誓韻 ―時の旋律・外伝― 〔4〕

 十日過ぎても、リナは懲罰房から出てこなかった。



 窓の外から見える夜空は、星が溢れんばかりに光っている。
「アメリア」
 マルチナが呆れたようにアメリアを呼んだ。
 アメリアと言えば、ぼうっと窓の外を眺めたまま敷布をたたんでいる。
「アメリア」
「…………」
「アーメーリーアー!!」
「うひゃっ !?」
 アメリアは飛び上がって、ようやく腰に手を当てて呆れたように自分を見下ろしているマルチナに気が付いた。
「ど、どうかしましたか?」
 マルチナは思いっきり溜め息をついた。
「あなたねぇ。さっきから何回同じ布をたたんだり広げたりしてるのよ」
「………へ?」
 言われてアメリアは自分の手元に視線を落とした。
「そんなことしてました?」
「してたわよ。めちゃくちゃ思いっきりね」
 重傷だわ、とマルチナは顔をしかめて、アメリアの手から敷布を取りあげた。
「あのね、いいかげんにしなさいよ。いったいあのリナ=インバースのどこを心配してるの。だいたい懲罰房に入って十日も出てこないのは、彼女が神族の方々を殺したからで―――」
「やめてくださいッ!」
 アメリアはマルチナから敷布を引ったくった。
「リナさんを悪く言わないで!」
 叫んで、アメリアは唇を噛むと、マルチナから視線をそらした。
 リナの話を、アメリアは後方支援の仲間たちと―――それどころか、他の〈神の戦士〉エインヘルヤルの誰ともしたことはなかった。
 誰も、リナに対するアメリアの価値観を理解してくれないのだ。
 神界最初の神格化された人間エインヘルヤル。そして、とてつもない力を持つ魔道士。それゆえに特別扱いされ、傲っている。敵も味方も容赦なく魔術に巻きこみ、殺していく。そうして平然としている。血も涙もない、破綻した人物。
 神界にいる大抵の人間は、リナをそうとしか認識していない。
 笑った顔が優しいとか、アメリアを可愛がってくれているとか、アメリアのお節介にちょっと困ったような顔で応じるところとか、そういうことがわからない。
 リナも、わからせようとしない。
 だから、アメリアはマルチナとの会話を打ち切って視線を逸らすしかなかった。
 気分を害したマルチナが反論しようと口を開きかけた。
 もともと罵詈雑言を言うのに遠慮のない彼女だから、すさまじい文句が出てくるに違いなかった。
「アメリア、あんたいい加減に――――」
 その時、だった。
 騒音が鼓膜を乱打した。
 禍々しい咆吼が、砦内各所から一斉にあがった。石壁を伝い、空間をふるわせ、そうしてそれはあっという間に混乱の悲鳴と怒号へと移り変わっていく。
「な、なに………!?」
 砦内には結界が施され、ヴァン神族が侵入してくることはあり得ないはずである。
 後方支援であるアメリアとマルチナには、レッサーデーモンの咆吼など聞いたことがない。
 ゆえに何が起きたのか判断できなかった。
 扉が悲鳴をあげて吹き飛んだ。
「な………ッ」
 何の脈絡もなく現れた異形の獣に、マルチナが声にならない悲鳴をあげた。
 アメリアもただ呆然と立ちすくむ。
 淀んだ気配と臭気。
 瘴気と呼ばれるものだと、すぐに理解した。
 こんなものを相手にリナやガウリイたちは、戦っているのだ。
 ―――決して自分たちのためではない、上の都合の戦争で。
 そう思うと、激しい憤りがアメリアのうちに湧いてきた。


 ―――私たちは、こんなことのために生まれてきたんじゃない !!


 レッサーデーモンが裂けた口を開いて赤い口腔を見せた。
 喉の奥にともる赤い光。
 アメリアはとっさにマルチナに体当たりして横に倒れた。
 鋭い熱気がレッサーデーモンの立っていた場所から、部屋の奥へと突き抜けていった。
 アメリアは立ち上がると、持っていた敷布をレッサーデーモンにかぶせるようにして投げつけた。
「立ってください! 逃げないと!」
「に、逃げるってどこに………?」
 王女であった頃の感覚が、ひさしぶりに甦ってきた。
 自分が生きた時、下界は戦乱の時代だった。いまもまだそうだろう。
 アメリアはマルチナを見据えた。
「この砦の外へ。ここは、落ちます―――」




 砦にいたアース神族たちには、何が起きたのかわからなかった。
 わからないまま、空間を渡って現れたヴァン神族やレッサーデーモンの数に押されて次々と死んでいった。
「どうして、結界が………!?」
 血を吐くような、高位のアース神族の叫びは、頭蓋を貫いた銀の錫杖によって永遠に途切れさせられた。
「それはですね、あなたがたも僕たちと同じく一枚岩とはいかないからですよ。ただし、僕たちは同胞を裏切りませんが、あなたたちは平気で仲間を売りますからね。いやはや理解に苦しみます」
 黒衣の神官衣をまとった青年が、薄い笑みを浮かべて錫杖を引き抜いた。
「やれやれ。いくさとは面倒くさいものですね」
 冥府の女王ゼラス=ヘルの下僕である高位のヴァン神族は軽く肩をすくめると、あたりを見回した。
「どうやらこの砦、手に入れたようですよ。女王さま」




 時を同じくして、神界宮殿。
「北の砦が………!」
 緊迫した声は、分神である三竜王たちに仕えるそれぞれの長たちのものだった。
「どういうことだ?」
「わからぬ。急に結界がほどけた。もはや砦はもう持たぬ」
「切り捨てるしかあるまい」
「彼らもそれはわかっておろう。すぐにでも結界を再起動させるはず」
「―――あらあら、それは大変ですね」
 場違いなほど朗らか声に、三人の長は表情を引きつらせてふり向いた。
赤の竜神の騎士スィーフィード・ナイト………!」
 驚きのあまり、火竜王の長が失言を洩らした。
「いったい、だれが………!」
「私が話した」
 遅れて部屋に入ってきたのは、水竜王に仕える長だった。
「不公平であろう。物事は公正に謀るべきだ」
「困ったことになりましたね」
 主神の記憶と知識を受け継ぐ、元人間の女性が可愛らしく首を傾げた。
「たしか北の砦には、私の可愛い可愛い妹がいましたっけ。あなたたちが神界宮殿から追い出した」
 笑顔とは裏腹の無言の迫力に、他の長たちは「ああ」とか「うう」としか答えられない。
「人間の娘よ。どこに行く」
 水竜王の長の呼びかけに、主神の御輿に担がれた女性はふふっと笑った。
「相変わらずおかしな方ですね。私はもうとっくに人間ではないのですが?」
「そなたは人間だ。我らとは違う」
 五十年前から、ずっと彼女をそう呼んできた水竜王に仕える長の言葉に、わずかに彼女は顔を歪めた。
「なら、妹も人間です」
「そうだな」
 水竜王に仕える長はうなずきを返した。
「どこに行くのだ、赤の竜神の騎士! この宮殿から出ることまかりならぬ!」
 ようやく無言の圧力から脱した空竜王に仕える長が、憤激の表情で叫ぶ。
 わずらわしそうにふり返って、彼女は軽く手をふった。
「うるさいわ」
 部屋に烈風が荒れ狂う。
「私は、私の好きなところに行くのよ。ほっておいてちょうだい」
「人間の娘よ」
 背後から静かな声がかかった。
「そなたは何に、心を許すのだ?」
「私はあなたのそういうところが嫌いだわ、長」
 主神代行の女性は言い捨てると姿を消した。




 アース神族の常駐軍は大混乱に陥っていた。
 指揮官階級の神族と連絡がとれないので、統制もとれずに砦を捨ててちりぢりに敗走していく。
「ゼロスがいるのか !!」
 たった一人生き延びた指揮官級の神族が顔をひきつらせて叫んだ。
 五十年前の〈降魔の戦い〉で、その圧倒的な力をふるい、アース神族を恐怖の淵にたたき落としたヴァン神族。
 敗走しながら、指揮官は声を張り上げた。
「三竜王様方の結界を再起動させろ! 砦以上の進行を許してならん !!」
 アース神族は確保した領土に結界を施すことで、その支配を広げてきた。この砦のある方面の結界を司るのは水竜王だったのだが、五十年前にその水竜王が死んだため、結界が弱まり、残りの三竜王が協力して結界を補っていた。この結界は、ヴァン神族はもとより、許可の下りてない者いっさいの出入りを禁ずる強力なものである。
 陥落した砦を捨てて、そこを除けるようにして結界を張り直す。
 そうすれば、これ以上の侵攻を防げるはずだった。
「し、しかし……! まだ砦の中には、我らの同胞が。それに人間兵は大部分がまだ砦に………!」
「それがどうした! このままだと神界宮殿にまで奴らは攻めてくるやもしれぬのだぞ!? たしかに同胞たちの命は尊い。しかし、すでに大部分は逃げおおせているはずだ。運が悪かったとあきらめよ。人間兵はまたいくらでも補充がきくのだ。さっさと再設定をして起動させよ!」
「了解しました!」
 遅れて逃げてきた者たちは、見えない壁に逃走を阻まれるのを知って愕然とした。
「結界が!」
「そんな馬鹿な! まだ俺たちが残っているのに!」
 もはや神族も神格化された人間も関係ない。必死で見えない壁を押し破ろうとする。
「俺たちは捨て駒なのか !?」
「いまごろ気づいたんですか?」
 冷ややかな少女の声に、エインヘルヤルたちはぎょっとして背後をふり返った。
 黒髪を乱した少女が、もう一人の少女と共に息を弾ませて立っていた。
「今頃気づいたんですか? 私たちが捨て駒だって」
 アメリアは濃紺の瞳を光らせて、目の前の戦士たちを見据えた。
「アース神族の人たちは、いくらでも下界から私たちを持ってこれるんです。二束三文、一山いくらに決まってるじゃないですか。だから、ほら。こんなに簡単に切り捨てる。神族の兵のほとんどは、逃げて結界の向こうにいるんです」
 後方支援の少女は見えない壁に拳を打ちつけた。
「私もリナさんも、あなたたちのために生きてきたんじゃない !!」
 その刹那。
 壁の前にいた者全員にむわっとした圧力がかかった。
 弾力性のある布を全身に押しつけられたような感覚だった。
 打ちつけられたアメリアの拳を柔く押し返そうとして、圧力は拳を包み、アメリアをも包み、そして突き抜けた。
「え………!?」
 愕然としてアメリアは、何かが通り過ぎていった後ろをふり返った。
 そこはもう結界の中だった。
「入れた………!?」
「結界に?」
「どういうことだ。結界にこんなことが起きるはずがない!」
 逃げ遅れた神族兵が愕然として叫ぶ。
「あのね、助かったんだから疑問を持つ前に喜びなさいよ!」
 マルチナが憤然として叫んだ。
 アメリアはそのマルチナの手をつかんで、数人のエインヘルヤルのところに駆け寄った。
「ガウリイさんは !?」
 全員が首を横にふる。
「見ていない」
「おれもだ」
「あれほどの腕だ。そう簡単に死ぬとは思えないが………」
 アメリアは、マルチナを彼らの方に押しやった。
「退却するときに、彼女も一緒に連れていってください」
「って、あんたはどうするんだ?」
 アメリアは砦の方をふり向いた。
「戻ります。リナさんが、まだ残ってる―――!!」
「ダメよ!」
 悲鳴のような声をあげて、マルチナがアメリアを捕まえようとした。
 それをかわして、アメリアは砦の方へと走る。
 結界の抵抗を予想して身構えたが、あっさりとアメリアの体は結界とおぼしき場所を突き抜けていた。
「………ッ!」
 思わずふり返ると、マルチナと他のエインヘルヤルたちは結界の壁に阻まれてしまっている。
「なに、これ………」
 アメリアは思わず呟いたが、いまはそんなことを考えている場合ではない。
 壁の向こうで愕然とした表情をしている彼らに退却するように手をふって、アメリアは走り出した。
(きっと)
 走りながら、アメリアは思う。
(きっと、ガウリイさんは、リナさんのところに行ってる)
 それは確信だった。