいくものでなくとも。
リアは微笑して赤い視界のなか、銀に輝く光へと手を伸ばした。
彼の魂のうちに宿りしこの力
分かち、違え………
呪文を唱えた唇が、思いを告げる言葉を紡ぎだすことはなかった。
やっとの思いで伸ばした手が、相手の頬に触れる。伸ばせば届くような位置にいる相手の存在がひどく遠かった。
自分という存在が急速にこの肉体から乖離していこうとしていた。呪文は正しく発動している。
愕然とした相手の双眸に自分の姿が映しだされていることに気づき、あまりにも鮮やかにリアは笑った。
やっと、見てくれた。
灼けつくような力の荒れ狂う、その一瞬の間隙をついて唇づけていた。
すべての願いと祈りと守護を、この息吹にこめて―――。
今ともに仮初めの眠りへ誘わんことを
交わされた唇を介して術が相手へと贈られる。
(あなたは、あたしが護る―――)
代償と媒介は自分と魔王。だが術の対象は、自分ではない。
だから、還る器はいらない。
ふらりとその身が一歩後ずさり、そして―――、
ああ、本当に。何て最悪の選択肢だろう。
(断て―――!)
あてられた短剣の刃が、一息にその首を掻き切っていた。
悲痛な絶叫と凄絶な焦燥を身に負って、二つの影が空間を渡って出現した。
ほぼ時を同じくして門扉が弾け飛ぶように押し開かれる。
ティルトの目の前で、緋い扇のように弧を描いて飛沫が散った。
ゼロスの紫闇の瞳が赤く染まる大地を映す。
出現したその虚空からそのまま駆けようとして、ユズハが倒れこむように膝をついて座りこんだ。
朱橙の双眸がまたばきひとつせずに、その光景を映しだしていた。
ゆっくりとくずおれていく―――。
もともと乏しいその表情が完全に消え失せた顔で、その光景を見ていた。