誓韻 ―時の旋律・外伝― 〔2〕
あのあと、ガウリイの存在はすぐに砦中にぱっと広まった。
理由は簡単だった。類を見ないほどの剣の使い手だったのだ。
エインヘルヤルはおろか、人間などは歯牙にもかけないはずの神族まで手合わせを申し込みに来たのだから、その腕前がどれほどのものかがわかる。
リナも一度だけ手合わせの様子を遠くから見たことがあるが、遠目からではそれこそ何が起きたのかわからないうちに、相手の剣が折れていた。
近くから見たいと思ったが、それはいままで避けてきた。
どういうわけか、その遠くから見た手合わせのときも含めて、いつ何どきでも、ガウリイはリナが向ける視線に気づくのだ。
リナもリナで、知らないうちにその姿を注視していて、相手がこっちをふり向き、慌てて視線をそらすことが多々あった。
目立つんだもの。しょうがないじゃない。
なかば奇妙な敗北感さえ感じながらリナは自分に言い訳をしていた。
目立つことは事実だった。
その鮮やかな色彩を持っている外見その他、まとっている雰囲気もろもろ全部ひっくるめてとにかくガウリイは目立つのだ。
後方支援の救護班には女性兵が多いが、その救護班のアメリアが聞きこんでこんできた話によると、ガウリイが砦に派遣されてきた当日は蜂の巣をつついたような大騒ぎだったらしい。
あまりの阿呆らしさに、なおも報告しようとするアメリアに手をふってリナはその話題をうち切った。
リナが出した結論は、関わり合いになりたくない、だった。
下手に近づいて後方支援の女性兵から敵視されるのもごめんだし―――この場合、リナは平気なのだが、リナと一緒にいるアメリアのほうがまずいことになる―――何より得体が知れない。君子危うきに近寄らずとも言う。
幸い、ガウリイは常に誰かに囲まれているので、リナが逢おうさえ思わなければ逢わずにすむはずだった。戦場では無論、論外だ。そんなことをしていたら死んでしまう。
ただ、この逢わずにすむというのは、相手のほうから来ないことが前提条件である。
向こうからきたら、逢わずにすむはずもへったくれもない。
さりげなく本の背表紙とタイトルを手と腕で隠して、リナは机の前に立っている相手を見上げた。
「魔道士以外の人間がここにくる意味はあまりないわよ?」
リナの言葉に、相手は改めて部屋を見渡した。
「どうして砦にこんなところがあるんだ?」
「は?」
リナは目をしばたたいた。
「こんなとこ………って、ここが何なのかわからずに来たっていうの?」
「いや……だってここは書庫に見えるぞ?」
「どこからどう見ても、たぶん書庫以外の何物にも見えないと思うわ」
相手は心底不思議そうに首をひねってる。
「だから、どうして砦に書庫なんかがあるんだ? 必要ないだろう?」
「下界ならね」
リナは嘆息した。
「あなたが砦に来てからまだ一度も出撃命令は下ってないから、わからなくても無理はないけど、神界では戦争に魔道士部隊がいるのよ。ここにあるのは全部魔道書」
相手は納得したようだった。
「それでさっきの、来る意味がないってセリフになるのか」
「そういうことよ。迷いこんだんならさっさとどっか行ってくれない? 気が散るんだけど」
視線と指とで机の上の本を示すと、相手は決まり悪そうに頭をかいた。
「それはすまん。だけど別に迷いこんだわけでも散歩の途中なわけでもないぞ。たまたま目的の場所が書庫だっただけだ」
「はあぁ?」
リナはますますわけがわからなくなって、しまいには頭痛までしてきた。
噛み合っているようで、まったく噛み合っていない会話とはこういうものをいうのだろうか。
「じゃ、何。目的の場所はここだったけど、ここが何なのか知らなかった、と。そういうわけ?」
「ああ、そうだ」
「……………………ごめん。あたしには理解できないわ」
これは早々に会話を打ち切るべきだと判断して、リナは椅子から立ち上がった。
「なら目的の用事をすませたら? あたしは帰るから」
短くそう答えると、リナは本を布に包んで抱えた。
廊下に出ると、扉を後ろ手に閉める。
(やっぱりわけのわからん人だわ)
何やらどっと疲れてしまって、アメリアのところにでも行こうかと思っていると、急に背後の扉が開いたため、背もたれをなくしたリナは後ろにひっくり返りそうになった。
「うきゃ !?」
「おっと」
扉から出てきた相手が、すんでのところで背中を支えてくれる。
本を放り出さなかった自分を心底偉いとリナは思った。
「何やってるんだ?」
「それはこっちのセリフよ!」
ひっくり返りそうなところを支えてもらった人間の言葉ではないのだが、元はといえば、相手のせいだ。
勢いよく扉のほうをふり向いたリナに、ガウリイは首を傾げた。
「何……って、何もしてないが」
「この部屋に用があるんじゃなかったの !?」
「そんなことは一言も言ってないぞ?」
一瞬、リナは本気でこの相手の頭の中身を確認したくなった。
「さっき言ったでしょうが。目的はこの部屋だって!」
「そりゃ、お前さんがこの部屋にいるって聞いたからだ」
「は?」
何度目かの間の抜けた声をあげて、リナはしばし相手の顔を見上げていた。
「あたし?」
「ああ」
「…………」
沈黙したリナを、ガウリイが不思議そうに覗き込んだ。
「だったら、あたしに用があるって最初っから言えばいいじゃないの!!」
「それもそうだな」
「……………………なんか、もうどうでもよくなってきたわ」
リナは眉間に指をあてて呻いた。
「で、何の用なの?」
「いや、用事はもうだいたい済んだから」
「あン?」
は、とか、へ、とかの間抜け声をあげるのも馬鹿らしくなって、思いっきりドス声をあげると、リナはついさっきこの人物と出会ってから今までのことを思い返した。
思い当たるふしはない。
「もしかして、ただあたしの顔を見に来たの?」
「いや。砦は狭いし、何度か見てるぞ?」
「じゃ、あたしの名前を聞きにきたの?」
「そんなもの直接本人じゃなくても、別の誰かに聞けばわかるだろ?」
「じゃあたしに何の用があってきたのよ?」
「会って話がしてみたかったんだ」
「…………………なんで?」
面食らったリナに、ガウリイは困ったように首を傾げた。
「なんで………って言われても、普段あれだけ人を睨んでおいて無視しろっていうほうが無理だぞ? オレ何か悪いことでもしたか?」
「…………」
リナは今度こそ沈黙してしまった。
嫌がらせなのかと思ったが、どう見ても真剣にそう考えている顔だった。
「………睨んでないわよ」
ぱたぱたと軽い足音がして、廊下の角からアメリアが姿を現した。リナとガウリイが一緒にいるのを見て、唖然として立ち止まっている。
リナはさっさとアメリアのところに逃げることに決めた。
「睨んでいるように見えたのなら謝るわ。だって………あなたは目立つんだもの」
そう言い捨てると、リナはアメリアの方に向かって歩き出した。
「おい、ちょっと?」
急に背を向けたリナにガウリイが慌てて声をかける。
リナはくるりとふり向いて、唇の端を吊り上げた。
「ここで円滑な対人関係を築きたいんなら、あたしに話しかけないほうが得策よ。剣士さん?」
救護班の少女をひきずるようにして回廊の角に消えていった小柄な背中を見送って、ガウリイは軽い苦笑を浮かべた。
「お前さんの方が目立っていると思うんだがな」
砦の全軍に出撃命令が下ったのは、それから三日後のことだった。
ヴァン神族の主力は、下界でデーモンと呼ばれていた炎の矢を吐く異形の獣だった。
アース神族にとっては脅威でも何でもない強さなのだが、如何せんその数が多い。レッサーデーモンだけで、こちらの軍の総数に匹敵するほどだった。
デーモンにこちらがかかずらっている間に、向こうでは低級、中級と呼ばれているヴァン神族の敵兵が空間を渡ってこちらの陣の中心を叩くというのがお決まりの戦法で、これを打破するためにアース神族は、人間兵を投入した。
要するに露払いをさせようというわけだった。
神界に連れてこられた自分たちが結局のところ使い捨てなのだということに、ガウリイは早々に気づいていた。
もともと生きているときは傭兵として暮らしていたから、わかる。戦場での〈神の戦士〉の扱いと雰囲気は、彼にとって慣れ親しんだものだった。
傭兵も、所詮使い捨ての存在だからである。
だが、ガウリイ以外にそのことに気づいている者はいないようだった。
皆、神界という想像もしなかった場所に自分がいて、そこで戦っているという事実に酔って、戦の本質が下界でも神界でも変わらないということに、いまだ気づかない。
ガウリイの周囲の人間は、皆同じ目をしていた。
ただ一人を除いては。
飛び交う炎の矢をかいくぐり、何十体目かも忘れたデーモンを屠ったときだった。
全軍が動揺した。
「?」
アース神族はもとより、敵対しているはずのヴァン神族のほうにもひるんだ気配が見られる。
「狂気の女神だ………」
近くにいたアース神族の兵士が喘ぐように呟いて、脱兎のごとく自軍の陣地に向けて後退しはじめた。
赤光が閃いた。
敵軍に向かってまっすぐに放たれたその光は、敵の集団の中心に突き刺さるとすさまじい轟音と熱をともなって炸裂する。
唖然として見ていると、ぐいと肩をひっぱられた。
「何やってるんだよ。さっさと逃げるぞ」
顔なじみとなった同じ元人間の青年が、青い顔色でそう言った。
「なあ、あれは何なんだ?」
ガウリイが訪ねると、青年は吐き捨てるように答えた。
「リナとかいうあの特別扱いされているガキの仕業だよ。いつもこうだ」
「?」
三日前に間近で見たばかりの、小柄な少女の容姿が思い出される。
怪訝な顔をしているガウリイを見て、青年は舌打ちした。
「逃げながら説明してやる。巻きこまれる前に撤退するぞ」
すぐ至近距離で爆音がして、ガウリイはそちらをふり向いた。
宙にひとつの影があった。
返り血や土埃などの、戦場での汚れを何一つまとっていない華奢な体。小さな手のひらが返されるたびに、力が放たれ、敵味方を問わずに場が駆逐されていく。
爆風に流れる栗色の髪。戦場にいてこれだけの力をふるいながら、殺戮にも血の匂いにも酔っていない冷めきった真紅の瞳。
呆気にとられてガウリイは言葉を洩らした。
「………どこが狂気の女神なんだ?」
あの凍りついた目のどこが。
敵も味方も潮が引くように撤退し始めたため、ガウリイは周囲を気にせずゆっくり観察することができた。
宙にあった小柄な体は、いまは地を蹴って逃げるヴァン神族のただなかに突っこんでいる。
手のひらが向けられた相手は皆、戦場から永遠に姿を消した。
敵味方の区別なく、無秩序にそうしているかに見えたが、そうでないことにガウリイは気づいていた。
自分たち『元人間』に、彼女は絶対にその手のひらを向けない。
それどころか、巻きこみそうになったらすかさずガードしている。
逆にアース神族がいたら、運悪く巻きこまれたフリをして、その手のひらを向けていることにも、気がついた。
それは全て戦場で秒単位に行われていること。
放たれる力の凄まじさのみが、ただ目には焼きつく。
「綺麗だな………」
思わずガウリイはそう呟いていた。
勝敗は決した。
帰投したガウリイは、味方の負傷者及び戦死者の約三分の一があのリナのせいだということを知る。
神格化された人間に、一人としてそれに巻きこまれたものはいなかった。
「リナさん!」
例によって懲罰房から出てきたリナが大きく伸びをしていると、アメリアが走り寄ってきた。
そのアメリアに笑いかけようとして、リナの顔が強張る。
「なんであんたがいるわけ?」
もはや、あなたではなくあんた呼ばわりである。
呼ばれたガウリイは軽く肩をすくめた。
「いや、なんとなく」
睨みつけているリナの視線の先に、果敢にもアメリアが割って入った。
「はい、リナさん。例によってお風呂に入ってきてください。喧嘩売ってぼこぼこにするなり、話し合うなりはそのあとで」
「あんたねぇ、物騒なことをさらりと言うんじゃないわよ」
「リナさんには負けますから。はいそういうわけで行・き・ま・しょ・う!」
「ちょ、ちょっとアメリア」
アメリアは強かった。
「ガウリイさんに喧嘩売って、騒ぎになってあと一回懲罰房に入るにしても、お風呂に入ってからのほうがいいじゃないですか」
「…………をい」
じとりとリナは睨んだが、どこ吹く風のアメリアについその表情はゆるんで、苦笑してしまう。
だがその苦笑をひっこめると、鋭いまなざしでリナはガウリイを見た。
「何か御用?」
「まあ。そんなところだ」
「そ、ならすこし待っててちょうだいね。こういうわけだから」
アメリアを指さして、リナは自分からさっさと歩き始めた。