Ria and Yuzuha's story : Last wish 【All standard is you】 前編 〔23〕
あれは、本当に昔のことだ。
セイルーン王宮に一家ごと客人となっていて、ティルトと双子が相次いで生まれ、数ヶ月が過ぎた頃のこと。
双子はいちばん神経を使う時期を脱してようやっと離乳食を食べ始め、ティルトははいはいし始めて目が離せなくなった、そんな時期だった。
リアは原因不明の高熱に枕から頭があがらなくなった。
最初は風邪だと誰もが思った。すぐに熱はさがり、リアはユズハと元気よく遊びはじめたが、また十日ほど経ってから熱を出した。
だんだん熱を出す間隔が短くなり、熱もどんどん高くなっていった。
魔法医たちは懸命に治療にあたってくれたが原因はわからなかった。解熱の薬草などを投与すればいったん熱は下がるが、効果が切れるとすぐにまた上がってきてしまう。
リナは、あまりに高い魔力容量が体に見合っていないせいの負荷ではないかと仮説を立てたが、それだと結界の中心部、不均衡な魔力を正す力の働くセイルーン王宮の一室にいながら熱の下がらない理由がわからなかった。異常な魔力の流れは補正されるはずなのだ。
もし感染症だった場合、万が一にも世継ぎの双子にうつるようなことがあってはならないと、アメリアとゼルガディスは顔を見に来ることすらできなかった。
リナとガウリイにも、まだ抵抗力の弱い赤ん坊であるティルトがいて、つきっきりではあったものの二人揃って娘の傍にはいられなかった。
リアはよく泣いた。母親があまり顔を見せてくれないことにではなく、ただ「怖い」と言っては泣いた。幼すぎて言葉が足りず、悪寒や発熱の不快感も満足に言い表すことができなかったリアには何が『怖い』のか、うまく伝えることができなかった。
熱にうなされて悪夢を見ることはよくあることだったから、それだと思われた。事実、眠っているあいだにも、泣きながらうわごとを口走っていたらしく、それを聞いた父親が、もしかすると助からないのではないかと慄然としたという。彼がいまだに過保護なのはそのせいなのだが、これは余談だ。
熱にうかされていたリア自身、自分が泣くのは怖い夢のせいだと思っていた。眠る度に『何か』を見るのだ。
ただ、その『何か』がどう怖いのかきちんと伝えることができなかった。どうしてほしいのかもうまく言えなかった。
―――あの日、ユズハが来てくれるまでは。
ひんやりとした手の感触にリアは目を開けた。
「………ユズハ?」
いつも傍らにいてくれる父親の姿はなく、代わりにユズハがリアの顔を覗きこんでいた。己が熱にうかされてるせいなのか、朱燈の瞳が何だか熱っぽく見えた。
「がうりい、こおり」
氷をもらいに行ったのだと納得して、リアはとろんとした目をユズハに向けた。
「何かこわい………」
ただそれだけを訴えた。
ベッドに上半身を乗りあげるようにしているユズハは、その姿勢のままで首を傾げた。さらさらの金髪がリアの顔にふりかかり、その冷たさが気持ちよくて、リアは手を伸ばしてユズハの髪をつかまえる。
「何が、怖イ?」
「………リアがこわい。………リアがこわくて、リアがこわいの」
もう、そうとしか言いようがなかった。この感覚を何と表現すればいいのかわからなかった。大きすぎる魔力容量のせいで封印が刺激されて肉体と精神の均衡がくずれかかっていたのだと今ならわかるが、当時はそんなことがわかるはずもなく、ただ理由もわからずに怯えて泣いていた。
「りあは、りあなのに、りあがコワイの?」
その頃は、まだクーンという名前をもらっていなかった。だからユズハはリアのことをそのまま「りあ」と呼んでいた。いまとなってはもう、ありえない貴重な記憶だ。
「わかんない………何かがぐちゃぐちゃになってる。リアがこわいの」
「りあ、怖くナイ」
「こわいのっ! こわいんだってば………っ」
こんなに怖いのに誰もわかってくれないなんて!
ユズハの髪をにぎりしめたまま、リアは癇癪を起こして泣きだした。涙まで熱くて気持ちが悪かった。
「どんどん遠くになってくの。みんなぜんぶリアから遠くなってくの………!」
「遠ク?」
ユズハは再び首を傾げたが、リアに髪をつかまれていたせいで途中で止まった。
何を思ったか、突然ユズハは宙に浮かんでベッドの上にのると、リアの枕元に座った。
髪をつかんでいたリアの手を外すと、そのままきゅっと握る。
「んー、何か変、かも」
「ユズハ………?」
重い頭を巡らせてユズハを見あげると、相手は不意にごつんと額をぶつけてきた。熱を測るような仕草だったが、少々勢いがよすぎた。目の前に火花が散るという体験はこの時が生まれて初めてだった。
痛みと衝撃にくらくらしながら、リアは毛布のなかに埋もれる。
「った。ユズハ、痛―――」
「わかっタ」
やはり唐突にユズハは額を離してそう告げた。相変わらずこちらの話を聞こうともしなかった。
「えっと、何がわかったの………?」
ユズハの手がぺたぺたと頬に触れてくる。熱のないその感触がひんやりと心地よく、リアはうっとりしながら目を閉じた。すぐにリアの高い体温が移動して温くなってしまったが、それでも退けようとは思わなかった。
「言いたいコト、わかっタ………と思ウ」
本当に理解したのかどうかはわからない。
リアと魂を分かち合っている存在が何なのか、当時のユズハが知っていたとも思えなかった。あれ以来、ユズハは何も言ってこなかったし、自分も高熱のせいでここで交わした会話のことを憶えていなかった。
だがその一言だけで、そのとき途方もなく安心したのはたしかだった。そっと背中に手をあてられて、支えられたような感覚がリアを満たした。
体全体で大きな深呼吸をして、リアはユズハを見た。
「よかったぁ。こわいよね………? 遠くて、何もわからなくなるよね………?」
「イヤ、それはよくわからン」
「………も、いい………」
一刀両断されて、もはや反論する気力もなくリアは毛布のなかに埋もれた。
「だけど、りあは、りあ。りあじゃ、なくならナイ。それは違ウ」
「………ほんと?」
「だっテ、りあ、ここにイル。ここにイルのは、りあ。ゆずはと、話してル」
「あ、そっか………。そだね、話してるのはリアだね。なんだ………」
「りあと、ゆずはは、遠くナイ。ココで、話してイル。とても、近イ」
「そだねぇ」
簡単な理屈が不思議と強い安堵感をともなっていた。怖いのも遠いのもどこかに行ってしまったような気がした。
気が抜けたせいか、途端に眠くなったため、リアはユズハを見あげて熱に潤んだ瞳で笑った。
「リア、ねるね。ユズハ、リアがねても、リアがこわくならないように見ててくれる? ユズハがここにいれば、遠くならないよね」
ユズハは表情ひとつ変えず、ただ小さく頷いた。
「ン、任されタ。ずっと、見てル。ぞよ」
「ぞよって、変なの………」
へにゃっと笑って、リアは目を閉じた。
翌日、何事もなかったかのように熱は下がった。
おそらく、最初の自覚はそのときに。
そして、均衡を崩し夭逝するはずだった器はそのとき長らえた。
何の意図もなく、自覚もなく。
ただ何気なく精神世界面に介入し、リアを支え肯定した、ユズハによって。
忘れていた―――。
すでに答えは出ていたのに、自分は何度もユズハに問うていた。当たり前のように、答えは自分のなかにあったのに。
「あたしは忘れてしまったけど、あんたはずっと約束を守っていてくれたのね………」
約束を交わした片方が忘れていることなど、関係なく。
言う必要も認めず、ただ黙然と。
「―――ずっと、見てル」
ユズハがもみじのような手を伸ばしてきて、リアの頬に触れた。
「ずっと見てル、くーん」
「………ねぇ、ユズハ」
リアはユズハの細い髪をくしゃりと撫でると、そのまま己の肩へとその頭を傾けた。
互いの表情が見えなくなる。
「ありがとね、あたしが忘れていたのに、いままでずっと約束守ってくれて。………だから、もうその約束はいいよ」
「違ウ」
残照が窓の外を赤く染め、影が長く床へと落ちる。
暗がりに包まれていく部屋で、ただ声だけが。
「約束しタけど、後デ、ちゃんと、ゆずはが決めタの」
ユズハが体を起こす。炯々と光るその瞳でリアをとらえ、腕のなかの存在は言葉を紡ぐ。
まるで、相手の望みを知り、隠された真実を告げるお伽噺の魔物のように。
「だからいまは、もう、関係ナイの」
真紅の視線をとらえたまま、ユズハはにこりと笑った。
「ゆずは、は、ゆずは。だから、くーんと一緒にイル」
「………あんたは、ほんとに勝手よね」
溜息とともに微かに笑い、リアはすとんとユズハを下ろした。
突然下ろされたユズハは無表情にリアを見あげ、やがて、そっと手を伸ばした。
「くーん」
闇が落ちる。静かに、深く。
藍に混じる紅が西の空に残り、いつまでも消えない。
伸ばされるその手に視線を落としたまま、リアは呟いた。
「あたしが歪むと、あんたも歪むのかしら?」
「くーんは、くーん。歪まナイ。変わルと歪むは違うコト」
「そうね………あたしもそうだと、信じているわ」
リアは微笑してユズハの手をとった。
「ユズハ、先に行って伝えて。後から来るって」
「ン。わかっタ」
ユズハが首を傾げ、こくんと頷いた。
無条件の信頼だった。嘘をつくこともつかれることも理解できない無垢な瞳がリアを見あげている。
この存在―――。
無条件に好意をくれる存在。ひたむきに、何ものにも揺るがされることのない、それゆえにひどく身勝手な。
勝手に選び、そしていつかきっと、勝手にうち捨てていく日も来るのだろう。そんな好意だからこそ、最後までこの手に残るものだと、そう勝手に決めていた。
だからこそ。
「ユズハ、愛しているわ」
闇のなか、リアは静かにその手を離した。
再びひとりになったリアは玄関の扉から外に出ると、律儀に鍵を閉めた。
きちんと鍵がかかったことを確認してから、玄関の石段を降りかけ―――凍りつく。
西の空が真っ赤に焼けついていた。茜空を背景に、夜色に染まった濃灰色の雲がいっそ不吉な様を見せて漂っている。
対する東の空は何とも澄んだ藍色だった。星を散りばめた、これから時刻とともに深さと濃さを増していく青い闇。
その狭間に立つように、ティルトがいた。
薄暮のなか、栗色の髪が濃褐色となって風に揺れている。
「どこに行くんだ、姉さん」
硬直していたのは一瞬だった。
そっとリアは息を吐き、ただそれだけで己をとり戻す。
何もかもが静かに凪いでいる。平明に澄んで、迷いもなく―――。
「どこにも」
リアは答えた。
「どこにも行かないわ」
言って、首を傾げる。
「あんたはどうしてここにいるの。王宮に行ったんじゃなかったの?」
「行ったけど………途中でオレだけ引き返してきた。姉さんが、いるような気がしたから」
「あんたの勘は父さん譲りね」
呆れたようにリアは笑って、歩きだした。
「―――父さんたちに、ばれたよ」
リアの歩みが止まる。
「姉さんの剣が、母さんに見つかった。オレだろうって、すぐに言われた。父さんじゃなきゃ、オレにしかできないって」
歩みが再び再開された。
黄昏のなか、静かな足取りで互いの距離が一方的に縮まっていく。
「姉さん、昨日オレに言ったよな。自分にはできないって」
「ええ、そうよ。あたしにはできない」
ひっそりとリアは答えた。
「あんたにできても、あたしにはできない。あんたが斬りかかってきたら、あたしはあんたを殺すことでしか止められないでしょうね」
「だから………?」
ティルトが小さな声でささやいた。
「だからなのか? だから、姉さんはオレを」
リアはそれに答えず歩を進めた。
互いの影が重なり、そしてすれ違う―――。
「先にいくわ」
姉のそのささやきに、どういうわけか弟はひどく慄然とした。
ここでこのまますれ違ってしまうと、もう二度と会えない。
また、とりかえしがつかなくなる―――。
理由のない衝動に突き動かされて、ティルトは離れていく影に向かって手を伸ばしていた。
「姉さん、行くな―――!」
弾かれたようにリアがふり返った。
凍りついたような沈黙がおりた。
二人のあいだをぎこちなく繋ぐ互いの手。
互いの熱が手のひらを通して行き交った。そういえば、相手に触れるのは何年ぶりだろう。寂寥のような思いが互いの手のひらから生まれ、腕を駆けのぼり心臓に達し、そして胸をふるわせる。
「………行くな。姉さん」
何かを理解し得たような感応は一瞬だった。
透き通るような姉の双眸がすっと細められた。
「はなして」
「行くな」
「どこに?」
愛おしむようにティルトを見つめながらも、口調はからかうようだった。
「オレは逃げないから」
もはや理由もわからず泣きそうになりながら、ティルトは叫んでいた。
「逃げないから! だから試せよ。いつでも試せばいいんだ。泣かねぇから。大好きだから! だから、姉さんも逃げないで、オレにわからせてみろよ………ッ!」
「―――ありがとう」
何と言ったのか問い返すひまもなく、リアの腕がティルトを抱きしめていた。
愕然と目を見張るティルトの視界に、宵の空と風に舞う姉の髪が映りこむ。
(ああ、星が光って、流れる………)
淡い金色を帯びた姉の髪が闇に浮かぶ様に、ぼんやりとそんなことを思った。ほとんど思考にさえなっていなかった。
ただ身を切るような冷気のなかで、抱きしめてくる姉の温もりがひどく熱い。
(姉さん、こんなに背………低かったっけ)
その内心をまるで読みとったかのように、リアがすぐ耳元でくすりと笑った。
「………背、伸びたわね」
ひどく涼やかで冴えた声音だった。りん、とどこかで鈴が鳴る。
「追い越せばいいわ。あたしなんか越えてって、さっさと幸せになりなさい」
「姉さん !?」
何もかもがすれ違っているような気がした。自分の言葉は姉に届いているのか―――?
身を離したリアが、愛おしげにティルトの頬を撫でた。
「もう遅いわ」
ティルトはとっさに姉から身をもぎ離そうしたが、言葉通り、遅かった。
「雷撃―――」
「………ッ!」
一瞬で視界が暗転する。
伸ばした手は望んだ通りに姉の手のひらのなかに収められたが、すぐにそれも放された。
意識が途切れる寸前、甘やかな声音でその言葉がティルトに向けて贈られていた。
「ありがとう。大好きよ―――愛しているわ」