月光浴

 天頂にかかった真円の月が輝いている。
 光あたるところは濡れたように青く光り、影となるところには蒼く澄んだ闇が落ち、まるで世界全体が水に沈んでしまったかのようだった。
 星は月明かりに負けながらも、空の各所でしんしんと光っている。月と星だけがそら恐ろしいほどにきらめく深夜。
 ひとり、テラスで茶会を開いている者がいる。
 カップを持つ指も爪もテーブルにかかったクロスも、何もかもが濡れそぼったように青みを帯びていた。
 湯気のたつ中味は月の光のなかで闇色に揺らめいている。
 挽いた豆とネルの布。湯の入った銀のポットに、それを温める小さなランプ。汚れたスプーンや布を入れる器もある。砂糖とミルクの壺もあり、二人掛けのテーブルいっぱいにそれらが並べられているのに、用意されているカップはひとつきり。
 青くて青くて、目がおかしくなってしまいそうな世界のなかでひとり、珈琲を飲む。
 こんな夜更けに珈琲を飲めば、眠れなくなることなどわかっていてもひとり、珈琲を飲む。
 出されたカップはひとつきり。
 カップのなかの珈琲に、ゆらりと頭上の夜空が映った。
 月と星が浮かんだそれに、彼女はそっとスプーンを入れる。すくいとろうとしても揺らめいて消えてしまう月と星。
 スプーンから滴る雫を受ける水面で、すり抜けた月と星が彼女を見返していた。
 ふぅ、と小さく息を吐いて笑うと、彼女はそっとそれを飲み干した。
 かつてはこのカップが二客だったときもあったけれど。


月  光  浴


 ―――これを返しに来た、
 月ばかりが大きく見えた夜更け。
 突然現れた彼はそれだけを言い、アメリアはそれだけで全てをわかった。
 お茶を………飲んでいきませんか、
 今となってはどういう心持ちで言ったのかもわからぬその言葉に、彼は無言で頷いた。
 アメリアは伏せてあったカップを返した。いついかなるときも用意されていたもうひとつのカップ。
 お茶じゃなくて珈琲ですけど、かまいませんよね、
 何でもいいさ、
 記憶のなかと何も変わらぬ口調でそう言うと、彼は立ったままカップに手を伸ばした。
 アメリアの瞳がふと揺らぎ、青い影を見あげる。
 座らないんですか、
 このままでいい、
 はい、
 小さく頷いて、アメリアは座ったままカップを手にした。先ほどとは違って取っ手に指を添えずに、両手で包むようにして。
 苦いな、
 不意に彼が呟いて、アメリアは笑った。
 苦いですよ、わたしの特製です、
 眠れなくならないか、
 どうせ飲まなくても寝れません、
 アメリアは努力して唇の端をあげた。何とか、笑っているように見えるように。この泉の底のような青い世界のなかで、曖昧にぼやけてしまうように。
 しばらく双方共に無言だった。
 月光だけが惜しみなく降り注いでいる。
 指を動かしたのはどちらが先だったか。
 二人の指がテーブルに置かれたアミュレットにほぼ時を同じくして触れた。
 アメリアは目を伏せて指先を見たままだった。だから彼が彼女を見たことに気づかなかった。
 青黒い石の爪は月の光のなか青玉のようで、胸が痛むほどに綺麗だった。薄紅の自分の爪は淡い紫だった。
 二人が指先にかける力に押されて、アミュレットが白い卓布の上を滑るように移動した。彼女の方へ。
 これを返しに来た、
 再び彼はそう言った。
 アメリアは無言で頷いた。
 長いあいだ手元を離れていた自らの護符の片割れに指をからませ、引き寄せた。
 たしかに受け取りました、
 礼を言う………、うまくは言えんが、それがあることにだいぶ俺は助けられていた、
 アメリアは深くうつむいた。
 ずっと持っててもよかったのにとは言えず。
 彼は氷蒼の瞳を揺らがせた。
 ずっと持っていたかったとも言えず。
 これを預ける理由なら―――持っている理由なら、いくらでもあげられた。同時に返される理由も―――返す理由も、いくらでもあげられた。おそらく逆の理由以上に、多く。
 行ってしまうんですね、
 ………ああ、
 顔をあげたアメリアは彼と一瞬だけ目を合わせると、すぐに席を立ってテラスの端に置いてあった水盤に向かった。
 皓々とした月が映りこむ青く澄んだ水鏡に、そっとアミュレットを沈めた。
 月は歪んで消えてしまう。
 アメリア、
 名を呼ばれて、自分が何か言うのを待っているのだと知ったが、それでもふり向くことはできなかった。
 風ひとつなく、水は蒼い鏡のようで。まるで背後の誰かののようだった。
 呼ばないで、と彼女は念じる。
 わたしの名前を呼ばないで。
 アメリア―――、
 わずかな嘆息が耳に届いた。
 このまま去ってしまう怖れにかられてふり向くと、意外なほどに間近い影にわずかに目を見張る。
 驚かさないでください、
 お前が呼んでも答えないからだろう、
 氷蒼の瞳が、かすかに笑った。
 あまり表情が豊かとも言えなくて、いつしかその瞳に浮かぶ感情を読みとることに慣れてしまった。
 アメリアはつと胸を突かれて立ちつくす。
 そう。
 少なくとも、それくらいには。
 それが許されるくらいには―――。
 みるみるうちに視界が歪んでいくのがわかって、彼女は再び背を向けた。
 月が映る水盤は白々と明るいが、水盤の台座の根元は深く蒼い闇だった。
 どうしてとも聞かず、聞けず。そう問うことが、互いにとって一片の救いになることはわかっていても。
 月の光はほろほろと明るいのに。
 此処ばかり、こんなにも暗い。
 行かないで、と言えば。こちらから泣いてすがりでもしたら、彼は頷くかもしれなかった。この哀しくて辛くて愛しい惑いに負けて、一瞬でもそう思ってくれるかもしれなかった。
 結局―――不意にこぼれだした嗚咽を殺すほうを選んだ。
 こらえきれずふるわせた肩が、トン、と背後のぬくもりにぶつかった。
 そういえば、抱きしめられるのは初めてだと今更のように気づく。今更。
 もっとたくさん、こうしてもらえばよかった。数年分の時間が自分たちにはあったのに。
 同時に、こうしてもらわなくてよかったとも思った。多分、彼のぬくもりなんて欲しくなかった。ぬくもりをくれることが彼の優しさではなかったから。
 離れてゆく互いの道を繋いでいた鎖は、この月の光に解けてゆく。
 アメリアはゆっくりと向き直り、頬に添えられた相手の手にそっと自分の手を重ねて目を伏せた。ざらついた冷たい感触に唇を寄せる。
 肌の香は知らずにゆきますか、
 そうしよう………、
 途切れた後の言葉を、たしかに聞いたと思った。
 閉じた睫毛がふるえ、新たな光の筋を作り出す。己が泣いていることなど気づかぬかのようにアメリアはほろ苦く笑った。
 ずるいひと、
 お前もな、
 苦笑の混じった吐息だけの声がして、頬に当てた手にそっと彼の意志が加わった。
 目を閉じているはずなのに。
 月の光で目が眩むほど明るいのは、なぜ。



 肌の上を滑る月の光のように、音もなく柔らかに唇が降りてくる。すぐに離れ、また触れる。
 離れる瞬間の吐息に安堵する。
 長く重ねていると、何もかも壊してしまいたくなる。
 きっと、彼もそうなのだと―――。


 さようなら、


 その言葉を口にして、アメリアはいっそ晴れやかに笑ってみせた。
 愛しているとは言わずにおく。そう決めていた。
 どれだけ想っているかなど明かさずに逝く。このまま。二人とも。
 何ひとつ、繋ぐよすがなどなくていい。
 互いの空に、互いのことを風聞する者などいなければいい。
 道が交わるのはこれが最後。あとはどこまでもどこまでも、逸れて。遠く。
 遠く………。
 アメリアは手にしたカップのなかの珈琲を一息に飲み干した。
 視界いっぱいの白磁。
 カップを置き、彼女は独りきりのテラスで微笑んだ。
 水に沈んだような世界のなかで、光だけが満ちていた。
 どこまでも大気は青い。濡れたような月の光が、肌と言わず髪と言わず残っている。
 あなたの、光が。
 残っている。



 天頂にかかった丸い月が輝いている。光あたるところは濡れたように青く光り、影となったところは蒼く澄んだ闇に沈み、まるで世界は水の底。
 星は月の光に負けながらも、空の各所でしんしんと光っている。月と星だけがそら恐ろしいほどに光る深夜。
 沁み入るような光のなか、濡れそぼつようにひとり、彼女は座りこんでいた。
 そっと手のなかの空のカップを見つめた。
 かつてはこのカップが二客だったときもあったけれど。
 月だけが以前と何も変わらないまま。
 青くて青くて。
 どうにかなってしまいそうだ。
 彼女は静かに目を閉じた。
 水盤に映った月の向こう側。
 重なるように沈む、忘れ去られた一対の護符がある。