街に入る際に手渡されたラベンダーのブーケをもてあそびながら、リナは婚姻の儀を終えて神殿の外へと出ていくアメリアとゼルガディスを見おろした。
見届けは終わったが、すぐに神界に帰る気にはなれなかった。
ちらりと傍らのガウリイに目をやると、気づいたガウリイが目で問いかけてくる。
リナは黙って首をふった。
ガウリイはきっとわかっていない。
千五百年前のあの約束が、絶対のものになったことに。
アメリアとゼルガディスのために、自らの転生の可能性を放棄したのは、つまりはそういうことだった。
遙か遠い過去。例えいまこうしている現在が新しく構築されたものだとしても、変わることのない千五百年も前の約束。
千五百年前。
人へと転生した妹分が、まだ戦乙女ですらなく。
自分とガウリイは、まだ出逢ったばかりの頃だった――――
千五百年前―――
ちょうどそのときアメリアは、奥の部屋で敷布をたたんで、うずたかく積み上げていたところだった。
何やら外が騒がしいなと思い、わずかに首を傾げていると、部屋の扉が開け放たれて同僚のマルチナが顔を出す。
「こんなところにいたの? 早く外に出てよ」
「マルチナさん?」
「前線に出ていた兵たちが帰ってきたのよ。休暇は終わり」
慌ててアメリアは立ち上がった。
最前線にあるこの砦から先はヴァン神族の領土。この砦から神界軍は出撃し、そして帰投する。
アメリアとマルチナは治癒魔法を操る、後方支援部隊所属の兵だった。前線部隊が出撃しているときは暇だが、帰ってきたときは最も忙しく働かねばならない。
「怪我人は多いんですか?」
「例によってね」
その一言で、アメリアは溜め息をついて石造りの窓から空を見上げた。
ならば、彼女に会えるのはもうしばらく先のことになりそうだった。
「リナさん!」
懲罰房から出てきたリナが大きく伸びをしていると、アメリアが走り寄ってきた。
四年ほど前に神界に連れてこられた〈
神の戦士〉の少女だ。出る杭は引っこ抜かれて神界に連れてこられる下界の状況下で、運良くそんな目にあわずにごく普通に死んで神界に来た稀少な存在だった。
〈神の戦士〉のなかでも特別扱いされているリナに懐いてるという意味でも、かなり貴重な存在である。
そのアメリアにリナは笑いかける。
「あれ、どうかしたの?」
「どうかしたのじゃありません!」
アメリアが眉をつり上げた。
「またじゃないですかっ。これで何回目なんですっ!」
リナは櫛を通していない栗色の髪をかきあげながら首を傾げた。もつれた髪が指にひっかかって痛い。
「十回は越えてると思うけど………」
「私が来てからもう十二回目ですっ」
「あれ、もうそんなに?」
相変わらずのんびりと首を傾げいてるリナにいいかげん忍耐が尽きたらしく、アメリアはリナを引っ張って歩き出した。
「いいってば、アメリア」
「何がですっ。部屋に湯浴みの用意してありますから! それが終わったら私が治癒魔法を―――」
「怒らなくていいのよ。あたしにも、あいつらにも」
静かなリナの声に、アメリアはふり返った。
全軍帰投と同時に懲罰房に放りこまれ、十日ぶりに外に出てきた神界最初の
神格化された人間は冷ややかな表情でアメリアを睥睨していた。
睥睨されているのは自分ではなく、彼女を取り巻いているこの世界と状況だと知ってはいるが、やはり心は冷える。
この紅蓮の色の瞳は、誰よりも冷たい。
「あたしはこういうことを承知で戦場で無茶やってるわけだし、向こうも姉ちゃんの目があるからあたしを厳しく罰せなくて、しかたなくこんなところに放りこむわけだし。互いに承知でやってんのよ。だから、あんたが学習能力のないあたしにも、あたしを懲罰房に放りこむ神族にも怒りを抱く必要はないの」
「………納得できません」
救護班所属の黒髪の少女は、リナの言い分をふくれっ面で聞いていた。
その様子にリナはちょっとだけ苦笑する。
リナを怖れない。神族たちを盲信しない。
それだけでもこのアメリアは、神界にいる他の人間たちとは異なる存在だ。
「駄々っ子みたいなあたしの面倒なんかみなくていいのよ。エヴ=エデンルージェ?」
「アメリアですってば」
リナの片腕をつかまえたまま、不意にアメリアはにっこり笑った。
「それならリナさんだって、私にわざわざ必要ないなんて言う必要なんかないじゃないですか」
面食らうリナを見て、してやったりとアメリアは微笑んだ。
「でもリナさんは私にそう言って気をつかってくれますから。だから私も勝手にリナさんの世話を焼くんです。リナさんに、やんなくていいのよって言われるのを承知で。
―――はい、そういうわけでさっさとお風呂入ってきてください!」
勢いよく背中を押しやられて、リナはついにクスクス笑いだした。
湯船のお湯はちょうど良い湯加減で、思わずリナはそのまま寝そうになってしまった。
溜まっていた疲れがゆるゆるとお湯に溶けていくようで、慌ててリナは首をふって眠気を追い払った。
風呂で溺死など冗談ではない。そんな阿呆な死に方では自分を忌々しく思っているアース神族に冷笑されるだけだ。
アメリアが神界に来て、この砦に配属されたいつのころからか、懲罰房を出てきた自分にいつもお風呂が用意されているようになった。
例によってアメリアのお節介だ。
ふわふわ立ちのぼる湯気を目で追いながら、リナは小さく鼻を鳴らした。
(ホントに冗談じゃないわよ………)
悠久の昔から相争ってきたヴァン神族とアース神族の戦いが激化したのが、いまから五百年前の〈神々の黄昏〉からである。そう名付けられた初めての大きな戦いのなかで、双方の主神同士が相討ち、アース神族の主神スィーフィード=オーディンは四人の分神を遺して死に、ヴァン神族の主神シャブラニグドゥ=グルヴェイクは七つの欠片に分かたれ封印された。
双方ともそこで戦を止めればいいものを、アース神族もヴァン神族も、互いの主神に仕えていた者たちの手によって戦を引き継ぎ、延々争って今現在に至る。
その五百年の間にも、ヴァン神族はともかくアース神族内部では色々と動きがあったらしい。
水滴を滴らせながら、リナは湯気の中に手をかざした。
(そう………。まず、主神直属の古代竜の部族が危険視されて殲滅された)
主神のみを主と仰いできた彼らゆえに、自分たちの手を離れて寝返る可能性があったのだとアース神族の遺された分神たちは主張している。
(どうだか)
リナは思う。
(おおかた、力を持ってるのが怖かったんでしょ。いつ離反されるかと思って怖くて、嫉妬してたんだわ)
主神の死ぬ間際に生み出された彼ら四種族と違い、最初から主神の傍にいた力溢れる古き種族。
きっと妬ましくて、忌々しくて、羨ましかったのだ。
だから滅ぼし、追放した。
それが三百年ほど前の話。
(そして今から五十と二年前)
天窓から射しこむ光が湯気のなかできらきらと踊っている。
(姉ちゃんに、主神の力と知識が宿っていることが発覚した)
御輿を担ぎ出す機会を神族は逃さなかった。姉は神界へと迎えられ、上位の神格に据えられた。
自分の目の前で、姉は神界へと逝った。
悲壮感の欠片もない、あっさりした別れで、互いに納得ずくだった。
姉は神界で、自分は下界で生きる、と。
(だけど)
湯気の向こう、天窓の向こう、透けて見える美しく青い神界の空。
(だけど、あたしは
神界にいる)
姉の神界行きから二年が過ぎた、ちょうど五十年前。
〈降魔の戦い〉で水竜王が戦死し、そして自分は初めて神界の大地に降り立った。
水竜王には姉が神界に迎えられる際に、一度だけ逢ったことがある。そう悪い神ではなかった。姉を連れていくことを何度も自分に謝ってくれた。
しかし封印された七つの欠片のひとつが復活し、勢いづいたヴァン神族が攻めてきたその戦いで、水竜王は主神の後を追い、もうこの世にはいない。
(ねえ、水竜王の婆ちゃん)
リナは湯の中から立ち上がった。
(婆ちゃんさえ死ななければ、あたしもアメリアも今こんなところで戦争なんかしていないのにね)
長期に渡る戦争により人的資源の枯渇した神界軍は、その補充を人の魂で行うことを思いついた。
それに最後まで反対していたのが水竜王。
水竜王が死に、神族の暴走を止める者はいなくなった。
顎から滴る水滴が、湯船に落ちて波紋を描く。
(こんなことのために、生まれてきたんじゃない)
軽く頭をふって、リナはさっさと上がることにした。
どうやらのぼせてしまったらしい。
髪を拭きながらリナは目をすがめた。
今回の戦闘は、リナのせいだけではなく、普通に死者が多かった。
きっと神界宮殿から兵の補充が行われるだろう。リナやアメリアと同じ、元は人間の〈神格化された魂〉で。
アメリアを連れて、今度はどんな者が補充されたのか見に行かなければ。
どうせ、神に選ばれたという意識のみが全面に押し出された、むかつく相手ばかりなのだろうが、本当にごく稀に、アメリアのような、そうでないものが中にはいるのだから―――
砦の最奥部、転移の魔法陣が置かれている部屋から続々と出てくる補充兵を、リナとアメリアは少し離れたところから眺めていた。
転移してきた兵たちはすぐに上級兵クラスの神族に引率されて、どの隊に所属するかを決定される。
だからリナとアメリアが彼らを眺めているのは、本当にただの見物だ。
特にリナは上級下級を問わず神族全体から睨まれているので、あまり堂々と近寄って見物するわけにもいかない。
リナは軽く肩をすくめてアメリアをふり返った。
「なんか、今回もどうでもいいのしかいないみたいね」
初めて神界に迎えた人間―――つまりリナのあまりの扱いづらさに、それ以降、アース神族はやり方を変えた。力が突出している人間を殺して神界に連れてくるにしても、それだとわからないように殺し、逆に選ばれて神界に迎えられるのだという意識を植えつけるようにしたのだ。
おかげでリナは同類であるはずの〈神の戦士〉たちからも畏怖とやっかみの対象である。
リナに臆せず、神族に盲従しないアメリアは本当に珍しい存在なのだ。
アメリアもリナの言葉に小さくうなずいた。
「そうですね。まあでも、一応最後まで見ていきましょうよ」
「ま、それもそうね」
欠伸混じりにリナが相づちをうった、その時だった。
(―――視線 !?)
離れたところから野次馬よろしく見ているリナたちの視線は、あまりに自然であけすけなので、だれも彼女たちに気づく様子はない。にもかかわらずリナとアメリアの姿を見つけて、しっかりとこっちに視線を向けてきている者がいる。
急に欠伸をやめて険しい表情をしたリナにアメリアが驚いていたが、彼女はかまわなかった。
(だれ?)
身を乗り出したリナの足元で、カツン、と石床が鳴った。
その瞬間、捉えた。
互いの視線が真っ向から、ぶつかりあう。
碧い目だった。神界の空のような。
異常だとリナは思った。
下界で死を迎え、神界に来て、さらにそのなかでも最前線に配属されたはずなのに、その目まぐるしい環境の変化に何の気負いもてらいも、怯えもない目。
ただ真っさらで、不思議そうな。
そのことが異常に思えた。
どうしてそんなに平然としているのか問いただしたいくらいに、ただリナを見て、首を傾げている。長い金の髪が音もなく揺れた。
何か自分とは相容れぬものを見ている気がして、リナは無意識のうちに傍らのアメリアの腕を強くつかんでいた。
「リナさん?」
その声にハッと我に返ると、リナはくるりときびすを返した。
「行こ。もういい」
「え? ええっ? リナさん!?」
すたすたと歩いていくリナの後を、慌ててアメリアは追いかけた。
「どうかしたんですか!? まさかこの間の戦闘の怪我がまだ治りきってないとか………」
「そんなんじゃないわよ」
アメリアをふり返りもせず、リナはどんどん先へと進んでいく。
「―――とんでもないのがいたわ」
「え?」
「なんなのよ、あれ………」
アメリアのような当たりクジかどうか、リナには見極めができなかった。ただひたすら、わからないという形容しか浮かんでこない。
砦は狭い。どうせそのうち顔を合わせる機会がくるだろう。
胸の奥のわけのわからない不安に突き動かされて、リナは足早に見物していた場所から遠ざかった。
奇妙と言えば奇妙だが、砦には書庫がある。
砦とは戦のためだけに造られている建物だから、戦に不必要な本を置いておく場所など本来は設けない。
しかし、神界・下界の魔道士が戦力として加わっている以上、書庫は実は神界の砦には必要不可欠な部屋だった。
実用一辺倒の魔道書しか置かれていないが、リナにとっては砦のなかでいちばん落ち着ける場所だった。実際、戦場以外でリナがどこにいるかというと、寝るときと食事どきを除いてはここしかない。
埃っぽい書庫特有の空気が、小さくきられてある窓の周りだけきらきらと光っている。
書庫は珍しくリナ一人だけで、ページを繰る音がやけに大きく聞こえた。
読んでいるのは書庫内の魔道書ではなく、この砦に派遣される際に、姉を通じて神界宮殿からかっぱらってきた暇つぶし用の禁帯出本だった。
いわゆる百科事典のようなもので、世界を構成する力や存在について記されている、どこからどうみても禁断の書だった。
見つかれば大騒ぎ間違いなしだが、落ち着き払ってリナは字面を追っている。
もう何度も読んでいるのだが、読むたびに新しい解釈の仕方が見えてくる。
むりやり連れてこられた神界だが、これだけはリナが認めてもいいと思ったのは、下界とは比べものにならないほど氾濫している魔道や理の知識だった。
他にすることもない。神族たちの道具になるのもまっぴらごめん。結果、リナは自分の知識欲を埋めることのみに熱心だった。
いまリナの目が追っているのは、ひとつの樹の図。
幾重にも分かれた枝はそれぞれの界を指し貫き、すべての枝と根はよりあって、遙か下の泉へと浸されている。
世界樹ユグドラシル。
(その根が浸されている始源の海)
そこには全ての母なる姫がいるという。
リナは図形を食い入るように見つめて、思考の軌跡を追った。
自分が持っている魔道の知識なら、その姫の魔法を編み出すことも不可能ではない。いまはまだ神族の目があるが、理論を組み立てることならできる――――
カタン。
不意の物音に、リナは意識を脳内の理論構成から現実に引き戻した。
誰かが書庫を利用しに来たのだろう。思考が途切れたことを忌々しく思いつつ、リナは顔も上げずに再び本を注視し始めた。
が、すぐに顔を上げる。
入ってきた人物の意識が自分に向けられていることに気がついたのだ。敏感でなくては戦場で生き抜けない。
本を閉じて、それから視線を巡らせたリナは、綺麗な金色の頭を見つけて、自分でも思ってもみないほど動揺した。
また疑問符だらけだ。
どうしてここにいるのか。どうして自分を訪ねてくるのか。自分に何の用なのか。
本当に全てがいったい何なのか。
内心の動揺を押し殺して、リナは極めて愛想良く笑いかけた。
「何か御用?」
名前は確か、ガウリイと言ったはずだった――――