誓韻 ―時の旋律・外伝― 〔7〕
「とりあえず、オレと帰るのは納得してくれたか?」
何気なく問われて、リナはそっぽを向いて髪をかきあげた。
「アメリアが待ってるんならしょうがないわね。来てしまったものはしょうがないし、ここから別々に帰るってのも馬鹿な話だわ」
生乾きの血がこびりついた手で髪をかきあげてしまったことに気づき、リナは顔をしかめた。
ガウリイの手を借りてふらつきながらも立ち上がると、リナはガウリイの目を真っ正面から覗きこんだ。
「時間は経つのね。どんなときでも経つんだわ」
たとえその先に終わりが待っていなくとも。
リナの言葉にガウリイは答えない。
「あたしがここに来たときのままじゃない。最初はアメリアが増えたわ。そして次にあんたが。そうやって生きているのに死んでいるあたしたちが増えていくのよ」
リナは明けてゆこうとする夜空に目をやった。
菫色の夜明け。下界では、目覚めと生の歓びをともなって訪れるひそやかな始まりの光。
ここではただ明けてゆくだけのその美しい光。
「あんたこれからどうするの」
「どうもしない。ただ、もう一度死にたくはないな」
リナはフッと微笑った。
「そうね。あたしもそんなのまっぴらだわ」
そう言って黙りこんだ後、唐突にリナは話し出した。
「あたしには姉ちゃんがいるのよ。神界に」
「ここに?」
驚いた表情でガウリイがリナを見た。
リナはひとつ頷く。
「〈神の戦士〉じゃないわ。姉ちゃんは特別なの。スィーフィード・オーディンの力と記憶を受け継いでいる人間だったから、ここに迎えられたの―――あたしに手を出さないことを条件にね」
夜が明けていく。
ひそやかに、けれど確実に始まってゆく。誰にも気取られることなく、この胸のうちで。
「だけど、神族は約束を破ったわ。その二年後、あたしはここに連れてこられた。姉ちゃんはそのとき、あたしを連れてきた神族をその場で殺した」
再会した次の瞬間、自分以外の場にいた者は跡形もなく消滅した。何も残らず、そこ在ったことさえ疑いたくなるほど一瞬で。
殺された。
直接采配をふるった長さえも半殺しにして、そうしてあの人はひっそり微笑んだ。
あの人は微笑うしかなかった。
自分は微笑うことなどできず、そうして約束するしかなかった。
―――何が何でも生きていくこと。
あの女は自分よりも勁い人だけれど、それでも病んでいる。
この世界に。
リナは空から視線を外した。見つめるほど意味のある空ではない。
そして、ガウリイをふり返る。
「あんたは下界に似てるわ」
ガウリイの目を再び覗きこんで、リナが恐ろしく真剣な口調で呟いた。
「生きていく場所に似てる。終わりがないように見えて、あるのよ。そして終わる先にはいつも自分自身がいて、結果をつきつけてくるんだわ」
あんたはきっと、他人にとってそういう存在なんだわ―――そうリナは呟いて、血塗れの自分の体に目をやった。
「たぶん、あたしはあんたを待ってた」
さまよってさまよって、霧のなかを突き抜けた先には、鏡に映った自分自身しかいなかった。
突き抜けてしまったものはふり返ることでしか確認できず、突き抜ける前より確実に何が変わってそこに在るのだ。
毅然とリナは顔をあげた。
「帰りましょ。多分あたし、あんたのことをアメリアと同じくらい好きになれると思うわ」
ガウリイは、黙って頷いた。
微かに笑ったようだった。
「あら、面白いものを見つけた♪」
えらく弾んだ声がした。
ガウリイと共に森を抜けて、砦が見えるところまで何とかたどり着いたときのことだった。
その声をきいたリナが声もなく硬直する。
「ね、姉ちゃん………?」
「と、アメリア?」
ガウリイがのんびりと呟く。
前方に、リナに面差しがよく似た女性とアメリアが並んで立っている。と思う間もなく、アメリアのほうがすっ飛んできてリナに抱きついた。
「リナさんっ、よかった無事で………!」
だが抱きつかれたリナの方は、愕然と姉である人物を見つめたまま動かない。呆気にとられているのと、幻覚を見ているのかと自分を疑っているのが混ざった奇妙な表情をしていた。
「姉ちゃん………?」
恐る恐る名前を呼ばれて、姉の方は可愛らしく小首を傾げる。
「どうしたの、リナ?」
「どうしてここにいるの?」
「ご挨拶ね。可愛い妹がいた砦が陥落したっていうのを聞いて、心配で飛んできたんじゃないの。でもまあ、五年ぶりね、元気だった?」
そう尋ねられて、リナは強張った舌を無理矢理動かした。
「これから、元気になる」
ルナがわずかに目を細めた。
リナは、アメリアの手をゆっくりと外しながら尋ねた。
「姉ちゃんは、元気だった?」
「病んでたわ―――」
アメリアがきょとんとした顔でリナとルナのやり取りを聞いている。
ゆっくりとリナは姉の元へと歩き出した。
「あたしたちの敵はヴァン神族じゃない。ねえ、そうでしょ?」
終わりがなくても終わりを目指して歩いていくしかないのだ。
(あたしもあなたも、歩いていけるはず)
(お互いに、独りではないのだから)
ルナは直接答えず、心から嬉しそうに笑った。
「美人になったわ、リナ」
「姉ちゃんの妹だもの」
「ふふっ」
やり取りを見守っているガウリイとアメリアにも聞こえるように、リナはルナに確認した。
「斃すよ?」
ルナが軽く瞑目した。
「ええ、斃すわ」
そうして、打って変わったような鋭い表情で、ルナがガウリイとアメリアを見た。
その彼女の機先を制して、ガウリイが口を開く。
「オレは、リナのそばにいる。ここで生きていくからには、そうしたい」
「私もです」
ルナは無言で二人を眺めると、リナの背を押した。
「先に行きなさい」
「え? ね、姉ちゃん?」
「いいから。いかないとはっ倒す」
リナは顔を引きつらせて姉の言うとおりにした。
その背中が声が届かなくなるところまで遠ざかったのを確認して、ルナはすっと腕をのべた。白い腕のその先には剣の柄が握られている。
「私とリナは、アース神族を斃す。いまは無理でも、そのうち絶対に」
「―――私はリナさんと一緒にいます! 何があっても一緒です!」
ルナは晴れやかに笑った。
彼女の持つ剣の切っ先が、ガウリイとアメリアに突きつけられる。
「では、それを誓いなさい。その名が持つ韻にかけて。私も、あなたたちを庇護することを名にかけて誓うわ」
やがてガウリイとアメリアから応えが返ってくると、ルナはにっこりと笑って剣を消した。
そして、次にその白い手が、アメリアとガウリイを軽く抱きしめた。
「いままであの子をありがとう。これからもリナをお願いね。
やがて、時が充ちるまで―――」
それから三百年ほど時が過ぎ、シルフィールやルークが新たに加わり、運命の女神であるフィリアの協力のもとリナたちは覇権をアース神族から奪い盗った。
それから後もヴァン神族との戦闘は続き、仲間は時に増えたり減ったりした。千年前には大きな戦が起こり、そのとき喪った仲間のなかにはアメリアと、新たに加わったゼルガディスが含まれていて、リナはひどく気を滅入らせた。
そんなときにもガウリイは常に彼女の隣りにいてくれた。
―――リナはいまでも鮮明に憶えている。
千年前の神界戦争の終結間際の、あの瞬間を。
耳元で唸る風と、悲鳴。
血を流していたのは自分自身ではなく。
けれど、泣いていたのは自分で。
声をからしてもなお叫び続けたのは、彼のためだった。
(あたしのそばにいるんでしょう !? 誓いを破るなんて赦さない !!)
神界での死は、滅びの死。ここで別れてしまえば、永遠にその魂と巡りあうことは有り得ない。
世界も未来も、自分自身すらも、たったひとりにはかえられない。
初めて、心の底からそう思った瞬間があった。
(リナさんだめです、その術は………! 因果律が崩壊します―――!)
背中を押してくれた姉の手の感触も、まだ憶えている。
(―――まあ、あんたのせいで死ぬってのも悪くないわ。いってらっしゃい)
たったひとりを助けるために。
神族の砦で出会い、散々たる反発と苛立ちの果てに、隣りに在ることを望んだ存在を喪わないためだけに。
自分は始源の海に座す母なる姫を喚びだした。
………それによるフィブリゾ=ロキの消滅と共に神界戦争は終わりを告げ、神族は受けた痛手のために双方ともに手を退いた。仲間たちのうち何人かは生き残り―――そうして自分は因果律崩壊の代償を受け取ったのだ。
(シャブラニグドゥ=グルヴェイクの欠片のひとつは、あんたのうちに宿ったわ、リナ)
(そのときが来たら、私がしっかり殺してあげるから安心なさい)
ガウリイには黙っているが、おそらく気づいているのだろう。もしその時が来たとき、自分を殺すのは姉ではなくて、きっと彼だ。
永遠にその時がこなければいい。
そうして、ゆるやかに千年の時間が過ぎた。
いつか時が充ち、代償の支払いを迫られる前に、ガウリイが気を変えて輪廻の環のなかに戻っていく可能性は、彼がゼルガディスに自分の運命の糸を譲ったことで綺麗さっぱりなくなってしまった。
遠い遠い過去からの誓いは、より絶対のものとなってリナの前にある。
ふとリナが眼下に目をやると、すでに花嫁と花婿の姿はどこにもなく、列席者の最後のひとりが大聖堂の外へと出て行くところだった。
「やだ。いつのまに出ていったのよ?」
「お前さんがぼーっとしてるからだろ」
呆れたようにガウリイが呟いて、ぽん、と軽くリナの頭に手を置いた。
その感触に、リナはわずかに目を伏せて笑う。
「ばーか………」
「?」
きょとんとしたガウリイの手の下から抜け出して、リナは天井近くの桟敷から、さらに色硝子でモザイクをされた天蓋の真下へと舞い上がった。
色づいた光を浴びながら、ふわりとガウリイのほうへ向き直ると、リナは晴れやかに笑って手を差しのべた。
「おいしいもの食べてから、帰ろっか」
衣の裾が光を受けてひるがえるさまに目を細めていたガウリイは、笑いながら頷いて、その手をとった。
〈了〉
