Ria and Yuzuha's story :Interlude 2 【月晶光】 前編
いままでずっと上手くやってきた。
だからこれからもだいじょうぶ。
言い聞かせて彼女は目を閉じる。
ほんの少しずつズレていく歯車に気づかずにいた。
春先の不安定な大気は、目には見えないぶん、他の感覚に働きかけてくる要素が多いような気がする。
今もどこか遠くで雷の音がした。
「クーンの様子が変だと思いませんか?」
「いンや、別ニ」
身も蓋もなく断言されて、彼は問いかけたことをなかば後悔した。
窓辺に置かれたテーブルの上にはやりかけのチェス。それを脇に避けて肘をつき、窓から飛びこんでくる外の音を聞いているのが質問者で、ベッドのシーツに顎をうずめて気怠そうにしているのが回答者だった。
話題となっている人物は当然ながら、いまこの部屋にはいない。
今朝、夕方までには戻ってくると告げて、ふらりとどこかに行ってしまった。
止める理由もなかったので行かせたが、ふと気になったので訊いてみたら、これである。
幼い声音が淡々と告げる。
「変ナノは、前から、ダし」
「あなたも変ですけどね」
ゼフィアは呆れて、短く吐息をもらした。
以前の逗留地だったサイラーグを発ってから、まだ一週間ほどしか経っていない。旅の行程には大きな街道を使っているので回り道が多く、それほど距離も稼いでいなかった。
地図を見ることのできないゼフィアだが、宿で行き合う旅人たちに裏街道を使ったときの所要日数を聞けば、途方もない迂回をさせているような気になり、ときどき溜め息をつきたくなる。
しかし謝るようなことではないし、逆にそうしたら怒られるだろう。
ゼフィア自身、そこまで引け目を感じているわけではない。こういうときには礼を言うものだと知っている。
前にいたサイラーグでは、あまり大きな騒ぎにはならなかったが色々あった。懐かしい再会をし、それにともなってゼフィア自身にも心境の変化を促す決断があった。リアの方でも色々あったらしい。
問題はそれだ。
サイラーグを発ってから、どうもリアの様子がおかしい。
もちろん表情の変化などは目の見えないゼフィアにわかるわけはないが、溜め息の数や不自然な沈黙、挙動などは伝わってくる。
ユズハの挙動にいちいち文句を言わなくなったというのもある。以前はユズハが何かするたびに声をはりあげて叱っていたのだが、いまでは無関心に近い。もしかするとユズハの数々の奇行が眼中に入っていないのかもしれなかった。
何より、いちばん変化があったのは―――
「ゼフィ、ユズハはそっちにいる?」
なめらかな声と軽いノックの音がして、リアが扉を開けて部屋に入ってきた。
ブーツが床にあたる固い音。ユズハの姿を見つけて、その音が途中で止まる。
「いた。どこいったのかと思ったらこんなところにいたのね」
「ゆずはは、ずっとココにイル。いないのは、そっち」
ユズハの淡々とした声音は、決まった旋律をくり返す規則正しいオルゴールの音にも似ている。
「どこに行ってたんです?」
「ちょっと外をぶらついていただけよ」
「息が少しあがってますね。そして―――」
ゼフィアは少し間をおいて、それから続けた。
「まだちょっと気がたっているでしょう? 特有の気配がします」
リアが驚いて、軽く息を呑んだ。
「やだ、わかるの?」
「わかります。殺気だっている人の気配というのは独特ですよ」
「あたし、殺気だってなんかいないわよ」
少し拗ねたようにリアが反論した。
「何をしてきたんです?」
ゼフィアにそうたたみかけられて、リアは言葉を濁した。
「ん、ちょっと。近くに剣術道場があったから、飛び入り参加で相手してもらってきただけよ」
「またですか」
ゼフィアは呆れて言った。
いちばん変化があったことといえば―――
「鍛錬もほどほどにしたほうがいいと思いますけれど」
剣の稽古と称して外に出て行く時間が増えたことではないだろうか。
ゼフィアにはリアが実際に剣の稽古をしているのかどうか確認するすべはないが、少なくともそういう口実を設けてリアが頻繁に外出しているのは事実だ。
リアの腕前は並みを遙かに上回るという話を、ゼフィアはサイラーグで友人のアーウィスから聞いていた。
聞いてはいたが、それがこれほど頻繁に鍛錬を行う理由とはすぐには結びつかない。
技量を保つためにこれほど練習しなければならないとしたら、以前はずっとさぼっていたことになる。
「もっと強くなりたいの。もっとよ」
くすくすと笑いながら、リアはゼフィアのところまでくると向かい側の椅子をひいて腰かけた。
「チェスの続きをする?」
「もう忘れました。やるとしたら最初からです」
「あれ、そうなの?」
リアは面白そうに小さく笑った。
どうやらまだ軽い興奮状態にあるようだ。些細なことで浮かれて笑う。
「それはわざと忘れてくれたの? それとも本当に忘れたの?」
「どういう意味です」
「だって」
テーブルの上の駒がざらりと手で崩されていく音がする。
「ゼフィの女王が王手をかけていたわ。あと三手であたしは負けていたはずよ」
「………ああ」
やっとゼフィアは思い出した。
たしかにそんな局面で勝負を中断した気がする。
「ではその続きをやりますか?」
「いやよ。剣をふりながらずっと考えていたけど、どうやっても挽回できそうにないんだもの」
「なら」
ゼフィアは微笑んだ。
「わざと忘れたことにしましょう」
「性格悪いわ」
駒を並べながらリアが笑った。
「でも、出逢ったときよりはずっといいわ」
「クーンも変わりましたね」
「あたし? どこが?」
驚いて訊ね返したあとで、リアは軽く息を吐いた。
「そうね。変わったわ。不均衡になったの」
「それはどういう意味です?」
「バランスがとれていないってこと」
「そのままですね」
ゼフィアがそう言うと、リアはしばらくのあいだ彼を睨みつけていたが、やがて視線を逸らしてうなずいた。
「そう。そのまんまの意味よ」
リアはこっそり、目の前の青年にわからない程度に溜め息をつく。
見えないからこそ、見てほしくないところを見られているようだ。
その布に隠されて見えない目―――。
顔の半分以上の面積が隠されているため、ゼフィアの印象はひどく曖昧だ。彼から離れて、いざ彼のことを記憶の引き出しから取り出そうとすると、どうしても顔以外のことしか出てこない。
もっとも強く印象に残るのは、その銀色の髪だ。
銀のなかでも色がきつく、鏡のように光を反射する金属光沢を帯びている。光に縁取られるゼフィアは、とても綺麗だ。
その次が手だ。
指が長く、骨張った手をしている。薬剤の調合などの繊細な作業を的確にこなすことのできる手だ。目の見えない彼が物の輪郭をたどってその存在を確かめる指の動きは、なめらかでいつまでも見ていたくなる。
これまでに何度か、ゼフィアの手をひいて先を促すことがあったが、指先がリアの革手袋に包まれた手のひらに触れると、そこを起点として熱が広がっていくような気分にさせられた。
布の奥の眸は、どんな色をしているのだろう。
そんなことを考えながらリアは静かすぎるベッドを怪訝に思い、目をやった。
「―――ユズハ?」
白いシーツに埋もれるようにしてうつ伏せている幼女は、目を閉じたまま返事をしない。
そうやって目を閉じて動かないでいると本当にただの精巧な人形のようだ。
「………寝てしまいましたか?」
ゼフィアの言葉にリアは首をふって、それからその行為は意味のないことに気づいて声に出した。
「あたしが寝てないのにユズハが寝るわけないのよ」
ゼフィアには何のことだかわからないようだったが、それ以上の説明をせずにリアは再びユズハの名を呼んだ。
光を弾く薄い色の睫毛が揺れて、奥から朱橙の瞳があらわれる。
「ナニ、呼んダ?」
「さっきから呼んでるわよ」
「ウソ」
起きあがってベッドの上に両足を投げ出して座りこんだユズハが、珍しく頬をふくらませて唇を尖らせた。
「聞いてナイ」
「呼んだわよ!」
「イヤ、呼んでナイ」
「ああもうッ、ゼフィ、あたしちゃんとユズハの名前呼んだわよね! 聞いてたわよね !?」
「え、ええ………」
ゼフィアがそう答えると、ユズハはジッと彼を凝視したあと、無表情でうなずいた。
「わかっタ。呼んダ」
「………何だってそう微妙に悔しそうなの、あんたは」
「そんなコトはナイ、ぞよ」
そう言って、ユズハは再び気怠そうにベッドの上に寝そべった。
「ユズハ、あんた調子悪いの?」
何気なくそう問いかけた後でリアは、しまったと思う。
ユズハに調子が悪いも何もない。
慌てて何か適当な言葉を探す。
「じゃなくて、魔力が足りないとか?」
「だからいったいどういう存在なんですか合成獣ってのは」
ゼフィアが憮然とした口調で突っこんだが、リアにだって説明できない。魔道は途中で囓るのをやめてしまったし、合成学は魔道のなかでも別体系だ。
「ユズハ?」
ぱちりとユズハがまばたきして、思い出したかのようにリアを見た。
「くーん?」
リアは本格的に眉をひそめて、窓際の椅子から立ちあがった。彼女が立ちあがったことを知ったゼフィアがその気配を追う。
「ユズハ、あんたほんとに調子悪いんじゃないの? 魔力ちゃんと補給してる?」
「してル」
寝転がったままリアを見あげながら、ユズハは不思議そうな口調で言った。
「………えと、成長期とカ?」
「なんだってあんたが成長するのッ」
「いや、イロイロと」
「だったらまず最初にそのぶつ切り大根のような口調から成長させなさい」
言って、リアはユズハを抱きあげた。何が面白いのかユズハは体の力を抜いて猫のようにびろんと伸びる。
それを見てリアは軽く息を吐いた。
「んもー、心配して損した」
手荷物よろしく小脇に抱えながら、リアは不意に顔をしかめた。
「セイルーンに行ってもだいじょうぶなのね? 結界の中心に行っても平気なの?」
「ン、平気。多分」
「最後の多分って何。思い切り不安だわそれ」
「平気」
リアの腕から逃れようとユズハが暴れ出し、仕方なく床に降ろすと、ぱたぱた走って部屋の外に消えた。
おそらくリアの部屋に戻ったのだろう。
「セイルーンに行くと、何か不都合が?」
その問いに、リアは窓の方をふり返った。
「セイルーンの街が巨大な六紡星になっているのは?」
「知っています。遠目にしか見たことはありませんが」
「あ、一応見たことはあるんだ」
窓際のテーブルまで戻ってくるとリアは椅子をひいて再び腰かけた。
カタリと鎧戸が鳴る。
寒さもだいぶゆるんできているせいか、あちこちからひっきりなしに色々な音がした。水の音や、人の声や、雷などの―――総括すると春の音と呼ばれるものだ。
リアはテーブルの上のチェス盤を見つめる。
「六紡星のセイルーンの街はひとつの巨大な結界なの。図形ってのはその形をしているだけで魔道的な力があるのよ。そこにいるだけで白魔法や精霊魔法は増幅されるし、黒魔法は圧迫される」
「それで白魔術都市というわけですか」
「そういうこと。それでユズハなんだけど。詳しいことはあたしもよく知らない」
リアはテーブルの上のチェス盤と駒を壁際によけて、両肘で頬杖をついた。
「あたしね、十八になったの」
いきなり脈絡無く年齢の話をされて、ゼフィアは面食らった。
「それでね、ユズハはあたしよりひとつ年上なのよ」
「ええ !?」
驚いた拍子に動かした手がチェスの駒にぶつかった。女王や騎士がばらばらと床の上に落ちる。
「だって、子どもでしょう? 私はよくわかりませんけれど、ミレイやアーウィスの口調からすると明らかに」
「大きくもなれるわよ。小さい頃はよく身代わり頼んだもの。そのぶん魔力も喰うらしいからあまり大きくさせられないんだけど。火球になったって話は聞いているでしょ?」
「それはアーウィスから聞きましたけど………合成獣はみんなそうなんですか?」
「いえ、ユズハが特別なの。ユズハは炎の精霊と邪妖精の合成獣らしいから」
「精霊? 精霊魔法の精霊ですか?」
「さあ。どうかしら。あたしにもそこらへんはよくわからないの。あたしも詳しいことは聞いてないから。ただ存在維持に魔力が必要なことぐらいしか知らない。それでセイルーンのことなんだけど」
あそこは歪んだ魔力は圧迫されるから―――とリアは続けた。
それを聞いて、ゼフィアはかすかに首を傾げた。そのまま体を傾けて指先で床を探り、ぶつかった駒をテーブルの上に拾いあげる。
ひとつ。ふたつ。
右斜め前に王、とリアが小さく呟いた。
彼女の声はなめらかで柔らかく、ゼフィアの耳に心地良い。
ユズハの声は硬質でよく響くが、響きよりもその平坦な声音に気を取られる。
人間ではない。合成獣だ―――とリアは言う。
しかし、声でしか相手を推し量れないゼフィアにとっては、リアもユズハも等価に存在しているものだ。―――言動と、そこから推測されるユズハの思考形態が多少おかしいのも事実だが。
「もしそうなら、セイルーンに戻るのはユズハにとって具合が悪いのでは?」
「うん。実際そうなんだけどね」
最後の駒を拾いあげてゼフィアが体を起こすと、リアは困ったように話しだした。
「でも、ユズハはずっとセイルーンで暮らしてて、それでも何とかなってきてるから。確かに、いるだけで魔力が削られていくのも事実なんだけどね。だからあたしの旅についてきたのかと最初思ったんだけど………」
物憂げにリアは呟いた。
「なんだか違うみたい」
