誓韻 ―時の旋律・外伝― 〔3〕

「ね、アメリア………」
 衝立の向こうでリナの着替えを出していたアメリアは、その声に軽く首を傾げた。
「どうかしました? お湯熱いですか?」
「ううん、ちょうどいいくらい。いつもありがとね」
「気にしないでください。やりたくて勝手にやってるんですから。それで、どうかしました?」
「うん………」
 声がわずかに言い淀んだ。ぱちゃんと水音がする。
「なんであいつと一緒にいたの?」
「あいつ?」
「さっきよ。なんであいつがあたしが出てくるのを待ってたわけ?」
「ガウリイさん………ですか?」
 普段のリナにはない歯切れの悪さに、アメリアは困惑を隠せない。
「何やってるんだって訊かれたから、リナさんが出てくるのを待ってるんですって答えたら、ならオレも待つって………ただ、それだけです」
 アメリアの耳に、苛立ったように水をはね散らかす音が飛びこんできた。
「何なのよ、あいつ………」
 途方に暮れたような呟きが微かにアメリアの耳に届く。
 リナがこうも困惑しているという事実だけでも、かなりの異常事態だった。砦にいる大抵の人物が、リナにとっては困惑まで至らず通り過ぎてしまう『モノ』でしかない。
 しかし、どうしてリナが困惑しているのかまでは、アメリアに察することはできなかった。
 むさ苦しい人間兵と神族ばかり相手にしてきた救護班の女性兵にとって、容姿端麗なガウリイはもはや憧れの対象だったが、アメリアはついさっき初めて言葉を交わしたばかりだった。
 そうして会話をしてみてアメリアは、リナのガウリイに対する困惑の一端を何となく理解した。
 外見と中身にかなりの落差があるのだ。
 それはリナにも言えることだが、ガウリイの場合はまたそれとは違う。
 目を見て、あれ?、と首を傾げたくなるのだ。そうして、外見に騙されていたのかと思う。
 例えるなら、彼に向かって差し出した手や、言葉や、視線のベクトルが、どこまでも突き抜けていくような錯覚を覚えるのだ。
 だが、アメリアの困惑はそこまでで、すぐにガウリイを良い人だと認識した。
 そう。悪い人ではない。
 少なくとも、他の〈神の戦士〉エインヘルヤルとはだいぶ毛色が違う。
 リナにまとわりついてくるという時点で、すでに尋常ではない。
「リナさんは、ガウリイさんのこと嫌いなんですか?」
 返ってきたのは沈黙だった。
 しばらくして、水音に消されそうな声がする。
「………全部わかんないわよ」
「…………」
 アメリアは、静かにに拭き布をたたんで台の上に置いた。
 確かな予感が胸の内に芽生えていた。
 何が変わるんだろう。
 何を変えるんだろう。
 自分には変えることのできなかった、痛みを抱えこんだ年上の少女を。
 衝立の向こうでリナが立ち上がる、華やかな水音がした。



「それで、何の用?」
 素っ気なくリナがガウリイに問いかけた。
 どうして湯上がりにこんなやつに会わねばならないのかと、真紅の瞳が如実に物語っている。
 湯上がりでその頬は薔薇色に上気し、湿り気を帯びた栗色の髪がふわふわと風に揺れていた。
 とても戦場で敵味方の区別なく場を駆逐していた魔道士と同一人物だとは思えない。何かの間違いか、詐欺だという気すらおきてしまう。
 リナとガウリイは中庭にいた。
 中庭というのも語弊があるかもしれない。下界の砦と違って、敵の侵入を防ぐというのは魔道的な意味においてだから、砦の建造物やその配置全てに結界維持の意味が持たされている。
 そういった理由で、建物と建物の間に設けられた空間だった。
 もちろん、元人間たちが手合わせにつかったり、他にも色々な目的で利用されている。
 リナとガウリイが向かい合って立っている様子は人目を引いたが、リナが険悪な雰囲気で誰かと相対しているのは珍しいことではなかったので、ああまたかと視線が通り過ぎていく。
 普段のそれと違うのは、リナと対峙している相手のほうは少しも険悪な雰囲気ではないということだろう。
 ガウリイは困ったように首を傾げた。
 絡まりあうような癖のあるリナの髪と違い、どこまでも真っ直ぐでさらりとした金髪が揺れる。
「いや………この間の戦で見てて気づいたんだが………お前さん、呪文を唱えるときに若干、タイムラグがあるだろう? その間、背中が空いている。まずくないか?」
 リナの目つきが険しくなった。視線が一段と鋭さを増す。
「………わざわざそれを言いに来たの?」
「まあ、ちょっと気になったもんだから………」
「それはわざわざ御丁寧にどうもありがとう」
 リナは正面からガウリイを見据えた。
 空は途方もなく青かった。
 こちらの目も、途方もなく碧い。
「っていうことは、ずっと戦場であたしを観察していたわけ? 逃げなかったの? もしかして、もう一回死にたかった?」
 下界での死を迎えてここに来た人間に対しての、容赦ない毒の混じった言葉だった。
 だが、毒を吐かれた相手の方には、感情の変化は微塵も見えない。怒りも困惑も。
「いや。死ぬ経験は一度で充分だと思うぞ」
「ならどうして逃げなかったの。今回はともかく次であたし・・・はあんたを殺すかもしんないわよ?」
「それはないだろう?」
 ただ、確信めいた表情で、その碧い目がリナを見おろした。
「お前さんは、オレを絶対に殺したりしないだろ?」
「…………」
オレたち・・・・を殺したりなんかしない」
 リナの目が本当に微かに見張られた。
「………あんた、気づいて………」
 この五十年、誰一人として気がついたことのない隠蔽された事実に。
 たった一度の戦闘だけで。
 リナの脳裏に警鐘が鳴り響いた。決して侮っていたわけではない。ただ、リナの予想を遙かに上回っていただけだ。当たりクジなんてものじゃない。もっと途方もなく大きなさいの目が、出た。これをどう判断すればいいのかわからない。
 どうして。
 どうして気がついた?
 リナは目の前のガウリイを凝視した。その灼けつくような視線をガウリイは真っ向から受け止めた。
 リナの表情がわずかに歪んだ。
 遠い記憶が揺り起こされた。風が何かを運んできた。
 もうとっくに忘れてしまったと思っていた。下界の気配。
 肉体の時が止まることなど思いもよらなかった、楽しかったあの頃。
 そんな空気が、この目の前の青年にはある。
 そんな記憶を、甦らせる。
 凍りついたようにリナは動かない。陽光が飾りのように二人の上に降り注ぐ。
 神界は、下界にいることはまるで罰か何かのように世界の全てが美しい。前線であることを忘れさせるかのように、鳴き交わす鳥の声。
 ガウリイが、ふっと目を細めてリナを見た。
「………何を、護ってるんだ?」
「…………」
「世界中から、何を」
「…………ッ」
 リナの手が強く握りしめられて、わずかにふるえた。
 ただただ穏やかな、その声の持つ意味に触発されて、目の前に閃く光景がある。
 忘れえぬ記憶。
 再会した次の瞬間、自分以外の場にいた者は跡形もなく消滅した。何も残らず、そこ在ったことさえ疑いたくなるほど一瞬で。
 殺された。
 直接采配をふるった長さえも半殺しにして、そうしてあの人はひっそり微笑んだ。
 あの人は微笑うしかなかった。
(あたしは笑えなかった)
 この碧い目が、鎖の存在を闇の中から明るいところへと引きずり出す。斃れることを赦さない、美しい神界の形を取った自分とあの人を繋ぐ鎖!
 気がつけば、言葉を叩きつけていた。
「あんたなんかには、わからない !!」
 突然、声を荒げたリナに周囲の視線が突き刺さった。
 叫び声を聞きつけて何事かとアメリアが飛んでくる。
 その横をすり抜けて、リナは中庭から走り去った。



「リナさん!」
 アメリアの声にもリナはふりむかなかった。その小柄な背中が砦のなかに消えていく。
 わずかに険しい顔をして、アメリアは目の前の人物に向き直った。
「ガウリイさん」
 糾弾されるかな、とガウリイがちょっとだけ身構えた瞬間、アメリアの唇から意外な言葉が滑り出た。
「あなたはリナさんをどう思いますか?」
 ガウリイが目を見張った。
 アメリアはそのガウリイを真剣な表情で見上げる。
 何があったのかは聞かない。それはリナに対する裏切りだ。
 そんなことはしたくない。
 だから、これは自分がこの青年に聞きたいことだった。
「どうって………なら、お前さんはどう思うんだ?」
 聞き返されて、アメリアはわずかに目を伏せた。
「とても強くて、そしてとても優しい人です。みんな、リナさんのことを悪く言いますけど、私はそんな人じゃないって知ってます」
 前線から兵が帰投してくるたびに、陰口や悪評は増えていく。
 敵も味方も全てまきこんで術を放つと。情け容赦なく殺すと。
 陰口をたたき、遠ざけるくせに、その威力が絶大なことを知っているから、上の者は前線投入を止めようとはしない。そうしてますます下の兵たちの評判は悪くなる。
 最近では憎しみさえこもった視線が向けられているのを知っていた。
 それでもリナは態度を改めようとしない。
 どこまでも挑戦的に真っ直ぐに自分を貫いている。
 状況が泥沼になってゆくのを承知の上で、なおも突き進む。それはもはや自虐にすら見える。
 アメリアにはわからない。
「どうしてリナさんがあんなに周りに素っ気ないのか、私にはわかりません」
 自分には聞けない。
 リナは独りだ。
 手の届かない高みに立っている。恐らく周りからは唯一リナに可愛がられていると見られている自分すらも、本当は少しも彼女に近づけていない。
 どうしてあんなに自分と周りの世界を隔てているのかアメリアにはわからない。
 わからないだけに、ガウリイに聞きたかった。
 確実に、この目の前の青年は自分とは違うから。
 あんなふうに感情をぶつけられたことが自分にはない。
「リナさんに平気で話しかけられるあなたは、はっきり言って変わった人です」
「おい………」
 身も蓋もないアメリアの言葉に、ガウリイが呻く。
「だって事実です。だから訊きたいんです。リナさんのこと、どう思ってるんですか」
 嘘偽りやごまかしの答えをいっさい許さない真っ直ぐな問いだった。
 ガウリイは困ったように頭の後ろをかいた。
「どうって………目立ってる」
 アメリアは首を傾げた。
 それはもはやアメリアのなかでは当たり前のことだった。リナは目立つ。砦に着たばかりの新兵も後方支援の人間も、数日もすれば砦のなかで異彩を放つ少女に気づく。
「目立つのはわかります」
「そうじゃなくて………何かをうちに抱え込んでるから目立っているんだ。どうしてこの神さまの世界にいるのかが、わからない。だってそうだろ? オレたちは戦うために連れてこられたんだ。それなのに、どうして二心を持つことができる?」
 アメリアは絶句してガウリイを見上げた。
 予想もしていなかった答えだ。アメリア自身考えたことすらない答え。
 だけど、途方もなく納得してしまっている自分がいる。言葉にできなかった自分の疑問を相手が言ってくれたようなものだった。
「リナさんは………ここに連れてこられた初めての人間だって聞いてます………だけど、それ以上のことは何も知りません」
 うなだれるアメリアに、ガウリイは慌てて手をふった。
「悪い。訊きたかったわけじゃないんだ。訊くんなら直接訊かないとフェアじゃないしな。ただ、だからとても目立つし不思議に思ってるってことを言いたかっただけなんだ」
「はい」
 返事をして、アメリアはガウリイを見上げた。
「私は前線に出ていけません。だから、前線でのリナさんを知っているあなたを信じます」
「そんなふうに言われるほど、オレは大層なことをしてるわけじゃない。第一、まだ一度しか戦に出てないぞ」
 アメリアは首をふって、にっこり笑った。
「それでもです。リナさんを悪く思わないでくださいね。あんなふうに怒鳴ることなんていままでなかったことんです」
 そう言って、アメリアはぺこりと頭を下げると、砦の中に入っていった。
 ガウリイはいつかのようにまた苦笑する。
「どうやっても悪く思うことはできないぞ、あれは」
 謎なのは、どうして彼女が声を荒げたかだった。



 書庫でいつもの定位置までやってきたリナは、しかしいつものように座ろうとはしなかった。
 布をほどいていくと現れる革の装丁、金属で補強されているその角を指でなぞって、リナは顔を歪ませた。


(あんたの好きにしなさい)
 そんなことを言わないで。
(思うままに生きなさい)
 生きていると言える? ねえ、いまのこの状態は。
(かっこわるい生き方はしたくないでしょ?)
 そう思うよ。だけど、どうすればいい?


 何事もあまりに突然すぎると、人間はその事実を理解できなくなるから。
 出口のない迷宮のような、終わりのない生と永遠に変わることのないこの体を。
 ただ増えてばかりゆく知識と、澱のように淀んでゆく感情を。
 すべてはわかっているのに止められなくて。
「あたしは持て余してる………」
 ぎり、と立てられた爪に、文字の塗料が剥がれて喰いこんだ。




 書庫から出たリナを、数人の神族兵が待ちかまえていた。
 覚えのある顔ではない。けれどわかる。自分が先の戦で殺した神族と親しかったのだろう。
 しかたない。自分は、彼らの大事だったただろうその神族を殺したのだから。
 こうなるのは当然なのだ。
 リナはひっそりと笑った。
 騒ぎを聞きつけたアメリアが駆けつけてきたときには遅かった。
 リナは自分を私刑にかけようとした神族全員を血の海に沈めていた。
 頬に返り血をつけたままで、リナはアメリアに笑って言った。
「あんたの言うとおり、お風呂に入っていてよかったわ」

 と―――。


 リナは再び懲罰房へと戻された。