ハチミツ日記 (ハニー・メモリーズ)

【アセリア・ユレイア、共に5歳―――】

 アセリアとユレイアが泣きながらアメリアのもとにすっ飛んできたのは、よく晴れたうららかな午後のことだった。
 泣く双子に懇願されて子ども部屋まで赴いたアメリアは戸口で開口一番、一喝した。
「何の騒ぎですかっッ! ユズハっ !?」
 アメリアの大喝に、チョコレート色の大きな猫と組んずほぐれつしていたユズハの動きが一瞬止まる。
 しかし問題は、ユズハの動きは止まったが、相手の動きは止まらなかったということだった。


 ズシャ―――!


 隙を逃さず放たれた見事な攻撃が、ユズハの頬にキレイな三本線を付けた。
 時が止まった。
 ユズハは本来ならば精神生命体。とっくみあいをしている体も物質界に具現させた一部でしかない。
 しかしその具現には年季が入っている。もうかれこれ十年は過ぎていた。
 だから頬についた三本線にもきちんと綺麗な赤い色が付けられている。それはいい。傷も付かないというのは、ハーフエルフという建前上問題がある。
 しかし、頬を引っ掻かれたユズハは何の反応もしなかった。痛そうな顔も、怒った顔も。
 爪攻撃の後、すばやく距離を取った猫は背中の毛を逆立てて唸ると、ソファの影に頭を突っこんだ。何事かとアメリアが見ているうちにそこから仔猫を一匹くわえて引っぱりだすと、素早く窓の外へと消える。
 見事な逃げっぷりだった。
 ユズハは静かだ。
 やがてぽつりと言った。
ス」
「ダメですッ!」
 心の底からそう叫び、アメリアは部屋のなかに駆けこんだ。
「待ちなさいユズハっ、ダメですダメですきゃーっ !?」
 セイルーン王宮で何度目かわからない小火騒ぎが起きた。



 公務用のドレスの裾が少し焦げ臭いような気がする。
 いや、それとも己の髪からだろうか。
 日の傾いた午後、アメリアは何度目になるかわからない説教を懇々とユズハに繰り返していた。
「いいですか、何もないところでいきなり火をつけちゃいけないとあれほど―――」
「ネコが悪イ!」
 珍しく強硬にユズハが主張し、ぶんぶんと首を勢いよく横にふった。
「ネコが悪イったら悪イ」
 ユズハがネコと呼ぶのは、茶色の毛並みをした、やたらと貫禄のあるあの雌猫しかいない。つきあいの長い白い雄猫にはオルハという名がついているし、オルハとこの茶色の猫の間に生まれた仔猫三匹には、それぞれクレハ・ユキハ・ラァと名前が付いている。
 アメリアはあの人外のもの同士のとっくみあいの原因をまだ聞いていないことに、遅まきながら気づいた。
「原因は何なんです」
「ユズハがクレハを食べようとしたんです!」
 横から口をはさんできたのは、顔を真っ赤にしたアセリアだった。
 口をはさんできたのはともかく、内容にいちじるしく問題がある。
「………はあ?」
「ユズハがわるいです。クレハを食べようとしたんですから、お母さんねこがおこるのはあたりまえですっ!」
 母親譲りの茶色の毛並みをした仔猫の名前がクレハで、名付け親はアセリア。先ほど母親がくわえて逃げだしていった仔猫がそうだった。
「………待ちなさい、アセリア。なんでユズハが猫を食べるんですか。食べていいものといけないものの区別はついてるはずです………一応」
 一応、とつくあたり、根本的に信用できないものがあるのも確かなのだが。
「食べてナイ。生きてイルのは食べられナイ」
 淡々とユズハが首をふって否定する。続いての発言にも色々問題はあるのだが、出逢った当初にそう教え込んだのはアメリアなので、これについては文句も言えない。あと、「これは食べ物だ」と言われたもの以外は食べないようにとも教えはしたが。
 ユズハの否定にアセリアはますます顔を赤くした。
「だって、ほんとに食べようとしました! かみついたじゃないですか!」
 さすがに聞き捨てならない発言が飛びだした。ユズハが食べることと喋ること以外に口を使っているのは見たことがない。
 またもユズハは淡々と首をふる。
「噛んでナイ」
「かみました!」
「違ウ」
「うそつきっ」
 アセリアの口から飛びだした言葉に、慌ててアメリアは娘の口を塞いだ。ユズハの言動に裏表はない。嘘をつくということと、言ったことを疑われるということの二つはユズハにとって理解不能の現象なのだ。このうえ娘にまで怒りが飛び火されては困る。言葉通りの飛び火だ。
「アセリア、ユズハは嘘なんか言いませんよ。わかっているでしょう?」
「だってっ!」
「いいからいまちょっと外に出てなさい。ユズハにはわたしから話があります」
 双子を追い出すと、アメリアはユズハに向きなおった。
「ユズハ、あなたいったい何しようとしたんです?」
「ネコもしてル」
「ですから、何をです」
「くわえて運ブ。正しイ、ねこの運び方」
 アメリアはそのまま床にのめりこみそうになった。
 何がどうしてああなったのか理解してしまい、しばらく卓上に突っ伏したままだった。
「………だれからそんなこと聞いたんです?」
「くーん」
 思わずリアを恨みそうになってしまったが、リアは悪くない。たぶん、ユズハに聞かれて、ごく当たり前のことをごく普通に答えたのだろう。
 ユズハの耳にそれが届いてからの解釈の仕方がいちじるしく問題なのだった。
「で、クーンにそれを聞いたあなたは、実際にそれをやろうと思ったんですか?」
「手で持つ、正しくナイ」
 言って、ユズハは無表情なりに不満げに唇を尖らせた。
「なのに、やっタら、ネコ怒っタ」
「………そりゃ怒ります。ユズハにクレハが食べられてると思ったんですよ」
「食べてナイ。口の中がもしゃもしゃしタ、けど」
「もしゃもしゃ………」
 うん。するだろう。たしかに。
 げっそりした顔でアメリアはこめかみを指で押さえて揉んだ。
 出逢ってから十年以上も面倒を見てきているが、いまだにどこかに抜け落ちている知識があるのが困りものだった。
「いいですか、ユズハ」
「ン?」
「仔猫をくわえて運ぶのは、母親の猫だけです。両手があるわたしたちはやっちゃいけません」
 ユズハは言われたことを理解しようと神妙に首を傾げている。
「あなた、前にもオルハにオーブを放り投げたでしょう。そのときもオルハの肉球じゃ物は受け止められないって言いませんでしたか?」
「ン、聞いタ」
「母親の猫が仔猫をくわえて運ぶのは、猫の手足じゃ仔猫を持って運べないからです。わかりましたか?」
「………わかっタ。手で持つ」
 神妙な顔でユズハは頷いた。
 後日アメリアが見かけたときには、手で持つのもやめたらしく、いったいどういう妥協案をひねりだしたものか頭の上に乗せていた。
 なるほど頭か、とアメリアはひそかに感心していたのだが、どうやらその頭は小さすぎて安定が悪いらしく、仔猫は必死の形相で頭に爪をたてていた。
 乗るというよりもしがみついているという感じであるが、爪を立てられても元より精神生命体のユズハは特に痛そうなそぶりもなく、そのまま帽子よろしく猫を乗せて歩き回っている。
 そのうち強制的に乗せられた乗り物の無謀な動きに耐えきれず、爪が外れてぺちょりとふり落とされた仔猫はちょうどユズハと揉めた双子のようにもの哀しく鳴きはじめ、やはりそこに駆けつけてくるアメリアのごとくやってきた母猫に「いわんこっちゃない」という顔をされて、ひょいとくわえられて連れ去られていく。
(こ、これは何の縮図ですか………)
 見ているうちに、アメリアは何だか頭痛がしてきた。 
 とりあえず、強く生きてほしいとだけ祈っておいた。


 猫は元気に雄々しく育ち、そのうち二匹でタッグを組んでユズハに喧嘩をしかけるまでになったが、どうも母親の貫禄にはいまひとつ足りず、ここいちばんというときで負けてしまうようである。
 ―――ユズハの頭の上に物を乗せるクセは、しばらく治らなかった。





【双子・ティルト、共に4歳―――】

 お茶の時間になっても、アメリアとゼルガディスはそれぞれの仕事が片づかなかった。
 双子の他に、今日はティルトも加わって一緒にお茶の時間を過ごしたのはいいものの、何となく互いの執務室に戻る気が起きず、そのままお茶のテーブルを使って差し向かいで仕事をすることになった。
 お互い黙々と手と目を動かす。
 時々顔を上げ、ふっと表情をなごませることもあれば、呼びかけて意見を求めたり、質問をしたりする。
 たまにはこんなのも悪くない。
 お茶をすませた子どもたちはユズハと一緒に元気よくどこかに遊びにいってしまった。リアは今日は来ていない。父親と街へ出かけたらしい。たまには子守をしない日があってもいいだろう。たいがいリアが双子とティルトとユズハの面倒を見て一緒に遊び、大事がないようにしてくれている。
 お目付役がいないぶん、ユズハとティルトが調子に乗りそうだが、そこは双子が抑えにかかる。もっとも、あまり抑止力にはならず、逆に引きずられてしまうのだが。
 今日はあまり遠くへは行っていないらしく、ここまで歓声が聞こえていた。
 ふと、庭側から聞こえていた声が途切れ、回廊側で復活する。
 廊下は走らないようにと言い聞かせているが、あまり守られた試しがない。楽しそうにはしゃぐ声が徐々にこの部屋まで近づいてくる。
 そのことには二人とも気づいていたが、そのまま顔をあげることなく、それぞれ書類に目を通していた。
 やがて子どもたちがぱたぱたと扉の前の廊下を走り抜けていく。
「たんにゃぱー♪」
「はんにゃぱー♪」
「にゃんだばー♪」
「ぶんだばー♪」
『しゃばだばー♪』
 二人の手が同時に止まった。
 顔をあげて視線を交わす。
「え、ええっと………?」
「何か、聞こえはしたが………」
 ユズハ、ユレイア、アセリア、ティルト、最後は全員一斉だったような気が。
 二人して沈黙してしまったのち、先に書類に視線を戻したのはアメリアだった。
 何やら嫌な予感を覚えつつもゼルガディスも仕事に戻る。
 やがて今度は逆方向から廊下を走る音が聞こえ、やはり何かを歌いながら扉の向こうを駆け抜けていく。
「にょんがー♪」
「みょんがー♪」
「しょうがー♪」
「まじんがー♪」
『ももんがー♪』
 再びセイルーン夫妻の手が止まった。
 今度は顔も上げず、互いに微動だにしない。
「えっと………」
「おれは何も聞かなかった」
「いえ………そうじゃなくて。いまのあの子たちの遊びで思いだしたんですけど、セイルーン王宮には幾つか怖い話とかが伝わってて」
「は?」
 ゼルガディスは唖然として顔を上げたが、アメリアはそのまま喋り続けた。
「そのなかのひとつに、ただ走る幽霊ってのがあって。たぶん戦時中の伝令兵の幽霊じゃないかという話なんですけど」
「…………」
「王宮を東から西に一直線に横断していくだけなんですけど、壁とか無視して走っていくんですよ。でもって、その直線の通り道にたまたま下仕えの住み込み部屋が一列に並んでて」
 アメリアが語っているあいだにも逆方向に抜けていった足音と歓声は、折り返して三度こちらへと近づきつつある。
「おかげで、毎晩ある特定の時刻になると、東の部屋から順番に悲鳴があがっていって、いちばん西の部屋まであがって止むんです」
 怖いかもしれないが、それよりもはるかに何かがおかしい。
 あまりの馬鹿馬鹿しさに、ゼルガディスはむしろ感心してしまった。
「いまもするのか?」
「いえ」
「じゃあ、呪文で浄化なりなんなりしたのか」
「いいえ」
 ぱたぱたと軽い足音。
 よほど楽しいらしく、ユズハ以外の三人のはしゃぎ声がする。おそらく最初のユズハが何か言いだすのを待っているのだろう。
 アメリアは先を続けた。
「噂を聞きつけた父さんがですね、ならばこのワシがその霊の無念を晴らしてみせようと、いちばん西の部屋で待ち受けて」
 ………ゼルガディスは、何だかオチを聞かないほうが良いような気がしてきた。
「その幽霊が壁を抜け出して現れでた瞬間に」
「うにょーん♪」
「ご苦労だった。報告せよ、と言ったんですよ。その途端にですね」
「ぱひょーん♪」
「幽霊は直立不動の姿勢で敬礼してですね」
「おろろーん♪」
「こう言ったんです」
「けろよーん♪」
「うにょろ〜ん―――」
『うにょろ〜ん♪』


 二人は無言で顔を横に向け、扉を見た。
 しばし、間があく。


「「………… !?」」
 二人はほぼ同時に立ちあがり、慌ただしく扉の外へ出た。
「待ちなさい、ユズハ!」
「待たんか、アセリア、ユレイア!」



 駆け回る子ども四人を苦労して捕まえ、事の真偽を問いただしたのだが、知らない知らないと首を横にふられ、双子とティルトは揃ってユズハを指さした。
「ユズハにおしえてもらったんだ」「です」「だもん」
 三つの指を突きつけられ、アメリアとゼルガディスの疑惑の視線を向けられたユズハは、無表情に小首を傾げて言った。
「よるれヒほ〜、が、良かっタ?」
 違う問題はそこじゃないとセイルーン夫婦が脱力から立ち直る前に、大喜びした双子とティルトがやろうやろうと騒ぎだし、止める間もなく駆けだしていってしまった。
「………読書ふみ始めの時期を早めましょう」
「………なんなら明日からでもかまわんぞ」
「ええ、これ以上変な言葉を覚える前に」
 アメリアとゼルガディスは互いの顔に同じ決心を見いだして、固く頷いた。
 ちなみに、伝令兵の幽霊が残した言葉はいまでも謎の伝令として語り継がれている。





【双子0歳8ヶ月、ティルト0歳11ヶ月、リア6歳―――】

 約半年ほど前まで、セイルーン王宮には存在しなかった用途の部屋がある。
 それが何かといえば、何のことはない。ただの子ども部屋だ。子どもがいなければ用意されない部屋だし、最年少の王族であったアメリアが子どもだったのも、もう何年も前の話になる。
 長らく存在しなかったその部屋が久しぶりに用意されたのは、今年に入ってからのことだ。
 春先に誕生した双子の王女はすくすくと元気に育っている。



 秋の日射しで溢れる子ども部屋の扉が開いた。
 椅子に座っていたゼルガディスは顔だけをそちらに向けたが、立ったままで特製の揺りかごを覗きこんでいたアメリアとリナは、体を起こして来訪者を出迎える。
 入ってきた相手を見るなり、リナの眉が跳ねあがった。
「まーたリアを甘やかしてッ! たかだかここまで来るのに何で歩かせないのよ!」
「だって、病み上がりじゃないか」
「それは三ヶ月も前の話でしょうがっ」
 開口一番で叱られたガウリイが、口をへの字に曲げた。腕のなかには六歳になるリアがちょこんと収まっている。
 この歳にもなればいい加減抱っこはご卒業のはずなのだが、ガウリイが大柄なせいでまだまだ居心地良く座れているようだった。
「あんたが甘やかすと体力が戻らないじゃないの!」
「疲れさせて、また熱を出したらどうするんだ」
「だから、うちらが泊まってる部屋からここまで歩いてくるぐらいで疲れたりなんか」
「だって、病み上がりで体力がないんだぞ」
「うあーっ、このメビウスくらげっ」
 リナが唸りながら盛大に頭を抱えた。
 両親の口論などものともせず、リアは父親の腕のなかで室内をきょろきょろと見回していたが、やがてアメリアとゼルガディスの姿と、二人のあいだにある大きな揺りかごを見つけて顔を輝かせた。
「、メリアさーん。ゼルさん、おひさしぶりです。おりるーうー」
 微妙に発音がおかしかったが、もはやこの場の全員は聞き慣れていて気にしない。
 たいてい、リアの気が急いているときにこのような発音になった。「ア」音を言ったつもりで母音の脱落が起きており、音が詰まってこのような聞こえ方になっているのだ。当の本人はきちんと言っているつもりなので、名前を呼ぶ前に「ア」音分の微妙な間があるのはご愛敬。大きくなればなおるだろう。
 降りたがって暴れ出したリアをガウリイが慌てて床に立たせてやると、途端に走りだす。
 アメリアは相好を崩して、駆け寄ってきた親友の娘をかがんで抱き止めた。
「はい、お久しぶりです。お見舞いにもいけないくてごめんなさいね。さみしくなかったですか?」
「ううん、平気」
 アメリアとゼルガディスにとっては三ヶ月ぶりに会うリアだった。
 三ヶ月ほど前といえば、双子はいちばん神経を使う時期を脱してようやっと離乳食を食べはじめ、ティルトははいはいし始めて目が離せなくなっていた頃だ。そんな時にリアが原因不明の高熱で枕から頭が上がらなくなったため、生まれたばかりの王女たちへの感染症を怖れた魔法医たちによって、アメリアとゼルガディスは顔を見に行くことすら許されなかった。
 リナとガウリイにも、まだ抵抗力の弱い赤ん坊であるティルトがいて、つきっきりではあったものの二人揃って娘の傍にはいられなかった。
 いまでは頬の血色も元に戻ってきているが、こうして抱いているとまだ少し体重が軽いような気がして、アメリアは少しそれが気になった。
 しかし、当のリアは至って元気に首をふる。
「ユズハがいたから、さみしくなかったよ」
「うむ、イタ」
 ガウリイの後に続いて部屋に入ってきていたユズハが、おもむろに挙手をして頷いた。
「こいつがずっと一緒というのも不安ではあるんだが………」
 小さく呟かれたその声を聞きつけ、リアはぱっとアメリアから離れた。ゼルガディスのもとまで小走りにやって来くると、組まれて床から浮いているほうの足に両手で思い切り抱きつく。
「こんにちはー」
「………足に抱きつくんじゃない、足に」
「じゃ、だっこ」
「…………お前は出逢ったときから言うことが変わらんな。ガウリイにやってもらえ」
「父さんは、さっきしたの。リアがいいっていったのにしたから、次はゼルさん」
 娘の発言に母親がじろりと父親を見た。父親は頬をかいて視線を泳がせている。
「それに」
 リアは唇を尖らせて、己の背より上にある脚の高い揺りかごを指さした。
「だっこしてくれないと、見れない。ユアとセア」
「浮けばヨイ」
「れびてーしょん?」
 ユズハの言葉に、リアが背後をふり返った。肩までの金髪は母親譲りのクセが出てきたらしく、終わりの方がふわふわと巻いている。
 とことこと隣までやってきたユズハがふわりと浮きあがって揺りかごのなかを覗きこんだため、負けじとリアも呪文を唱えようとする。
 慌てたのは周囲の大人たちだった。
 リアの原因不明の高熱を、リナはあまりに高い魔力容量が体に見合っていないせいではないかと仮説を立てていた。立証はされていないが、どちらにしろ子どもにむやみやたらに魔力を使わせるなど冗談ではない。
「ゼルガディスさんっ!」
 アメリアが叫んで、ゼルガディスが無言でリアを抱きあげた。
「ほら、これでいいだろう」
「わあい」
 リアは嬉々として揺りかごのなかを覗きこんだ。
 揺りかごというより小さな寝台に近いそのなかでは、八ヶ月になる双子が仲良く並んで眠っていた。おそろいの服を着ていて、裾の刺繍の色が違う。右が濃い青で、左が薄い青の色糸。
 眠っている今は、そっくり同じに見えて区別がつかない。
 どっちがどっちだったっけ?
 だが、双子の区別よりも、リアにとっては遙かに重大な問題があった。
 リアは困惑したように双子から視線を外し、正面にいるアメリアを見あげた。
「なんだか、とっても大きくなってるんだけど」
「赤ちゃんですから、すぐに大きくなっちゃうんですよ」
「ちょっと会わなかっただけなのに………」
 病気でずっと寝ていたことを思いだしたのか、リアの顔が翳った。
 慌てたアメリアが慰めようとしたとき、不意に双子が揃ってぱちりと目を開いた。
 おかげで唇から出かかったアメリアの言葉は急停止し、驚いたリアも息を殺して揺りかごを見つめる。
 アセリアとユレイアは、以前見たときは目の色がそっくり同じだったのが、いまではユレイアのほうが多少青みが濃くなっていた。
 双子でも、何もかもそっくりというわけじゃないんだー。
 リアが感心しているうちに、双子は覗きこんでくるリアとその背後のゼルガディスを見つけ、その視線を固定させていた。寝起きにしては珍しく泣きもせず、代わりにこちらに向かって楽しそうに笑いかけてくる。
 途端にリアの顔が笑顔になった。
「うわぁ、おはよう。ユアもセアもおっきくなったねー、リアのことおぼえてる?」
 差し出した手が、もみじのような手にきゅっと握り返されるにいたっては、真紅の瞳がきらきら輝いた。
「ちっちゃーい。かわいい。かわいいー。うわぁ、すごーい。アメリアさん、二人ともとってもかわいいねー!」
 本当に嬉しくて仕方がないらしいリアの笑顔に、揺りかごを挟んで正面に立っていたアメリアのほうがよろめいた。
「あああ………リナさんっ! じゃなくて、リナ! リア、可愛すぎですうううっ! ああ何て勿体ないっ。三ヶ月も会わなかったなんてッ」
「あんたね………」
 とりすがられたリナは半眼で親友を睨んだが、ユズハにくいくいと服を引っ張られてそちらをふり向いた。
「どうしたの、ユズハ?」
「てぃるも、起きタ」
「ええ?」
 慌ててリアが息子を寝かせてある長椅子を見ると、たしかにティルトが目を開けている。
 開けてはいるのだが、ぽ〜っと虚空を見たままだ。
 リナが腕を組んで、溜息混じりに呟いた。
「いつものことだけど。この子、何か問題あるのかしら。このぐらいの頃からリアは片言しゃべってたんだけど」
「でも、こういうことって個人差がありますから」
「う〜ん、くらげ決定かなぁ………」
「おーい、そりゃどういう意味だ?」
 情けない声を出した人物は言わずもがな。
 弟が起きたと聞いて、ゼルガディスの腕から下りたリアは長椅子に走り寄ったが、すぐに困惑した顔で母親をふり返った。
「母さん。ティル、目をあけたままねてるよー」
「起きてる起きてる」
 リナがぱたぱた手をふって否定する。
「ほんと? ほんとにティル、おきてるの? おねえちゃんだよ」
 リアがまわりこんで顔を覗きこんだが、ティルトはことんと首を傾げたものの、それだけで後は反応がない。
 何だか頭が重そうだなぁとリアはどうでもいいことを思った。
「いないいないばあでもしてみたらどうだ?」
 ガウリイに言われてやったものの、やっぱりぽ〜っとしている。
 背後の揺りかごから、つかまり立ちした双子がそれぞれ両親に抱きあげられてこちらへとやってきた。
 一緒にやってきたユズハがリアの服の裾を引っ張って、己の方へと注意を向けさせる。
「なに、ユズハ?」
「いまのナニ?」
「なにって………いないいないばあだよ」
「イナイイナイ婆?」
「………ユズハ、なんかヘンだよ?」
「だって、いま、りあ、そう言っタ」
「うん、そう言ったけど………いないいないばあ、だけど………」
 リアは納得がいかない様子で首を傾げたが、ユズハに説明を求められて、相変わらずぽ〜っとしたままのティルトの前でそれを解説してやった。
 二人はちょうど今頃が見た目が同じぐらいの時期で、また持ち前の色彩も似通っているため、こうやって並ぶと差異すらも調和した双子の人形のように見えた。容姿もそれぞれずば抜けているから、大変目に心地良い。
 並んで立っている二人を眺め、アメリアがうっとりと溜息をついた。
「眼福ですねぇ………あたたたたアセリア、髪はダメです髪は」
「あうー」
 アメリアが髪を引っ張られているあいだにどう話がまとまったのか、リアがユズハに場所を譲り、横へと回りこんだ。変わってユズハがティルトの正面に立つ。
 どうやら実践してみるらしい。
 ユレイアを抱いているゼルガディスが、怪訝そうな顔でアメリアに問うた。
「ユズハは意図がわかってやっているのか?」
「どうですかね」
「どうってお前………」
 呆れて何か言いかけたゼルガディスの言葉を遮ったのは、割れ鐘のような泣き声だった。
 先ほどまで起きているのかすら怪しかったティルトが大泣きしている。
 おまけにティルトが泣きだしたことにびっくりしたのか、続いて双子も泣きだした。子ども部屋全体が大変な喧噪に包まれ、大人たちは必死で子どもたちをあやしなだめる。
 腕の中の大音量にうろたえ、危うく娘を取り落としかけたゼルガディスから、リナが素早くユレイアを抱きとった。
「ゼル。あんた、いいかげん慣れなさいよね」
「ムリだ………」
 何やらげっそりしながらゼルガディスが首を横にふる。
 赤ん坊に三人揃って泣かれ、耳を塞ぎたくなるほど喧しい部屋のなかで、不思議と良く通るユズハの声がした。
「えっと………泣いタ」
「見りゃわかるッ!」
 ゼルガディスの声に泣きやみかけていたアセリアがまた泣きだす。思い切りゼルガディスがうろたえた。
 アメリアが軽くゼルガディスを睨み、続いてユズハに視線を移した。
「ユズハ、あなたいったいどんな顔したんですか」
「どんなっテ………」
「ダメえっ!」
 突然リアがユズハの顔面に向かってクッションを投げつけたため、問題の形相を大人たちが目にすることはできなかった。
 リアの暴挙に全員が凍りつくなか、クッションがぼとりと床に落ちる。
「泣くっ。もういちどやったらリアも泣くからダメっ」
 リアは涙目で必死の形相だった。
 クッションとキスするはめになったユズハだが、怒りもせず淡々と首を傾げた。
「なんで、りあが泣ク?」
「だってこわかったよ! 泣くよ!」
「泣かせルんじゃ、ナイの?」
「ちがうよ! 笑わせるんだよ!」
 どうやら根本的な誤解があったようである。
 ユズハはしばらく考えこんでいたが、やがてまた首を傾げた。
「何デ、笑わせルのに、こんなコトすル?」
 言うなり、ふわりと浮いてガウリイの腕に抱かれたティルトの前まで来ると、ユズハはにっこり笑った。
 滅多に見ないユズハの笑顔に部屋中が固まるなか、ぴたりとティルトが泣きやんだ。
 そして、一拍おいて笑いだす。
「笑えば、笑ウ。うむ。簡単」
 何のことはないとばかりにユズハが言い、リナたち四人は一気に脱力しかかった。
 確実に何かが根本的にズレているのだが、うまくそのズレを説明できそうにない。
「………ユズハには何か別の教育が必要かもしれません」
「以前、いきなり医学書一冊丸投げしたヤツがいうセリフか………?」
「だって男女の性差を聞かれて、あなたちゃんと答えられます?」
「…………」
「今度は育児書ですかね」
「読んでもたぶん泣かせると思うぞ」
「…………」
 二人は同時に溜息をついた。



 やがて泣きやみ、絨毯の上にお座りして積み木で遊びはじめた双子とティルトに付き合って、リアは一緒に遊んでやった。
 両親たちは少し離れた長椅子でお茶を飲んでいる。
 一緒の目線で遊びたくて、行儀が悪いことを承知で絨毯の上に寝そべって肘をついた。
 すぐ目の前に弟の顔がある。
 まだ色が薄くて柔らかそうなその髪は金茶に見えたし、その隣りにいる双子の髪は薄墨色に見えた。三人とも多少色は違うが目は青い。
 自分とは違う色の髪と目をした弟と、妹みたいな女の子二人。一度に三人も弟と妹ができるなんて、自分は何て幸せなんだろう。
 こちらを見あげて無防備に笑う顔に、リアも笑い返した。そうすると、ますます嬉しそうに声をたてて笑う。
 はいはいしてこちらに近づいてきた弟をきゅっと抱きしめて、リアはその頬に自分の頬をぴったりとつけた。甘いミルクの匂いがする。
「リアがまもるね」
 自分がお姉ちゃんだ。
 本当に嬉しくて、リアは呟いた。
「ずっとリアが、まもってあげるね」


 それはひどく懐かしい記憶だ。
 秋の日射しで色づいた、蜂蜜色の記憶たち。