Ria and Yuzuha's story :Interlude 2 【月晶光】 後編

 ゼフィアにとっては音が世界の全てだ。
 もちろん他の感覚も重要だが、誰かそこに存在する人物に対して言葉を発し、言葉が返ってくるそのことが自分と世界をつなげているような気がする。
 声には多少なりとも、その人物のひととなりが現れるから、じっくり聞いていると面白い。
 リアの声は気に入っていた。そんなことを口にしたことはなかったが。
 綺麗だと誉めた覚えはあるが、気に入っていると吐露した記憶はない。―――うっかりそのうち、言ってしまいそうな気はするが。
 そう考えて、ゼフィアは開けていた窓を閉めながら思わず苦笑を浮かべた。
 結局、領域侵犯などとっくに許していたのだろう。
 でなければ、彼女の提案を呑んで遠いセイルーンまで行こうとは思わなかったはずだ。
 見たいものはどんどん増える。
 そして、見て、触れたいものが。
 それが危険な徴候だと知りながらも、ゼフィアは黙認していた。
 己の心象の変化に少し驚いていた。





 部屋のなかに、先に戻ったはずのユズハはいなかった。
「ユズハ?」
 名前を呼んでみるが当然のごとく返事はない。
 捜しに行く気力もなく、リアはそのままベッドに腰かけ、次いで寝転がった。
 しかしすぐに起きあがった。ベッドサイドにたてかけてある自分の剣が目に入ったからだ。
 手にとって重さを確かめ、滑り止めの革がまいてある握りなれた柄に触れた。
 そして、鞘を払う。
 品質がいいという点以外はごく普通のブロード・ソードだが、お世辞にも女性用とは言えない。
 おそらくリアより身長の低い母親リナは、腕の長さが足りずに剣を抜くことができないだろう。
 いったいどっちの家系に似たのか、一般の女性より高めの背丈の持ち主であるリアだからこそ、かろうじて戦闘に支障なく抜剣することができた。
 抜いて―――それからどうする。
 部屋で振り回す気か。
 ―――馬鹿らしい。
 手首を返して刃の裏表を眺めてから、リアは剣を鞘に戻した。
 そして鞘に付いた傷を見て、舌打ちする。
 街中を歩いて、ケンカを売られて―――半分ほどはこちらが売ったのだが―――買ってしまった結果だった。
 以前から、街を歩いていて柄の悪い男たちに声をかけられることはあった。
 ―――昔のほうが対応は上手かったわね。
 リアは軽く嘆息した。
 少なくとも昔は自分からケンカを売ったりはしなかった。
 これは俗に言う、荒れているという状態なのだろうか?
 自問自答して、恐らくそうなのだろうという、嬉しくない結論に達する。
 それは一見、不安を解消するように見えて、実は不安を助長させる行為だ。
 元の場所に戻した剣を見つめる。
(練習相手がほしいな………)
 もう少しサイラーグに滞在して、アーウィスに相手をしてもらえばよかった。
 そう思って、リアは自分のその考えを否定した。
 彼には―――核を見られていた。
 不安の核。
 発芽する寸前の心の種子。
 それを見られた相手と剣を交えたくなくて、リアは早々にサイラーグを発ったのだ。
 リアは目を閉じる。
 いつものような、感情をなかば無意識のうちに制御している自分に戻らなければ。
 家族は聡い。何かあればすぐに気がつく。
 特に弟は思考を飛躍させて瞬く間に結論へとたどりつくだろう。―――逆に、永遠に結論に達しない可能性もあったが。
 物心ついたときから、防御を巡らしてきたのだ。
 うまくいかないはずはない。
 発生した感情は、全て表に発散する。
 何も残してはいけない。
 心に淀みを作ってはいけない。
 目を逸らしてはいけない。
 見失ってしまうから。
 気づかれてはいけない。
 このままずっと。
 ―――いったい、何から?
(決まってるわ)
 リアは目を開けた。



 ユズハは屋根の上で虚空をる。
 そこにあるのはかつては己自身であり、いままで己の一部であり、そしていま己でなくなろうとしているものだった。
 以前から徴候はあった。
「サヨナラ」
 口に出して、ユズハは手をふった。
 別れの挨拶はそうするのだと、昔、『りあ』に教わった。
「ゆずは・は、ゆずは」
 朱橙の瞳には何かが見えているようで、その実、なんの像も映りこんでいない。
 さっきまでは確かに何か映っていたのに。
「ゆずは・は、ゆずはにしか、なれナイ。もう、戻れナイ」
 月が、いつの間にか顔を出している。
 ユズハが思い出しているものは、かつて見たことのある石鹸の泡だった。
 頼りなく、すぐに消える、いくつもの虹色の集合体。
 白い塊の石鹸がどうして全然違う泡になって、おまけに小さくなっていくのだろう。
 理屈を誰かから教えられた気はするが、よく覚えていなかった。
「ゆずは・は、ゆずはにナル」
 時の流れには逆らわない。
 ありのままが自分のままだ。
 だから何の感情もなく、ユズハは呟いた。
「サヨナラ。精霊タチ」



 夕食の後、リアは剣を持って庭に出てきた。
 月明かりのなかで無心に剣をふる。
 まだ空気は冷たく鼻を刺すが、真冬のように乾燥しきってはいなく、ふりおろす剣先は水の粒子を断って、空気の断層を生んでいるような気にさせる。
 しばらく素振りを続けたあとで、彼女はふうと大きく息を吐くと、剣を片手に持ったまま目を半眼にしてたたずんだ。
 しばらくそのまま動かない。
 不意に―――動いた。
 その剣の動かしかたはさっきまでの素振りとは全く違う。明らかに、何かと戦っている動きだった。
 引く。薙ぐ。見えない相手の剣の柄を絡め取るように根元まですりあげて、離れる。
 動きは間断なくなめらかに続く。
 そうしているうちに、その動きがみるみるうちに劣勢のもの変わった。
 かざし、受け止め、有り得ない力を脇へ流す。
 想像訓練のなかでも負けるとは、よほど想定した相手は強いらしい。
 ヒュッという鋭い音に紛れて、かすかな息づかいがここまで届いてくる。
 剣の切っ先が月の光を弾いて美しい軌道を描く、リアを中心に振られるそれは幾つもの弧を描いて重なり、無限に続く。
 流れるような動きで塀のところまで来たリアは不意に―――軽々と跳んだ。
 魔皇霊斬アストラルヴァインの赫い輝きと、それをまとった銀の刃が月の光に煌めき、
 一瞬、目があって、それから。
 ゼロスがいままでいた位置を、一筋の閃光が薙いでいた。



 地面に着地したリアは剣を鞘に収めると、改めて満月を背にした屋根の上の人影を仰いだ。
 そして、これ以上はないくらいに極上の笑顔を浮かべる。
「初めまして。獣神官ゼロス」
「おや」
 リアの挨拶にゼロスは細い目をいっそう細めて笑う。
「初対面なのに名前を知っているとは不思議な話もあったものですねぇ―――リア=インバースさん?」
「ええ、お互い不思議な話もあったものね」
 リアは普段はガブリエフ姓を名乗っている。魔道士協会などに用があるときのみインバース姓だ。名乗るときも間にクーンをはさむ。そのままでは母親の名前と聞き間違えられるからだ。
 ゼロスの嫌がらせにリアはわずかに顔をしかめたが、すぐににっこりと笑顔を作る。
 魔族の紫闇の目が心持ち光ったような気がした。
「初対面の挨拶にしては、ずいぶんと乱暴ですが」
 挑発されているのを承知で、リアは臆面もなく答えてみせた。
「どうせあなたには虫に刺されたほどにも感じないんでしょ?」
「さりげなく魔皇霊斬がかかっていたような気がしますけど」
 リアはますます笑ってみせる。
「それは乙女のタシナミということで」
 魔族、神族を含めた世界の成り立ちに関しての知識は、リナから完璧に譲り受けている。逢ったことがないだけで、ゼロスに対しても同様だ。
 魔王に仕える五人の腹心のうちの、獣王ゼラス=メタリオムのただひとりの獣神官。
 母親の言葉を借りるなら、この世で最も会いたくない知り合いというところか。
(本当に母さん、いったい若い頃なにやってたのよ?)
 ゼロスが自分の目の前に出てきたことでもあるし、セイルーンに帰ったら母親に絶対問いただしてやろうとリアは心に決めた。
「だれを相手にして戦っていたんです。ガウリイさんですか?」
 問いながら、ゼロスが屋根からふわりと地に降り立った。
 リアの顔から作った笑顔が消える。
「………あんたには関係ないでしょ」
「いえ、ちょっとした好奇心です。ゼルガディスさんですか?」
 リアは思いきり眉間に皺を刻んだ。
「教える理由も必要もないわ」
「それもそうですね」
 警戒心を全面に押し出して、リアは慎重に問いかけた。
「で、高位魔族があたしに何の用よ。言っとくけど、あたしは母さんから何も聞いてないわよ」
「おや、そうなんですか。下手な伝承歌より面白いですよ」
「あたしもそう思う。今度聞いてみることにするわ。でもあたしには関係ないでしょ」
「おやおや」
 月明かりのなかたたずんだ黒衣の僧侶は、ますますその笑みを深くした。
「いけません。リナさんに続いて面白い方ですねぇ。うっかり、ここに来た用事を忘れるところでしたよ」
「いいから忘れてなさい」
 リアは剣の柄に手を触れる。
 それを気にした様子もなく、ゼロスは続けた。
「口頭で失礼しますよ」
「いったい何を失礼するっていうのよ?」
「招待状です」
 かすかな空間の唸りと共に、ゼロスの姿が消える。
 焦ったリアはあたりに視線を奔らせた。
「―――宴の仕度はととのいました」
(上 !?)
 ふり仰いだ視線の先、月明かりを背に濃く、黒く、輪郭が浮かびあがっている。
 ひどく不吉な予感を覚える光景だ。
 とろけるような黄金の月。
 そして、影。
「あとは主賓の到着を待つばかりです」
 ゼロスの持つ杖が東を指さした。
 東―――リアたちの旅の行く先。
「なるべく早くお越しください。白亜の六紡星の街へ―――そこの」
 ゼロスの視線がリアを逸れ、屋根の真横へと向かう。
「―――合成獣と共に」
「ユズハ !?」
 愕然としてリアはその視線の先を仰いだ。
 いつからそこに。
 朱橙の瞳が、二つの輝く灯火のように夜の闇に浮かんだ。
 ゼロスは笑ってそれと相対する。
 しばし見つめ合ったあとで、ゼロスは笑みを浮かべたまま一礼した。
「では、お待ちしていますよ」
「行かなかったら、どうなるわけ?」
 リアの言葉は間に合わず、礼の形のままゼロスの姿は闇に融けた。
 やがて、風に紛れて問の答えのみが返ってくる。
(それは秘密です………)
「お得意のはぐらかしってわけ………」
 リアは視線をユズハに転じた。
「なんであんたそんなとこにいるのよ?」
 ユズハはしばらく何かを追って視線をさまよわせていたが、リアに問われて彼女に視線を戻した。
「見てタ」
「何を?」
「見えなくなっタ、ものを」
 相変わらずユズハの言っていることは理解できなかったが、いまだけはリアが理解しなければいけない真実を告げているような気がした。
「ユズハ………あんたさっきのと知り合い?」
「イヤ、カケラも」
「だったら、なんでさっきの魔族はあんたのことを………」
 言いかけて、リアは言葉を途切れさせた。
 ユズハの髪が夜風に一筋、二筋、舞う。
 月夜に似合わない色彩を以て、その瞳が炯々と輝いた。
 どこか遠い自分が、自分に対してささやいた。
 知らない―――。
 こんなユズハは、知らない。
 真円の月が目に入った。


   どくん。


 鼓動が異常な勢いではねあがる。
 ―――予定外ッ。
 リアは心臓をきつく抑えこんだ。
 いまここでこんな現象が起こるのは全くの予定外で、予想外だ。
 なんて脈絡というものがないのだろう。
 身を二つに折って、リアは歯を食いしばった。
(アーク―――)
 胸元の、託された契約の石を手のなかに強く握りこんで、目を閉じる。
(あたしは、だいじょうぶだよね?)
 完全なる拒絶と。
 適度な懐柔。
 飼い慣らさなければならない。
 永遠に。
「くーん」
 ユズハの声がどこか遠く、わずらわしかった。
 いまは話しかけないでほしい。
 ただの音の羅列にしか聞こえない。
 異常な鼓動は徐々におさまってきた。顎を伝う冷や汗をリアはぎこちなく手で拭う。
 今度は、鼓動の代わりにその手がふるえだした。
 それを止めようともう片方の手で押さえると、ふるえはますますひどくなり、終いにはからだ全体にふるえが奔り止まらなくなる。
 リアはその場にしゃがみこんだ。
 歯がカチカチと鳴った。
 それにあわせて目の前で星が散っているような気がする。
(―――どうしよう)
 こんな寒いところで意識が遠のくのはまずいなと、思考の片隅で考える。
 頭は妙に冷えていた。
 震えているのは誰だろう。
 振るえているのは世界だろう。
 やがて振り切れてしまうその時まで。
 スッと目の前が暗くなった。



 頬をはたかれて、リアは意識を取り戻した。
 姿勢は斜めで、何かにもたれかかっていたが、そのもたれかかっているもの自体が不安定だった。おそらく抱き起こされているのだろう。
 そこまで思考が働いたところで、リアは目を開けた。
 一瞬、銀色の月が二つ浮かんでいるのだと思った。
「………め、きれいね」
「なに呑気なことを言っているんですかあなたは !?」
 容赦なく怒鳴られて、リアはひとつまばたきをした。
「こんなところで倒れていると風邪じゃすみません。悪くすると死にますよ」
 とりあえず、リアは思い浮かんだ疑問を口に出した。
「………なんでここにいるの」
「ユズハが呼びにきました」
 憮然とした口調でゼフィアはそう言った。
 結われていない髪が無造作に肩をおおっている。
 銀の髪。
 ―――そして銀の瞳。
 リアはまた訊ねた。
「布、どうしたの」
「寝るところだったんです」
 ますます憮然とした答えが返ってきた。
 リアは何だかおかしくなって、少し笑った。
「それはごめんなさい」
「立てますか?」
「平気よ」
 ゆっくりとリアは立ちあがった。
「庭で倒れていた原因は何です?」
「貧血………かな」
「剣士としての健康管理がなっていませんね」
 にこりともせずにゼフィアは答えた。
 そのが真っ直ぐにリアを見ている。
「そういうことにしておいて」
 そう言うと、ゼフィアは呆れた表情をした。
 リアは、目隠しの布をしたままの彼の今と同じ表情を記憶のなかから取り出して、目の前の彼と重ねてみた。
 ちゃんと重なる。
 いつも、布の下でこんな顔をしているんだな、と思った。
「あたしが、見える?」
 ―――我ながら馬鹿なことを訊いている。
「ものの影としてなら」
 ゼフィアは笑った。
「みんな、ぼやけていますよ」
「…………そう」
 訊いてはいけないことだったかもしれない。
「どうしよう………」
 呟くと同時に、リアの視界も急速にぼやけていった。
 それは彼の視界とは違って、光を多分に含んだ世界だった。
 ろくでもない招待状を受け取ったことを思い出す。
(あたしのせいで)
(きっと誰かが死んでしまう)
 頭のなかはその不吉な予感だけでいっぱいだった。
 リアは手で顔をおおった。
「ユズハ………どこ?」
「ココに、イル」
 少し離れたところに立っていたユズハを見つけて、リアはささやいた。
「セイルーンに帰らなきゃ………」
 それもできる限り、可能な限り、急いで。
 ユズハの短い承諾が返ってくる。
 ようやくリアは頬を拭った。
 不意にゼフィアがその顔にやった濡れた手をとる。
「声を出さずに泣くのは、クーンの癖ですか」
 リアは一瞬、息を止めた。
「………そうよ」
「悪い癖ですね」
「そうでもないわ」
 彼が怪訝な顔をする。
「わかる人にはわかってしまうの………」
 リアは見えないと知りつつも笑いかけた。
「だから、あまり意味がない癖なのよ」
 ゼフィアがわずかに目を細めてリアを見た。
 見えていないとわかっていても、それを疑ってしまいそうなほどに透明で綺麗な目をしている。
 ぎんいろのめ。
「戻りましょう。もう、倒れたりしないわ。………ありがとう」
 言いながら、リアは虚空に決意をこめて視線を投げた。


 まきこんだりするものか。
 ―――絶対に。