誓韻 ―時の旋律・外伝― 〔5〕
「………なんかすごい騒ぎになってるわね、外」
懲罰房のなかで、リナはいたって平然と髪を梳いた。
「おおかた、結界が破れてヴァン神族が攻めてきたってとこかしらね」
あっさりそう呟くと、リナは扉を壊そうと呪文を唱え始めた。
こんなところで死ぬ気はさらさらない。
「…………?」
リナは呪文を唱えながらわずかに眉をひそめた。
複数の気配が、こちらに向かってくる。
瘴気を感じない。あきらかに『こちら側』の陣営の者だ。しかし、知っている気配ではない。
こんな混乱時に、懲罰房の中に入っている者を気にかける者がいるはずがない。たとえここに入っていたのがリナではなく普通のアース神族だったとしても、みんな我先に置いて逃げ出すはずだ。
錠が外れる音がして、扉が外から乱暴に開けられた。
立っていたのは、やはりというか見覚えのないアース神族が三人。
「結界が閉ざされた。俺たちは砦ごと切り捨てられた」
ふぅん、とリナは首を傾げる。
完成してしまった呪文を発動させねばならないのだが、理由もなく目の前の神族を殺すほど、頭がおかしくなっているわけではない。
彼らが何もしてこないので、リナは幸いとばかりに扉をくぐって廊下へと出た。
もちろん、警戒は怠らない。
なにせ、殺したいほど憎まれる心当たりは腐るほどあっても、助けてもらえる心当たりは欠片も存在しない。
背後の廊下の曲がり角から、レッサーデーモンの咆吼が聞こえた。
咄嗟にそっちの方をふり返ったリナは、不覚を悟った。
ふり返ってはいけなかった。
咄嗟にレッサーデーモンの気配がするほうに飛びすさったが、わずかに遅かった。
先頭に立っていたアース神族を押しのけて、その背後にいた別の神族兵がリナに向かって真っ直ぐに突っ込んでくる。
「…………ッ」
鈍い衝撃が腹に奔って、熱と痛みをともなった。
短剣がその半ばまで腹部に食い込んでいた。
予想はついていたことなのに、避けられなかった。不覚だ。
憎悪の塊のような声で、剣を突き立てたアース神族が呻いた。
「せめてお前を殺してからじゃないと、死ぬわけにはいかない………!」
「なるほど、そういうことなわけ………」
リナの表情を確かめようと顔をあげたその神族兵は、恐怖の表情をうかべた。
剣を突き立てた相手は嗤っていた。
「あたしを………」
嗤って、その手が自分を刺した神族の頭をひっつかむ。
「ナメるんじゃあないわよッ!」
「リナっ!」
神族の頭が吹っ飛ばされたのと、ガウリイが廊下の角に姿を現したのは同時だった。レッサーデーモンを屠ったのか、抜き身の剣をひっさげている。
ちらりとガウリイに視線をやって、リナは苦々しげな表情になる。
だが、それも一瞬のことで、残りの神族を殺害するとリナは窓から外に身をひるがえした。
剣をその身に、生やしたままで―――
リナのとった行動にガウリイが思わず立ちつくしたそのとき、背後から悲鳴のような呼びかけが聞こえた。
「ガウリイさんっ」
「アメリア !?」
黒髪を乱して、小柄な人物が駆けてくる。
「リナさんは !?」
後方待機の救護班は、神界に連れてこられる以前からの戦闘能力以外、何も与えられてはいない。どうやってここまで切り抜けてきたのか、アメリアは体のあちこちに小さな怪我を負っていた。
後方支援の隊は真っ先に逃げたはずなのに、どうして救護班のアメリアが陥落寸前の砦にいるのか。
「どうして逃げないんだ !?」
「だってリナさんが! 懲罰房にいて身動きとれないのに! 私一人だけ逃げるなんてイヤですっ。リナさんは !?」
アメリアの視線が、開け放たれた房の扉でとまった。次いで、床に倒れたアース神族たちに。
それでだいたいの事情を察したようだった。
問う声がかたい。
「リナさんは、どこに?」
「………逃げた」
それは間違いない。
―――だが、何から?
「怪我をしていた。オレが後を追う。アメリアは先に逃げていろ」
「イヤです。私も一緒に行きます!」
叫ぶアメリアは、ガウリイの顔を見て小さく息を呑んだ。
「オレがかならずアメリアのところにリナを連れてくるから、それまで待ってろ」
「…………」
「いいな?」
「はい………」
小さくうなずいたアメリアに、ガウリイは笑って言った。
「一人で逃げられるか?」
アメリアは再びうなずいた。
「もちろんです。何とかします。ガウリイさんはリナさんの後を早く追いかけてください。………お願いします」
アメリアにうなずき返すと、ガウリイは窓から外へと飛び出していった。
それを見送ったアメリアが、怒号と悲鳴の耐えない砦を脱出しようとしたときだった。
背後の闇から伸びた白い手が、アメリアの首筋にからみつく。
「 !? 」
「見ーつけた。初めまして、アメリアちゃん」
いたずらっぽい女性の声が耳元で囁いた。
背中からまわされたその手がついと持ち上がって、アメリアの前方で手のひらを向けた。
ちょうど角から姿を現したレッサーデーモンが一瞬のうちに塵と化す。
「な………!?」
「んもう、心配したじゃない。せっかく結界に取り込んだのに出ていくって言い出すんだから」
ふふふ、と笑ってアメリアの体からのしかかっていた柔らかな重みが離れていった。
愕然として後ろをふりかえったアメリアの目の前で、リナによく似た年上の女性がにっこり笑って小首を傾げていた。