Ria and Yuzuha's story : Last wish 【All standard is you】 後編 〔1〕

 その衝撃は、ひとしく世界を震撼させた。



「―――長よ、いかがでしたか」
「やはり、地竜王さまから御言葉はいただけなかった」
 最長老は苦々しい顔で首を横にふった。
 かの竜王が沈黙を続けて久しい。物質界にも肉体を持つ神族と違い、彼らが仕える神そのものは精神世界面(アストラルサイド)に身を置く存在である。現実には形として存在せず、相対する者の五感を通して語りかけてくる。そして神と相対することは容易ではない。かの神が呼びかけに応えてくれたことは、数えるほどしかなかった。
 それでも地竜王はまだよいほうだ。神も仕える竜族も共に健在なのだから。水竜王は神そのものが滅び、少し前まで結界によって隔たれていたため、残された竜族とも容易に連絡はつかない。かつて最大勢力を誇った火竜王所縁(ゆかり)の竜族はもはや存在しない。空竜王は自ら神族を(よう)さぬことを選んでいる。
 いまここに存在する地竜王に仕える竜族が、おそらく現在における神の最大勢力。
「仕方あるまい。神託を下されただけでも異例のこと。我らは地竜王さまの名に恥じぬよう動くのみ」
 二十年ほど前に異界の魔王が召還され、火竜王が神託を下したときも、地竜王は沈黙を貫いた。
 およそ数百年ぶりの神託だった。

 ―――北の地にて 時の流れに埋もれし赤き闇
     あきらかなる意志にてひとつ
     連なり傍らに在るものひとつ
     世界が是非を問われ別たれしとき
     天秤の傾ぎは極み 次の傾ぎへ遷らん
     意を留めよ

 最後の一節だけが、巫女を通してではなく地竜王から直に下された神言だった。
 留意せよ、と神は告げた。
 先刻の魔の気配による世界の震撼もある。神託の冒頭が何を示しているのかは明白だったが、後半の部分が不明瞭だった。天秤とはいったい何を示すのか。その真意を神に仰いだのだが、地竜王は黙して答えなかった。
 だが何にせよ、世界を護り統べるために神族は存在しているのだ。―――迷うはずがなかった。
「北に赴くものを選びだす。北の守護に仕えていた一族に会って彼らの協力を仰ぎ、事の次第を確かめるのだ。先刻の衝撃はごく一瞬だった。以前のように魔が蠢動(しゅんどう)する気配もない………。事の次第を把握し、もし魔王が目覚めていないようならば―――その依り代を破壊しろ。二つともだ」
 命を受けて去っていく配下の竜を見送り、最長老は先ほどまで己がいた洞穴をふり返っていた。虚ろに開いた巨大な竜の(あぎと)を思わせる岩壁に穿(うが)たれた黒い穴。そこから続く、聖山の奥深くに彼らが仕える神が坐す。
 神の視点はいずこに定められているのだろう。降魔戦争より以前から神に仕える最長老ですら、彼らの思うところが理解できたことなどない。神との対話がなされたことなどなかった。
 数千年前の大戦で神魔が激突し、眠る竜と呼ばれる大陸はその大半が消し飛んだ。魔王は七つに分かたれ人の心の奥に封印され、神は四つの分身を残し混沌の海に沈んだ。大戦の折に神に従っていた竜族たちは各々仕える神を定めて分かれ、神族と呼ばれるようになった。
 だが以降、神は動かない。動いたのはすべて、神託を受けた神族だった。神は自ら下した神託の解釈にすら口をはさまない。たとえ誤った解釈の結果で、古代竜の一族が滅ぼされようとも。
 ときおり、神族の在り方がおそろしくなることがある。だが、それは決して口に出してはならないことだった。口にすると神族としての意義も誇りも何もかもが足下から崩れ去る。世界を滅ぼすわけにはいかないのだ。神の尖兵たる神族が世界を護らずして、誰が魔族の暗躍を止められるだろう。迷ってはならない。
 留意せよ、と神は告げた。
 ―――ならば、それに従うだけだ。



「この気配は………」
 騒然となる周囲の同胞にかまわず、黄金竜の長老は静かに南へと視線を投げた。
 東南―――強く、はっきりとした魔の気配。
 だがこれは以前とは違い、一瞬だけ。本当に一瞬だけだった。
 これから、あのときのように魔族の大量発生などに繋がるのだとしたら捨て置けないが、いまの時点では何とも言えない。
 エルフの里とも連絡を取りあい、事の次第を把握することが先決だった。
 動く気はなかった―――まだ。
 確信はないが、期待にも似た予感めいたものがあった。
 人間という生き物の可能性を限界まで見せつけるような、あの(つよ)い意志の宿る瞳。それとも短き生を生きる存在として、時の流れの摂理に従い、いまはもう老いただろうか。
「此度もまたそなたと道が交わることになるのだろうか………人間の娘よ?」
 呟きを聞くものはなく、風にさらわれて消えた。



 まばたきするほどの刹那。ごく一瞬だけ世界を奔りぬけ震撼させた気配に、しばらく獣王は凝然と動かなかった。
 六紡星の王都へ送りだしたばかりの部下が帰還する気配はない。この様子ではいまは帰還どころではなさそうだ。報告次第によって、こちらの出方は大きく変わる。
 獣王は肺が空になるような溜息をつき、誰にともなく呟いた。
「我らがどれほど慎重に事を期そうと、偶然ひとつでいとも容易く流れは変わる」
「―――貴女のその度の過ぎた俯瞰(ふかん)によってもね」
 するりと空間を渡って姿を現した腹心のひとりは、婉然と微笑した。
 頬杖をついたまま、獣王はそちらを一瞥(いちべつ)する。
「計画を承認したのではなかったか、ダルフよ。気の早いことだ」
「あら、もうわたくしの気まぐれの範疇(はんちゅう)を過ぎているわ。そうでしょう、ゼラス? 何と慕わしいこの気配。瞬きするほどの間でしかなかったとはいえ、我らが王の四度目の覚醒よ―――また、我らの予定外の」
 気まぐれはあくまで己の楽しみのみ。計画自体は一分の隙もなく進めるのが海王だ。その彼女をしてこう言わしめるということは、想定外の事態を迎えて、本気になったということだった。
「ともあれ、いまは貴女の部下が戻ってくるのをわたくしも待たせていただくわ。彼が持ってくる報告によっては、貴女の意見もわたくしの考えもおのずから変わらざるをえないでしょう。合意に至ればよいのだけれど」
 妖艶に微笑する海王の顔を見る限り、口調とは裏腹、合意に向けて努力する気はなさそうである。現に、彼女の配下がここに控えている気配はない。
 無造作に足を組みかえ、獣王は眉をひそめた。
 先刻、一応の合意を見たのが嘘のような慌ただしさだ。どれほど生が短かろうと長かろうと、一瞬の意味はどの存在にとっても等しい重さを持つ。その瞬間で趨勢は定まり、因果は決定される。
 覇王はどう動く………?
 早くも分裂しかかっている腹心たちの動向に、獣王は憂鬱そうに何度目かの溜息をもらした。



「クーン、あなたという人はまったく………。わたくしを滅ぼす気ですか?」
 苦悶をやり過ごしたアークは、頬に張りついた黒髪を苦笑混じりに払いのけた。
 危うい均衡の上に保たれている不死だ。とりこんだ魔族に主導権をとられれば、あとは自我を食い尽くされ、出来損ないの魔族として滅ぶだけだろう。
 先ほどは非常に危なかった。世界に奔った衝撃に撃ちぬかれ、身の(うち)の魔族が歓喜し、危うく自我を手放しかけるところだった。
 魔族と人との接点は、思いがけず多い。
 呪法による人間への干渉。逆にこちらが魔力を取りこむための食餌。憑依。同化。そして―――不死の契約。
 だが、いまは遠く星の王都にいるはずの、彼女が契約の石を託した少女が選んだ方法は、そのどれでもなく―――。
「自ら望んでの融合………。けれど、それを受け入れて覚醒した魔は変質を余儀なくされる………なぜなら、クーンはまだ世界を愛している。世界を愛するわたくしが身の裡の魔に拒まれるように、本来なら受け入れられるはずがない。もし抗いがたく受け入れてしまったら、後は変質するしかない………」
 独白し、アークはとうめいな双眸で空を仰いだ。
 なんとうつくしい晩秋の宵闇か。大気が凍りつけばつくほど、空は鮮やかに、星はきらめいて輝きを増していく。数百年前から変わることなく、世界はうつくしい。
「わたくしはただの同化。けれど、あの子は………神の遺した七つの憂い―――」
 下位魔族との人為的な同化である自分と、封印された魔王の欠片を生まれながらに抱えこんでいた彼女とでは条件が違いすぎる。封じられている魔王は、おそらくその状態では覚醒への渇望以外の意識はほとんどないはずだ。依り代自ら誘いかけてきたら、一も二もなく融合するだろう。
 ―――クーン。
 すでに滅びてしまった祖国の言葉は、アークの胸に愛おしさを溢れさせる。
 なんとうつくしい言葉だろう。なんとあの娘にふさわしい名前だろう。
 語源としては「外側」という意味だ。とりまくもの、環境、転じて―――「世界」
 即物的な身のまわりのことではなく、もっと観念的なものをあらわす言葉だ。
 突き詰めていけば、自分でないものはすべて「世界」。自己と他者の区別はそれこそ皮膚一枚だ。五感で世界を感覚して、その感覚で自己を創る。それは同時に、感覚された世界も創られているということなのだ。
 自己と世界は常に相対的であり、絶対的に隔てられているものでありながら、感覚するものである以上、表裏一体、不可分のものでもある。
 互いに影響を与え合い、変化する。
 ―――そう、まるであの娘のなかの、あの娘と赤い闇のように。

 るおおおおおぉぉぉっ!

 突如として森に湧き起こった叫びと瘴気に、アークは静かに視線を巡らせた。
「あなたがたの王は、まだ目覚めたとは言いきれませんのに………困った方々ですね」
 下生えを踏みわけ、灌木をねじ折り、森の奥から現れたのは、世界のふるえに引きずられ、歓喜に酔った亜魔族。
 無数のレッサーデーモンに囲まれながら、ふわりとアークは微笑した。いとも無邪気に、他愛なく。
 かつてリアに魔族を同化させようとしたときと何ら変わることのない、透きとおった笑みでアークはささやく。
「―――このうつくしい夜をともに過ごしましょう。夜が明けるときには、世界の歩く道は定まっていることでしょう。………ここまで歩いてきましたが、世界とともに滅びるのも、いいかもしれません」
 その言葉をかき消すように、レッサーデーモンが一斉に炎の矢を生みだした。



「いまのは―――」
 誰もが凝然として動けなかった。
 世界がふるえた。
 そうとしか言いあらわしようがなかった。
 過ぎた夏にセイルーンの結界が開いたときに感じた、下から上へ走り抜けていくような感覚ではない。そんな生易しいものではなく、何もかも薙ぎ払い死に至らしめる刃がふるわれたにも関わらず、なぜか死なずにまだ存在し続けられているような―――理由もなく背筋が凍るような、そんな強烈な違和感をともなう感覚だった。
 この感覚には憶えがある。
 二十年前。直接関わった者にもそうでない者にも、等しく訪れたあの瞬間。
「――――ッ」
 部屋から出て行きかけていたリナは、無意識のうちに胸元の呪符(タリスマン)を強く握りしめていた。
 あのとき、いちばん最後に噛み砕いた真紅に光る呪符。―――(ほう)じられているのは、スィーフィードと並ぶ、この世界のもうひとりの王。
 血の気をなくすほどきつくゼルガディスの腕をつかみ、アメリアが唇をふるわせる。
「そんな、まさか………また?」
 彼女は直接相対したことはない。一度目も、二度目も。だが、あのときやはり、セイルーンの王宮で同じふるえを感じた。あまりに嫌な予感に悲鳴すらあげられず、無言で飛び起きた夜更け。
 数年後、あの日の震撼がなんであったかをリナから聞いて、血の気がひいた。
「イヤっ、気持ち悪い。何ですかこれ………ッ」
 何も知らないアセリアが、それでも嫌な予感だけを感じて悲鳴をあげる。ユレイアは呆然と座りこんだまま動けない。
「母さま、リナさんっ、何ですかこれ。何でこんな、こんな変な―――」
 恐慌をうまく言いあらわせず、アセリアが泣きそうな顔で母親とリナを見た。アメリアはその事実がおそろしくて口に出せない。
 やがてリナがそっと息をつき、部屋のなかへと戻ってきた。
「………この世界のどこかで、たったいま、魔王が復活したわ」
 ささやきにも似た静かな答え。
 その答えが思いがけなかったのか、アセリアの顔から逆に恐れが拭われた。問うような視線が、リナの言葉を確かめるように両親へと向けられる。
 逆に、その言葉にびくりと身をふるわせたのは、彼女の双子の姉妹だった。
「嘘だ………」
 その濃紺の双眸に激しい恐怖が宿る。
「ユレイア?」
「嘘だ。だって―――」
 顔を歪め、ユレイアは両手で耳を塞いだ。耳を塞げばその音から、事実から、逃れられるとでもいうように。
「嘘だ。だって、この音。この音は………!」
 ユレイアには唱えることのできない最強の黒魔法。しかし、詠唱だけは知っている。そうだ。途中まで記譜しかけていて、止めて―――。
 歯の根があわぬほどふるえ、何かに恐怖しているユレイアの顔を気遣わしげに覗きこんだアセリアが、不意に息を呑んだ。
「………まさか。ユア、まさか」
「違う! 違う違う! そんなはずないっ。そんなはずないんだ!」
 ユレイアは激しく首をふる。
 そうだ。そんなはずはない。そんな馬鹿なことがあるはずが。なぜ、ティルトもユズハもこの場にいないのだ。どうして、いますぐに自分が考えたことを否定して、疑惑を晴らしてくれないのだ。ティルトなら、ユズハなら、すぐに違うと言ってくれる。真実を見抜くティルトなら。だれよりも彼女の近くにいるユズハなら―――。
 ティルトはもとより遅刻だが、ユズハは先刻、彼女の名を叫んで突然消えてしまった。
 王宮にいるはずなのに、なぜかどこにも姿が見あたらない彼女。自分たちをここに呼び集めておきながら、どこに消えてしまったのか。捜しに行ったユズハは、後から来るとの伝言を携えてひとり帰ってきた。王宮に残ると告げたはずなのに、なぜ行き違うようにして家に戻っているのか。
 あまりに噛みあわない彼女の行動に、リナも両親も皆一様に顔をしかめ、独自に動こうとしていた矢先のことだった。
 何もかもが、警鐘となって響き渡る。
「ユレイア、どうした。だいじょうぶか」
 己を案じてくれる大人たちを直視できず、ユレイアは傍らのアセリアにすがりついた。彼女を受けとめた双子の姉妹は、どこか呆然とした顔で同じ顔をしたユレイアを見返した。
「ねえ、ユレイア。まさか昨日、わたしたちが聞いたのは―――」
 どうしても何の音か思いだすことができなかった、彼と彼女に共通していた魔力波動。
「違う。違うから言わないで! 私の勘違いだ。全部、私の思い違いだからっ。セア、お願い。言わないで、言葉にしないで………!」
 口にしたら、世界が壊れてしまう。いまから訪れる夜が明けなくなってしまう。
 だが幼子が無邪気に疑問を口にするように、アセリア自身にも止めることができずに、その呟きは唇からこぼれ、音となって鼓膜をふるわせた。
「クーン姉さまと、ゼフィアさん、なの?」
 記憶の蓋が開き、思考をおおっていた(もや)は吹き払われた。
 明瞭になった意識に、真っ先に飛びこんできた事実は―――。
「あの二人が、魔王なの………?」
 息を呑んだのはリナたち四人のうちの誰なのか、もはやわからない。
 ユレイアは声にならない悲鳴をあげた。