SLAYERS on Ice 〔3〕
薄暗いアリーナのなか、純白のリンクに光のプリズムが弾ける。幾つものスポットライトの輪が重なりあいながら追いかけるのは、氷の上で踊る一組の男女だ。
―――世界選手権ペア金メダル、ミリーナ・ルーク組。
赤いバンダナに黒いボディスーツ姿のルークが、同じくタイトな黒のスーツに身を包んだミリーナの長身を勢いをつけて放り投げる。
銀髪が鮮やかに弧を描いた。
他のどのペアにも真似できない、高さと距離のあるスロージャンプ。
照明が落とされた薄暗い視界をものともせず見事に着地を決めたミリーナに、会場が一気に湧いた。
「………うーん、実に見事なスロージャンプです。いや〜、本当に滞空時間が長いねえ」
エスタリーの実況の最後は、ほとんどおじさんの独り言のようになっていた。
本日の実況を担当するのはセイルーンTV所属のベテランアナウンサー、ブロード=エスタリー。
あのリナ=インバース選手を親しげに「リナちゃん」呼ばわりすることでも有名な報道関係者である。
さっぱりと軽いくだけた語り口から、重厚なナレーションまで幅広くこなすことができる人気キャスターだが、「リナちゃん」呼ばわりからもわかるように、どちらかというと前者のほうが素に近い。
先日のショートプログラムやフリーのときまでは、きちんと真面目に実況を行っていたのだが、なんといっても本日は世界選手権最終日のエキシビジョン。ファンと選手のための最後のお祭りである。解放感からか、彼の口調もだんだんと普段の軽いものへシフトしつつあった。
「ええ、そうですね」
実況というより感想めいてきたエスタリーの言動を、傍らにいる解説者は気にした様子もなく、さらりと流して相槌をうつ。
いちいち気にしていたら、このテレビ局での仕事はやってられない。
「ミリーナ・ルーク組というと、一昨年世界選手権の『トゥーランドット』をイメージされる方が多いと思うんですが、このプログラムはまるでアクション映画を見ているようで、二人の持つダイナミズムがとてもよく生かされていると思いま―――」
「―――二人揃ってのバックフリップ! これは見事です」
解説者の語尾は、またもわッとあがった歓声によってかき消された。エスタリーがすかさず実況を入れる。
解説者―――シルフィールは、言葉を途中でさえぎられても気を悪くした様子もなく、ヘッドセットの位置を軽くなおした。よくあることなので、さすがにもう慣れた。もしエスタリーがしゃべっている途中だったら、きっと逆にシルフィールがさえぎっていただろう。中継のあいだは選手の演技を中心に世界はまわる。
特に氷上でのバク転技―――バックフリップは、エキシビジョンでしか見ることができない大技だ。女子でこの技ができる選手は少なく、ペアで揃って見ることができるのは、この二人のエキシビジョンのみと言ってもいい。
ルークとミリーナが今年のエキシビジョンに選んだ曲は、人気映画『トゥームレイダー』。DVDのジャケットから抜けだしてきたような黒いボディスーツに身を包み、トレジャーハンターに扮した二人がリンクに登場すると、観客は大喜びだった。
バックフリップに続いて、二人は映画のアクションがそのままリンクに持ちこまれたような派手なリフトやスパイラルを惜しみなく披露し、さらに場内を沸かせる。
「ファンには嬉しい演出ですねえ。ペアとなってからは、シングル時代には見られなかったミリーナ選手のあらたな一面が、どんどん明らかになっていきますね」
「そうですね………彼女はシングルのときからとても丁寧なスケートをする選手でしたが、ルーク選手とペアを組んでから、より素晴らしい演技をするようになったと思います―――ツイストリフト、スピーディで素晴らしいです」
シルフィールとミリーナは、リナやアメリアたちがシニア参戦する以前―――いわゆる『一世代前』に活躍していた女子シングルのスケーターだ。
ミリーナは早い時期にルークと出逢いペアに転向したが、シルフィールはリナたちと時期を前後しつつ、昨年の世界選手権を最後に現役を引退した。現在は解説の仕事やレポーターをこなしつつ、ノービスやジュニアの選手育成にあたっている。
シングル時代のミリーナは、際だって高い得点を得られるような派手な大技こそ持っていなかったが、バリエーションは豊富で、基礎体力と体の柔軟性を生かしひとつひとつの要素を丁寧にこなすバランスのとれた選手だった。
その当時も素晴らしい選手だったが、彼女の真価はルークを得てペアスケーターとなってからだとシルフィールは思う。
高身長の彼女と、さらにその彼女よりも上背のあるルークが繰りだす、勢いのあるリフトやスピード感のあるスロージャンプは、いままで身長差があるほど良いとされていたペアスケートの世界に新風を吹きこんだ。
氷の華と謳われる彼女の淡々としたクールビューティーは相変わらずだったが、シングル時代よりも間違いなく演技が深みを増し、情感豊かなものになっている。
そしてミリーナと出会う以前はアイスホッケーの選手だったという変わった経歴を持つルークは、普段は目つきも悪いし柄も悪い、リナ=インバース選手に劣らず口も悪い―――と評判だが、リンクの上での研ぎ澄まされた表情と視線が、無言のうちにすべてを物語る。
ミリーナの均整のとれたきめ細やかな演技力に、ルークの持つ力強さとキレのある動きが合わさり、個性の違う二人は調和のとれたダイナミックな技を持つペアへと進化した。
男女ともに演技中、滅多に笑うことがないペアだが、互いに行き交う強い信頼感とそれを下地として構築される世界観の広がりは、他のペアの追随を許さない。それを観客に感じとらせるだけの力を持っている。
ここ数年、金メダルを独占し続けている当代一のスケーターだ。
華々しくフィニッシュを決めた二人に向かって、大きな拍手が送られる。
「うーん。実に見応えのある演技を見せてくれました、ミリーナ・ルーク組! ………おや? まだ何かあるようですね」
エスタリーが指摘したとおり、演技を終えた二人はあらかじめ用意しておいたらしい黒い布の袋を取ってくると、観客席に向かって中身を勢いよく投げはじめた。
「あら、どうやらトレジャーハントに成功して、財宝を手に入れたみたいですね」
場内のカメラのひとつがとらえたのは、きらきらと輝く金貨のチョコレートと小さくパッケージされた指輪型のキャンディだ。
わっと会場内が笑いに包まれ、運良く手に入れられたファンが歓声をあげる。財宝と引き替えに無数の花束が氷の上へと降り注いだ。
ルークとミリーナが珍しく笑っている。
財宝をばらまいたあとも拍手は鳴りやまず、アンコールに呼び戻された二人はフリープログラム『トリスタンとイゾルデ』の一部を披露すると、いつのまにやらエキシビジョン恒例となってしまったルークの氷上プロポーズ(ただし毎回ふられる)を行い、今度こそフィニッシュとなった。
拍手は大きく、いつまでも鳴り響いていたが、やがてそれも潮が引くように去っていく。
―――さて、次はいよいよですね。
シルフィールが手元の資料に目を落としていると、音声入力をオフにしたエスタリーが不意にデスクに頬杖をついた。
「次はいよいよあのふたりかあ……」
ほぼ独り言だったので返事をせずにいると、急に彼は話をこちらにふってきた。
「なんかさあ。ルーク選手とミリーナ選手のペアと、あのふたりって似てるよね」
手元の資料から目をあげ、シルフィールが話の先を促すとエスタリーは、そう思わない? と続けた。
「リナちゃんとガウリイくんはシングルの選手だし、一緒にすべっていてもルーク選手たちとまったく演技のタイプは違うんだけどさ。なんというか、すべってるあいだの雰囲気がね。似てるんだよねえ………」
「………そうですね」
危険度の高いエレメンツをこなさなければならないペア競技は、男女選手間の体格差や技量差以外にも、互いへの信頼関係や愛情などの精神的な要素が複雑にからみあって、そのペアの個性として表れてくる。
これらのバランスがくずれると、大怪我につながったり、そうはならずとも花形である女性選手にばかり目線が行きがちになってしまうのだが、ルークとミリーナはどちらかに視線の配分が偏ることなく、常に「二人」であることを感じさせる希有なスケートをするペアだ。
そして不思議なことに、シングルの選手であるにもかかわらず、リナとガウリイの二人にもそれを感じる。
「あの二人がペア組まないってのは、ほんと詐欺だよねえ」
毎回インタビューのたびにそのことに触れてはリナを怒らせているエスタリーだった。
シルフィールがただ苦笑していると、彼は急に真面目な顔つきになって音声入力のスイッチを入れなおした。―――そろそろ、時間だ。
「………皆様は、昨年グランプリ・ファイナルのエキシビジョンにおいて、彼と彼女が見せてくれた演技を憶えているでしょうか。我々をルイス・キャロルの不思議の国へと誘ってくれた、金メダリスト同士の夢の競演」
直接アリーナまで見に来ている観客には、このテレビ中継用の実況は聞こえていない。ただ二人の名前を呼ぶ女性アナウンス―――ナタリー嬢の声が響いているだけだ。
明るさから一転、再びスポットライトのみとなったリンクの上へ、シルフィールは視線を向ける。去年まで、あの冷たい純白の世界に自身も立っていた。
ナレーションは続く。
「あれから、一年。もう一年ということもできますし、まだ一年ということもできます。この一年間はスケートを愛する我々にとっても、彼と彼女にとっても、非常に大きな試練の一年となりました―――しかしそれでもなお、彼女は女王であり続けた。そして彼は、帰ってきた」
エスタリーの語りは独特すぎて好き嫌いがわかれるが、意外にもこの語り口調はエキシビジョンのみで、競技中はわりと真面目に実況してくれる。でなければ、元選手のシルフィールもさすがに閉口していたところだ。
テレビの前のファンに向かって、エスタリーは朗々と宣言した。
「さあ、皆様! お待たせいたしました。今大会女子シングル金メダリスト、リナ=インバース! そして同じく男子シングル金メダリスト、ガウリイ=ガブリエフ! 同じリンク、同じコーチでスケートを行う二人が、今年もまたペアでエキシビジョンをすべってくれます。果たして、今年はどんなプログラムを見せてくれるのでしょうか!」
大きな拍手とともに、ふたつの人影がリンクの上へとすべりでた。