果 て

 それは、久遠の時の果て。


「ねえ、ちょっと待って……ちょっと休もうよ」
 いちばん後ろを行くサナが、情けない声とともに地面に座りこんだ。
 アリシアも気遣わしげに立ち止まる。
 先頭を行くヴァルがふりかえって、サナのところまで戻ってきた。
「早くしないと、日が暮れるよ」
「でもぉ」
「サナの言う通り、少し休みましょうよ。お昼を食べてからずっと歩きっぱなしじゃないですか」
 アリシアもサナの肩を持った。
 サナとアリシアに二人がかりで反論されて、ヴァルはしぶしぶ傍に腰を降ろす。
 山道は傾斜がきつく、茂る草や倒れた木などに邪魔をされていて、歩くだけで疲れてしまう。歩きっぱなしのサナは疲れすぎて言葉もなくへたりこんでいた。アリシアも平気な顔をしているが、やはり疲れているようだった。
「でも、野宿するには山のなかは危ないよ。せめて洞窟とか見つけないと」
 ヴァルは不安げな表情でそう言った。白がかった緑、とでも言うべきなのだろうか。不思議な髪の色をした少年だった。
「だから、その洞窟を見つけるために歩いてるんでしょ。せめて、じゃなくて最大最終の目的じゃないの、それは」
 サナがふくれっ面で反論する。
 短い黒髪の少女で、着ている法衣は旅のせいで汚れてぼろぼろだった。
 隣りに座っていたアリシアが首を傾げた。
 金色の髪に淡い紫の瞳をした、大人びた雰囲気の少女だ。
「でも、本当にこの山の洞窟に、ええと……何だっけ……時の…賢者、さま? がいるんですか? 何百年も生きているなんて、ちょっと信じられないんですけど」
 三人の頭上の森の上を、カラスがばさばさと飛んでいく。
 ヴァルも首を傾げた。
「いやでもオレ、千五百二十四歳だけど?」
「だからそれもイマイチわかんないんですってば……」
 ヴァルの言葉にアリシアががっくりと肩を落とした。どうやってもヴァルは年相応の普通の少年に見える。
「ヴァルの自称年齢がホントかウソかは知らないけどさ、ヴァルは三年前からずっとこの姿のまんまよ」
 平然とサナがそう言うと、アリシアは頭を抱えた。
「いやそりゃ私も向こうでは喋る船っていう常識じゃ考えられないものに乗ってたりするしそういうことには耐性があると思ってたんですけどここ三ヶ月の出来事ってその忍耐を遙かに上回ってたりするようなしないようなあああああキャナル助けて」
 何やら呟くアリシアの横で、サナはヴァルに手を引っ張られて立ち上がった。
「とにかくもうちょっと歩いて探してみよう。賢者様なら、アリスを帰す方法を知ってるかもしれないんだから」
 サナはげっそりした顔をした。
「帰る前に行き倒れたりしたらシャレになんないわよ」
「だから、もうちょっとだってば。見つからなかったら山を下りよう」
 そしてそれから、ものの数分もたたないうちに三人は洞窟を見つけ、下山案は即座に却下された。



「けっこう大きいな、この洞窟」
「迷うと大変よ」
「迷うも何も、今のところまだ一本道ですよ」
 ところどころに生えてるヒカリゴケの明かりをたよりに、三人はさらに奥へと進んでいく。
 ヴァルが先頭で、その服の裾をしっかりとサナが握りしめ、アリシアはヴァルのやや後ろ隣りを平然と歩いている。
 だいぶ歩いて、洞窟の単調な景色に三人がいい加減うんざりした頃、ようやく変化が起きた。
「ねえ、見て」
 ヴァルが指差した先からは、あきらかに陽光とは違う質の白い光が漏れている。
 お互いに顔を見合わせて、三人は慎重に光が漏れている角を曲がり―――そして立ちつくした。
 そこは大きな部屋ほどの空間が開けていた。右手の奥の方には、別のところへ通じる穴が開いていて、ちょっとした手織の布が扉代わりにかけられている。
 ここから先は居住用なのだろう。そういうふうに見えた。
 高い天井近くには光の球が浮かんでいて、その光が、岩肌に埋め込まれたり、辺りに無造作に転がされていたりする石英や水晶やその他の輝石の研磨面に乱反射して、部屋全体がとても明るい。
 広い空間の大部分は大量の本に埋め尽くされていて、岩肌をくりぬいて作ってある書棚から溢れ出して、石英の塊の上に山と積んであったりした。
 そして部屋の中央には―――ひとりの女性が眠っていた。
 部屋の中央に布袋に詰め物をして作ったクッションの山ができていて、それになかば埋没するようにして、栗色の髪の女性が眠っていたのだ。
 本を読んでいてうたた寝をしてしまったらしく、胸の上に載せられた開きっぱなしの本とそれに添えられた手が、寝息によってかすかに上下していた。
 まだ少女といってもいいくらい、あどけない寝顔だったが、噂によると、この時の賢者と呼ばれる女性は何百年も生きているという。
 無限の魔力と膨大な魔道の知識を持ちながら、世に出ようとはせず、独り隠遁の生活を送るという、賢者。
 いま目の前で眠っている女性はとてもそうは見えなかった。
 思わず後ずさったアリシアの足下で、瓦礫が音をたてた。
 栗色の髪の女性が目を開く。
「だれっ!?」
 クッションから身を起こした彼女の目を見て、ヴァルとアリシアは息を呑んでいた。サナに至っては悲鳴を呑み込んで、喉がしゃっくりめいた音を立てた。
 鮮やかな真紅の瞳だった。
 神と魔が持つ、神聖で禍々しい色彩の瞳。この世界の色。
 けれど、とても澄んでいて哀しい目だと、アリシアは思った。
 女性は三人の侵入者を見て、めんどくさそうに手を振った。
「……迷いこんだんなら、さっさと帰ってちょうだい。そうでなくても、あたしは誰とも会う気はないわ」
 我に返ったサナが慌てて言った。
「私たち、あなたに会いに来たんです」
「すっごいメーワク」
 きっぱり言い切ると、彼女はサナの法衣を眺めてから顔をしかめた。
「それは空竜王の神殿の紋でしょ。神の側に属するものにあたしは手を貸さない」
「どうしてよ !? 時の賢者、あなたは魔族の味方なの?」
 サナの言葉に、彼女の眉がぴくりと動いた。
「…………いまの言葉には言うべき事が二つあるわ」
 本を傍らに置いて、クッションから立ち上がると彼女はぴっと人差し指を立てた。
「まずは、一つ目。あたしをわけのわからん二つ名で勝手に呼ばないで。ときたま、あんたたちみたいなのが来るせいで、幾つもの呼び名が勝手に外を飛び交っているようだけど、あたしの知ったことじゃないわ」
 彼女は二本目の指を立てた。
「で、二つ目。あたしは神にも手を貸さないけど、魔族にも手を貸す気はないの。あたしは絶対の中立者。わかったら帰って」
 そう言って、さっさと奥の部屋へ消えようとする。
 その背中にヴァルとアリシアの叫びが重なった。
「待って!」
「何よ? え……!?」
 めんどくさそうにふり返った彼女の視線はヴァルを見たまま動かなくなった。
「ヴァルガーヴ……!?」
 彼女はつかつかとヴァルの前まで戻ってくると、ヴァルの頬を両手でつかんで、まじまじと見つめた。
 思っていたより小柄な女性で、自然とヴァルは彼女を見下ろす形になる。
「あんた……ヴァルガーヴよね……ちまいから最初はわかんなかったけど……」
 信じられないといった声で、彼女は呟く。見た目が十五、六の少年をちまいと表現する人はあまりいない。
「どうして、オレのこと知ってるんだ……?」
 時の賢者は困ったように栗色の髪をかきあげた。
「いや知ってるも何も……。あんたフィリアはどうしたのよ? 一緒に暮らしてるんでしょ?」
 ヴァルを庇うようにサナが間に割って入った。
「フィリアのおばあさんは三ヶ月前に亡くなりました」
 時の賢者と呼ばれる女性は不謹慎にも吹き出した。
「おばあさん、ねぇ……。いやまあ、フィリアがそう言われるのも無理ないくらい月日ってのは経ってるけどさ……」
 そう言って、そっと目を伏せる。
「そっか……死んじゃったか……」
「賢者様、母さんを知ってるのか……?」
「わけのわからん名前で呼ぶなと言ったわよ。リナよ。そうね、フィリアは古い知り合いよ。ところでヴァルガーヴ……」
 リナはぐいとヴァルを引き寄せると、その耳元で囁いた。
「あとの二人は知ってるの? あんたが竜だって」
 絶句してリナを見て、それからヴァルは頷いた。
「うん。それでもオレの友達でいてくれた。アリスはまだ知り合って三ヶ月しか経ってないけど」
「よかったわね……」
 ふわりとリナが笑った。
 それは、もう記憶の中にしかないフィリアの笑顔によく似ていて、サナとヴァルは少し胸が痛くなる。
 リナは部屋の奥へと歩いていくと、入り口にかかっている戸布をめくって、三人に向かって手招きした。
「リナ……さん?」
「気が変わったわ。入りなさい三人とも。ヴァルガーヴに免じて何の用か聞いてあげる」



「長生きするとホントに暇でね。いろんな事に手ぇ出しちゃうのよね」
 三人の先を行きながら、リナは軽い口調で言う。
 戸布の先は細い通路になっていて、両脇にはありとあらゆるものが雑多に積み上げられていた。何かの標本、水晶の髑髏、六芒星の浮かび上がったルビー、壺に土器に、縫い掛けの何か、染料に糸束、古ぼけたブーツなどわけのわからないものばかりだ。人一人通れるのがやっとの隙間しか開いていない。
 通路を通り抜けると、さっきの部屋よりは小さな空間に出た。
 古い木のテーブルに、素っ気ない無地のクロスがかけられていて、古い木の椅子が一脚ぽつんと置かれている。
 やはり光球が浮かんでいて石英がそれを反射しており、部屋の奥には小さな炉があった。
「椅子ひとつしかないのよ。適当に岩の上にでもかけてて、お茶いれてあげるから」
「あ、おかまいなく」
 アリシアのセリフにリナがふり返って苦笑する。
「あたしの知っている誰かさんにそっくり」
 もう彼女も、彼女の国も存在すらしないけれど、記憶だけはいつまでも薄れない。
 呪文を唱えて炉に火を入れたリナは、三人の視線にまた苦笑した。
「そっか、魔力、ほとんど残されていないもんね。いまの世界じゃ」
 沸いた湯をポットに注ぎながら、リナは順繰りに三人を眺めた。たちこめる湯気の向こうに少年のヴァルガーヴがいる。成長の遅さにはただ驚くしかないが、こういうものなのだろう。
 また、会う日が来ようとは夢にも思わなかった。
 遠い記憶が甦りそうになって、わずかに顔をしかめる。
 あの時からすでに時は二千年余りを数える。フィリアも時の流れから脱落してしまうほどの遠い未来に、自分は辿り着いてしまった。
 その間に、第二次降魔戦争が起こり、もうこの世界には海王と空竜王、地竜王しか存在しない。
 緩やかに魔力は薄れ、神魔は混じり、もう少しで自分の役目も終わるときが来るのだろう。
「それで、何の用であたしに会いに来たわけ?」
 お茶の入ったカップを手渡しながら、リナは尋ねた。
 ヴァルとサナがアリシアを見て、そのアリシアがリナを見た。
「私、異世界から来たんです。元の世界に帰りたいんですけど、リナさんはその方法を知りませんか?」
 リナは思わずお茶を吹き出した。いや、お茶自体が熱かったせいもあるのだが。
「い、異世界?」
「はい」
「異世界ってどこの!?」
「いや、どこのっていわれても……」
 困った顔でアリシアが首を傾げる。
 リナがぎぎぃっとヴァルとサナを見た。
「どういうことよ。ほんとなの?」
 ヴァルがこくりと頷いた。
「いきなり、空が光ったと思ったら、何もない空中からアリスが現れた。変な服着てて」
「金属とか硝子みたいなのでできた変な服なんです。あんなの見たことないし、アリスはウソは言ってないと思う」
 リナはこめかみに指を当てて唸った。
「ふつーは何寝ぼけたこと言ってんのっていうとこだけど……異世界があること知ってるしなー……」
 眉間にしわを寄せてリナはアリシアを呼んだ。
「アリシア」
「アリスでいいです」
「じゃ、アリス。説明して、なんでどうやってこの……えっと……スィーフィードの赤の世界に来たのか」
 アリシアの表情が緊張した。居住まいを正すと、アリシアは話し出した。
「船に……乗ってたんです。最初は」
「船?」
「はいそうです。ええっと……ウチュウセンって言って夜空を飛ぶための船なんですけど……」
「はあ? ま、いいや続けて」
「それで、ワープを……こちらでいう空間を渡るってやつですけど……、それをしようとしたら、急に船がガクンっていって気が付いたらもうここの世界で、ヴァルとサナの目の前に放り出されるみたいな感じになっちゃったんです……」
 渋いお茶を飲んだときのような表情で、リナが言った。
「要するに、船が事故ったのね?」
「いやまあ……そう言われると何か身も蓋もないんですけど……」
 リナが困った顔をする。白い明かりに照らされるその顔は、驚くほどに幼く見えた。
「いまの説明だと一体どういう世界なのかさっぱりだわ。私はここを含めて四つの世界の存在しか知らないし、そこ以外のとこから来られると、手の施しようがないんだけど」
「ギンガケイ……って言うんですけど、私たちの言葉では……って」
 ハッとアリシアは口を押さえた。
「そう言えば、どうして私普通に話してるのにリナさんやヴァルたちに言葉が通じてるのかしら。今まで気づかなかった私も私ですけど……」
 リナが声をたてて笑った。
「気づいてなかったの? アリス、何でかは知んないけどあんたの精神力はとっても突出してるのよ。向こうではどうかは知んないけど、こっちだとアリスの精神力は思念波能力者(テレパス)として現れてるわ。アリスは話しながら、伝えたいことを直接あたしたちに送りこんでるの。私たちは、それを受け取ってアリスの言葉がわかったような気がしてるのよ。逆も同じ。あたしたちの言いたいことをアリスが自動的に自分の言葉に置き換えて感じ取ってるの」
「そ、そうなんですか? 全然気づかなかった……」
「大物ねー、あんた」
 くすくす笑いながらリナが自分のカップに二杯目を注ぐ。
「それで? 話の続きは?」
「あ……それで、その……ギンガケイっていうんですけど……今の話からすると知んないですよね、私たちの言葉じゃ……」
「うーん、知らないわねぇ。いっそのこと前向きにさ、この世界で暮らしたら?」
 リナはむちゃくちゃなこと言い出した。
「そんなっ。私、どうしても帰らなくちゃいけないんですっ」
 アリシアが悲壮な顔で言った。
「どうしても帰らないと、兄さんが……。それにキャナルが……、ヴォルフィードが私を待ってるんです!」
 リナは再びお茶を吹き出した。今度は熱かったからではない。
 聞き覚えのある音の連なりだった。昔、話にわずかに出てきただけだが、忘れてはいない。
「ヴォ……!?」
「私の船の名前です。船だけど、ちゃんと自分の意志があるんです。いきなり私が消えちゃったから、きっと心配してるに違いありません」
「船……!? 船……!? ヴォルフィードが!?」
 混乱してきたリナは頭を抱えた。
 ダークスターとヴォルフィードが対立する世界は確かに存在する。
 だが、かつて見たダークスターはどう見ても黒い漆黒の獣で、それに対する神であるヴォルフィードが人を乗せる船の姿だとはどうしても考えられなかった。だいたいヴォルフィードがダークスターに取りこまれていたから、あんなクソややこしい事態になったのではなかろうか。
 もしかしてアリシアの世界と、自分が考えている世界は違うものなのだろうか。船の概念が違うとか?
 頭を抱えて唸っているリナに、おそるおそるサナが声をかける。
「あのー、リナさん……?」
「あのさ、アリス。ダークスターって……」
「それは私の敵の船の名前です」
「あああああっ!?」
 あっさり言われて、ますますリナは頭を抱えた。どんどんわけがわからなくなっていく。
「ねえ、そのヴォルフィードとダークスターって、神と魔王……?」
 リナの質問に、アリシアが眉をひそめた。
「神と魔の概念にもよりますけど……、違うと思います。私たちの世界ってそう言った、神だの魔だのの存在はあまり信じられていないから……。ナンセンスだし。あ、ああ、そう言えばキャナルが何か言ってたような……私の名前は、神話にちなんだものだって……」
 リナの混乱はようやく収まった。
 大きく息を吸って、吐き出す。なんのことはない、ただ名前が同じだけ。
「いまの話からだと、アリスはあたしが知ってる世界から来てるわ。なんでそんな事故が起きたかは知らないけど……ってもしかして……」
 話の途中でリナは不意に眉をひそめた。疑問はすぐに確信に変わる。
 三人がそれを見守る前で、リナは栗色の髪を揺らして立ち上がると、何もない虚空に向かって大声でだれかの名前を呼んだ。
「ダルフィン。ダールーフィン。ダールー!」
「そっのっ呼っびっかったっ、やめてください!」
 怒りの声と共に、突然何もないところから一人の女性が姿を現した。まるでどこかの舞踏会から抜け出してきたような青いドレスに長い黒髪の美しい女性。
「よかった、聞こえてたのね」
「貴女様の呼びかけは、どこにいても聞こえますわ。だから、わざわざ変な名前でわたくしをお呼びにならないでください!」
 憮然とした口調で女性がそう言うと、リナはあっさりと頷いた。
「次からはそうするわ。たぶん次なんてないと思うけど」
「初めてお呼びになりましたわね。何か御用ですか?」
「いや、御用じゃないの。ちょっと聞きたいだけ。あんたたちさ、最近あそこで何かしなかった? 別にあんたたちじゃなくて神族でもいいんだけど」
 サナが何か言おうとして、リナに目で止められる。
 青いドレスの女性は、優美な仕草で小首を傾げた。
「あそこ、ですか。どのあそこでしょう?」
「知ってて聞いているでしょアンタ……」
「ご冗談を。心当たりが幾つかあるだけですわ。北の方ですか?」
「違うわ、真ん中よ」
「ああ」
 固有名詞をぼかした会話だったのだが、互いに意味は通じている。あっさりと彼女は頷いた。
「そう言えば、三ヶ月ぐらい前に、地竜王の神族どもが何やらいじってましたわね。結局使い方がわからなくて、あきらめて帰ったみたいですけど」
「あああああ絶対それ」
 リナが頭を抱えた。
「神族どもがどうかしまして?」
「あそこがゲートだって知ってるんでしょ、あんたも」
「ええ。でも神族どもは、あれが何だか知らないみたいでしたわ。相変わらず横の連絡が取れてないみたいで」
「いや、取るまえに全滅しちゃったと思うんだけど。あのときの神族って…………」
 リナは小さくそう呟いた。
「ゲートが何か? 後ろの子供達に何か関係がありまして?」
 青いドレスの女性は食い下がる。
 リナの目つきが鋭くなった。
「関係大ありよ。一応言っとくけど、手ぇ出したら許さないわよ」
「わかってますわ。貴女様の管轄下に入られたモノは、何であろうと手出しはいたしません」
 ドレスの女性は、ほう、と溜め息をついてヴァルを見た。
「何やら惜しい気もしますけれどね」
 リナの目元がぴくりと動いた。素知らぬ顔で女性は言葉を続ける。
「それで、御用はそれだけですか?」
「そうよ」
「なら、これで失礼いたします」
「悪いわね」
 姿が消える寸前に、リナがそう言うと、ころころと鈴を転がすような笑い声が部屋に響いた。
(そう思われるのなら、一度わたくしたちに加勢してください)
「それはダメ」
 リナが即答すると、あきらめたような嘆息が返ってきた。
(まあ、そう言うとは思ってましたけど……)
 それを最後に女性の気配は部屋から消える。
「あの……いまの人は……?」
 何も知らないアリシアが戸惑った顔で尋ねるが、隣りに座っていたサナが慌ててアリシアの袖をつかんで首をふった。
「あれが何か知らない方が身のためな気がする。想像がつくだけにすごく聞きたくない。私は平凡な人生が送りたいわ」
 リナは小さく肩をすくめながら、椅子に座り直した。
「だいたい想像の通りだけど、言ったらサナの想像を上回るかもしれないから黙っとく。でも、そう怯えないで。あたしがいるかぎり向こうは絶対手は出してこないから」
「リナさんって……実は悪い人なんですか?」
 サナが涙目で聞いてくる。空竜王の神殿の法衣を着ているだけあって、少なくとも人間でも神族でもないことに気づいているらしい。
 さすがに本当の正体には気づかないだろうが。
 リナはがしがしと髪をかいた。
「何だってそういう誰かさんみたいな質問をするかな……。言ったでしょ。あたしは、魔族にも神族には手は貸さないんだってば。この話はこれでお終い。それでね、アリス」
「あ、は、はい!」
 ぼんやりとサナとリナの会話を聞いていたアリシアは、慌てて返事をした。
「ごめん。あんたがこっちの世界きたのって、多分こっちの世界のせいだと思う。なんとか送り返してあげるから」
「ほんとですか!?」
 アリシアが嬉しそうにそう言って、はっと口をつぐんで、サナとヴァルを見た。
「……ごめんなさい。私、帰らなくちゃ」
「うん……」
 お茶はすっかりぬるくなっていた。頬杖をついたリナが溜め息をついて、三人を見た。
「三人とも今日はここに泊まんなさい。明日、アリスを元の世界に送り返してあげるから」



「サナ……起きてます?」
 いちばん最初に足を踏み入れたあの本の部屋で、大量のクッションと貸してもらった布団に埋もれながら、アリシアは小声でサナを呼んだ。
「起きてるわよ」
 サナが小声で答えた。部屋の隅には眠りを邪魔しない程度の弱い明かりが灯っていて、ものの輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
「ねえ、サナ。お茶のときにワープしてきたあのキレイな女の人って、誰なんですか?」
 サナはごろんと転がってアリシアに背を向けた。
「おやすみ」
「…………そんなに言うのイヤなんですか?」
「…………」
「サナぁ」
 アリシアが情けない声を出した。
「あれ魔族だよ、多分」
「ヴァル……!」
「起きてたんですか?」
 端のほうで眠っていたヴァルが、起きあがってクッションに座った。
「あれはたぶん魔族だよ。空間を渡れるのは神族か魔族だけだって、前に母さんに聞いたことがあるから」
「何だって、忘れたいことを口に出すのよヴァルは……っ」
「だって、リナさんは自分がいるかぎり、魔族は手ぇ出さないって言ってたじゃん。それにアリスはもう……帰っちゃうから、言っても別に問題ないと思うし」
「へえ。あれがヴァルとサナから聞いていた、魔族なんですか」
「……多分そうよ」
 あきらめたようにサナがそう言った。そして固い口調で続ける。
「……あの魔族、リナさんに対して、すごい敬語使ってたわ。もしかしてリナさんって魔……」
「やめろよ」
 ヴァルが遮った。
「だって、おかしいわ。人間が何百年も生き続けていられるはずなんかない」
「なんだっていいよ。アリスをちゃんと返してくれるって言ってるんだし。それにあの人……」
 ヴァルがそっと付け足した。
「母さんが死んだって聞いたとき、とても哀しそうだった……」
「…………」
 サナは黙って寝返りをうった。ヴァルも再びクッションの上に寝転がる。
「アリス」
「はい」
 ほの暗い闇の中、呼ばれたアリスはきょとんと瞬きをした。
「向こうの世界の話、聞かせてくれよ」
「はい、喜んで」
 三人が寝たのは、かなりの時間が経ってからだった。



「へえぇっ、これが向こうの世界の服?」
 翌朝、こちらに来たときに着ていた服に着替えたアリシアを見て、リナが歓声をあげた。
「え、ええ。船外活動をするときに着るやつです。どこに放り出されるかわからないんで一応……」
「ふぅん、ホントに変な素材ね。どうせなら昨日もっと見せてもらえばよかった」
 新しいオモチャを見つけた子供みたいな表情で、リナはぺてぺてとアリシアの服に触る。
 そうやって一通り好奇心を満足させてから、リナはサナとヴァルをふり返った。
「お別れは済んだ? ちゃんとやんなさいよ。後悔するから」
「……だいじょうぶです」
「そう」
 リナは何やら言いたそうだったが、結局そう言っただけだった。
「なら、これからアリシアの世界へと通じている門がある場所にいくわ。開くかどうかは運次第ね。悪いんだけど、ヴァルガーヴとサナはここで待っててくれる? ちょっと遠くて、三人も連れていける場所じゃないから」
 ―――それに、ヴァルガーヴをあそこに連れていきたくはないから。
 心の中でそっと付け足す。
 サナとヴァルは何か言いたげだったが、結局黙ってリナの言うことに従った。
 アリシアが二人の前に立つ。
「あの、ホントにありがとう。二人がいなかったら、私きっとどうなってたか、わかりません。二人に会えてホントによかった」
 たった三ヶ月だけれど、何よりもだいじな友達になった。
 運命のあの日から、アリシアはヴォルフィードと共に生き、普通の友達など作れなかった。
 だからサナとヴァルの存在が、何よりも愛しい。
 忘れたくない。
 ヴァルとサナが頷いた。
「オレも、アリシアに出会えてよかった。でないと、ずっと哀しいままだったろうから」
「私も……」
 フィリアの死から立ち直れずにいる二人を、アリシアは非現実的な日常と言う名で壊してくれた。嬉しかった。
 それが何より必要だと、わかっていたから。
 アリシアの肩に、リナがそっと片手を置いた。
「いい……?」
 アリシアが黙って頷く。
 二人の姿はその場から消えた。



「着いたわよ」
 リナの言葉に、アリシアはそっと目を開けて、すぐに目を見張る。
 前後左右に、広大な空間が広がっていた。
 アリシアとリナは、この空間の中央にある巨大な五角形の柱の上にいた。なめらかで不思議な光沢を持つ石に、縦横に回路のような模様が引かれている。
「すごい……」
 呆然と呟くアリシアの横で、リナがぐるりと辺りを見回した。
「……やっぱり時の風化には耐えられないのね……」
 ぽつりと呟いたリナの視線の先を追うと、柱の遙か外、崩れ落ちてぼろぼろになった円柱が見えた。他にも注意してみると、あちこちで同じような光景が見られた。
 すたすたとリナは柱の端のほうまで歩いていく。
「あのときぶっ壊れたしなぁ。動くかなぁ……」
 アリシアはとてつもなく不安になった。
「あのー、リナさん?」
「正しい起動法ではもうムリだから、ムリヤリかな」
「もしもし?」
「制御できるかなぁ……暴走したらどうしよう。ゲート開きっぱなしとか?」
「リナさぁぁぁん」
「ま、神族が手入れしてくれたみたいだし、なんとかなるなる」
「あうううううう」
「ほら、真ん中立ってて」
 リナにそう言われ、しっしと手を振られる。
「だいじょうぶなんですかぁ?」
「んなもんやってみなきゃわかんないわよ」
 あっさりリナはそう言うと、空間を渡って移動しながら、五つの角にある球体にそれぞれ触れていく。
 アリシアの頭上を見上げてリナは呟いた。
「あ、らっき。なんとかなりそう」
 アリシアの傍まで戻ってくると、リナはふわりとアリシアを抱きしめた。
 その抱擁はあまりに優しくて唐突で、アリシアはただ呆然と立ちつくす。
「ありがとね……」
「え……?」
 リナは吐息のように囁いた。
「ヴァルガーヴに会わせてくれて、ほんとにありがと。でも、同時にちょっと恨めしいかな……」
「リナ、さん……?」
 リナは笑った。見ている方が切なくなるほどの、透けるような微笑。
「ちょっとね。いちばん幸せだったころ思い出してブルーになってるだけよ」
 アリシアを離すと、リナは後ろに下がった。
「強く念じて。自分の世界のことを。あんたを待ってるっていうキャナルのことを強く想って。こっちの世界ではそれが全てを決めるから」
 辺りの空間をふるわせて、ゲートが開いていくのがわかる。
 こことは別の場所に引き寄せられる自分を感じ取った。目の前のリナの姿が歪む。
「リナさん!」
「念じなさいったら! いまだけはヴァルとかサナのことも忘れんのよ! でないと帰れない。このゲートはとても不安定だから、あんた自身が強く願わないとあんたの世界へ帰れなくなるわ」
 引き寄せる力に抗えなくなる前に、アリシアは叫んだ。
「ありがとう! ヴァルとサナにもそう言って!」
 ……ヴ……ヴン……
 羽音のような響きを残して、アリシアの姿は消えた。
 ゲートは再び閉じられた。



 アリシアを彼女の世界に送り返したあと、リナはぐるっと辺りを見回した。彼女が立つ巨大な柱。描かれる五角形。幾何学的な魔法陣。
 深い地の底から見上げたように遠くにある空をふりあおいで、リナはその場に崩れるように座りこんだ。それが限界だった。
 目を閉じる。耳を塞ぐ。何も見えないように、聞こえないように。


 ―――これ以上、思い出さないように。


 ここで、何をしたのか。どう戦ったのか。
 あそこの亀裂が、積みあがるままに朽ちている瓦礫が、どうやって生みだされたのか。
 放った呪文、放たれた力。誰が傷ついて、誰を傷つけたのか。
 全部、全部憶えている。
 あのときはまだ何も知らなかった。知らずにいられた。
 傍らにはいつも仲間がいた。
 否応なく呑まれていく運命に抗うだけの力が、心が、一緒に戦ってくれる仲間がいた。
 そして彼が、いた。

 頬に触れてくる優しい指に、胸がたまらなく切なくなって。
 見つめてくる瞳に、鼓動がはねて、思わず目を伏せた。

 ただ満たされていて、みんながいて、こんな未来なんか……刻の行き着く先なんか、知らなかった。
 いまはもうだれも、傍らにいない。
 差し伸べられる優しい手にすがってしまわないように、自分のほうから、逃げた。
 刻はそのまま虚ろにに過ぎさり、全ては土へと還っていく。
 ただ自分だけを残して。
 涙が、リナの頬を伝い落ちる。
「さびしいよ…………」 
 うつろう世界を眺めることには慣れても、孤独にだけはいつまでたっても慣れない。
「フィリア……ゼロス……、どうして、あんたたちまで、私をおいて逝くのよ……」
 微かな嗚咽は、広すぎる空間にすぐに溶け消えて、リナはこの場に取り残される。
 かつて、神魔の力がぶつかりあった古の地。異界への扉が開いた地。
 ここは、あまりにもさみしくて、切なすぎる。いつまでも鮮やかにとどめておきたい記憶の場所ゆえに。
 大切な思い出はいつでも胸が痛くなるから、遠ざけて生きてきたのに。
 頬の涙をぬぐって、リナは立ち上がった。
「帰らなきゃ…………」
 胸の空洞を抱えたまま、リナの姿はこの地から消える。


 ―――いったい、あたしはどこへ、かえるというんだろう…………?


 行ったときと同じく、忽然と部屋に現れたリナを見て、膝を抱えて座り込んでいたヴァルとサナは、慌てて立ち上がった。
「アリスは……!?」
「ちゃんと帰ったはずよ。安心しなさい」
 言いながらリナはすたすたと部屋を横切り、入り口とは別の、もう一つの部屋の戸布をめくった。
「ちょっとここで待ってて」
 二人の返事を待たずにリナの姿は奥に消え、ヴァルとサナは顔を見合わせた。
「……どうしたのかしら?」
「さあ……」
 座り直して、サナは溜め息をついた。
「行っちゃったね、アリシア。せっかく仲良くなれたのに」
「うん……」
 ヴァルもサナの隣りに座って、リナが消えていった部屋の戸布を見つめた。
「……ちょっとおっかなくて、わけわかんないけど……いいひとだよな」
「そうね……フィリアのおばあさんと知り合いってのにもちょっとびっくりしたね。ホントに長生きしてるんだ。すごいな……」
 きっとサナは、それがどれだけすごいことか、本当にはわかっていないのだ。フィリアとともに長い時間を生きてきたヴァルだけが、それがどれだけすごいことかわかる。
 会話はそのうち途切れ、リナが来るまでのあいだ、二人はアリシアのことを思い出して、それぞれの寂しさを味わった。



「おまたせ」
 奥の部屋から現れたリナは手に持っていたものをそっとテーブルに置いた。
「これは……?」
 テーブルに置かれたのは、半透明の石英で作られたティーセットだった。暗いなか、ほの白く光る貝のような、淡く美しい色合いの。一度も使っていないらしく、その白さには染み一つない。
「いつだったかな、どっかの国の王がさ、力を貸してほしいってあたしに貢いできたのよね。いつもなら全然相手にしないんだけど、これが気に入ったし神魔とも全然関係なかったから、ちょっと知恵を貸してあげたりしたの」
 言いながらリナは、それを丁寧に布にくるんでカゴに収めていく。サナとヴァルは訳がわからない。
 包み終わって、リナはにっこり笑った。
「それじゃ、行こっか」
「行く……って、どこに……」
 リナは苦笑した。少し照れたように答える。
「フィリアの墓参り。あんたたち、どうせそこの近くに帰るんでしょ? あの子、骨董品が好きだったし、お茶も好きだったから、花とかよりこんなのがいいかなと思って」
「あ…………」
 立ちつくすヴァルとサナに、リナは慌てて言った。
「何よ、そんな顔して。さあ、行こ」
「リナさん、ありがとう……」
 ぷいと横を向いたリナの顔を見て、この何百年と生きている女性が実はけっこう照れ屋なのだということを、二人は知った。



 普通に旅をしながらヴァルたちは、フィリアの眠る山――サナの街の近くだ――まで帰ってきた。リナも空間を渡ったりはしなかった。一度、出発前に聞いたのだが、知らないとこには行けないわよ、と苦笑して返された。
 山麓にある洞窟の前で、リナが立ち止まる。
「……ホントにこの洞窟の中なの?」
 眉をひそめながら、リナがヴァルに尋ねた。
「うん……。母さんが、竜体に戻らないといけないからって、この奥に……」
「まずいわね……」
 リナが険しい表情でしゃがみこんだ。細い指が、地面をなぞる。
「なかで人の気配がするわ。足跡もある」
「 !? 」
 ティーセットの入ったカゴをサナに渡して、リナは足早に洞窟のなかに入っていく。ヴァルとサナがそれに続いた。
「竜の肉体は魔力があるから、そう簡単に朽ちないの。なかで何やってるのかは知らないけど、フィリアが見つかるとちょっとまずいわね。ヴァルガーヴ、どうするか決めといて」
「え? 何を?」
 前方に人影を見つけて、リナは走り出した。
「何って、埋葬の仕方よ!」
 ヴァルとサナが絶句している間に、リナは通路から広い空間のなかに飛び出した。
「ここで何をしているの !?」
 数人の男が一斉にこちらを振り返る。その後ろには、まるで金色の丘のような、かつての仲間の骸。
「だれだっ !?」
「それはこっちのセリフよ! ここで何をしてるの。この竜に何をする気なの !?」
「お嬢さん、この竜はすでに死んでいるよ」
 リーダーらしい男がリナたちの前に出てきた。よく見ると、地竜王の神殿の紋の入った神官衣を着ている。他の男たちもそうだった。
 憮然とした口調でリナは答える。
「そんなの知ってるわよ。あたしの知り合いなんだから」
 リナがそう言うと、神官たちはお互い顔を見合わせたあと、笑った。
「そんなバカなことがあるか。竜と知り合いだなどと……おや、空竜王の巫女がいるようじゃないか」
 いちばん後ろにいたサナを見て、リーダーは勝ち誇ったように笑った。
「おおかた、ここに竜の死体があるという噂を街でかぎつけて来たのだろうが、ちょっと遅かったようだな。この竜とそれに宿る魔力は、我ら地竜王の神殿がもらっていく」
「ふざけるな……!」
 激昂したヴァルの体に変化の兆しを見て取って、思わずリナはヴァルの腕をつかんで引き寄せた。
「やめなさい。あんただと殺してしまうわ、ヴァルガーヴ! フィリアを悲しませるんじゃないの!」
「あ……」
 呆然とリナを見上げて、ヴァルは息を呑んだ。
 その真紅の瞳の奥に、輝く金色を見たような気がして。
「……竜体に戻ってはだめよ」
 静かな口調でそう言うと、ヴァルをサナのいるところまで下がらせて、リナは神官たちに向き直った。
「死者を冒涜するもんじゃないわよ。一応あんたたち神に仕えてるんでしょ」
 リナの声の調子に気づかず、男たちは一斉に笑った。
「冒涜? 冒涜などしていない。竜は神の雛形。死んでもなお魔力を宿している。その魔力を我ら神に仕える神殿が利用して、何を咎めることがある?」
「…………ッ」
「ヴァルガーヴ、落ち着きなさいったら」
 後ろも見ずにリナはそう言った。
 神官たちに向かって、リナは退屈そうな表情で髪をかきあげてみせた。
「……すてきな言い分ね。反吐がでるわ。別に魔族も神族も人間に崇めてくれなんて言ってないわ。あんたたちが勝手に信仰してるだけでしょ」
「なんだと……!?」
 神官たちの表情が変わる。リナは挑発をやめなかった。
「だって事実でしょ。あんたたちの神殿に、神族が訪れたことある?」
「ぐ……」
 反論できずに神官たちは、ただ絶句する。
「さて、ヴァルガーヴ、決まった?」
 リナはくるりとふりむいた。軽い口調だが、真剣な表情で問いかける。
「一、洞窟ごと崩して土葬。二、あたしの力で結晶の棺なかに閉じこめる。三、燃やして火葬って選択肢があるけど」
「おい貴様、何をする気だ。勝手なことを……」
 慌てたリーダーがリナの肩をつかむ。リナはその手をふり払った。
「うっさいわね。あたしたちは彼女の葬式兼墓参りに来たの! 邪魔するなら魔法使うわよっ」
「魔法だと……!?」
 ひるんだリーダーが思わず後ろに下がる。後ろの神官たちもざわめいた。
「ヴァルガーヴ、さっさと決めて! あんたしか決められないの。あんたがフィリアの家族なんだから!」
 家族なんだから!
 その言葉がヴァルの心に響く。言ったリナ自身の心もえぐられる。
 リナにとって、何よりも痛い言葉。家族。親友。友人。仲間。
 大好きな、人。
 ヴァルは立ちつくしている。
 くすんだ金色の亡骸。いまは穏やかに閉じられた瞳。


 ―――ごめんなさい、ヴァル……。もっと一緒にいてあげたかったのだけれど……。


 そっと囁かれる言葉。
 青い瞳の優しさは、竜の姿に戻っても少しも変わることなく自分を見ていた。
 そして一瞬、ほんの一瞬だけ、泣きそうな子供のような瞳をして言った。


 ―――……私をゆるしてくれますか……ヴァルガーヴ……?


 自分を見つめながら、まるで別の誰かに語りかけているようだった。
 泣く自分の傍らで、サナも一緒に泣いてくれた。
 そう、サナも一緒に……。


 ヴァルの手を、サナがぎゅっと握った。
 ヴァルはハッと顔をあげる。
「サナ……」
 ヴァルの目をまっすぐ見て、黙ってサナは頷いた。
 その手を握り返して、そして答える。
「……結晶のなかに、眠らせてあげてください……」
 小さくリナが頷いた。少し泣きそうな顔だった。
「いいかげんにしろ、貴様ら、この竜は地竜王の神殿が……!」
「うるさい !!」
 ブチ切れたリナが手をかざすと、空間が歪んで神官たちの姿は消えた。途端に洞窟がしん、と静かになる。
 カゴと花輪を持ち直しながら、サナがそっと尋ねる。
「あの……あの人たちは……?」
「洞窟の外に飛ばしただけよ。根性があるならすぐに戻ってくるわ。あたしに歯向かう根性があるんならね」
 リナは言いながら、フィリアへと歩み寄った。横たえられた頭のすぐ傍に座りこむ。枯れた幾つもの花輪が、そこには置いてあった。
 きっとヴァルとサナが、毎日供えたのものなのだろう。アリシアが現れ、ここを旅立つその日まで、悲しみに暮れながら。
 ぺたんと座りこんだ自分が、なんとも情けなく見えることはわかっていたが、どうでもよかった。
 しばらくフィリアの顔を見つめてから、その安らかな寝顔にそっと触れる。
 もう、生きてはいないことを確認するかのように。
「フィリア、久しぶりね…………」
 堰を切ったように溢れ出した思い出に、触れる指がふるえた。
 それをこらえて、リナは続ける。
「フィリア、あのね……。ゼロスもさ、死んじゃったんだ……。あんたなんかよりずっと前にね、あたしを置いてっちゃったの……」
 あの正体不明の獣神官は、第二次降魔戦争のさいに地竜王と相討った獣王の後を追うように、多くの神族を道連れにしてなかば自殺のような形で滅んでいった。
 死の直前、わざわざリナに最後のあいさつに訪れたときのことは、今でも鮮やかに思い出すことができる。
 フィリアはただ黙って、そんなリナの言葉を受け止めている。
 知らない間に、視界がひどくぼやけていた。
 自分の声がひどく情けなく聞こえる。
 この時の果てに自分がいることが、自業自得だということは嫌というほどわかっている。
 わかっているけれど、だれかに愚痴を言いたかった。
 もうだれにも自分の言葉が届かなくても。
「ひどいよね……。みんな、あたしをおいて逝くの……ひどいよね……っ」
 リナの肩の微かなふるえに、ヴァルは胸の痛みをはっきりと自覚する。


 世界のすべてに、おきざりにされる―――
 それはどれほどの哀しさと痛みを伴うのだろう。


 ヴァルも、最初はフィリアと二人きりではなかったのだ。不思議と自分を慕ってくれる獣人たちが一緒にいてくれた。
 彼らが老衰の果てに死んでいったときの、あの胸の痛みは、いまのリナの痛みに少しでも似ているのだろうか。
 それでも自分にはフィリアがいてくれたけれど、これから自分もリナのような胸の痛みと向き合うようになるのだろうか……。


 フィリアの体を青く澄んだ結晶で包んだリナが、目尻を拭いながらふり返った。
「ごめんね……」
 ヴァルとサナは黙って首をふった。
「リナさん。この後、洞窟を崩して埋めてください」
「ヴァル?」
「それが、いちばんいいと思うんだ……」
 サナにそう答えるヴァルを見て、リナがちょっとだけ、戸惑ったように笑った。
「リナさん?」
 怪訝な顔をするヴァルに、リナはもう一度笑って、首をふった。
「ううん。フィリアは良い子に育てたなーと思って」
 時を過ごしていく痛みの混じる、それでも少しだけ嬉しそうな表情で、リナは言った。
 何のことが解らず、ヴァルは首を傾げる。
「あたしが見たとき、あんたは卵だったんだもの」
 ヴァルは顔をひきつらせた。
 フィリアと知り合いということは、うんざりするほど永く生きているのだろうと思っていたが、自分が卵のときを知っているのはさすがに永すぎる。
 サナが顔をしかめて尋ねた。
「ヴァルって、自称年齢幾つだったっけ……?」
「千五百二十四歳……ついでにオレ、五百年くらい卵のまんまだったって……」
「…………」
 サナがヴァルを見て、それからリナを見た。
「なぁに?」
「…………いえ、何でもないです」
 リナは、後ろの結晶を仰ぎ見た。眠るフィリアの穏やかな顔を見て、自身も穏やかな表情を見せる。
 頬にかかる栗色の髪をかきあげて、リナはヴァルに視線を戻した。
「ヴァルガーヴ……じゃないか、もう。ヴァル、あんたこれからどうするの……?」
 そこまで言って、リナはちょっと言いにくそうに口ごもった。
「その……あんたさえよければさ、一緒に、いない……? ちょうどいい具合に、あんたもあたしも長生きだからさ……」
 ヴァルはちょっと驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。


 きっと今度は自分がこの人を置いて逝くのだろう。けれど、それは遙か遠い未来の出来事。
 この人も、自分も、永遠に近い刻を生きる。
 それまでは、この人の孤独を埋めてあげたい。
 母さんの遺体を前に、泣いてくれたこの人の痛みを。
 分かち合いたい。


 ヴァルの言葉に複雑な表情を見せるサナを見て、ヴァルはちょっと笑った。
 サナの手を再びギュッと握りなおす。
「うん、でも……しばらくは、サナといるよ」
「そっか……」
 リナは頷いた。顔を赤くしたサナを見て、くすりと笑う。
「じゃ、待ってる。いつか来て」 
 リナは、サナからカゴと花輪を受け取って、結晶の前に置いた。
「………行こっか。崩さなきゃね」
 ヴァルとサナが連れ立って、フィリアの元を去っていく。
 最後にリナが出て行きかけて一度だけ、後ろをふりかえった。
 青い結晶のなか、静かに眠るフィリアがいる。
 そっと、リナは囁いた。
「バイバイ、フィリア………」


END.