「――――?」
草を踏む足音に、リナはいつのまにか閉じていた目を開いた。
体を起こそうとしてみたが、すぐに無駄な努力を放棄する。
油断なく気配を探って呪文を口ずさもうとしている自分に、リナは発作的に嗤い出したくなった。
(あたしは生きる。死にたくないって普通に思うわ。多分、あたしは―――)
何があっても生きている。
だけど生きていく意味が神界には見いだせない。
それは既に手の中から取りあげられ、いまだ新たな世界は見つからない。
(約束の地はどこに?)
そんなもの、あるはずがない。
だれか助けてほしい。
(あたしと、あのひとを)
この世界から。
相手の視界に自分が入ったと思われる瞬間、リナは呪文を解き放った。
「ブラム・ブレイザー!」
「うわっ」
驚いたらしく、ひどく慌てた声がした。
聞き覚えのある声に、リナの頭のなかが真っ白になる。
思わず間の抜けた呟きを洩らしていた。
「…………は?」
「は? じゃない。危ないだろうが!」
「いや………危ない言われても………」
口ごもって、リナはようやく我に返った。
「どうしてここにいるのよ !? ガウリイ!」
星空と暗い枝葉をさえぎって降りかかった金の糸を、乱暴にリナは払いのけた。
昼の空のような色の瞳がリナの顔を覗きこんでいた。
「へえ、やっと名前呼んだな」
至って呑気にそう言うと、ガウリイは血塗れのリナを見てわずかに顔をしかめた。
「平気か?」
「…………」
―――どうしてこの人物は、いつまでたっても何があっても自分のペースを貫いてくるのだろう?
リナはきつく目を閉じて、投げ出した手で地面の草をぶちぶち引きちぎって必死に心を落ち着けようとした。
「………あんたのおかげで平気じゃなさそうよ………」
乾きかけている血塗れの指をその鼻先につきつけると、リナはうめいた。
「いいから、あたしを平気にしておこうと思うんなら、黙って質問に答えなさい。どうしてここにいるの?」
「どうしてって言われても………」
心底不思議そうにガウリイは答えてきた。
「お前さんのあとを追ったから」
ますますリナは顔をしかめた。
「じゃ、さらに聞くわよ。どうやって追ってきたの。どうして追ってきたの」
ガウリイは困ったように笑った。
リナは怒りで目の前が真っ赤になる。
それは子どもに見せる種類の笑みだった。駄々をこねる子どもに見せる笑い方。
リナは手を突きつけてガウリイの目の前で握ると、一気に開いた。
そこから光条がほとばしる。
「おい待てよ」
難なくよけると、ガウリイは慌ててリナの手をつかんだ。
「ちゃんと答えようとしてるだろうが」
「笑うな」
低く押し殺した声。
「悪かった」
素直にガウリイは頭をさげた。
リナは大きな溜め息を吐いた。どっと疲労が押し寄せてくる。
もはや、何もかもどうでもいいような気分である。
「あー、もういいわ………何でも………。で、何か用?」
今度はガウリイが大きな溜め息をついた。
「そりゃないだろう」
「どういうことよ?」
「この状況で何か用はないだろうよ」
リナは寝転がったままあっさりと答えた。
「他に何を聞くのよ。助けに来たなんて冗談でも聞きたくないわ」
「どうしてだ?」
すさまじい目つきでリナがガウリイを見た。
「必要ないからに決まってるでしょ」
「そんな怪我には見えないが」
カッと目の前に火花が散ったような気がした。
「いらないったらいらないのよ!」
叫んで、リナは勢い良く体を起こした。
激痛が体を奔り抜けて、傷口が開いた感触がした。
「おい………!?」
狼狽したようなガウリイの声にも、リナはかまわなかった。
差し出されたその手をふりはらう。
「いらないって言ってるの! 助けなんかなくったって、あたしは何が何でも生きているんだから !!」
激しい怒りが体を灼いていくのがわかる。
そうだ。自分は何があっても生きている。人から望まれなくても生きてやるが、少なくとも望んでくれる人がいる。自分から死んだり、他者に負けたりなどするものか。
自分はそんなに弱くない。
勁くもない、だろうけど。
「あたしは何があっても生きていくのよ! 死んだりなんかしない!」
「…………」
ガウリイが気圧されたように口をつぐんだ。
リナはただ睨みつけていた。
眩暈がする。体は熱い。呼吸がひどく耳障りだった。
「そう約束したんだもの………。あたしは一人で平気なの。ごらんの通り、死ぬような怪我でもないわ。世話を焼かないで」
「………オレも約束したんだ」
碧い目が真っ直ぐにリナを見た。
眩暈がひどくなる。
初めて見たときは神界の空の色だと思った。
いまは違う。
これは、果てのない天空の色ではなくて、果てがあることを知らない下界の空の碧だ。
ひどく懐かしい色だ。
その空の行き着く先にはいつだって、生きていく自分自身があった。
ガウリイは真剣な口調で告げた。
「アメリアに、お前さんを絶対連れて帰るって約束したんだ。オレも約束を破るなんてできない」
「アメリア………?」
リナは戸惑ったように目をしばたたいた。
あの黒髪の、大きな青い目はいつも真摯にこちらを見上げてきていて。
ときどき「やめてよ」と叫びだしたくなるほどに、無条件にこちらを慕ってきた真っ直ぐな心。
彼女がいたから救われていた面も確かに存在していた。
そのアメリアが―――――。
約束?
(あたしを………連れて、帰る………?)
待ってる?
呆然としたリナの横に、ガウリイは座り直した。
「何があっても生きてるつもりなんだろう?」
不思議なほどにのんびりと穏やかに耳に届く声。
声も目も表情も仕草も、表されるものすべてそれはひととなりの一端だ。アメリアにはアメリアの声と目と表情があるように。
この声と、目からは。
いったい何が伝わってくる?
「………そうよ。負けてなんかやらない。死にたくないのよ。人間だれだってそうでしょ」
「そうだな。オレたちは人間だしな」
ガウリイの困ったような声が続く。
「だったら、もう少し楽にした方が得だと思わないか? 自力で帰るより、オレと帰ったほうが断然痛い思いしないですむと思うぞ」
「…………」
リナはさらに激しくまばたいた。
幾つもの言葉が喉元までせり上がってきて、結局唇から出ることなく沈んでいった。
なんだか自分が空気で膨らませた人形で、その空気が足下からふうっと抜けていっているような気が、とてもした。
まともにとりあうのが馬鹿らしいような………違う、自分が知らない間に重い荷物を背負っていて、それを唐突に取ってもらったときのような、すとんとした軽さ。
急に、自分自身が何も知らない愚か者のよう思えた。
沈黙は果てしなく長かった。
「………リナ?」
「あんた………」
ようやくリナは声を発した。
後ろの方に手をついて体を支える。
「あんた、何?」
「何って………」
リナはひどく顔をしかめてガウリイを見た。
「何考えて生きてるの」
あんまりと言えばあんまりな問いだった。この状況で問われたら、普通の人は呆気にとられるか、怒るかする。
目の前のガウリイはと言えば、わずかに首を傾げただけだった。
「その言葉、前にも言われたことがある気がするな」
リナはわずかに眉をひそめた。
少なくとも自分はこれを言うのは初めてだ。
「誰に?」
「生きている間に、傭兵の先輩に、だったかな」
その答えよりも、別のことにリナは気を取られた。
「あたしたちは生きてるわ。馬鹿なことを言わないで」
「一度死んだよ」
何でもないことのようにガウリイは続ける。
「自分の死ぬ瞬間を覚えて生きている人間なんていない」
小石が爪の間に食い込むほど強く、地面に爪を立てた。
目の前が真っ赤になる。
「そ……うよ……。覚えて、るわ………」
それこそ死ぬほど抗ったのだ。
敵うはずのない、神族に。
「あんたは自然に見せかけて殺されたでしょうけど、あたしは違うもの。神族たちがあたしを殺しに来たのよ。ここに連れてくるために………!」
「それでお前さんは神族に二心を持つことができるんだな」
その声がひどくリナを苛立たせる。どうしてそこまで苛立つのかリナ自身にさえもわからないほどに。
「あんたもね」
リナはガウリイを睨みつけた。
「あたしの二心の理由がそれなら、あんたはどうして、他のやつらと違うの? 戦うためだけに連れてこられてその通りにしてるやつらとは違う。最初からあたしに気づいていた………!」
ガウリイは、何でもないことのように相変わらず淡々と答えていく。
「お前さんは目立つよ。それは事実だ。ただ、オレは………人と違うらしいから、そう見えた。それだけだ」
「わかるように言って」
リナはげんなりした顔でそう言った。
ガウリイはさらに困った表情で考え込んでいる。
「だってそう見えたんだから仕方ないだろう。オレにはどこが違うのかさっぱりわからんが、同じだけど違う世界で生きているヤツだと、先輩に言われたことがある」
「ああ………」
リナは大きく息を吐いた。
なるほど、そのガウリイの傭兵の先輩とやらはよく言ったものだ。
同じものを見ているのは間違いがないのに、それを照らし合わせて見たとき全然違うものになっているのだ。リナがずっと感じていた苛立たしさを伴う違和感はそれなのだろう。
ふと、尋ねてみたくなった。
「あんたには、神界はどう見えてるの」
「見え方なんかどうでもいいはずだろう」
「知りたいのよ」
「人間の世界じゃないな」
「なに当たり前のことを言ってるのよ」
「それ以外に何かあるのか」
リナは口をつぐんだ。
しばらく経ってから、ようやくぽつりと呟く。
「………あんたって変な人」
降参の呟きだった。何に負けたのかと言われれば、答えることはできないが。
「よく言われるよ」
対する答えは、ひどく穏やかだった。