SLAYERS on Ice 〔2〕
踏み切った時点で、軸がぶれていたのがわかった。
どうにかうまく着氷しようとしたが、エッジは氷をとらえ損ね、ゼルガディスは派手に転倒する。
「………くそ」
音楽は鳴り続けているが、すぐには起きあがる気力がわかない。彼はそのままリンクの上に仰向けに寝転がり、大きく息を吐きだした。
呼気が白く煙り、照明に照らされ消えていく。
しばらくぼんやりとそれを眺めていると、うるさいぐらい鳴り響いていた音楽が不意に途切れた。静まり返ったリンクの上に、軽やかな少女の声が降りそそいで弾ける。
「ゼルちゃん苦戦してるわねー」
「………やかましい」
聴きなれたいつもの少女の声ではないが、イヤというほど聞きおぼえはある。
「いいから早く起きなさいよ」
「わかってる」
ため息をついて、彼は氷の寝床から起きあがった。薄い手袋を通して冷たさが沁みてくる。
片耳だけはめていたワイヤレスイヤホンを抜きとりながら、ゼルガディスはリンク脇へと向かった。本体のスイッチを勝手に切ったのは当然ながらリナである。
静まり返ったリンクに、氷を削るエッジの音だけが響く。氷の上に跡を残さない吸いつくようなスケーティングが理想とされているが、ゼルガディスはこの音が嫌いではない。
リンク脇では、栗色の髪の少女がひらひらと手をふって彼を出迎えた。アリーナの外では真夏にも関わらず、ダウンジャケットにマフラーに分厚いレッグウォーマーと、もこもこに着込んでいる。とてもではないが女子シングルの五輪女王には見えない。
「シーズン開幕前に敵情視察か?」
「そんなとこ。………って、冗談よ。今日と明日はオフでね。アメリアも合わせてオフにしてくれたから、アメリアんちに泊まって一緒に買物しようってことになって。来たついでにここ寄っただけよ。この時間はあんただって聞いたから。ちなみにアメリアはいまお風呂」
「別にそんなことは訊いてない」
当然のように差しだしてくる魔法瓶のお茶を受けとり、ゼルガディスは壁の大時計に目をやった。
時計はすでに日付が変わる寸前だ。
ついでに寄るような時間ではないが、敵情視察というわけでもないだろう。そもそもリナは女子シングルで、ゼルガディスは男子シングルである。意味がない。
「休みの日までリンクに来なくていいだろうに」
「そうなんだけどね〜。なんとなく気になるというか、リンクがあるとそこに顔を出したくなるというか………」
「スケートおたくだな」
断言すると、リナはべえっと舌を出してみせた。
「悪いが、そこのジャンパーを取ってくれ」
体を動かしていないと、リンクの上は途端に冷えてくる。
上着を羽織ったゼルガディスに、リナが不思議そうに首を傾げた。
「あれ、もうすべらないの?」
「お前の話を聞いてからだ」
「どういう意味?」
「ごまかすな。いくらお前がスケートおたくだからといって、夜中に余所のリンクにまで来るか」
リナは顔をしかめ、少しだけ視線を泳がせた。
「いや別に、特に何か相談ってわけじゃないのよ? 本気であんたの練習してるとこ見てみたかったし。来てみたら同じところの四回転だけ延々コケまくってたけど」
「やかましい。いいから言え」
痛いところをつかれて、ゼルガディスの口調が尖る。
もともと彼はジャンプ系の要素が苦手だった。
加えて、レゾの指導による肉体強化でスタミナやパワー自体はあがったが、筋肉がついたことによる急激な体重の増加と、体の使いかたが変化したことにより、跳びかたも以前と変わってしまった。
しかも直後にレゾとも決別し、長くコーチに恵まれなかったため、指導を受けられずにいたあいだに、すべりかたに変な癖がついた。ここまで悪い要素が積み重なると、まともに跳べなくなって当たり前だった。自力で治そうとすると、またどこかがおかしくなるという悪循環。
自業自得ともいえたが、思うようにならない自身のスケートを呪い続けた数年間は、いまにしてみると悪夢のなかにいたようだった。
光が見えたのは四年前。招待を受けたアイスショーのイベントで偶然、リナやガウリイ、アメリアと知り合ってからだ。もともと狭いフィギュア界、お互い顔だけは知っていたが、きちんと話をしたのはあのときが初めてだった。
間近で見たリナのジャンプは衝撃だった。こんなジャンプを跳ぶ女子がいるのかと思い、ゼルガディスのなかで何かが変わった。
以降、すべるための環境を整えるために奔走し、いくつかの偶然と厚意からセイルーンへと落ちつき、いまに至る。根気よく修正を続けた現在は、新たな自分のスケートができあがっていく手応えを感じている。
三回転は安定して降りることができるようになっていた。問題は以前も苦手だった四回転だ。四回転が跳べなければ、男子は苦しい。
女子でただひとり四回転を跳ぶリナは、軽く肩をすくめた。
「ま、いいんじゃない? 男子でも三回転だけで金とった選手もいるし。ジャンプだけがスケートじゃないわよ」
「おれが跳びたいんだ」
短くそれだけを答えたゼルガディスに、リナは黙って笑った。嫌な笑いかたではなかった。
何度となくガウリイとのペア転向を話題に出されながら、リナが毎回きっぱりそれを否定するのは「自分の力だけでまだまだ好きなことをやり足りない」からだと、ゼルガディスは知っている。
リナが現役のあいだにアクセルをのぞく五種類のジャンプすべてで四回転を跳ぶ気でいるのは、ガウリイとゼルガディス、アメリアの三人しか知らない。メディアが知ったらここぞとばかりに大騒ぎするだろう。
アクセルはすでに跳び、そして封印している。それが跳ばれたのはただの二度だけ。ジュニア時代に一度。シニアになってからもう一度、五輪の舞台で怒りとともに氷を蹴ったのが最初で最後。もう跳ばないとリナは明言している。
男子でさえもいまだ後に続くものはいない四回転(クアド)を跳び、幾度も金をかっさらいながら、それでもリナはまだスケートに夢中だ。
そのスケートを見ていると、彼女が持つエネルギーにこちらまで引きずられそうになる。
いまのフィギュアスケート界を牽引している選手のひとりは、間違いなく彼女だ。
―――だが、その彼女とて悩みがないわけではない。
自信に満ち溢れた強気な言動のおかげで、メディアはついその当たり前のことを忘れがちだが、リナとて人間である。しかもまだ二十歳にもならない。
オフにアメリアのところまで遊びに来たのも、もしかするとそのことが原因なのかもしれなかった。
引く様子のないゼルガディスに、リナは慌ててぱたぱたと手をふってみせる。
「貴重な練習時間を潰す気はないわよ。時間まであんたの練習を見てから―――」
「―――それで?」
途中でさえぎりゼルガディスがうながすと、リナは口をつぐみ、軽くため息を吐いた。観念したらしい。
「実は、エキシビジョンのことなんだけど」
「は?」
思いがけない単語に、ゼルガディスは目を瞬いた。
大きな競技会において、すべての競技種目が終了したあとに行われるのが、上位入賞者たちによるエキシビジョンだ。採点も順位もなく、衣装も小道具も音楽も自由。禁止技の制限もない。これを楽しみにしている選手もファンも多く、大会を締めくくる華やかなフィナーレとなる。
リナはエキシビジョンを楽しんでいる選手のひとりだ。非常に、と付け足してもいい。毎回、趣向をこらして会場を盛りあげる。インバース選手の競技用プログラムは可愛げがない、ずっとエキシビジョンだけやってればいいのにという本末転倒な陰口も叩かれるぐらいだ。
そのリナがエキシビジョンについて悩みがあるとは驚きだが、ゼルガディスに相談を持ちかけてくるあたりで、いろいろとおかしい。
というのも、彼はあまりエキシビジョンが得意ではない。楽しく思えてきたのは、気持ちに余裕が出てきた最近のことである。
通常、エキシビジョンはシーズン開幕前にそれ専用のプログラムを用意する。最近ではシーズン開幕前にアイスショーに出演することもあるので、そちらで使用することもあり、開幕まで三ヶ月を切ったこの時期にはショートとフリー同様、すでにもう完成しているはずだ。
「ガウリイがさ、またペアのエキシビも用意しないかっていうんだけど………。ゼル、あのくらげを止めてくんない? ………って、こら! リンクに戻って行くな! 言わせたのはあんたでしょーがっ」
「勘弁してくれ………」
こんな時間にリンクまでやってきたかと思えば、ただのノロケか!
激しい脱力感にとらわれたゼルガディスに、リナは口早にまくしたてる。
「そもそも世界選手権だけの出場のくせに、エキシビジョンを二つも用意するってどういうつもりなのよ。復帰直後に優勝する気なのかってのあいつは! だいたい去年ペアでエキシビをすべったのは、イタズラ心というか、観客を驚かせようとやったわけで、毎回やると面白みもないじゃないのよ」
いや、普通にウケるんじゃないか。
ゼルガディスはそう思ったが、口には出さずに黙っていた。ノロケに付きあわされている気分だったが、リナ本人はこれがノロケだとは微塵も思っていないに違いない。
「だいたい、いままでずっとリハビリしてて、ジャンプだって一ヶ月前にやっと跳ぶようになったのよ。ペアの大技を練習するなんて無理よ!」
「それが本音か」
「え?」
ゼルガディスの短い指摘にも、リナの反応は鈍かった。
「つまり、要はガウリイが心配なだけなんだろうが」
「なっ、違………っ」
リナは顔を真っ赤にしたまま絶句した。
やれやれとゼルガディスは息を吐く。
彼女と同じコーチ、同じホームリンクに所属しているガウリイは、去年のオリンピックの開催中に大怪我を負い、手術、続くリハビリと耐えぬいて、先月やっと再び氷の上に立てるようになったばかりだ。二ヶ月後のグランプリ・シリーズの開幕までに復帰するのは難しく、ゼフィーリアに一枠用意されている世界選手権男子シングル代表として、シーズンの終了間際にのみ出場すると発表されている。
おそらく、今リナが―――自分のスケート以上に大事なものなどないはずのリナ=インバースが、それ以上に心を砕いているのが、ガウリイと彼のスケートについてだろう。彼の怪我は、彼女を庇ってのものだった。
「おれに相談する以前に、素直にガウリイに言えばすむ話だろう。足の怪我が心配だから今年はやめようと」
「だっ、なっ、だから。違……っ!」
ゼルガディスにあっさり結論を出され、リナは口を酸欠の金魚のようにぱくぱくさせた。
しばらく開閉させてから、ようやっと反論のために息を吸いこむ。ゼルガディスは反射的に手にしていたイヤホンを元通り耳につっこんだ。
「だから違うって言ってるでしょうっ! そもそもっ! 世界選手権しか出場しないってことは、仮に上位に入ったとしても、エキシビジョンをシーズン中その一回しかすべらないってことでしょうがっ。なのに二つも用意するってぇのがおかしいでしょう! それに同じことをまたやるのもおもしろくないから、あたしはイヤなの!」
「わかったわかった」
「真面目に聞いてよ!」
「聞いている」
うんざりしてゼルガディスは魔法瓶から茶をもう一杯、自分で注いだ。
たしかにリナの言い分も理解できる。
同じことを二度やるのはおもしろくないというのはさておき、ガウリイが今シーズン、世界選手権のみの出場なのは事実だし、シーズンを通して使われるエキシビジョンプログラムの出番がそのときのみになる、というのも事実だ。二つ用意してもどちらかひとつしか使わないことになる。
復帰と同時に表彰台を狙う気でいるのは、何というかまあ………充分やりかねないので、それはそれでいいが、現時点でやっとリハビリを終え、ジャンプを跳びはじめた人間がショートとフリーのプログラムを完成させ、さらにエキシビジョンを二つ、しかもうちひとつは大技を連発するペア用を用意するというのは、たしかに負担が大きいだろう。
リナが止めたがるのも無理はない。
「お前の姉貴や親父は何といってるんだ。普通はコーチが止めるだろう」
もっともなはずのゼルガディスの指摘に、リナはぶすくれた表情をした。
「姉ちゃんはおもしろがってるし、父ちゃんは呆れてる。てか、あたしが止めるだろうと思ってるみたい」
「…………」
ゼルガディスは溜息をついた。
とりあえずリナの言い分はわかった。問題はガウリイの提案の意図だが………。
(単純に、治ったからリナとすべりたいんだろうな)
それ以外ない。絶対ない。
何やら頭痛がしてきた気がして、ゼルガディスはこめかみを指で揉んだ。なんで自分がこんなことで頭を悩ませなければならないのだ。
リナの言い分はもっともなものだ。
常識的な発言をするならば、来シーズンまで待てとゼルガディスもガウリイに言ってやりたい。だが来シーズンにまた二人ですべることがあるのかと問われると、そんな確信はない。現にリナは同じことをやるのはおもしろくないと言っている。
リナとガウリイはともにシングルの選手であり、ペア選手ではない。そしてリナは、エキシビジョンやアイスショーなど一緒にすべる理由をわざわざ用意しないと、ガウリイとすべろうとしない。
シングル選手だから、それが当たり前といえば当たり前なのだが、ガウリイはといえば前年、リナとペアを組んですべったのがよほど楽しかったらしい。
お前らもういいからさっさとくっつけ! と内心で叫び、ゼルガディスは少しばかり投げやりな気分になった。
これ以上、自分が考えこんでも埒は開かない。
「―――要は、お前の説得次第ということだな。説得できなければすべるしかないだろう」
「ちょ、あまりにも無責任じゃないそれって!?」
「このことに関して、いつおれが責任を持ったんだ!」
「いま! あたしが! そう決めたのよッ!」
「決めるなっ! ったく……別に、ペアですべるからといって必ずスローやリフトをやらなきゃいけないわけじゃないだろう。これはエキシビジョンであって、競技じゃないんだぞ」
ひとまずゼルガディスは、いちばん妥当と思われる考えを口にした。
アイスダンスのようにステップを中心に見せる競技だってある。なにも相手を投げたり受けとめたり、ふりまわしたりするのだけがペアのスケートではない。
だが、そう言われたリナは、きょとんと目をしばたたいた。
意外なことにそのことに思い至らなかったらしい。
柔軟な発想をする彼女らしくもないが、ガウリイとすべること=ペアの技を繰り出すこと、だったようである。
世間一般では、極端な例えだが手をつないでリンクの端から端を往復するだけでも「ペアですべる」と表していいはずなのだが、なまじ互いに高い技術力を持つだけに、どうもそのあたりの基準が突き抜けすぎているらしい。
(ペアエレメンツを成功させるのに、どれだけパートナーとの信頼関係が必要だと思ってるんだお前らは………)
特に自分ひとりだけで技を完結させるシングルの選手は、相手に体をゆだねるペアの技をいきなりやれと言われても絶対に無理だ。本来ならば。
それを当たり前のように「ペアですべる」基準にされては、世のなかのスケーターはほとんど誰とも一緒にすべることができなくなる。
無意識によるひどいノロケを味わわされ、ゼルガディスはさらに強くこめかみを揉みほぐした。いますぐにでも、アメリアに助けに来てほしい気分だ。
「………練習量の問題は、エキシビジョンのプログラムをガウリイがペア一本にしぼればすむ話だろう。お前が表彰台を逃すという確率は低いから、それでも問題はないはずだ。大技を抜けばガウリイの足の負担も減るし、前と同じことをやるのがイヤだというお前の言い分も通る」
「たしかにそれはそうだけど………スローやリフトやデススパを抜いたら、いったいどうやってペアプログラムを盛りあげろっていうのよ」
「それを考えるのはお前の得意分野だろうが。道具を使おうがミュージカルしようが半裸になろうが、エキシビジョンはなんでもありなんだから、なんとでもなるだろう。………それとも、さすがに考えつかないか?」
いっそすがすがしいほど無責任にゼルガディスは言い切った。加えて最後の挑発に、リナのまなじりが思いきりつりあがる。
「言ってくれるじゃないの」
「なら、なんの問題もないだろう」
涼しい顔をしたゼルガディスをリナはしばらく睨みつけていたが、やがてどっかと椅子に座ると空中を見つめて長考の姿勢に入った。彼の提案を検討してみる気になったらしい。
―――少なくとも参考程度にはなれたようだ。
ゼルガディスはやれやれと息を吐いて、練習を再会するべくジャンパーを脱いだ。
ややあって、イヤホンから彼の今期のフリー使用曲が流れはじめる。操作したのは彼ではない。また、特に何も言ってはいない。
ちらりと見た背後では、リナは微動だにせず空中を睨んだままだった。
ゼルガディスはかすかに唇に笑みを刻み、リンクの中央へと向きなおる。
「―――二分後に最初から頼む」
ぴたりと音楽が止む。
そして彼が準備が整った頃合いを見計らって、再び音楽が流れだした。
哄笑にも似たパイプオルガンの響き。
今度は自分でも驚くほど快調だった。イーグルから続く三回転アクセル。サーキュラーステップを終えてのフライングシットスピン。続くコンビネーションスピン。
もともとゼルガディスはエレメンツのなかでも、最もステップが得意だ。アメリアなどはその性格もあるのだろうが「世界一きれいなステップです!」と言葉を惜しむことなく褒めてくれる。
ゼルガディスの今期のフリープログラムは『オペラ座の怪人』。
醜くただれた顔を隠し、人目を避けてオペラ座の暗がりに潜む孤独な芸術家は、可憐な歌姫に恋をする。しかし彼の想いはかなわない。鬱屈した激情をもてあまし、高みに手を伸ばし、幾度もうちひしがれる。
だが何度でも。
地獄の業火に焼かれながら、それでも天国に憧れる―――
一曲通しですべり終えた彼の耳に、ぱちぱちと拍手が届いた。いま観客は、ひとりしかいない。
ふりむくと、先ほどとは打って変わって強く瞳を輝かせたリナが、彼に向かって手招きをしていた。
彼女には曲は聞こえていないはずなので、純粋に演技だけを見ていたのだろう。
「ジャンプ、跳べたじゃないの」
「そう何度も失敗してたまるか」
素っ気なく返したものの、さっきまで何度も失敗していたのは事実である。だがリナは、ふふんと笑うだけにとどめ、何も言わなかった。
「曲付きはシーズンまで楽しみにしてるわね。………ところでさ。ね、ゼル。たしかあなたの今期のエキシビジョンって『Rock you』よね?」
「アメリアだな」
情報のリーク先に思いあたり、ゼルガディスは顔をしかめた。
「まあまあ。それはいまはいいじゃないのよ。で、そうなんでしょ?」
「ああ。だがそれがどうした」
リナはひとりで何度かうなずくと、ゼルガディスを見あげて、にやりと笑った。
「エキシビジョンは何でもあり、よね。提案したからにはゼルにも協力してもらおうじゃないの」
早くも相談にのってやったことを後悔し、ゼルガディスは顔をひきつらせた。
「何をさせる気だ………念のために言っておくが、おれにはもうひとつプログラムを増やす余裕はないぞ」
「わかってるわよ。そこは安心していいから、ひとつよろしくね―――さっきのジャンプ、きれいだったわよ。なんかあたしもすべりたくなっちゃった」
氷の上へと視線を投げ、リナは軽く肩をすくめてみせる。
ゼルガディスは時計に視線をはしらせた。
もちろん、すぐに結論は出た。
「―――なら、相談料代わりにすべっていけ」
「いいの?」
リナがぱっと顔を輝かせる。
心の底からスケートが好きだとわかるその表情に、ゼルガディスは内心苦笑した。この顔を見せられると、フィギュアスケートを愛するたいていの者たちは諸手をあげてリナに降参してしまう。
性格ゆえに敵も多い彼女が、それ以上にファンから愛される理由のひとつは間違いなくこの表情だ。
「まだ時間はある。どうせお前のことだからシューズを持ってきてるんだろう?」
「もちろん持ってるけど………ゼルの持ち時間でしょ? 練習は?」
「今日はこれで切りあげる。―――相談料なんだから、リクエストぐらいは受け付けてくれるんだろうな」
「もちろんいいわよ。でもそんなに気合い入れてすべらないわよ?」
「こんな夜中にふらっとやってきた出先のリンクで、本気出してすべるやつがいるか。だが、ジャンプぐらいみせてもらっても罰はあたらんだろう」
さっそくウォーミングアップをはじめたリナは少し思案し、すぐにうなずいた。
「いいわよ。コンディション的に問題はないわ」
もちろん、彼の言う『ジャンプ』が四回転を指していることは、あえて言わずとも互いに了解している。
公式の場以外で彼女のスケートを独占できるのは、いまのところ、彼女のコーチと同門のパートナーだけに許された権利だ。相談料として、少しぐらい贅沢を言ってもいいだろう。
リナのジャンプは男子にとってもそれだけ印象的だ。
ふと思いついて、彼はスケート靴を履いているリナに声をかけた。
「少し待っててくれ。すぐに戻る」
「りょーかい。体あたためてるから声かけて」
もこもこに着膨れていたダウンジャケットの下は、ぴったりとした半袖のカットソーに、ミニスカートとトレンカという出で立ちだった。
もともとすべるのに支障のない格好でやって来たらしいことに気づき、ゼルガディスは呆れて肩をすくめた。ここまでくるとスケート狂もいいところだ。
ゼルガディスはブレードにカバーをかぶせてリンクを出ると、リナを残して電波の入りやすい廊下側へとやってくる。
それから、かすかな緊張とともに、いままで一度もかけたことのない番号を呼びだし、コールした。
長い呼びだし音のあとに、相手が出る。
「………もしもし?」
着信通知に表示されたゼルガディスの名前は、相手にとっても意外だったのだろう。警戒するような声に少しだけ苦笑いして、携帯電話を持ち直す。
「ポコタか?」
「あんだよ………何か用か?」
眠たげな声で電話に出た少年の声は、不機嫌さでごまかした緊張と戸惑いがにじんでいた。
現在、男子シングルのジュニアの世界において急激に頭角を現しつつある彼とゼルガディスのあいだには、レゾを挟んでの隔意がいまだ影を落としている。
世間的に見て兄弟弟子にあたるとはいえ、ごく最近まで互いに面識はなかった二人だった。ともにセイルーンを練習拠点としているが、普段はほとんど会話がない。
ゼルガディスはもともと対人関係があまり得意ではない。互いの存在を意識しすぎて、どう歩み寄っていいかわからない状態がいままで続いていた。その彼がポコタに電話をかけたなどとリナが知ったら、仰天するに違いない。
ゼルガディスも自分自身の行動に驚いていたが、ふとなんとなく、そうしようと思ったのだ。
ポコタはリナに似たタイプのスケーターだ。成長期もまだのため、体格的にも男子より女子のスケーターに似ている。現在はスタミナや表現力が技術に追いついていない状態だが、すでにトリプルアクセルをものにし、ジャンプに関して抜群の才能を見せていた。彼自身もリナを意識しているらしく、顔を合わせるたびに口喧嘩が絶えないが、誰よりも食い入るように彼女のスケートを見ている。
だから、なんとなくだ。
固い様子の相手に、手短に用件を伝える。
「リナがリンクに来ている。少しすべるそうだが………見に来るか?」
「!」
反応は劇的だった。電話の向こう側で、布団をいきおいよく跳ねのける音がする。
「すぐにそっちに行く! ヘコムネにオレが来るまで四回転跳ぶなって頼んどいてくれ!」
ゼルガディスは懸命にもスピーカー穴を押さえ、声がリナに聞こえないように配慮した。万が一、ヘコムネなどとリナの耳に入ったら、ポコタの前で四回転を跳ぶどころか、来るなりブレードでかかと落としを食らわせかねない。
「とにかく来るなら早く来い。それじゃ、切るぞ」
「あ………わざわざ知らせてくれて、ありがとな」
詰まりながらもはっきりと言われた礼の言葉に、肩に知らず入っていた力が抜けた。
「気にするな。なんとなくだ」
通話を終え、ゼルガディスは柄にもない己の行動をかえりみて、口元を押さえたまましばらくたたずんでいた。
なんとなく。なんとなくだ。
自分に言い聞かせ、気をとりなおして歩きだす。目的地は音響室。
持ってきた自身のデジタルプレーヤー本体を機材とつなげば、アリーナ全体に音楽を流すことができる。
せっかくリナがすべるのだ。音楽がないのはもったいない。なんのことはない、ゼルガディスが音楽つきでリナのスケートを見たいのだ。
フィギュアスケートによく使われるクラシックはひととおりデータとして持っている。実際にプログラムとする際はそれに編集がかけられるが、リナの去年のフリープログラムの曲については、さいわい編集済みで歌詞入りのデータを持っていた。
波乱だらけの五輪の演技を最後に、世界選手権をリナが棄権したため、その完成形は幻となってしまったフリープログラム。
オルフ『カルミナ・ブラーナ』より「おお、運命の女神よ」、そして「運命の女神の痛手を」。
冒頭から四回転トゥループを跳ぶ、男子のようなダイナミックな構成のプログラムだ。金色を基調にしたパンツスタイルのリナの衣装も、当時話題を呼んだ。
気合を入れて跳ぶ必要はないが、やはり音楽があるのはいい。
やがて氷上を重厚な合唱曲が満たし、アリーナ全体に音が溢れた。
リンクにいたリナが、弾けるように顔をあげる。
それからちょっと呆れたような、うれしそうな顔になり、すっと片手をあげた。いまはただリンクの外周を流しているだけなのに、相変わらず宙を滑空しているようなスピード感のあるスケーティングをする。
今頃こちらに向かって、ポコタが息せききって走っていることだろう。
これはアメリアに文句を言われるかもしれんな―――
観客が増えたら、リナは文句をいうだろうか。
ちらりとそんなことを思いつつ、ゼルガディスは歩きながら携帯電話を再び耳にあてた。
Finished Free Program. Lets enjoy Exhibition Program !
なんちゃって選手名鑑
【ゼルガディス=グレイワーズ】
現在の練習拠点はセイルーン。いまは亡き名コーチ、レゾの秘蔵っ子であり、早くからその才能の片鱗を見せていた。
だが、当時はジャンプが不安定で、スタミナにも難がある荒削りの選手であった。その弱点を克服するべく、シニアデビュー直後にレゾの指導のもと身体強化をはかり、肉体改造と呼べるほど能力を向上させるが、その指導方針においてレゾと対立。師弟関係を解消し、その後長く良コーチに恵まれず、その成績を低迷させる。
彼が復調の兆しを見せはじめたのは数年前、拠点をセイルーンに移してからのことである。以前は、精神状態に左右されやすく波の激しかったスケートに安定感が生まれ、ジュニア時代から定評のあったステップワークにはさらなる磨きがかかった。最近では「うつくしいジャンプを見たいならガブリエフ選手、うつくしいステップを見たいならグレイワーズ選手」と言われるほどである。
依然としてジャンプは苦手で四回転にはまだ不安が残るが、スケート技術全体が確実に底上げされ、バランスの良いスケートを魅せる選手として注目を集めつつある。
ここ一、二年では、交流を持っているインバース選手たちからの影響か、エキシビジョンもおもしろいと人気が出てきている。もともとストイックさのなかに情熱を垣間見せる抑えた演技を持ち味としている選手だが、どうやら最近、新境地を開拓しつつある模様。
今季のプログラムはショート『アランフェス』、フリー『オペラ座の怪人』。エキシビジョンは映画『ロック・ユー』より『ウィー・ウィル・ロック・ユー』。
今年に入ってジュニアのほうで頭角を現してきたポセル=コルバ=タフォーラシア選手とは兄弟弟子の関係となる。
《裏迷鑑》
いったい彼に何があったのか。
最近のエキシビジョンを見た者は、内容には触れないものの必ずそう口にする。以前は彼のエキシビジョン嫌いは有名で、少なくとも氷の上でギターをひきながら歌ったりは絶対にしなかった。リナ選手とアメリア選手の影響おそるべし。
また選手インタビューでも、ガブリエフ選手ほどではないものの非常にとっつきにくい、ぶっきらぼうな口調で受け答えをする選手だったはずなのだが、それが最近では、ぶっきらぼうな口調は相変わらずながら、穏やかな話しかたでたまに冗談もいうようになり、レポーターを含めテレビの前の女性ファンを激増させている。淡々と冷静に自身や相手選手の演技を分析し口にする評価は的確で、アマチュア引退後は彼にあの声でスケート競技を解説してほしいというファンも多い。また言葉に詰まると赤くなることも判明し、意外に面白いキャラだということがバレつつある。合掌。
【ポセル=コルバ=タフォーラシア】
ホームリンクはセイルーン。今年、フィギュアスケートジュニア界に彗星のように現
た期待の原石。
愛弟子ゼルガディスとの決別後、スケート界を退いたと思われていたレゾがひそかに育てていた、文字通り最後の弟子であり、いまだ未完成の大器である。
彼がジュニアの公式大会に出場したとき、多くの関係者が首を傾げた。ノービスの大会において一度も出場の履歴がなく、大会当日にはコーチの姿すら見あたらなかったからである。当然のように一位を獲得した彼のコーチが、先日訃報を聞いたばかりのレゾだと判明したとき、メディアにはとりあげられないフィギュアスケート界の舞台裏では大騒ぎとなった。
ジュニアの参加資格ぎりぎりの幼い年齢ながら、すでにトリプルアクセルを跳び、ジャンプ系のエレメンツに関して抜群の才能を見せている。成長期を乗り越えて、ジャンプの安定や表現力、スタミナを獲得した彼がシニアの世界へと参戦してきたとき、ガブリエフ選手やグレイワーズ選手たちの後方に迫る脅威となることは間違いない。
だがそれは当分先の話であり、現在はセイルーンを練習拠点にジュニアの世界選手権上位入賞を狙う。今季のフリープログラムは『ピーター・パン』
インバース選手からはポコタの愛称で呼ばれ、よく口喧嘩しているのを見かける。