Unlimited Blue
敵も味方もいらなかった。
いびつな夜明けも積もる孤独もいらない。
欲しいのは、互いの存在。
互いの目に映る、自分自身の姿。
本当にただそれだけ―――。
執務と執務のあいだのわずかな休憩時間を楽しんでいたアメリアは、二人の侍女を従えて姿を現した宮廷大臣を見て露骨に嫌な顔をした。
その表情に気づいていないはずはないだろうに、宮廷大臣は素知らぬ顔のまま一礼すると、侍女たちが抱えてきた平べったい布包みを開けるよう命じ、アメリアに向きなおった。
もう、見なくても形だけでそれが何か見当がついている。見合い資料だ。
―――つまり、肖像画。
アメリアは無言でスコーンにクリームを塗り、さらにその上からジャムをのせて頬張った。口を動かしているあいだに、包みの布は取り払われ、予想通りその下から若い男の胸像画が顔を覗かせる。
アメリアはちらりとそれを一瞥しただけで、やはり無言のまま香茶のカップを持ちあげ、黙って啜った。
「ゼフィーリア第二王子、ナイアス様でございます」
沈黙に耐えかねて宮廷大臣がそう告げると、アメリアは北東の友好国の名に興味を引かれたのか、あらためて肖像画をきちんと見なおし、首を傾げた。
「あそこ、王子なんていましたっけ?」
「いらっしゃいます!」
身も蓋もないその言葉に、額に青筋をたてながら大臣が答えを返せば、
「王女はたしか第五までいますよね。次女がたしか王太子で。あそこは完全に女系ですから、殿方はいまいち記憶に残らないんですよねー。そう言われれば、女王陛下に似ている気がしないでもないような………」
などとアメリアは呑気に感想を呟いている。
あくまでもその話題に触れずにすませようとする第二王女に、宮廷大臣はもはや前置きも何もなく切り出した。
「来月の二十日です」
「断ってもいいなら会いますよ?」
「どこの国に断ることを前提に見合いする者がおるのです!」
「なら最初からお見合いしなければいいじゃないですか」
「あなたさまはご自分の立場を本当にわかっておられたうえでそう仰っているのですかッ!」
とうとう辛抱たまらず怒鳴りつけた宮廷大臣だったが、相手のほうが一枚上手だった。
「アメリア=ウィル=テスラ=セイルーン。セイルーン第二王女。現国王の孫なので正確には第二王孫女ですね。継承権は第四位ですが、実質的には次の次の代はわたしでしょうね。当年とって二十歳。王族の常識からすると嫁き遅れ。姉さんが帰ってくるか、父さんと叔父さんが後妻をもらって子どもをつくるかでもしないかぎり、わたしが直系を生まなきゃまずこの王家は絶えるでしょう―――わかってますよ?」
そう言って、アメリアはにっこりと笑いかけた。宮廷大臣は酢を飲んだような顔になり、その背後では肖像画を持つ侍女たちが、露骨に怯えて後ずさる。
「嫌ですねえ。何も結婚しないなんて言ってないじゃないですか」
「では見合いをなさってください」
「嫌ですよ。ちゃんと相手がいるのに何だって見合いする必要があるんです」
「その相手とやらはどこにいるんですか!」
「この世界のどこかに確実に。まあ、外の世界には何もなかったですし、半島内にいるんじゃないですか?」
けろりとしたアメリアの答えに、宮廷大臣は憤死しそうな顔をした。
さすがにからかいすぎたかと思ったアメリアは、大臣が大きく息を吸ったのを見てとっさに耳を塞いだ。侍女二人もそれに倣う。
「いい加減になさいませ―――ッッ!」
壁の向こうから聞こえてきた怒鳴り声を、扉脇に立っていた衛兵は首を引っこめてやり過ごした。
―――その夜。
寝台の上でアメリアは欠伸を噛み殺した。
湯浴みをしたばかりで体はほかほかと温かい。何となく気分がのったのでストレッチをはじめると、思った以上にあちこちが固かった。
凝りのひどい首から肩にかけてを重点的にほぐしていく。体を前に倒すと、以前よりも曲がらなくなっていた。
「なまってますぅ」
痛みに顔をしかめながら呟き、アメリアはそのままくたりと力を抜いて突っ伏した。香草で煮沸した敷布からは、胸がすくような香りがする。贅沢な匂いだ。
ごろんと寝返りをうち、アメリアは窓の外に目をやった。
夜空では星が、針先のように鋭く輝いている。
夜空は黒い色をしているのだと思う。ただ、その黒はのっぺりとした黒ではなくて、青が深まって行き着いた果ての黒なのだ。だから月や星が光れば光るほど、もとの色に近くなってぼんやりと青みを帯びる。青い闇になる。
「………わたしの眸の色」
寝台の上に仰向けに寝転がったまま窓の外を眺めていたアメリアは、ぽつんとそう呟いた。
アメリアの目の色は青だが、紺色よりは色味が薄く、青玉と呼ばれるサファイアよりは濃い。
いままで王宮の者たちからは海の色だと誉めそやされてきたその双眸を、星が光る夜空だと言った相手のことを思いだしていた。
決して誉めたのではない。そこに行き着くまでの会話は闇とか暗がりとか陰りとか、どちらかというと抽象的な、あまり明るいとはいえない話題だった。
そういった話をしていると、ふと相手がこちらの目を見て言ったのだ。
無数の星が光る青い闇だと。
「前からわかってたことですけど、けっこう詩人ですよねあの人………」
アメリアはくすりと笑ったが、笑い終えると何とも言えぬ茫漠とした穴を胸内に抱えこんでいるような気分になって、物憂げに瞼を伏せた。
「わかってますよ………」
自分で呟いて、少しいらついたアメリアは上体を起こすと枕元まで這っていき、そこで枕に顔を埋めて香草の匂いを胸いっぱいに吸いこんだ。
わかっている。
所詮は口約束。
時間というのは平等で残酷だ。どんなに鮮やかな感情や記憶も、ゆるやかに色褪せていく。新しい記憶の塗り替えがない想い出は、うつくしく時を止めたまま、現実との齟齬が大きくなるばかりで。
恋なんてひとときの熱病みたいなものだ。持続しなければ冷めるだけ。あるいは勘違いしたままの微熱が続くだけ。
だから皆は口を揃えて言うのだ。
たとえその時は本物の想いだったとしても、それから何年過ぎたのですか。約束が守られる保証など、どこにあるというのですか。このまま何十年経ったとしても、約束が果たされるとは限らないのに。
そんなことはわかっている。
しかし、だとしたら、何のために約束をするのだろう。
約束が履行されるまで、その約束をしたという記憶は、どこまでも色褪せていく過去の想い出でしかない。それは当たり前のことなのだ。約束が果たされた瞬間に色鮮やかに現実によみがえるが、それまでは過去のもの。
あきらめろ、だなんていうのは、まったく理屈が通らない。だからこその約束なのに。
過去をさかのぼって履行され、現実となるものだからこそ、交わされるものなのに。
「まったくもう………わかってないのは、そっちです」
待つ孤独のなかで、どこまでも誇らかに自分は立つだろう。そのことに彼はまったく関係ないのだ。それが周囲の者にはわからない。
恋愛は惚れたほうが負けだというなら、負けたことこそを誇って、ドレスの裾はひるがえる。
競って負けて痛みを覚えて、最後に勝つのはこの自分。
「見てなさい」
呟いて、アメリアは目を閉じた。
眠りに落ちる間際、もう長いこと会っていない相手のことを思いだしていた。
―――青い闇、というのは悪くない。
闇のなかに、何かを別のものを孕んでいる気がする。
きっとありとあらゆる青がそのなかにはある。
氷が落とす薄い影のような、無色に近い、あの淡い青の色も。
闇のなか、ゼルガディスは覚醒した。
目を開けたという認識はあったが視界に変化はない。顔の前に手を持ってきても、鼻先に指が触れるまでその位置がわからないような、真の闇だった。
眠りに落ちるまではライティングの明かりがあったはずだ。寝ている間に消えたのだろう。
見下ろしても体の輪郭はわからなかった。本当に何も見えない。体の感覚すらも下手をすると闇に滲んで融けていきそうだった。
呼吸をすればするほど、己の内側が闇で満たされ、やがて循環するように身のうちから外へと溢れだして、ひとつに融ける。
意識だけが闇のなかで浮遊している。
何もかも呑みこむような真性の闇は、ただそこに居るだけで気が変になりそうだった。自らの体が膨張して闇そのものとなるようだ。意識は肉体から離れて全体に広がり、闇とひとつになる。
案外、精神世界面の魔族というのはこんな感じなのかもしれない。
埒もないことを考えて、ゼルガディスはひとり苦笑した。
壁に体を預けたまま呪文を唱え、極弱い明かりを生みだす。
昼の光のなかでは視認すらできないような淡い光。
ただそれだけで、ゼルガディスは輪郭をとりもどす。
そして同時に現実も色と形をとりもどし、彼にまとわりついた。細い金属の髪に青黒い岩の肌。相も変わらぬ合成獣の体。
唯一、これだけは合成前の色を残した無色透明な印象を与える蒼澄の双眸にライティングの光が射しこみ、ゼルガディスはまぶしげに目を細めた。
氷が落とす影みたいですねぇ、と言われた色だった。
そう言った相手との口約束だけを後生大事に抱えて、いまこうして地下深くの遺跡で眠りから目覚める。
朽ちかけてじめついた遺跡の一室だった。地下深く、外は遠い。昼か夜かもわからない。
潜ってみたのはいいものの予想以上に広く深かったため、力尽きて途中で寝てしまった。さっさと最奥までたどりついてしまいたい。
ゼルガディスは立ちあがると、ライティングを唱えなおして光度をあげた。
光を怖れるように闇はゼルガディスの周囲からは遠ざかったが、かえって深さと暗さを増した。覚醒直後の融けあうような恐ろしさはないが、水面に落とされた油のように否応なく弾かれて存在する圧倒的な孤独感がある。
(―――しんどいって顔してる)
ふもとの街の酒場の女給は、からかうようにそう言って寄越した。
この遺跡に潜る前夜のことだった。
うらぶれた酒場に彼以外の客はなく、女給は暇を持て余したのか、彼がろくに返事をしないのにもかまわず話しかけてきた。
「変わる前と変わった後は楽なんだってさ」
唐突に女給はそう言った。
突然の言葉とその内容に―――ゼルガディスはわずかに興味を惹かれた。
相手の注意を引けたことがわかったのか、女給は安い口紅をひいた唇でにんまりと笑って続けた。
「どんなに大変なときだって、続いている間は楽なんだって。変わる前も変わった後も、続いてりゃ楽なんだってさ。なぞるだけだから。死ぬほど苦しいのは、変わる瞬間なんだって。前のものを残しながら変わるためにひっくり返らなくちゃなんないから、ジタバタして地べた転がりまわるんだってさァ―――「もの」も「こと」も。前に来た偉そうな客が、何だか小難しいことと一緒にくっちゃべってたよ」
言って、女はゼルガディスのフードのなかを覗きこむように目を細めた。
「で、兄さんはしんどそうな顔してるのさ。何かあがいてんのかい?」
「―――いや」
そこでようやくゼルガディスは初めて声を発した。
「まだだな」
短くそれだけを言ったが、女給は見かけほど頭が悪いわけではないらしく、彼の言いたいことを察したようだった。
「じゃあ兄さん、これからもっとしんどいってワケかい。難儀な人だねぇ、あんたも」
盆を抱えたまま呆れたように声をあげ、ふと何かに気づいたかのように表情を変え、赤く塗られた小指をたてる。
「あ、わかった。まだこれからなのにしんどそうってのは、誰か待たしてんでしょ、いい子」
ゼルガディスは無言だったが女給は気にせず、にやけた顔のまま言った。
「待たせんだね、あんた。待ってるんだ、その子?」
にやけた顔が洋燈の灯りで一瞬、毒々しく染まる。
「―――でも、あんたがここでこうしてるいま、その子は別の男と寝てるかもしれないよ?」
「知ったことじゃないな」
「あら」
予想外の答えだったらしく、女給の表情が呆けたものになる。
「俺が待たせていることと、あいつが待っていることは別のことだ。混同するから、裏切られただの勘違いして泥沼になるんだ」
「へえ、兄さん頭いいね。何とかと紙一重」
女給は曖昧な表情のまま、軽く肩をすくめた。
ここで黙ってもよかったが、何となくゼルガディスはそのまま続けた。
「実際、あいつも今頃さんざん囁かれているだろうよ」
「何てだい?」
「いまごろどっかで野垂れ死んでいるかもしれないと」
「ああ、なるほどね! そりゃそうだ」
合点のいった顔をして、女給はけたけたと笑いだした。
「言われたそのことをどう処理するかは、お互い別々の脳みその仕事だもんねぇ。そりゃ別だ。うん、兄さん頭いいじゃないの―――でも馬鹿だねぇ」
そう言った女給の口調に侮蔑の色は微塵もなく、ゼルガディスは怒りもせずにそれを黙殺した。
「その子も馬鹿だねぇ」
女給はいままで見せた笑みのなかではいちばん極上の微笑を浮かべ、ゼルガディスに流し目をくれながら立ち去り際に言った。
「でも嫌いじゃないよ、そういうの」
「―――余計なお世話だ」
ゼルガディスは椅子から立ちあがり、飲み代を卓に置いて店を出た。
店を出ると、星がひどく冴えた光を放っていた。
そのことを思いだし、遺跡の階段を下りながら、ゼルガディスは薄く唇に笑みを刷いた。
雲ひとつなく晴れた夜空を見るたびに、相手のことを思いだす。
気質も外見も陽性のものを持っているにも関わらず、ゼルガディスが彼女に抱くイメージは夜だった。
銀砂をぶちまけたように星がひしめきあって輝く青い闇。
きらめきを孕みながらも、容易に覗きこませない深淵を奥に持つ目だ。
あの視線の向く先が自分であるように、どこまでも足掻くだけだ。
もし―――向こうがあきらめたならば、それは国の慶事として風聞されてこの耳に届くだろう。自分があきらめたならば、いまは水筒に引っかけられている預かり物が送り返されることになるだろう。
そうでなくとも、いつか終わるその刻限が来たら、自分は観念してそれを返しに行くだろうし、向こうも黙ってそれを受けとるだろう。
時間が限られていることぐらいわかっている。
―――階段が途切れた。
ゼルガディスが掲げるライティングの光に、重い石の扉が陰影となって浮かびあがった。
「お互い、わかってるさ」
呟いて、彼は扉に手をかけた。
信じたくて信じているのだ。お互い、勝手に。
いつかその想いが重なり交わって、ひとつの流れになることを願いながら。
―――闇のなか、ふと目を覚まして身じろいだ。
完全な闇ではない。ぼんやりと星明かりが射しこむ淡い闇だった。
すぐ隣りの相手の輪郭がおぼろげながらもわかる。静かな背中が目の前にあった。
そっと手を伸ばし、そのぬくもりを感じながら目を閉じる。
それから、ひどく無防備に笑った。
敵も味方もいらなかった。
いびつな夜明けも積もる孤独もいらない。
欲しかったのは、互いの存在。
月と星が皓々と輝く夜空のような闇に近い青。
氷が落とす影のような限りなく透明に近い青。
その青の瞳に映りこむ、自分自身の、その姿―――。
〈end.〉