百 年 佳 約

 水底の小石にまで陽光が射しこんで輝いていた。水晶を溶かしたような流れの浅瀬。
 そんな水のなかに立ちつくして。
 真っ白な木綿の服は先の成長を見越してあちこち緩く、広がった袖や膝丈の裾から伸びる手足が棒のようだった。光が強く、影は濃く、肌が白く照り輝く。
 濡れないようにとつまんだ裾から覗く膝が、あまりに綺麗な薄紅色で。
 言葉を失っていると、不意に唇が花のようにほころんで言った。
 あまりにも純粋で、尊ささえ感じるようなその笑顔。
「大きくなったら、結婚しましょうね。やくそくですよ」



 他愛なく思い出に変わり、それゆえに忘れがたい愛おしい記憶。
 どういうわけか暑すぎた初夏の日。
 枝に咲く薄紅色の名も知らない花。



百年佳約



 ―――我ながら、女々しい。
 自嘲気味に溜息をついて、彼は書類を放りだして椅子にもたれた。
 疲れてうたたねするぐらいなら、書類など見なければいいのだ。
 おかげで見たくもない夢など見てしまった。
 記憶という過去の蓄積のなかで、思い出というラベルを貼られて、容易には取り出せない引き出しの奥深くに仕舞いこまれているはずの、夏の光の塊だった。
 こうして歪んでいく自分にも、まだこのうえもなく愛おしい記憶。
 むしろ、あまりにも汚れないその思い出のせいで、その周囲は歪みと汚れを深めるばかりだ。
 あまりにもまばゆいと、つらいよ。
 変わっていくことが、認められない。
 ほんの少し唇の端を持ちあげ、彼は瞑目した。
 あの夏の日の他愛ない約束が、約束ではなく手に入れるべきもののひとつに成り変わってしまったいまでも。
 あの日の薄紅色をまだ憶えている。
 無邪気で自由な、春の陽だまりのような、彼の従妹いとこ
 アメリア=ウィル=テスラ=セイルーン。



 母親が死んだのは、どちらが先だったか。
 おそらく彼女のほうだろう。時を前後して亡くなった憶えはあるが、そのあたりは曖昧だ。
 そのときの自分たちに大事だったのは、それが『同じ』だったことだ。
 自分も彼女も、同じ時に同じように母親がいなくなってしまったことだった。
 片方が抱えている痛みをもう片方も知っていて、互いが何を考えているか手に取るようにわかった。自分たちは母親がいなくなってしまったという共通の事実を一種の絆のように感じ、そう思わなければ慰められないぐらい傷ついていた子どもだった。
 同じ胸の空白を抱えて、共に座りこんでいた子どもだった。
 あのとき間違いなく、互いが互いを必要としていた。
 ―――やがて、一年経つ頃には二人とも気づいていた。
 彼の母親はもともと身体が丈夫なほうではなく、死の数年前から寝たり起きたりを繰り返していた。
 彼女の母親は至って健康で、死の直前まで元気だった。
 その死の原因が同じはずがない。
 王族ゆえの聡さか、子どもゆえの勘の良さか。
 どんなに口止めをしていても、誰も彼らに話さずとも、いつしか二人は『何か』があって、いなくなるべきでない彼女の母親がいなくなってしまったことを察していた。
 気づけば、母親の話をすることは二人の間でタブーとなっていた。二人の共通点であり、互いを結びつけていたはずの痛みは、いつの間にか触れてはいけないものに変わっていた。
 それでも、二人はよく一緒に過ごした。
 彼女が好むことを自分は好まず、自分が好むことを彼女は好まず、かなり思考や性格に違いがあり、頻繁に喧嘩もしたが、それでもなぜか一緒にいた。
 多分、そうして肩を寄せ合っていなければ、この王宮で生きていけないような錯覚をしていたからだろう。
 決して、そんなことはなかったのに。
 いつだったか。
 離宮のひとつに遊びに行って、気づけばそのまま王宮探検が始まっていた。
 暑さを増しはじめた初夏の日。
 その日は初夏にしてはあまりに暑すぎたものだから、彼女は庭に引き込まれた小川を見つけると、すぐに靴を脱ぎ捨てて水のなかに入っていった。
 自分は濡れるのがイヤで、岸辺で立って、それを見ていた。
 水際まで枝を伸ばした名前のわからない木が、頭上で薄紅色の花を咲かせていた。
 濡れるのはイヤだったが、濡れるのを楽しんでいる彼女を見るのはイヤではなかった。
 何が楽しいのか、本当に嬉しそうに笑う。
 彼女のその笑顔を見るのが自分は好きだった。
 可愛くて可愛くて、大好きだった。
 その笑顔のまま、彼女は自分にこう言った。
「大きくなったら、結婚しましょうね。やくそくですよ」
 自分は少々きょとんとしていたと思う。
「急にどうしたの?」
 自分が賛成しなかったことで不安になったのだろう、きゅっと眉根を寄せて彼女は逆に問い返した。
「アルはわたしのことキライ?」
「ううん、好きだよ」
「なら、いいじゃないですか。わたしも、アルのこと好きですもん」
「だから結婚するの?」
「ダメですか?」
 水のなかに立ったまま、彼女は小首を傾げた。
 慌てて自分は首を横にふった。
「ううん。いつするの?」
「だから、大きくなったらです。わたしたち、結婚するときっと無敵です」
「無敵?」
「うん。きっと、だれもわたしたちにかなわなくなります」
 思わず自分は笑った。
「それはいいね」
「ですよね? 父さんもおじさんも、よろこんでくれますよね?」
「うん、きっと」
 二人とも大まじめにその未来を検討して、互いにそれに頷いた。
 ずっと肩を寄せ合っていたかったのだ。多分。ここで生きていくために。
 彼女の母親のように、二人とも急にいなくなってしまわないように。
「じゃあ、約束しよう」
「はい! 指切りです」
 銀色の飛沫を蹴立てながら水際までやってきた彼女と指切りをして、ついでに頭上に咲いていた花枝を折り取ってその髪に飾ってやった。
 名前も知らない、薄紅色の。
 花だけが知っている。
 他愛もない子ども同士の。
 結婚の誓い。



「百年たっても、ずっと一緒です」



 今思えば。
 結局、互いを見ていなかったんだろうな。
 小さい頃から、互いの興味が向く方向はあれだけ違っていたのだから。
 やがて、少しずつ二人の距離は遠ざかっていった。
 彼女は王宮の外を知り、自由を覚え、自分と一緒にいた頃とは違う何か別の理由から光り輝くようになっていった。
 だけど、彼女が求めるものなど自分は特に欲しくなかった。彼女が欲しがらないものが欲しかった。
 例えば、権力や王位などといったものが。
 彼女の父親に与えられ、自分にはまわってこないだろう玉座が。
 ただ補充の部品としてある長男以外の王族男子はみじめだ。
 まあ、ものが見えすぎなければ、野心さえもたなければ、何の不満もない地位かもしれない。
 だがあいにくと、そんなふうには生まれつかなかった。
 夢を見るのは、間違っているかな。
 そう思って、少し笑った。
 闇を見つめることにした。
 光のなかで花のように笑う彼女とのバランスがとれて、ちょうどいい。そんなどうでもいい感想すら持った。
 すれ違っていくのは、もはや当たり前すぎて互いに何の感慨もなかった。
 『特別』でも『同じ』でもなくなってしまった、ただ好意だけを交わすいとこ同士。
 ―――それでも、自分はあの初夏の日の約束をまだ憶えていた。



 往生際悪く、実は、愛していた。



 しかしそのうち、そんな事実すらどうでもよくなった。
 手に入れるものがひとつ増えただけ。
 そう考えた。
 欲しいものは手に入れる。ただそれだけだ。
 彼女の意志はどうでもよかった。
 もとより、彼女の対極を向くと決めた時に、そんなものを考慮にいれることなどできなくなっていた。
 だから、どうでもよかった。そう思っていた。
 それが実のところ、単に蓋をして見ないふりをしていただけだったことに気づくのは、それこそ何もかもどうでもよくなる死の直前のことだった。
 敗因はなんだろう。
 魔族と契約したことだろうか。
 彼女が名前を呼んでくれるまで、そんなことをぼんやりと考えながら血を吐いていた。
「―――アルフレッド!」
 自分の父親を殺そうとした相手に名前を呼んで駆け寄ることができるそのことに驚きながら、その彼女らしさに思わず心のなかで笑った。
 自分が間違っていることなど、とうの昔にわかっていたんだ―――。
 彼女の頬に飛んだ自分の血が、涙と混ざり合って薄紅色の滴になった。
 ただそればかり綺麗な気がした。
 息を吐く。
 死んでいくいま、何もかもどうでもよくなったいま、考えつくことといえば、とうの昔にすれ違ってしまったはずの従妹のことだけだった。
 何もかも暗く遠ざかっていくなか、たったひとつあの夏の日のことばかりを思いだす。
 あれほど欲しかった王位や、権力や、玉座に就いてからやりたかった政策のことなどが、あまりにも他愛なく崩れていくものだから、逆に可笑しくなってしまった。
 くだらない。
 何て自分はくだらない。
 光る水際。
 薄紅色の、名も知らない花を髪に飾った。
 指切りをした。
 他愛ない約束。
 あの初夏の日。
 あれから暑すぎる夏を幾度も過ごす度に、彼女の光は強くなり、自分の闇は濃くなった。
 あの日までは、何ということもなく無邪気に約束していられたというのに。
 可愛くて可愛くて、大好きだった。
 そんなことすら、忘れていたんだ。
 知らなくていい。
 この気持ちは重すぎる。
 この夢は、昏すぎる。
 そういえば。
 自分の夢は自分自身のことだからよく知っているけど。
 君の夢をちゃんと聞いたことがないような気がする。
 いつか聞いた、外の世界を見たいという夢がかなった君は、次はどんな夢を見るんだろう。



 君のその果てない夢が、ちゃんとかなえられるといい。
 君と君のその好きな人が、百年続くといい…………。



 我ながら、女々しいな。
 でも、死んでいく、いまだから。
 馬鹿みたいに、君の幸せだけ願っていられるよ――――、
 君の好きな人は、僕じゃない。
 ずっと一緒なのは、僕じゃない。
 僕はここで立ち止まる。
 君は先に行くといい。
 誰かと先に、行くといい。



 そして、


 それが百年、続きますように――――