君がためにと ()る花は 〈序〉

「昌浩が帰ってきたわ」
 顕現した太陰の言葉に、自分の部屋で繕い物をしていた彰子はぱっと顔をあげた。
 慌てて針と糸を片づけると、あたふたと立ちあがる。着萎えて少し柔らかくなった(うちき)の裾をなおし、鏡を覗きこんで髪に手をやる。
 先月末から、昌浩は公務で播磨(はりま)まで出張していて留守だった。久しぶりに逢うせいか、いつもより己の恰好が気になる。
「た、太陰。どこかおかしいところはないかしら」
「どこも変じゃないわよ。それよりもう門のところに―――」
「いけない」
 慌ただしく彰子は部屋を出た。
 その様子に太陰はちょっとだけ呆れ、そばに顕現した天一と共に彰子を見送った。
 (くりや)仕事はしていなかったので、ゆるやかに裾をひく濃き色の長袴に、表が紅梅、裏が青の撫子襲(なでしこがさね)の袿を着ている。
 紅梅色の布地を流れ落ちる黒髪もつややかに、後ろ姿だけでも充分なあでやかさだった。
「何もしなくったって、前よりずっと美人だと思うけど……」
「そうですね」
 それでも鏡を覗きこんでしまう気持ちがわかる天一は、太陰の言葉にわずかに苦笑した。
「いけない。外、雨だって教えるの忘れてた!」
 太陰は慌てて彰子の後を追った。



 久しぶりに帰ってきた京では、雨が降っていた。
 徒歩(かち)で入京したため、大内裏にたどり着いた時点で昌浩は濡れねずみだった。旅装で参内(さんだい)するのもはばかられたため、とりあえず帰京の報告だけを簡単に済ませて、家路を急ぐことにする。
「播磨でも雨だったけど、京でもよく降ってるねえ」
五月(さつき)に入ったからなあ」
 横を歩く物の怪と他愛ない会話を交わしながら、昌浩は一条戻り橋を通る。橋の下の車之輔に手をふると、気の良い式神はぎしぎしと(ながえ)を揺らして返事をしてきた。
 いつもと変わらない、日常となってしまった光景だ。
「車之輔もお前の式に下ってからもう四年………いや、そろそろ五年になるか」
「あ、そういえばそうだねえ」
 物の怪の言葉に昌浩はそう言って目を細めた。そうなると数年前の子どもの面影がのぞく。
 この二、三年ほどで、ずいぶん背が伸びた。頬のあたりからも子どもらしい輪郭が消え、すっきりとした顔だちは晴明の若い頃を彷彿(ほうふつ)とさせるが、若菜似のせいか当時の晴明よりも全体的な雰囲気はだいぶ優しげだ。
 また、本人にはとんと自覚がないようだが、左大臣邸や行成邸に顔を出すたびに、あちらの女房や女童(めのわらわ)たちが騒がしい。敏次と揃って参上するとさらに輪をかけて(かしま)しい。そうなったときは、さすがに昌浩も女房たちの気配に気づくが、本人は敏次殿大人気だねえと呑気なものだ。敏次じゃないお前だお前っ、と物の怪がわめきたてても、普段からの敏次に対する言動が災いして本気にとってもらえない。いかがしたものか。
「にしても降るねぇ」
 昌浩が曇天をみあげ、蓑の上から懐に手をやった。
「濡れてないかな。油紙に包んでもらったけど、錆びやすそうだし」
「んー、だいじょうぶじゃねえの? そんだけしっかり懐に抱えてりゃ濡れないだろ。もうひとつのほうは濡れてもだいじょうぶだしな」
 物の怪は傍らの昌浩を見あげ、次いで見えてきた安倍邸の門に目をやった。
 先ほど、屋根の上にいた太陰とばっちり目が合ってしまったので、慌てて引っこんだ彼女が先触れ役をつとめていることだろう。そうなると、妻戸のところにはすでに出迎えがいるはずだ。
 物の怪はもう一度、昌浩を見あげた。
 とんと気づいてないようだが、容貌が変わったのは何も彼だけではないのだ。



「―――昌浩、もっくん、お帰りなさい」
 手拭いを手に廊まで出てきた彰子を見て、昌浩は思わず棒立ちになった。
 (みの)も脱がずに呆然としているのを怪訝に思い、物の怪は昌浩を見あげ、次にその視線の先の彰子を見た。別段、おかしなところはない。いつもの彰子のように思える。長袴がめずらしいと言えないこともないが、普段から家事の用途によって切袴と履き分けているようなのだ。とりたてて驚くようなことでもない。
「昌浩?」
「あ、う、うん、ただいま」
 不思議そうな彰子の声に、昌浩は我に返ると、ぎくしゃくと蓑を脱ぎだした。
 手拭いを数枚広げた上に旅荷を置き、蓑の水を切って柱にかけるあいだにも、昌浩の視線が不自然に泳いでいる。
 わけがわからず物の怪が様子を見守っていると、昌浩が烏帽子をとって(まげ)を解いた時点で、今度は彰子のほうがわずかに目をみはった。
 目を泳がせている昌浩は一向に気づかないが、彰子の目元にぽうっとほのかに色が刷かれ、視線が柔らかくなる。それで物の怪は彼女のほうには合点がいった。水も滴る何とやら。
 やがて彰子はふわりと笑うと、持っていた手拭いを昌浩の頭にかぶせた。
「手拭い足りないわね。もうちょっと取ってくるから、待ってて」
 奥へと戻っていくその姿が廊を曲がって消えると、昌浩は大きく溜息をつきかけ、慌てて口元を手でおおった。何やら小声で呟いている。
「おーい、昌浩?」
 何を言っているのかと思い、足を拭いた物の怪はその肩に飛びのった。
「………前から、だけど。うん、それは、ずっとそうなんだけど。いやでも」
「昌浩?」
 だからさっきから何をいったいぶつぶつと。
 物の怪がさらに耳を近づけると、昌浩のなかば呆然とした呟きが聞こえた。
「彰子………あんなに綺麗だったっけ?」
 肩にのせた手足が滑り、物の怪はそのままずるずるとずり落ちた。
 しばらく起きあがる気力もなく突っ伏していると、顕現した勾陳が涼しげな表情で見下ろしてくる。
「泥まみれになるぞ、騰蛇」
「…………」
 いまはそれどころではない。
 やはり気づいていなかったのか。
 当人に聞こえないよう配慮しつつも、物の怪は盛大に唸った。
「いくら奥手で口下手で鈍感にもほどがあるだろう………っ!」
 陰形していた六合が、何やら同意の気配を示した。



 互いに手をつないだまま、幸福にあいまいに時は過ぎ。
 少し色褪せた藤の花は人知れずして、ゆるやかに花をほころばせ。
 そして、出逢いから五年―――。


 ―――年号あらたまり、時は寛弘元年。