SLAYERS on Ice 〔4〕
リンクへ姿を現した二人を会場は大きな拍手で出迎えたが、すぐにそれはまばらなものになった。
代わりに戸惑いが広がっていく。
二人。たしかに二人だ。
ひとりは確かに名前をコールされたリナ=インバース選手。
だが、もうひとりは先ほど出番を終えたはずの男子シングル銀メダリストの、ゼルガディス=グレイワーズ選手である。
名前を呼ばれたガウリイ=ガブリエフ選手は?
場内の疑問をよそに、リナとゼルガディスはリンクの中央までやってくると、少し距離を置いて向かい合い、それぞれ手にしていた剣を構えた。
余裕の表情のリナに対して、ゼルガディスは曲が始まる前からすでに肩で息をする演技をしている―――そして戸惑いをはらんだまま、エキシビジョンは始まった。
流れだした曲は、先刻ゼルガディスが披露したプログラム曲。
リナとゼルガディスが剣を交わす。
ひらりと鮮やかに剣を操るリナのステップとは逆に、ゼルガディスはひどい大振りで、軽くあしらわれてはトウを使ったステップでつんのめり、どちらが優勢かは誰の目にもあきらか。
何がなんだかわからないうちに、とりあえず観客の視線はリンクへと集中した。
やがて数合の打ち合いの後、ひときわ大きな曲の盛りあがりにあわせて、リナの突きがゼルガディスの剣を高く弾きとばす。
がっくりと膝をつくゼルガディス。対するリナは相手にならないわ、という表情で剣をおさめるパントマイムをして生あくび。
曲はいつのまにかフェードしており―――そこに、三人目が姿を現した。
会場がざわつく。
満を持して登場した三人目は、ゼルガディスの傍らまでやってくると慰めるように肩を叩いた。顔をあげたゼルガディスに同情するそぶりで首を横にふると、次に笑いながら、オレに任せておけよと自身を親指で示す。
「これは……どういう演出なんでしょうか」
笑いをこらえたエスタリーのコメントが流れ、それが聞こえないはずの会場内にも忍び笑いが漏れはじめる。
どうやら、銀メダリスト選手の協力のもと繰り広げられた贅沢な前フリだったらしい。
ようやく理解のいった観客のあいだにくすくす笑いが広がるなか、膝の埃を払う仕草をしながらゼルガディスが立ちあがる。
腰に手をあてて偉そうにふんぞり返っている小さなリナを見て、遠目からもわかるほど大きな溜息をついてみせると、こらえきれない笑いがあちこちで弾けた。
ゼルガディスは剣を拾ってガウリイに渡すと、つきあってられんとばかりに肩をすくめリンクの外へと去っていく。
思いがけないサプライズをもたらしてくれたその背中に向かって、客席から拍手が送られた。ふりかえらずに彼が軽く片手をあげると、より大きな拍手。
「そういえば、グレイワーズ選手のエキシビジョンプログラムは騎士の決闘を題材にした映画のテーマ曲でしたね」
「衣装まで白く変えて………彼もつきあいがいいねえ」
エスタリーの身も蓋もないコメントに、フォローを入れたはずのシルフィールは返答に窮する。
しかしツッコミを入れつつも、彼はおのれの職務といつものノリを忘れていなかった。
「さあ、剣士グレイワーズにあっさり勝利し、向かうところ敵なしといった様子の剣士リナ=インバースですが、そこに剣士ガウリイの登場です。果たしてこの二人はどんな決闘を見せてくれるのでしょうか―――曲は、先日リメイク公開されたばかりのファンタジー映画『レッドソニア』より」
しん………と、あらためて氷上が緊張と静寂に張りつめる。
そして、重厚な金管楽器がリンクを満たした。ふたつの剣がまるで楽器の一部のように、高らかに打ち鳴らされる。
いままでほとんど最初の位置から動いていなかったリナが、ガウリイとともにすべりはじめた。
リンク中央から端と端にわかれ、対称的なカーブを描き、徐々に距離をとりスピードにのっていく。互いの衣装が風に乱され激しくはためく。
リナは濃い緑のシャツの上からオペラピンクを基調とした衣装を身にまとっていた。前開きの裾からは、クリーム色のアンダースカートをのぞかせている。白いロンググローブに、揃いのニーハイブーツ風のフットカバー。競技中はアップにしている髪は下ろされ、動きの邪魔にならないようにサイドを流して耳を出し、黒いヘアバンドで押さえていた。
ガウリイはというと、アイスブルーのゆったりしたドレスシャツに紺色のズボン、ロングブーツ風のフットカバーといった出で立ちで、どことなく騎士風だ。男子にしては長めの髪は、いつものように後ろでひとつに編んでまとめている。
二人とも両手には銀色に光る細身の剣。
いったん離れた二人は、みるみるうちに距離を詰めると、スピードにのったまま互いに剣を打ち合わせた。空気の唸りと甲高い金属音。刃がすべり、根本でがきりと噛み合う。剣の柄に隠れて互いの手をからめあうと、そこを支点にぶつかりあった力の方向を回転へ変えてのペアスピン。
ぐるぐる回る鍔迫り合いを表現したスケートに、場内が一気にわいた。
だがやがてスピンはほどけ、鍔迫り合いに競り負けたと思しきリナが盛大に転ぶ。
息を呑む音があちこちで聞こえた。―――あのリナ=インバースが転んだ!
だがすぐに起きあがったリナは再びガウリイに挑む。そしてあしらわれて、また転ぶ。
どうやらわざと転んでいるらしいと気づき、観客はほっと胸をなでおろした。エキシビジョンとはいえ、演じている最中の選手が転ぶことほど心臓に悪いことはない。
氷の上でエッジをうまく使って大きくよろけて見せているのは、今度はゼルガディスではなくリナのほうだった。彼を軽くあしらったリナだが、ガウリイには相手にされない。ガウリイのほうが強いのだ。彼女はムキになって地団太を踏む。観客席からは笑いが漏れはじめた。
そのうち、くるくる回ったり、手をふったり、リナは笑いをとりながら転びはじめた。客席がどっと湧く。
だが、あまりにすっ転ぶリナを見かねたのか、とうとう彼が彼女に手をさしのべて引き起こした。
その手にひかれ、リナがくるりとターンし姿勢を変える。対峙から、相手へ背中を預ける形へ。―――それが鮮やかな合図。
リナの剣に背後からガウリイが手を添えた。彼女が彼を見あげると、彼も彼女を見る。視線がからみ、曲調が変わる。
二人は再び一緒にすべりだした。今度は並んで。
それまで実力差のある剣の勝負を、わざと不揃いな技で演じていた二人は、それが嘘のようななめらかなスケーティングで揃って剣の稽古をはじめた。
基本はサイド・バイ・サイド。ペアですべる二人のスケーターが隣りあった位置で同じ技を行う。二人の距離が近ければ近いほど危険性と難易度が高くなるが、二人は影のように寄り添いながら、互いの剣を重ねる。
腕を伸ばし、刃を交差させたままのペアアラベスク。そこから流れるように少し距離をとると剣を持ったままのスピン。
長物を胸元に抱えているため、単純なアップライトスピンで速度も速くはない。だが、回転はリナとガウリイで逆だ。
逆回転は非常に珍しい。えっ? と観客が面食らっているうちに、ふたりはスピンをほどくとその回転の勢いのまま剣をないだ。高らかに金属音。それから互いの剣に弾かれるようにまた逆回転でスピンをすると、再びの剣戟。
剣の音があらかじめ音楽のなかに仕込まれているとわかっていても、実際に刃を交わしているかのようなぴったりと合った演技に、場内の雰囲気がワクワクしたものへと変わってくる。徐々に高まっていく興奮の水位は、競技もエキシビジョンも変わらない。
次は? その次の演技は、技は? いま氷の上にいる選手はいったいどんなスケートを見せてくれるのか? 最後にはどこにたどりつくのか?
緊張と興奮がからまりあって、会場内を満たしていく。
ここまでの演技は、通常のエキシビジョンプログラムからも、いつもの二人のスケートからもはずれた少し風変わりなものだ。アイスダンスとペアを折半したような動きだが、互いの接触度はより少ない。ストーリーを持っているところはアイスショーに近い。
とても興味深いプログラムだが、この二人が得意とするのはなんといってもジャンプだ。いつになったら剣を置いて、十八番のジャンプを見せてくれるのだろうか。
いくらエキシビジョンが道具の使用は自由といっても、ほとんどの選手が技を披露する段階になると、道具をおいたり、リンク脇に預けてからすべりだす。普段と違うものを持っていたり、両手がふさがっていたりすると、バランスがとれなくてすべりづらいから当然だ。
リナは道具をよく使う選手で、帽子やら何やら持ったままジャンプを跳んだみせることも多いが、今回はさすがに物が物だ。
いったい、いつ剣を置きに行くのだろう―――
観客の思いをよそに、二人は剣を手にしたままスケートを続ける。剣がその手にあるだけで、スピンもスパイラルもツイズルも、いつもとまったく違った表情を見せている。
そして、ジャンプも―――
並んで滑走するふたりは徐々にスピードをあげると、まさか、と愕然としている場内を後目に、剣を持ったままダブルアクセルをひょいと跳んだ。
踏切から回転、着氷まで、ペアスケートのお手本のような見事なユニゾンのサイド・バイ・サイド。
「と、跳んだよ………!」
エスタリーの叫びとシルフィールの絶句が、イヤホン越しに伝わってきた。
(なにやってるんですか、あなたたちはー!?)
シルフィールの無言の悲鳴が聞こえてくるようだった。
「っか〜、相変わらずむちゃくちゃやりやがるぜあの二人」
ミリーナの傍らで、ワンセグ中継のイヤホンを分けあっているルークも、呆れた口調で悪態をつく。
その呟きを聞き流しつつ、無言で彼女はイヤホンの位置を直した。
本来、会場内に実況と解説は聞こえないのだが、シルフィールの解説が聞きたかったため、ライブ中継をワンセグで拾い、音声だけを聞いている。
傍目からは、まったく表情を変えずに淡々と彼らの演技を見ているミリーナだったが、イヤホン越しのかつてのライバルの心境には、心の底から同意したい気分だった。
ダブルアクセルそれ自体は、跳べる選手は多い。競技で上位に入るほとんどの選手が習得しているといってもいい。
だがそれをサイド・バイ・サイドで完璧なユニゾン、しかも手に剣を持ったまま、となると全く話は違ってくる。はっきりいって正気の沙汰ではない。
「ペアでもねえくせに、スピンからジャンプから全部、動きがきっちし揃ってるっておかしいだろ」
「それはいまに始まったことじゃないわ」
ミリーナは小さく答え、氷の上の二人を目で追った。
観客の度肝を抜いたダブルアクセルを皮切りに、演技はジャンプパートへ入ったようだ。シングルからダブルまで次々と跳んではそのたびに歓声と拍手があがる。
さすがにトリプルは跳ばないようだが、二人とも競技ではトリプルを基本にクアドすら跳ぶ選手だ、ダブルだとゆったりと宙を舞っているような錯覚すら起きる。そして着氷と同時に手にした剣がきらめき、空気を裂いて唸る。
「どこが脚に負担のないプログラムなんだっつーの。たしかにリフトとスローは入ってないが、やってるこたとんでもねえだろーがよ……」
「脚の調子はよさそうね。よかったわ」
あのとき血塗れだった彼の脚を思いだし、ミリーナはその記憶にわずかに目を細めた。
一年前の冬季オリンピック。男子シングルのフリーと女子シングルのショートを翌日に控えた夜半のことだった。
立ち尽くすリナ。その小柄な体を背に庇い、不自然な姿勢で膝をついているガウリイ。足下の床には血痕。さらにその正面には血に濡れた刃物をかまえた第三者―――などという、とんでもない場面に行きあったのが、ルークとミリーナの二人だった。
部外者の登場に犯人は逃走。血の気の多いルークが後を追いかけていったものの逃げられ、ミリーナはその場で選手村の医療スタッフを呼んだ。
リナは表情の抜け落ちた顔でガウリイを見下ろしていた。彼女が動けず何もしなかった、ということ自体が異常なことであり、あれほど狼狽したリナを見たのは初めてだった。それまであまり立ち入った会話をしたことがなく、リナ個人について表面的なことしか知らなかったミリーナは、この一件でその印象がだいぶ変わった。
警備が厳しいはずの選手村での事件に大会本部も選手たちも騒然となったが、それでもすったもんだのすえに予定通り翌日に競技は行われた。思えば、それも少しおかしなことだったのだ。
ガウリイはもちろんフリーを棄権。そして出場を断行したリナはショートプログラムで転倒し、三位。
事件の詳細は伏せられていたため、滅多に転ばないリナの転倒に会場には衝撃がはしった。金メダルの最有力候補がリナだったが、これでわからなくなった。
ショートプログラム一位のシェーラとの点差は約五点。
リナは唇を引き結んだまま、インタビューに一言も答えようとしなかった。
―――そして迎えたフリープログラム。リナは、最終滑走だった。
事前の六分間練習のときから、ひどく静かな鬼気をまとっていたリナの演技はすさまじいものだった。すでに滑走を終えていたシルフィールが圧倒されて、口元を両手でおおっていたのをミリーナはよく憶えている。
たったひとりのスケートが空間そのものを完璧にその支配下に置く―――過去多くの選手と観客が語ってきた奇跡のような四分間。それは確かにその時そこにあったのだ。
オルフのカルミナ・ブラーナ「おお、運命の女神よ」「運命の女神の痛手を」より、合唱なしの四分間の編曲。
リナは、最初に予定されていた四回転トゥループを転倒―――会場に大きなどよめきが走る。だがリナは以降のジャンプの構成をがらりと変え、最後の三回転ルッツを跳ぶ予定のところで、あろうことか四回転アクセルを跳んだ。ジャンプの回数違反による減点もなし。回転不足も着地のGOE判定マイナスもつかなかった。
突然目の前にたたきつけられた前人未踏の四回転に場の空気が凍りつき、その後爆発した。
結果、一度転倒したにも関わらず、上位にいたシェーラとシルフィールを逆転しての一位。
だが演技終了後のインタビューにおいて、リナが自身が受けていた脅迫からガウリイの負傷に至るまで、すべてを洗いざらいぶちまけたため大騒ぎとなり、表彰式はその日のうちに行われなかった。
自身の身の安全に加え、昨日の負傷により病院にいるガウリイの身の安全を盾に冒頭の四回転を転倒するよう、さらに重ねて脅迫されていたと告げたリナは、カメラの前で微笑した。
「約束通り、ショートもフリーも転んでやったわよ。ただし四回転を二回跳ぶなとも、四回転アクセルを跳ぶなとも脅されなかったから、跳んだわ」
―――リナ=インバースが、生きた伝説になった瞬間だった。
その笑みを見たルークが、引き攣った顔でこいつだけは敵に回したくないと呟いていたが、ミリーナもまったく同感だった。
あとのことは思いだしたくもない。
リナは世界選手権を辞退し、リハビリを行うガウリイと一緒に早々にゼフィーリアに引きこもってしまったが、残された面々はそうはいかなかった。
彼女がぶちまけた脅迫事件を皮切りに明るみとなったフィギュアスケートの不正ジャッジ疑惑は、ミリーナたちにとっても他人事ではなく、さらにこれらの不正の原因が、冬季オリンピックの競技全体で大規模な違法賭博が行われていたことよるものだと判明するに至って、ガイリア・シティの名前はスポーツ史において不名誉な形で刻まれることとなった。おそらく世界一不幸なオリンピック開催地だろう。
違法賭博の胴本として名があがったカタート社とスポンサー契約を結んでいたシェーラにも疑いの目は向けられ、結局そのままリンクを降り、その後の消息は聞かない。
もろもろの騒動が片付くころには、国際スケート連盟会長のミルガズィアはげっそりとした顔をしていた。
本当に激動の一年だった。
だからこそ、この世界選手権でガウリイが見事復帰を果たしたというのは、非常に大きな意味があるのだ。
皆、彼と彼女を待っていた。大会PRの広告塔として、リナとガウリイが「ただいまっ!」と笑顔で手をふるCMを見て、思わず涙ぐんだというファンも多い。
―――そのガウリイと言えば、氷の上で剣を片手にリナへと手を差し伸べていた。
彼女とすべる彼がどれほどやわらかい顔で演技をしているか、おそらくいちばん近くにいる当人が気づいていない。こういうのは、離れて見ているほうが逆に気づくものだ。
ルークに促され、この後のグランド・フィナーレのための準備をしながらも、ミリーナの視線は彼らを追い続ける。
剣の稽古を終えた二人は、いま一度の手合わせに挑む。
ゆるやかにリンクの端までたどりつくと、そこで距離をおいて向かいあわせに立ち、剣を手に一礼。
みたび、曲調が変化し―――二人は氷を蹴った。
ステップが始まる。ミリーナは軽く目をみはった。傍らのルークも同様だろう。イヤホンの向こうではエスタリーの絶賛の実況が聞こえてくる。コメントにまぎれて「『Red Sonia』というより『Red so Lina』ですねえ」などという、スケート連盟会長並のギャグを口走っていたような気がするが、寒いのはきっとリンク近くにいるせいだろう。
それよりも、リナとガウリイだ。
サイド・バイ・サイドのストレートラインステップ。互いに距離を保ち平行に移動しながらリンクの端から端まで、というのがその基本。
だがその動きは、揃いのシャドーではなく、左右対称のミラースケーティングだ。鏡合わせにステップを踏みながら二人は銀盤を翔け抜けていく。
剣を薙ぎ、払い、ふりおろし、束の間その軌跡が交差する。途切れなく連なる鎖のように氷に刻まれていくふたつの刃。身をひるがえす度に金の髪が弧を描き、オペラピンクの衣装の裾が花開いては蕾となり、また急激に花開く。
途中リナがハーフジャンプで軽く宙を舞うと、その足元をガウリイの剣が薙いだ。跳びあがるリナの剣がガウリイの頭上をかすめさる。互いの呼吸はぴたりとあって、一筋の乱れもない。エッジが削りだす氷の粒が、交わす刃の火花のように光を弾いて散る。
いま氷上で繰り広げられているのは、まぎれもない剣の舞踏だった。特に難しいエッジワークは入れていないはずだが、銀色に光る剣を手に体全体を使った大きな動きが華やかで、とてつもなく見栄えがする。
すでに会場は音楽が聞こえないほどの大歓声に包まれ、はやくもスタンディングオベーションが起きていた。
「なん、つーか………」
「やられたわね………おもしろいステップだわ」
蛇行するステップのラインが交差するたびに、ふたりはくるりと互いの位置を入れかえる。必然的に演技もそれぞれ右と左が逆になる。レベル自体はそれほどでもないが、左右対称であることと、それを次々と入れかわりながらこなしていることといい、ミリーナとルークにとっても簡単とはいいがたいステップだった。
だが、不可能ではない。
ルークの手がそっとミリーナの手に触れてくる。互いに視線は一瞬たりとも演技から逸らされていないが、相棒が何を言いたいかはさとっていた。
「ええ、わかっているわ」
ささやき返し、ミリーナはとうとう沈黙してしまったイヤホンを耳からはずした。
来シーズンはこのステップの要素を取り入れよう。より高難度のレベルで、まったく別の表現で。ここまでのものを本来ペアスケーターではないふたりに見せられて、黙ってひっこんでいるわけにはいかない。
ここ数年、金を独占し続け、向かうところ敵なしと言われているルークとミリーナにとって、ある意味最大の競争相手はこの男女シングル金メダリストの二人だ。
競技の種目を越えて、この二人のスケートは他の選手たちを魅了する。
実際、同じくフィナーレのために待機しているアイスダンスペアのマルチナ・ザングルス組がリンクを指さして何事か言い合っていた。
すぐ近くでは、女子シングルのアメリアも、男子シングルのゼルガディスにやはり興奮した様子で何かを訴えては辟易した表情の相手になだめられてる。おそらく自分もやりたいです! とか言いだしているのだろう。
会場全体を歓喜の渦に巻きこんで、クライマックスは近づいてくる。華やかなシンバルとティンパニの音に煽られるように、曲はよりいっそう高らかに鳴り響く。音楽とともにうち鳴らされる剣戟の音。
栗色と金髪と。それぞれの髪が激しくなびき、二筋の剣閃が鋭くはしった。
一瞬にして生みだされた静寂は―――リナの剣の切っ先をガウリイの胸元に。
そして、ガウリイの剣先をリナの首筋にあてていた。
互いに微動だにしない。剣戟が止み、音楽が止み、歓声が止んで、手拍子も止んだ。
剣を突きつける緊張が二人の体から溢れだし、潮が満ちるように会場を呑みこんでいく。
いつまでも耳から刃の残響が消えない静寂のなか、静かに剣をおろしたガウリイがリナの手をとり、そっと指先にくちづけた。
そのキスで、呪縛が解けた。
アリーナを揺るがす大歓声がわき起こった。
耳が割れるような声援と花と食べ物の雨のなか、ミリーナの傍らでルークが呆れて呟く。
「………てか、最後のアレは予告なしだろ」
「そのようね」
遠目からでもわかるほど、リナの顔は真っ赤だ。カメラのレンズにはその表情がはっきりととらえられているに違いない。これはあとあと楽しい話題を提供することになりそうだ。
だが赤面しつつ、それでもリナは挨拶を忘れていなかった。ガウリイとともに歓声に応えて手をふり、四方に礼をし、ゆるやかに退場していく。
やがて、フラワーガールたちが大量のプレゼントを何往復もしてすっかり拾いあげてもなお、そのまま鳴り響くアンコールの拍手に再度二人はリンクに登場した。昨年のエキシビジョンでも演じたアリスのプログラムの一部が披露される。
拍手は永遠に終わらないかのようにまだ打ち鳴らされている。
しかしそれでも、終わりはやってくる―――。
万雷の拍手が会場を満たすなか、不意にスポットライトが七色に激しく踊りだし、別の音楽が始まった。
ゲートが開き、今大会の上位選手が青く光透ける氷上へと次々にすべりだしていく。セイルーンの透かしが入った銀盤のうえに、とりどりの衣装の華が咲いた。
リナがアメリアと笑顔で抱き合い、ガウリイとゼルガディスの腕をとらえて手をふる。ミリーナと視線があうと、リナはふと大人びた顔で微笑した。
ミリーナの口元にも、ごく自然に笑みが浮かぶ。
さあ、行こう。次は来年のシーズンだ。
来年もまた、この冷たい舞台の上に笑顔で立てるように。
ここで生きていくことができるように。
それぞれの技を披露し、皆で手をとりあい、どの選手も観客もその思いを胸に、氷の上へ別れを告げる。
そして鮮やかに幕はおろされる。
会場ではナタリーの声が、外されたイヤホンからはエスタリーとシルフィールの声が、それぞれ軽やかに響いた。
「―――さあ、グランド・フィナーレです!」
Finished Exhibition. Presented by Slayers on Ice !
なんちゃって選手名鑑
【ルーク・ミリーナ組】
ラルティーグ代表。練習拠点はセレニアス・アリーナや、カルマートのソラリア・リンクなど。公式大会において、ここ数年メダルを独占し続けている黄金ペア。
ミリーナ選手は、以前より女子シングルの世界で活躍していた実力のある選手だが、ルーク選手は元・アイスホッケーの選手でミリーナ選手のパートナーとなるまで、フィギュアスケートの経歴はまっくの白紙という異色のペアである。十代に入ってから本格的にこの競技を始めた人物というと、他に女子シングルのアリア=アシュフォード選手の例があるが、彼女にしても姉のベル選手の影響で幼少期に競技の基礎はできており、ルーク選手のようにまったくの未経験者はめずらしい。
その未経験者がいまや、ペアの歴史を変えたとすら言われる、トップレベルのスケーターである。性格から来るものなのか、ときどき大味な部分もまだ見受けられるが、以外にもステップやスピン、つなぎの要素など、細やかなエレメントを得意とする。
このペアの最大の魅力は、高い身長と身体能力を生かしたダイナミックな演技にある。基礎的なスケーティングには定評のあるミリーナ選手と、鋭く力強い動きが持ち味のルーク選手はともに背が高く手足が長く、ペアにしては珍しくあまり身長差がない。結果として、この二人が行うスロージャンプやリフトは、身長差があるペアが全面に押し出すリズミカルさや軽やかさよりも、はるかにシャープでスピード感に溢れ、ほとんどアクロバットのようにすら見える。
技の組み合わせにも二人の個性が光り、独特な形のスパイラルやペアスピンなど、多彩な表現力もあわせ持つ。
一昨年の世界選手権の『トゥーランドット』は屈指の名プログラムと言われている。
《裏迷鑑》
シングル時代に「氷上の華」と謳われ、そのルックスと淡々とした物言いから、一種近寄り難い雰囲気を出していたミリーナ選手だが、ペアとなってもその態度に基本的な変化はない。しかしペアを組んでいるルーク選手がミリーナ選手への愛を公言してはばからず、熱烈に求愛しているのは有名で、カメラの前でもかまわず口説くルーク選手をすげなくあしらうミリーナ選手は、もはやワンシーズンに一度は見る定番の光景と化している。
そのルーク選手の求愛行動のひとつとして、もはやエキシビジョン恒例となってしまった演技後の氷上プロポーズがあるが、これは数年前の世界選手権で演技終了後に初めて行われたもので、その場でミリーナ選手からきっぱりと秒殺で断られた。しかしそれでもめげないあたりが彼のすごいところで、以後フリー演技が終了するたびにプロポーズするようになった。そのうち、フリー競技終了直後にリンク上での私的な言動は慎むように、とやんわり国際スケート連盟から注意され、エキシビジョンに場を移し、今に至る。
ミリーナ選手は徹頭徹尾迷惑そうだが、今のところそれがペアの演技に響いている様子はないので、二人の信頼関係にヒビが入るような種類のものではないらしい。
最近ではすっかりファンの間でも、ルーク選手を応援する派とミリーナ選手を応援する派に分かれて、いつかこのプロポーズが受け入れられる日が来るのだろうかと生暖かく見守る姿勢ができあがっている。
この二人がいったいどういうきっかけで出会い、ペアを組むに至ったかは、ともに口をつぐんで語らず、スケート界最大の謎とされている。
【ガウリイ=ガブリエフ】
デビュー当時はエルメキア代表だったが、国籍を移し現在はゼフィーリア。リナ=インバース選手と同じホームリンクに所属し、彼女の父親に師事する。インバース選手のコーチである彼女の姉のルナはサブコーチという区分けだが、実際はほとんど指導に差はなく、メディアではよく「同じコーチに師事」と表現される。
まるでひとふりの剣のような、高いジャンプと美しいスピンを武器とするスケーター。入り、踏切、高さ、幅、着氷と、どれも手本のように完璧なジャンプは、彼の金髪が動きによって華やかに揺れることもあり「世界一うつくしいジャンプ」と評される。高い運動能力とその長身を駆使したトップレベルのスケート技術は、他の選手の追随をゆるさない。四回転からのコンビネーションを跳ぶことのできる数少ない選手でもあり、また四回転をトゥループ、サルコウ、ルッツと三種跳ぶことのできる、フィギュアスケート史上唯一の存在である。
ジュニア時代からシニアの最初の数年にかけて―――俗にいうエルメキア時代には、冷徹とも言える無表情と機械のように精密なスケート技術から『氷の王子』『スケート・マシン』などの異名を有していた。彼のスケートが劇的に変化するのは、リナ=インバース選手がシニアデビューを果たし、彼女のスケートに大きく影響されてからのことである。ゼフィーリアに国籍ごと活動拠点を移した現在は、以前より格段に進歩した表現力と、その端正なルックスに浮かべるようになった笑顔により、さらに高い評価と多くの女性ファンを獲得するようになった。
昨年の冬季オリンピックでは金メダル最有力候補と目されていたが、暴漢に襲われたリナ=インバース選手をかばい、フリー前日に右大腿部を負傷し棄権。選手生命さえ危ぶまれるほどの大怪我に一時は引退もささやかれたが、長いリハビリ後、今季『仮面の男』で完全復活を果たした。
昨年のフリーである『ゴッドファーザー』はいまでも語り草になるほどの名プログラムであり、オリンピックの舞台でそれが見られなかったことを惜しむファンは多いが、カタート社の役員による大規模な違法賭博が明らかとなった大会で、彼の演技に不当な評価がなされなくてよかったという声もある。
《裏迷鑑》
甘いルックスと長身、その身体能力の高さから、得意のジャンプ、スピンに加え、ステップも実際よりも三割増しでうつくしく見えるとささやかれているが、真偽の程はさだかではない。
跳べる四回転の多さから、リナ=インバース選手のみが跳ぶ四回転アクセルも実は跳べるんじゃないかという当然の疑問が湧いてくるが、本人いわく「あんなこわいもん跳べない」とのこと。インバース選手がどれほど怖いもの知らずかわかるコメントである。
ほとんどメディアに露出しなかったエルメキア時代にはわからなかったが、最近のテレビへのゲスト出演などにより、リンク外ではすさまじいまでの天然ボケを発揮することが判明し、こんなキャラだったなんて! とエルメキア時代からのファンを愕然とさせている。そのボケぐあいときたら、リナ=インバース選手からの容赦ないツッコミとあわせて、もはや夫婦漫才の域。
エキシビジョンにおいては、そのリナ=インバース選手とのペア演技を披露することがあり、そのときがいちばん幸せそうな顔をしていると、もっぱらの評判である。そういう意味では国籍変更は正解だったのだろう。選手がよりよいスケート環境を求めて国籍を変える例はあるが、彼がそのことを発表した際には、エルメキアが彼一人に頼って後進の育成を怠っていた現状もあり、ファンの間でも賛否両論ちょっとした騒ぎになった。
否定派だったファンを軒並み黙らせたのが、昨年グランプリ・ファイナルのリナ=インバース選手とのエキシビジョンだったことは有名で、そういう意味で昨年のエキシビジョン・プログラムの不思議の国のアリスは伝説となっている。「この顔は反則」「卑怯」「まじヤバい」「この浮かれ帽子屋め」「あんな顔されたら認めないわけにはいかない」「国変わってよかったね」「てかお前らもういいから結婚しろ」
ネットにアップロードされたエキシビジョンの動画には、こんなコメントが弾幕のように表れるという。
